稔が久保田の元にあらわれてから、一週間が過ぎようとしていた。
 さすがに誰もが時任の姿が少しも見えないことを不審に思い始めていたが、久保田は風邪を引いていると最初に言ったきり沈黙を守っている。
 そのせいなのか、なんとなく生徒会室でも時任の名前を出しづらくなっていた。
 相変わらず久保田の横には、時任ではなく稔がいる。
 稔は久保田の膝の上が気に入っているようで、授業中も生徒会室にいる時も膝に座っていた。
 いくら子供とは言え、ずっと膝に乗せているのは苦しいに違いない。
 だが、久保田は何も言わずに今日も稔を抱っこしていた。

 「ほんっっとに、筋金入りの親バカってカンジだわ」
 「可愛がってんだから、べつにいいんじゃないか?」
 「甘やかしすぎは良くないのよっ」
 「それはそうだけど、久保田って甘やかすの好きそうだしなぁ」
 「確かにそれは言えてるわ。時任のことだって、さんざん甘やかしてたものねっ」

 桂木と相浦は、今日も仲良し親子の二人を見ながらそんな話をしている。
 だが、初めて見た時ほどの衝撃はすでになく、当たり前の光景として執行部全員が受け入れ始めていた。藤原も子供相手に張り合っても仕方ないと思ったのか、おとなしく桂木の渡した資料の整理をしている。
 そして、稔は相変わらず色鉛筆で絵を書き続けていた。
 桂木は久保田の方を見つめたまま小さくため息をつくと、トレーニングをしていた室田と松原に向かって声をかける。二人に声をかけたのは、もうそろそろ見回りに行かなくてはならない時間だったからだった。
 「今日の公務、久保田君と時任の当番だけど、二人で行ってくれない?」
 「いいですよ。行きましょう、室田」
 「ああ…」
 本当なら時任がいないのだから、久保田と誰かが組んで見回りに行くべきなのだが、子連れでの公務はさすがに危ないためそうせざるを得なかった。その点については久保田自身も同じ考えらしく、桂木の判断に口を挟んだりはしていない。だが、公務に向かう松原と室田の背中を見ながら、まるで今始めて思い出したかのように久保田は時任のことを考えている。
 消えてしまった日から数日は時任のことを気にしていたが、時間がたつにつれていつの間にか考えなくなってしまっていた。
 「ちょっとどころじゃなくて…、かなりヘンだよねぇ?」
 自分のコトを冷静に見つめ直しながら久保田がそう呟くと、稔が不安そうな顔をして久保田の方を見る。
 その視線はまるで、久保田が時任のことを考えるのを恐れているかのようだった。
 久保田はそんな稔の視線に気づくと、じっとその瞳を見つめ返す。
 だが、稔を見つめる久保田の視線は、何かを見極めようとしているかのように細められていた。
 「…時任がどこにいるか知ってる?」
 「・・・・・・・」
 「知ってるよね?」
 「・・・・・・・」
 「知ってるでしょ?」
 「しらないっ」
 稔が時任のことを知っていると確信があって、久保田はそう聞いたわけではない。
 けれど、いつも真っ直ぐ向けられていた瞳がしらないと言ってそらされた瞬間、久保田は稔が何か知っていることを確信した。
 嘘をついた時に目をそらす癖…。
 それは稔ではなく、時任の癖だった。
 「知ってるコト答えてくれない?」
 久保田は俯いてしまった稔に向かって、ゆっくりとそう問いかける。
 しかし、稔は首をイヤイヤするように左右に振ってから、久保田の膝から床へ降りた。

 「くぼちゃんなんか、きらいっ!」

 あんなに久保田に懐いていたのに、稔はそう言うと生徒会室を走って出て行こうとする。
 すると久保田は稔のそばまで走って行って、ここから出られないようにその身体を抱き止めた。
 「ごめんね…」
 久保田がそうあやまると、稔は大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて泣き出す。
 その泣き方は、藤原に泣かされた時とは違っていた。
 まるで哀しみだけが詰まっているような稔の泣き声が生徒会室に響くと、その声を聞いた桂木と相浦が痛そうな顔になる。
 嫌いだと言いながらもぎゅっと抱きついてくる稔を、久保田は抱きしめていた。
 「くぼちゃ…、きらい…」
 「どして?」
 「みのるのコト…、いらないって…」
 「いらないなんて言ってないよ?」
 「・・・・・・・・」
 「だから泣かないで…」
 泣いている稔の背中を撫でてやりながら、久保田はまた時任のことを忘れかけている自分に気づいていた。時任のことを思い出そうと…、想おうとするたびに、その想いの中に稔が入ってくる。
 ずっと離れずにそばにいて…、いつもそばにいようとする稔が…。
 久保田は何かに耐えるように軽く唇を噛みしめると、脳裏に時任の顔を描いて見ようとした。けれど、あんなに毎日見ていた…、あんなに愛しいと感じていた時任の顔がはっきりと思い出せない。
 思い出そうとすればするほど、ズキズキと頭に痛みが走った。

