本当は一番最初から、出会った時から気づいていたのかもしれない。
 けれど現実にはありえないというだけで、その可能性を頭から追い出してしまっていた。
 いなくなったのではなく、こうして目の前にちゃんと立っているのに…。
 月が見せている幻なのか、それとも他の何かなのかはわからなかったが、時任はちゃんとこうして久保田のそばにいる。
 子供の姿でも、仕草も癖もなにもかもが時任でしかあり得なかった。
 稔が時任であることを確信した久保田は、驚いた顔をして立っている稔に向かってもう一度その名を呼んだ。
 「一緒に帰ろう、時任」
 「くぼちゃん…」
 「帰ったら、ちゃんと元に戻れる方法を考えるから…」
 「・・・・・・」
 時任だということさえわかれば、元に戻す方法を考えればいいと久保田は思っていた。
 だが、久保田が稔の方に手を差し出すと、稔はその手を取らずに一歩後ろへと下がる。
 大塚はすでにこの場からいなくなっていたが、玄関にいた生徒達が久保田と稔を見てひそひそと何かを話していた。
 そんな周囲の様子を気にすることなく、久保田は稔に向かって優しく微笑みかける。
 しかし、まるで怯えたように両手を自分の背中の後ろに隠してしまった稔は、哀しそうな顔をしてうつむいてしまった。
 「トキトウ…じゃないのに…」
 「時任?」
 「ちがう…」
 「どしたの?」
 「ミノルなのに…、なんで…」
 稔は震える声でそう言うと、玄関から外へ向かって逃げ出すように走り出した。
 走り出した稔の腕を、久保田の手がとっさにつかもうとしたが間に合わない。
 すぐに後を追いかけて久保田も走り出したが、玄関を出た瞬間、なぜかすでに稔の姿はどこにも見えなくなっていた。
 どこかに隠れかのかと思ったが、玄関の近くを探してもその姿を見つけることはできない。
 通りかかった生徒達に稔のことを聞いたが、誰も稔のことを知らなかった。
 突然現れた時のように、稔は突然姿を消したとしか考えられない。
 けれど稔がいなくなっても、時任の姿はどこにも見当たらなかった。
 久保田は学校でこれ以上探しても無駄だと判断すると、なぜか自分の住むマンションへと帰り始める。それは、そこに何があるというワケではないが、もし、稔が姿を現すとしたらマンションの部屋のような気がしたからだった。
 けれどそんな気がするのは、そうあって欲しいと願ってしまっているからで…。
 本当は、そんな気がする根拠も理屈も何もなかった。
 いつもは二人で手をつないで帰る道を一人で歩きながら、久保田はふと自分の隣りに目をやる。
 けれどその視線の高さは、時任ではなく稔を見る時の高さだった。
 一緒に暮らすようになって、まだ一週間しかたっていなかったが、稔がちゃんと着いてきているかを確認するために下の方を向く習慣が身についてしまっている。
 その事実に気づいた久保田は、まるでそこに稔の手があるかのように右手の指を手を握る形に曲げた。 
 「…稔」
 そう名前を呼んでも、もう稔の返事は返ってこない。
 久保田は右手をさらに握り込むと、急いでマンションへと向かった。








 マンションに戻るとやはりドアには鍵がかかっていて、誰かが入ったような形跡はなかった。
 持っていた鍵を使って中に入ると、稔がいる間はあんなに騒がしかったのに部屋の中からは物音一つしない。久保田は鞄をソファーに投げて、寝室やバスルームなどをくまな探して回ったが、やはり稔を見つけることはできなかった。
 時任がいなくなって…、稔もいなくなって…。
 結局、この部屋には誰もいなくなってしまっている。
 時任の…、稔のそばにいたいと願っていたのに、もしかしたらそのどちらも叶わないのかもしれなかった。
 
 「…ずっとあのままでいれば良かった?」

 久保田はそう呟いて唇を噛みしめた後、テーブルに置いていたセッタに手を伸ばしかけたが、なぜか届く直前でその手を止める。それは最近、稔がいつもくっついているため、あまり吸っていなかったことを思い出したからだった。
 あのまま稔がいたから禁煙できていたのかもしれないが、もうそんな必要はなくなるかもしれない。
 久保田は自嘲気味に笑みを浮かべると、テーブルに置かれた画用紙を暗い瞳で見つめながら一枚ずつ床に並べていった。
 同じものしか描かれていない画用紙を何枚も何枚も…。
 すると床一面に稔の描いた絵が、四角の中にかかれた青が広がった。

