外から雀の元気な鳴き声が聞こえてきている。
 その声に目を覚ますと、久保田は何を見るよりも早く自分の横を眺めた。
 けれどそこには、いつもいるはずの時任ではなく、子供が丸くなって眠っている。
 久保田はベッドから起き上がると、枕元に置いていたセッタに手を伸ばしたが、すやすやと眠っている子供の顔を見てからその手を元の位置に戻した。

 「時任は時任なんだけどねぇ?」

 久保田はそう呟くと、眠っている子供の柔らかな黒い髪を撫でる。
 その感触は、やはり時任とは違っていた。
 昨日起こったことのすべてが嘘だと思っていた訳ではないが、目が覚めるといつものように横に時任が眠っている気がしていた。
 けれどやはり朝になっても、時任が眠っている場所に同じ名の子供が眠っている。
 眠っている顔は時任と似てはいたが、大幅に年齢が違いすぎた。
 けれど、同姓同名というだけでは片付けられない何かを、久保田は子供に感じている。
 そのせいなのか、この子供が時任自身であるはずはないと思ってはいたが、いなくなった時任を探しに行こうとはしていなかった。
 そんな自分を昨日と同じように不思議に思いながらも、久保田は床に投げてあったシャツを羽織ってキッチンに向かおうとする。
 だが、久保田がベッドを離れようとした瞬間、子供の瞳がパチッと開いた。
 「…どこいくの?」
 「朝ごはん作りに、キッチンまで…」
 どこへ行くかを言い置いて久保田が部屋を出て行こうとすると、子供があわててベッドから出て後を追いかけてくる。パタパタという小さい足音が後ろから聞こえてくると、久保田は苦笑しながら歩調を緩めた。
 「走ったら転ぶよ?」
 そう久保田は言うのだが、子供は置いていかれると思っているらしく必死に追いかけてくる。
 瞳を不安そうに揺らせながら…。
 そんな子供の瞳を見た久保田は、腕を伸ばして子供を抱き上げた。
 「心配しなくても、いなくなったりしないから…」
 「ホントに? ホントにいなくなんない?」
 「うん」
 「よかったっ」
 子供は久保田がいなくならないことを知ると、無邪気な顔でニコッと笑う。
 その笑顔には、昨日会ったばかりの久保田への警戒心は欠片もなかった。
 道で迷子になってたらしいのを助けたとはいえ、この懐きようにはやはり首を傾げてしまう。
 無意味に子供に嫌われたことはないが、これほど懐かれたことも今までになかった。
 本当に迷子なら警察に届けなくてはならないが、久保田自身がなぜかすでに子供と離れがたい気分になってしまっている。
 久保田は簡単に作った朝食を子供に食べさせながら、小さくため息をついた。
 「なんだかねぇ…」
 そう久保田が呟くと、ため息を聞いた子供が心配そうな顔をする。
 久保田の身体の具合が悪いと勘違いしたみたいだった。

 「どっかイタイ?」
 「違うから…。どこも痛くないから、心配しなくていいよ?」
 「オジサン、ビョウイン行かなくていいの?」
 「…オジサンじゃなくて、クボタって呼んでくれる?」
 「くぼ…?」
 「・・・・・久保ちゃん」
 「くぼちゃん?」
 「そう」

 久保田のことを久保ちゃんと呼ぶのは時任だけだった。
 けれど、久保田は子供に自分を久保ちゃんと呼ばせようとしている。
 時任の声でしか呼ばれたことのない呼び名は、なぜか子供から呼ばれても違和感がなかった。
 久保田は何度も「くぼちゃん」と呼びかけてくる子供の頬を軽く撫でると、子供に向かって出会ってから初めて子供の名前を呼んだ。

 「・・・・・・稔」

 それは時任といういつもの呼び名とは違っていたが、間違いなく時任稔の名前だった。
 意識してそう呼んだ訳ではなかったが…。
 まるで当たり前のように自然に、稔という名前が口から出ていた。
 そう呼ばれた子供は、驚いたようにピタッと朝食を食べていた手を止めたが、久保田が自分のことを呼んでいることがわかるとニッコリと笑う。
 久保田は稔の本当に嬉しそうな笑顔に、ゆっくりと微笑み返した。
 
