教師が黒板にチョークで文字を書く、コツコツという音が聞こえている。
 だが、授業中だというのに、生徒達の視線は黒板ではなく窓側の一番端の席に集中してしまっていた。それはそこに、注意を引いてしまうだけのものがあったからである。
 教室に入ってきた時に、教師もその存在に気づいてはいたが、そこにいる人物が人物なだけに注意しそこねていた。
 
 「くぼちゃん、スズメがいる…」
 「あ〜、ホントだねぇ」

 ここは確かに授業中の教室のはずだが、生徒の注目の的になっている場所だけは、まるで空気も雰囲気も違ってしまっている。
 そのまま授業は行われていたが、ほのぼのとした雰囲気に教室全体が覆われかかった頃、教師は文字を書いている途中で思わずバキリとチョークを折った。
 教師は折れたチョークをチョーク入れに入れると、ツカツカと久保田の方まで歩み寄る。
 そして、自分の膝に子供を乗せて外を眺めている久保田に、イライラしながら話しかけた。
 「その子供は一体どうしたんだ?」
 「俺の親戚の子らしいですけど?」
 「らしいというのはなんだ? それに、ここは子供を連れてくる場所じゃないぞっ!」
 「おとなしくしてますんで、許可してもらえません?」
 「だ、ダメに決まってるだろうっ!」
 教師は久保田に子供を連れて出て行くようにと注意をした。
 だがそんな教師に、教室中のあらゆる場所から非難の視線が突き刺さる。
 その中でも、特に女子生徒達の視線はかなり痛く、子供を追い出すなんて許せないと彼女らの視線は言っていた。
 「うっっ、騒いだら出て行ってもらうからなっ」
 「ほーい」
 小心者の教師は女子生徒達の視線に負けて、そうぶつぶつ言って教壇に帰っていく。
 その様子を見た生徒達の中には、ガッツポーズを取っているものまでいた。
 どうやらたった数時間で、稔は三年六組のアイドルになってしまったようである。
 外見が可愛いのはもちろんだが、久保田を呼びながらトテトテと走り寄っていく姿は特に無邪気で可愛かった。昼休憩の時も、トイレに行く時も、久保田の行く所ならどこへでも稔はついてくる。
 どうも見える場所に久保田がいないと不安になるらしかった。

 「意外だけど…、ほんっといいお父さんになれそうだわ」

 放課後の生徒会室で、相変わらず椅子に座った久保田の膝にいる稔を見ながら桂木がそう呟く。
 稔と同じ名前の人物も四六時中、久保田と一緒にいたことを思い出し、なんとなくその人物と稔を重ね合わせてため息をついた。
 同姓同名というだけではなく、本当に二人は似通った部分が多すぎる。
 けれど、稔のことを何度聞いても、久保田は曖昧に答えを誤魔化すだけで何も言おうとはしなかった。

 「…隠し子説どう思います?」
 「あり得ない話じゃないよな?」
 「久保田の…というより、時任のじゃないか?」
 「あはは、時任が産んだ子とか?」
 「・・・・・・・・・なぜか、冗談に聞こえないのは俺だけか?」
 「うわっ、室田がヘンなこというから、妙な想像したじゃんかっ!」
 「す、すまん…」
 
 子供の相手をしている久保田を見ながら、相浦、松原、室田の三人がそんな話をしている。
 おそらく、今、全校生徒が同じような会話をしていると思われたが、久保田はやはりまったく気にしたようすはない。久保田は稔の前でセッタを吸うことができないので、膝に座ってクラスの美術部員にもらった色鉛筆でお絵かきをている稔の手元をじっと眺めていた。
 稔は握っている茶色の色鉛筆で、画用紙に大きな四角を二つ書いている。
 そして、その四角の中を水色の色鉛筆で塗りつぶした。
 「これってなんの絵かしら?」
 久保田と同じように稔の手元をのぞき込んだ桂木が、首をかしげてそう言う。
 だが、久保田も何なのかわからないようで、絵を描いている稔の頭を撫でながら、
 「さぁ、なんだろうね?」
と、桂木に返事を返した。
 そんな感じで久保田と桂木が、稔の描いている絵を眺めていると、生徒会室の入り口からバターンッと勢い良くドアを明ける音が鳴り響く。
 その音に驚いて部屋にいた全員がドアの方を向くと、そこには補欠の藤原が立っていた。