 まるでそこに切り取られた青空がたくさん広がっていくように…。

 久保田は一枚ずつ丁寧に画用紙を並べていたが、何枚目かを床に置いて次のを手に取ろうとした瞬間、突然その手を止める。
 その画用紙は他のものと違って、茶色い四角の中が黒く塗りつぶしてあった。
 稔は全部同じものしか描いていないと思っていたが、違うものも描いていたらしい。
 だが、その絵は塗りつぶしている色だけではなく、もう一つ違う点があった。
 黒の中に黄色いが…、まるであの日見た満月のように黄色い丸い形が黒い闇の中に浮かんでいたのである。
 ・・・・・・満月と時任と稔。
 この三つがキーワードとして頭に浮かんだが、次の満月までにはまだまだ日数がかかる。
 しかも、それまでに稔がまた出てきてくれるとは限らなかった。
 久保田はしばらく絵を眺めた後、自分のはめている腕時計を見る。
 すると今はまだ夕方のはずなのに、なぜか時計の針は午前0時を示していた。
 時計が止まっていたということも考えられるが、今朝確認した時は確かにちゃんと動いていたことを記憶している。
 しかも時計が止まっていない証拠に、秒針が止まらずに時を刻んでいた。
 久保田は少しの間考え込んでいたが、何かを思い立ったかのように玄関へと歩き出す。
 そして玄関に着くと、勢いよく玄関のドアを開け放った。

 「まさかとは思ったけど…」

 そんな風に呟きながら、久保田がぼんやりと上空を見上げている。
 信じられないことに、今まで明るかった空を暗闇が覆い尽くし、その闇の中に丸い月が浮かんでいた。どこから見ても、どう考えても、外が突然夜になってしまったとしか見えない。
 幻覚を見ているのか、それても夢を見ていると考えてドアを閉めた方がいいのかもしれないが、久保田はそのままスニーカーを履いて外へと飛び出した。
 けれど部屋を出てもマンションを出ても、やはり外には夜の闇と月光の光に満ちている。
 久保田の影が長く薄くアスファルトの上に伸びていた。
 あの日、歩いた道を再びたどりながら、久保田は上空の月を暗い瞳で見つめる。
 これが何の仕業だろうと、なんだろうと…、時任を自分の腕の中から奪うものは許せなかった。
 顔がはっきり思い出せなくなってしまっていても、愛しさも恋しさも変わらない。
 けれど時任のことを想っていながら…、稔のことも想っていた。
 同じ時任だと思って名前を呼んだが、けれど稔は稔で…、時任は時任でしかなくて…。
 誰よりも何よりも…、時任を稔を…、そして時任稔という存在を愛していたから…。
 ずっとずっと抱きしめていたかった…、誰よりも近くにいたかった。

 手を離さないでいたかった。

 苦しい息を吐きながら走っていると、町並みが後ろへ後ろへと流れていく。
 あの日のように追いかけてくる無情な月が、暗闇を冷たく柔らかく照らしていた。
 しばらくそうして走っていると、前方に曲がり角が見えてくる。
 それは、満月の晩に時任が曲がって行った角だった。
 久保田は角に差しかかると、迷うことなくその角を曲がる。
 するとそこには、やはりあの日と同じように長い道が前方に伸びていた。
 だが、その道の両脇にある家々の様子が少し違っている。
 それを不審に思いながらも、久保田は稔と時任の姿を探しながら真っ直ぐな道を歩き出した。
 
 「くぼちゃ……」

 どれくらい歩いたかはわからなかったが、ふいに横から小さな声が聞こえる。
 それは紛れもなく、いなくなった稔の声だった。
 「…稔」
 久保田が名前を呼ぶと、すぐ近くにあった民家の庭から稔が飛び出して来る。
 そして久保田のそばまでたどり着くと、稔は足にぎゅっとしがみついてきた。
 「くぼちゃんっ、くぼちゃん…」
 「…うん」
 そんな稔の手を足から外させると、久保田はしゃがみ込んで稔の小さな身体を抱きしめる。
 その身体は夜風に当たっていたせいか、冷たく冷えてしまっていた。
 何度も何度も名前を呼んで、必死にしがみいてくる稔を抱きしめていると胸が痛くなってくる。
 久保田は稔の髪に頬をつけると、手を伸ばしてその頭を優しく撫でた。
 「稔は稔だって、ちゃんとわかってるから…、だから泣かないで…」
 「・・・・・・」
 もしかしたら時任に恋するように…、稔にも恋していたのかもしれない。
 けれどそれは抱きたいとかキスしたいと想うような恋ではなく…、ただ一緒にいたいと想うだけの…、ただ手をつないで、身を寄せ合って眠るような…。
 穏やかで優しい…、今二人を包み込んでいる柔らかな月光のような恋だった。
 