 「結構、マジでヤバイかも、ね?」

 久保田はそう呟くと、机に何枚も置かれている稔の絵を眺める。
 その絵にはやはりいつもと同じように、青く塗られた茶色い四角が二つ描いてあるだけだった。何を描いたのかわかったら教えてくれるということになっていたが、稔はわからないというばかりで何の進展もない。
 しかし、じっと絵を眺めていた久保田は、何かに気づいたようにその場から窓の外を眺める。けれど久保田が見ている先には、いつも見える景色しか広がっていなかった。
「どうしたの、久保田君?」
 じっと窓の外を眺めている久保田に桂木がそう尋ねたが、久保田はなんでもないと言っただけで桂木に向かって何も答えなかった。けれど久保田は、ようやく稔が何を描いたのかわかったのである。
 
 満月の晩から姿を消した時任と…、満月の晩に姿を現した稔…。

 何を描いたかがわかったても、まだ時任の居場所がわかった訳ではない。
 けれど、稔がこの絵を描いたということは、何か時任と関係がありそうだった。
 久保田は痛む頭を軽く押さえると、桂木に許可を取って稔を連れて生徒会室を出る。
 稔といると時任のことが自分の中から薄れていくが、稔しか時任への手がかりはなかった。







 とにかくマンションに戻ってから、時任を探す方法を考えようとしたのだが、稔を連れて久保田が生徒用の玄関に行くと下駄箱の陰から嫌な笑い声が聞こえた。
 その声は聞きなれすぎていて、姿を見なくても誰なのかすぐにわかってしまう。
 久保田はつないでいた手を離して、稔を自分の後ろにかばうように立った。
 「高校生でガキ作って大変だよなぁ」
 「いやぁ、ホント同情しちゃうねっ」
 「俺らがガキの世話、手伝ってやろっか?」
 久保田の前に現れたのは、大塚、石橋、佐々原といういつもの悪役メンバーである。
 この三人相手なら久保田一人でも十分に倒せるが、今日は背後に稔がいるためヘタに動くことはできなかった。
 「おい、マジでこのガキ時任に似てるぜっ」
 「へぇ、噂は本当だったってワケか?」
 大塚達は、稔が時任に似ているという噂を聞きつけてやって来たらしかった。
 いつもろくなことを考えないのはヒマを持て余しているせいなのかもしれないが、その暇つぶしに利用されなくてはならない理由はどこにもない。
 久保田は大塚達を無視して、稔を庇いながら玄関を通り過ぎようとした。
 けれど、そんな久保田の前に再び大塚達が立ちふさがる。
 大塚達は時任に似ている稔に興味を持ったらしかった。
 「おーい、ちょっと待てよ」
 「無視するなんて、ヒドイなぁ。俺らと遊ぼうって言ってんだろっ」
 執拗にそんなことを言ってくる大塚達をやはり久保田は無視していたが、そんな様子を後ろからうかがっていた稔の肩に大塚の手が横から伸びる。
 しかし、大塚の手は稔まで届かなかった。
 「ぐおぁっ!!」
 大塚のわき腹に久保田の蹴りが入って、その痛みに大塚がその場に倒れ込む。
 するとその隙を突いて、佐々原と石橋が同時に久保田に襲いかかった。
 佐々原の拳と石橋の蹴りをよけるのは容易だったが、後ろには稔がいるので避けられない。
 久保田は二人の攻撃を両腕で防いだ。
 「くぼちゃんっ!!」
 自分をかばっている久保田を心配して、稔が久保田の名を叫ぶ。
 だが、その想いをあざ笑うかのように、蹴りから復活した大塚が仕返しとばかりに久保田の腹部に蹴りを入れた。
 「・・・・・・っ!」
 「たまにはやられるのもいいもんだろ?」
 嫌な笑みを浮かべて大塚がそう言うと、久保田はそれに向かって余裕の笑みを浮かべていた。
 そんな久保田の様子に腹を立てた大塚が、再び蹴りを入れようとする。
 しかし、大塚が足を振り上げた瞬間に、何かが反対側の足を強く押した。
 「うわっ!」
 「くぼちゃんをいじめるなっ!!」
 大塚は稔に足を押されて、無様にも後ろに尻餅をついていた。
 稔は大塚の足を押し終わると、素早く次に佐々原に向かって蹴りを入れる。
 力は強くなかったが、佐々原を怯ませるには十分だった。
 「ナイスフォロー」
 久保田はそう言うと、佐々原と石橋の腹と背中に拳を叩き込む。
 大塚がまたしてもその隙をついて久保田に襲いかかろうとしたが、その前に稔が立ちはだかった。
 「オマエなんかっ、ぜったいやっつけてやるっ!!」
 「このクソガキっ!!」
 大塚は稔に掴みかかろうとしたが、その時、すでに久保田の拳が顔面にヒットしていた。
 久保田の拳を受けて無事でいられるはずなどなく、大塚は再び床へと転がる。
 石橋と佐々原はすでに大塚を置いて逃げ出していた。
 戦闘が終了すると、久保田は軽く手を払って下に落してしまった鞄を手に取る。
 そしてなぜか細く長く息を吐くと、目の前で大塚を睨みつけて立っている稔に向かって声をかけた。

 「…時任」

 そう呼ばれた瞬間、久保田の方を振り返った稔の瞳は…。
 まるで何かに驚いたように…、大きく見開かれていた。


                   

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