 「く、く、久保田せんぱいにっ、隠し子がいたって本当なんですかぁぁぁっ!!!!」

 今朝から校内に流れていた噂を信じているらしく、瞳を潤ませながら藤原は勢い良くそう叫ぶ。
 しかし、久保田の膝に子供が座っているのを確認すると、ヨロヨロと床に倒れ込んだ。
 こんな時は、いつものように藤原の頭の中で脳内シアターが展開されているに違いない。
 藤原は舞台劇のヒロインのようにポケットからハンカチを取り出すと、それを加えてだーっと瞳から涙をこぼした。
 「そうですよね…。久保田先輩カッコいいですから、こういうことだってありえますよね…。でもいいんですっ、久保田先輩がその子を育てるとおっしゃるなら、僕はその子の母親にでもなんでもなるつもりですっ!手と手を取り合って、一緒にこの子を立派に育てましょうっ、久保田先輩っ!」
 「ああ、そう…」
 「今日から、僕がお母さんだよっ!」
 藤原はそう言って稔に向かって両腕を広げると、その小さな身体を抱きしめようとする。
 しかし、藤原の手が身体に触れる寸前、稔は持っていた色鉛筆を藤原に向かって投げつけた。
 「くぼちゃんっ、ヘンなのがいるっ!」
 「あ〜、ソレはほっときなさいね」
 「はーいっ」
 稔は久保田に向かって元気良く返事すると、藤原に向かってあっかんべーをしている。
 そんな稔を見た藤原は、衝撃を受けたらしくその場で固まっていた。
 だが、いつまでも固まっていられるのはうっとおしいので、桂木が久保田の子供ではないことを説明する。そうすると、固まっていたのが一瞬にして復活した。
 「なぁんだっ、違うんですかぁ〜。疑ったりしてすいません、久保田せんぱいっ!!」
 藤原がここぞとばかりに甘えた声を出して、椅子に座っている久保田の腕に抱きつく。
 いつもなら抱きつく前に時任が殴りつけるのだが、今日は不在なので止める者がいなかった。
 藤原も最初からそれに気づいていたため、ぎゅっっと自分の腕を久保田の腕に絡ませている。
 だが、時任に代る人物が生徒会室にはいたのだった。
 
 「くぼちゃんから、はなれろっ!!」

 久保田の膝に座っていた稔は、小さな手で必死に藤原の腕を久保田の腕から外そうとしている。
 しかし、力の差は歴然としているので、稔には藤原の腕をほどくことはできなかった。
 「はなせってばっ!」
 「あのね、久保田先輩は僕のモノだからいいんだよ?」
 「ウソだっ! くぼちゃんはオマエのなんかじゃないもんっ!!」
 「ホントですよねぇ、久保田せんぱーいっ」
 「ウソつきっ!!!」
 「・・・・・って、あれ? この子なんか時任先輩に似てないですか?子供だってわかってても、時任先輩に似てるとなんか…」
 「くぼちゃんからはなれろっ、ヘンタイっ!」
 「かなりムカツクんですけどっ!!!」
 藤原はいくら稔が嫌がっても、意地でも久保田から離れようとはしなかった。
 稔がいくら顔を真っ赤にして力を入れても、藤原をどうすることもできない。
 稔は本当に藤原に久保田を取られると思ったのか、悲しそうな顔をして瞳に涙を滲ませ始める。
 そしてしばらくすると、生徒会室中に響くような大声を上げて泣き始めた。
 「うあぁぁぁんっ!!!」
 「ちょっと藤原っ!! なに大人げないことしてんのよっ!!」
 稔が泣いてしまったのを見て、桂木が藤原を睨んでそう怒鳴りつける。
 だが、藤原は少しも反省していないようで、まだ久保田に腕をからませたままだった。
 「ぼ、僕のせいじゃありませんよっ」
 「どこからどう見てもっ、あんたのせいじゃないっ!!」
 「そんなぁっ!」
 「さっさと久保田君から離れなさいよっ!!」
 桂木がハリセンを構えたが、それより早く久保田の手が強く藤原の身体を押して、自分の腕を取り戻した。まさか久保田に押されると思っていなかった藤原は、その衝撃で軽く後ろへと転ぶ。
 いつも時任から蹴飛ばされることはあっても、こんな風に久保田からはっきり拒絶されたことは実は初めてだった。
 「く、く、久保田せんぱい?」
 藤原が床に倒れたまま久保田の顔を見たが、久保田は藤原のことなど眼中にないようで、膝の上で泣いている稔を抱きしめてやっていた。
 抱きしめている相手が子供だとわかってはいても、なぜか部員全員が少し顔を赤くしている。
 それくらい、稔を抱きしめる久保田の腕は優しかった。
 「うっ、えっ…、くぼちゃんが…」
 「藤原のなんかじゃないから、泣かなくていいよ?」
 「・・・・・・・・・・」
 「俺の言うコト、信じてくれる?」
 「…うん」
 教室にいる時は親子に見えていた二人だが、こうやってぎゅっと抱きしめあっているとなぜか親子とは微妙に違う関係のようにも見える。
 桂木はそんな二人を見ながら、ハリセンを持って唸っていた。
 これが時任と久保田ならハリセンで成敗するところだったが、いくら有害に見えても子供相手ではハリセンは使えない。藤原も子供相手にこれ以上は何もできないらしく、床をバシバシ叩きながら悔しがっていた。
 