 「くぼちゃん…、かえろ…」
 「うんけど、まだ帰れない」
 「なんで?」
 「時任を探さなくちゃならないから」

 久保田がそう言うと、稔は何かを気にするようにけさっきまでいた民家の方を見ている。その視線に気づいた久保田が顔を上げると、そこには青い屋根の家が立っていた。
 稔の怯えたような視線は、家の二階の窓の辺りに注がれている。
 その窓から見れば、もしかしたら画用紙に描かれたものと同じ位置から満月がみえるかもしれなかった。久保田は稔の身体から腕を離すと、手を引っ張って青い屋根の家に向かおうとする。
 だがそれを、哀しそうな顔をした稔が止めた。
 「いっちゃイヤだ…」
 「…時任がいるから?」
 「・・・・・・・・・」
 「時任がいないとどうしてもダメだから、行かせてくれる?」
 「どしても?」
 「うん、ゴメンね」
 久保田が静かに稔にあやまって時任がいる家へと歩き出すと、稔は潤んだ瞳で久保田を見上げて、ぎゅっと服の袖を引っ張った。
 その見上げてくる真剣な瞳が、歩き出そうとした久保田の足を再び止めさせた。
 「トキトウはくぼちゃんと二人きりだけじゃイヤだって…。なのになんでくぼちゃんはトキトウのトコにいくの? くぼちゃんは二人きりがいいっていってたのに…」
 「・・・・・・稔?」
 「くぼちゃんしかいらない…、だからずっといっしょにいて…」
 久保田を見上げている稔の大きな瞳から、ポタポタと堪え切れなかった涙が地面に落ちていく。
 そのこぼれ落ちていく涙を指で拭ってやりながら、久保田は稔の言ったことを考えていた。
 誰にも邪魔されず、二人きりでずっといたい…。
 そう言った覚えはなかったが、想ったことなら数え切れないくらいある。
 時任の想いが強くなればなるほど…、恋すればするほど…。
 同じように独占欲と嫉妬で想いが狂いだしそうになっていたから…。

 だから、世界の果てで二人きりでいられたらと…、あの満月の晩に考えていた。

 けれどそう考えてはいても、時任がそんなことは望まないことを…。
 あの真っ直ぐで綺麗な瞳が、自分に閉じ込められてなどくれないことを知っていた。
 どこまでもどこでまでも自分の足で歩いていきたがるから…、追いかけていくしかなくて、横を並んで歩いていくしかなくて…。
 でもそんな時任だからこそ、その強い瞳にその存在に激しく恋していた。
 だから、たとえ二人きりでいてくれなくても手を離せなかった。
 
 「好きだよ、稔」
 「くぼちゃ…」
 「けど、時任のコトも好きだから…」
 「・・・・・・・・」
 
 久保田はそう言うと、俯いて泣いている稔の手を引いて歩き始める。
 そして、時任がいる青い屋根の家の前まで歩いて行った。
 満月の見える部屋に閉じ込められている時任と一緒にマンションに帰るために…。
 すぐに家の前に到着したが、稔はもう泣いているだけで何も言わない。
 久保田は稔を抱きかかえたまま家の中に入ろうとしたが、その手前にある門には鍵がかかっていた。確か稔はここから出てきたはずだったが、鍵は確かに頑丈にかかっている。
 仕方がないので門を乗り越えようとすると、久保田の背中に後ろから声がかかった。
 「こんな所で何してるっ?!」
 その声に反応して久保田が振り返ると、そこには自転車に乗った警官がいた。
 どうやらここら辺りの見回りをしていたらしい。
 久保田が別に何もと答えると、不審そうな顔をして久保田の名前を聞く。
 正直に友達をここに迎えに来たことを答えると、警官はなぜか大きく首を横に振った。
 「ここは一週間前に引越ししてるから、誰もいないぞ」
 「引越し?」
 「確か若い夫婦と子供が住んでたと思うが…」
 「子供ってこれくらいの子ですか?」
 「これくらいって何がだ? 何もないじゃないかっ」
 久保田は自分の横に立っている稔を指して聞いて見たのだが、なぜか警官には稔が見えていないようだった。からかわれたのかと思ったのか、久保田の顔を鋭い目つきで見ている。
 なんでもないと久保田が誤魔化すと、警官は自転車を漕ぎ始めた。
 「とにかくっ、真っ直ぐ家に帰れよっ」
 「はい」
 警官が去るのを見届けると、久保田は隣りに立っている稔を見つめる。
 しかし稔の身体は、まるで今から消え行こうとしているみたいに月光に照らされて透けてしまってた。
 久保田は腕を伸ばして稔を抱き寄せると、何も言わずにきつくその身体を抱きしめる。
 するとそこから伝わる温かさから感じている内に、久保田はなぜ画用紙に同じ絵ばかりしか描かなかったのかを…、なぜ不安そうにいつも離れようとしなかったのかを知った。
 