 「稔」
 「なぁに、くぼちゃんっ」

 まるで満月の魔法にかかってしまったかのように、二人はお互いの顔を見つめ合っている。
 時任ではありえないと知りながら、久保田はまるで時任を見るような視線で稔を見つめていた。ここに久保田を知っている第三者がいれば、この奇妙な様子に眉をひそめたかもしれないが、今、このマンションの部屋には二人しかいない。

 満月の晩に消えた時任と久保田が、ここで二人きりで暮らしていたように…。

 久保田は朝食を食べ終わると、学校に行くために制服に着替える。
 すると稔は絶対に一緒に行く言って、久保田の学ランの袖をつかんで離そうとはしなかった。
 泣きそうな瞳が見上げてくるのをしばらく見つめると、久保田は稔の前に屈み込んで小さい靴をその足に履かせる。
 そうしてから、久保田は稔の手を引いて学校に行くためにマンションを出た。







 今日はとても天気の良い日だった。
 秋らしくなってきた薄い雲がうっすらと空を流れ、少し涼しくなってきた風が頬を撫でている。
 そんな清々しい朝の空気の中を、桂木はいつものように家を出て学校に向かって歩いていた。
 校門が近づくにつれて荒磯高等学校の生徒が増えていき、おはようと挨拶を交わしたり談笑する声があちらこちからから聞こえてくるようになる。
 桂木は同じ制服を着た生徒達に紛れながら、少し眠そうに目をこすった。

 「今日も一日、がんばらなくっちゃねっ」

 そんな風に桂木が自分に気合いを入れるのには理由がある。
 それは、学校では勉強をしたり色々することはあるのはもちろんだが、その上にも課せられている重要な仕事があったからだった。
 その仕事は嫌いではないが、かなり問題が多すぎる。
 桂木がその問題の主な原因を思い出してため息をついていると、前方からざわめきが聞こえてきた。

 「おいっ、見ろよっ!」
 「えっっ、冗談だろっていうか、信じられない光景だよな…」
 「きゃー、なんかカワイイっ」
 「あっ、こっち向いたっ!」

 ざわめきは校門に近づくにつれて、ますますひどくなってくる。
 桂木が目を細めてそのざわめきの原因を見ると、そこには桂木と同じクラスの久保田が見えた。だが、久保田はいつもより歩くペースがかなり遅いらしく、周囲を歩いている生徒達に次から次へと追い越されてしまっている。
 桂木は不審に思ったが、生徒達の注目を集めている視線の先を見てすぐに納得した。
 なぜなのか理由はわからないが、久保田はまだ五歳くらいの子供の手を引いて歩いていたのである。子供は久保田の手をぎゅっと握りしめて、トコトコと校門に向かっていた。
 「な、なんなのっ、一体っ」
 まるで親子のような子供と久保田の後ろ姿を見た桂木は、二人に向かって思わずダッシュする。そして二人に追いつくと、久保田の肩をポンと叩いた。
 「おはよ、桂木ちゃん」
 久保田はすでに桂木が走ってくる気配に気づいていたらしく、特に驚いた様子もなく、のほほんと桂木に朝の挨拶をする。
 そんな久保田を見た桂木は、こめかみをピクピクさせた。
 「おはよ、じゃないわよっ! 子供つれて登校してくるなんて、一体どういうワケなの?!」
 「どういうワケって言われても、困るんだけど?」
 「連れてくなら、高校じゃなくて幼稚園でしょっ!」
 「う〜ん、そう言われればそうかもだけど、俺と一緒に来たいって言ってるし…」
 「来たいって言ったからって連れて来ないわよっ、普通!」
 「置いていくなって、泣かれちゃったんだよねぇ」
 「ということは、まさかこの子…、今、久保田君の家にいるの?」
 「そうだけど?」
 「親戚の子とか?」
 「まあ、そんなカンジ」
 久保田はそう言っているが、どうもいい加減な返事をしているように思えてならない。
 親戚の子ならばなおさら、学校になど連れてくる必要はない気がした。
 桂木はこめかみを押さえて小さく唸ると、久保田の横に立っている子供の顔を見る。
 だが、大きくて綺麗な子供の瞳が自分の方を向いた瞬間、桂木は思わずその瞳に見惚れた。
 顔立ちの方も標準以上に整っているが、その特徴のある瞳はかなり印象的である。
 久保田の親戚だということだったが、その瞳も顔立ちも知っている別の誰かと似ていた。
 「ねぇ、本当に久保田君の親戚の子なの?」
 「一応」
 「親戚っていうより、あんたと時任の子供って言ってくれた方が信じられそう…」
 「ん〜、べつにそういうコトにしとしてもいいけど?」
 「・・・・・・あんたが言うと、シャレになんないわ」
 「そう?」
 「と、とにかく、そのまま教室に行くのはダメよ。授業中は五十嵐先生にあずかってもらった方がいいわ」
 「ほーい」
 桂木の提案に、やはりさっきと同じようにのほほんと久保田が返事をする。
 子連れ通学をしてきた久保田に相変わらず生徒達の視線は集中していたが、それを気にすることなく、久保田は桂木の提案通りに子供を連れて保健室へと歩いていった。
 桂木は少し迷った後、仕方ないと言うように、久保田の後を追いかけて歩き出す。
 こうして、久保田が隠し子を連れて登校してきたという話は、朝、授業が始まるまでの短い間に学校中に広まったのだった。