 「ある意味、いつもより凄まじい光景だよなぁ」
 「そ、そっとしておこう…」
 「触らぬ神に憂いなしですねっ」
 「松原…、それを言うなら祟りなしだろう?」
 
 桂木と藤原以外の執行部員達は、そんな三人の様子をこわごわとうかがっていた。
 これからこんな日々が続くとしたら、いつ桂木が切れるかわからない。
 だが、相手が子供なので、その矛先は自分たちに向いてくる可能性があった。
 相浦達はそんな自分達の明日を想像すると、顔を見合わせて深々とため息をつく。
 なにはともあれ、稔が久保田の元にいる限りはこんな日々が続きそうな予感がしていたのだった。







 「くぼちゃんっ、はやくっ!」
 「はいはいっ」
 久保田は学校帰りに買い物をしてマンションに戻ったが、その両腕は荷物で塞がれていた。
 それはさすがに家に子供服は置いてないので、稔の着替えの服など必要なものを買い揃えたせいである。迷子として警察に届けを出すこともせず、こうやって稔のものを揃えている時点で、すでに久保田が稔を警察に連れて行く気などないことは明らかだった。
 部屋に入ると、久保田は引き出しに適当に稔の洋服をしまって夕食を作り始める。
 すると稔は、学校でもらった色鉛筆でまたお絵かきを始めた。
 久保田が野菜を包丁で切りながら稔の方を見ると、稔は色鉛筆をしっかり握って絵を描くのに夢中になっている。
 夕食を作り終えた後、久保田が稔のそばに行くと、稔がお絵かきした紙が数枚床に散らばっていた。
 「なに描いたの?」
 「…わかんない」
 久保田が稔に向かってそう聞いたのは、稔が何を描いたのかわからなかったからである。
 稔は学校の時と同じように、くっついた大きな四角を二つ描いてその中を青で塗っていた。
 そして不思議なことに、床に散らばっている絵もまったく同じ絵である。
 久保田はちらばった絵を拾い上げてみたが、やはり何の絵かはわからなかった。
 本人も何を描いたのかわからないらしく、首をかしげて久保田の顔を見ている。
 少し何か考えるように目を細めた後、久保田は描かれた絵をまとめてテーブルの上に置いた。
 
 「なに描いたかわかったら、教えてくれる?」
 「うん、いいよっ」

 久保田の頼みに稔は元気良く返事をしていたが、明るく笑っている稔とこの絵は似合わないような気がしてならない。茶色と青だけ使ったその絵に、久保田は妙なひっかかりを感じていた。
 けれど、ひっかかりを感じても原因はまったくわからない。
 久保田はその原因を考えながらも、何事もないかのように稔の世話をしていた。
 夕食が終って少しすると、久保田と稔は一緒にバスルームへと向かう。
 今日買い物をしたので、着替えは稔のものも用意されていた。
 「服脱がせてあげるから、バンザイしてくれる?」
 「バンザイ〜」
 「ちょっとそのまま動かないでね?」
 「うん」
 久保田は稔にバンザイの格好をさせて服を脱がせる。
 そして、買い物をする時に買った黄色いアヒルを持って二人はバスルームに入った。
 稔はまっ先にアヒルを湯船に浮かべると、お湯もかけずにザバーンとパスタプに飛び込む。
 すると、そばにいた久保田にお湯が勢い良くかかった。
 
 「…元気なのはいいんだけどねぇ」
 
 アヒルと一緒にバスタブで遊んでいる稔を見みて、久保田はため息混じりに呟く。
 買い物に行った時もそうだったのだが、稔が久保田の服の袖を引っ張って走り回るので、それに振り回されてしまった久保田は少々疲れ気味だった。
 やはり子育てに体力はかなり必要らしい。
 
 「やっぱ俺も年かなぁ…、なーんてね」

 冗談か本気が判断のつきにくい口調で久保田はそう言っていたが、ここにこうして稔がいる限り、明日もまた稔に振り回されて…。
 そうやってずっと、こんな日々が続いていく。
 だが、二人でいる時間と何事もない日々が目の前を過ぎていっても、やはり稔は久保田がいなくなる不安におびえるように…。
 ぎゅっと久保田の手を握って離そうとはしなかった。


                   

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