 茶色くて四角いのは窓枠で、青く塗りつぶされたのは窓から見える青い空…。

 それしか稔が描かなかったのは、それしか見えなかったからだった。
 引越しがすんだ後の何もない部屋から見えるのは、窓と青い空、そして今空に輝いている月だけで…、だからそれしか描けなかった。
 抱きしめている稔の身体が、光に透けていくに従って段々と軽くなってくる。
 久保田は頬に軽くキスすると、稔の額に自分の額をくっつけて目を閉じた。

 「一緒にいたいけどいられない…」
 「・・・・・」
 「でも、きっと会えるから…、また会えるから待っててくれる? ちゃんと見つけてみせるから…。だからその時まで生きてて…、何があっても…」
 「…うん」
 「好きだよ…、稔」
 
 「くぼちゃん…、大好き…」

 抱きしめていた身体の感触が、すうっと空気に変わってしまったかのように無くなる。
 それにつれて稔だけではなく、辺りの景色も月光に包まれて白くなっていった。
 久保田は慌てて近くに電話ボックスを見つけて飛び込むと、十円玉を入れてある電話番号をダイヤルする。
 すると受話器から、ハキハキとした女の声が聞こえてきた。
 
 「はい、救急○○センターです」
 「あの、すいません。救急車お願いできますか?」

 場所を告げて状況を話し終えると、ちょうど時間切れになって辺りの景色が完全に白く染まった。
 かけていた電話の受話器の感触も、消えてなくなってしまっている。
 あまりの眩しさに目を閉じてから再び目を開けると、目の前に満月が浮かんでいた。
 さっき見ていた町並みも、見慣れたものに戻っている。
 けれど時間は戻っていないらしく、夕方ではなくやはり夜のままだった。
 久保田が不思議に思って自分の時計を眺めていると、後ろから何者かに強く肩を叩かれる。
 振り返るとそこには、あの日と同じ笑顔を浮かべた時任が立っていた。

 「…時任?」
 「なにボーッと突っ立ってんだよっ! あんまり来ねぇから、なんかあったのかって思っちまっただろ?」
 「来ないって?」
 「ココの角曲がって先に行くって言ったじゃんかっ!」
 「・・・・・・・そうだったかも、ね」
 「ったく、もうかなり遅ぇから、途中でコンビニ寄ってさっさと帰ろうぜっ」
 「・・・・・・・・」

 何事もなかったかのように現れた時任は、あの日から時間が止まっていたかのように楽しそうに久保田の前を歩いていて行く。
 久保田は、その後ろをついて歩きながら稔のことを考えていた。
 抱きしめていた感触も、ぬぐった涙の温かさもまだ覚えているのに、その痕跡はもうどこにも残っていない。さっきまであったことがちゃんと現実だと思っていたが、コンビニのレシートを見ると日付が9月21日になっていた。
 シャンプーを買ってマンションに戻ると久保田はクローゼットの中を見てみたが、その中には稔の服は一着も入っていない。バスルームに置かれていたアヒルもあんなに沢山あった絵の描かれた画用紙も消えてしまっていた。

 記憶の中に…、まだちゃんと心の中に稔が残っているのに…。

 帰ってきてからあちこち何かを探し回っている久保田を、時任は不審そうな顔をして眺めていたが、ふと何かに気づいたらしく久保田のことを呼ぶ。
 呼ばれた久保田が時任のそばまで行くと、時任は手に持っていたものを久保田に見せた。

 「コレって久保ちゃんだろ? あんま似てねぇけど?」

 時任が持っていたのは一枚の画用紙だった。
 けれどそこに描かれていたのは窓でも空でもなくて…。
 それを見ているとなぜか…、何かが胸を詰まらせて苦しくてたまらなかった。
 一週間しか一緒にいられなくて…、その一週間が短くて短すぎて…。
 だからもっとそばにいたかった…、出来ることならあの場所に残りたかった。
 小さな身体を抱きしめて、ずっとずっと二人きりでいてもかまわなかった。
 稔が…、遠きあの日が…、たとえ月の見せた幻でしかなくても…。

 「…久保ちゃん」
 「なに?」
 「もしかして泣いてんの?」
 「・・・・・・・そうかも」

 久保田が眼鏡を外すと、時任の手が伸びてきて久保田の目元に滲んでいた涙をぬぐった。
 そしてその手を頬へと伸ばすと、時任は久保田の唇にキスを落す。
 ゆっくりと優しくなぐさめるように…。
 久保田は時任の唇に答えながら、その身体をぎゅっと抱きしめた。
 抱きしめてくる久保田の背中に時任が腕を伸ばすと、その拍子に手からすべって画用紙が落ちる。
 その裏には、全部ひらがなで書かれた文字が大きく書かれていた。

 『ずっと、いっしょにいようね』

 この部屋で、いつも歩いた道で…、手をつないで抱きしめ合った記憶と…。
 恋しくて…、愛しかった君への想いとともに…。


                     
『いつまでも どこまでも』 2002.9.27 キリリク24242                   
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