 「ひどいわっ、子供がいたのを隠してたなんてっ!」
 「はぁ…」
 「でも、アタシは平気よっ。この子を母親として育てていくわ。だぁってぇ、久保田くんの子供なんですものぉっ、アタシの子供も同然よぉ」
 「俺のじゃありませんけど?」
 久保田が子供を連れて保健室に行くと五十嵐は子供と久保田を見た瞬間、隠し子だと勘違いしてしまい、育てていく決心などしたりしていた。だが、五十嵐が言うように本当に久保田の子供だとするなら、十三歳くらいの時の子供ということになる。
 中学生の頃に…と言われても、なぜか久保田ならありえそうな気がした。
 「久保田君に似てないのが救いよね…」
 桂木はそう言うと、時任に良く似た子供を眺める。
 子供は桂木の視線に気づくと、警戒するようにすうっと久保田の後ろにかくれた。
 久保田には懐いているようだが、それ以外の人間には気を許していないようである。
 けれど怯えている様子はないので、ただ慣れていないだけかもしれなかった。

 「もうっ、先生びっくりしちゃった〜」 

 久保田の隠し子という誤解が解けると、五十嵐はいつものように久保田に抱きつこうとする。
 たが、五十嵐が久保田に抱きつく直前、子供が五十嵐の足を勢い良く蹴飛ばした。
 「い、痛いじゃないのっ」
 「くぼちゃんにさわんなっ!!」
 「どこかの単細胞のクソガキみたいなこと言うもんじゃないわよっ…て、ちょっとやだっ、この子あのクソバカに似てない?」
 「ばーかっ!」
 「うふふ…、さすがあのバカに似てるだけあって、なかなかカワイイこと言うわよねぇ」
 「ブスっ! クソババァ!!」
 「ぬぁんですってぇぇぇっ!!」
 時任に似ているのは外見だけかと思ったが、どうやら中身まで似ているらしい。
 子供はキッと五十嵐を睨みつけると、小さな身体でぎゅっと久保田にしがみついた。
 どういう経緯で久保田があずかることになったのかはわからなかったが、久保田にそうとう懐いていることだけは確かである。
 桂木はため息をつくと、時任に似ているせいで思わずいつもの調子になっている五十嵐を止めるために咳払いをした。
 「先生…。忘れてるかもしれませんけど、相手は時任じゃないですからっ」
 「あらやだっ、あんまり似てるからつい…」
 「確かにミニチュア版、時任って感じですよねぇ?」
 「・・・そういえば、今日、時任はどうしたの?」
 子供に気をとられていて気づかなかったが、今日はなぜか久保田の横に時任の姿が無い。
 思わず桂木と五十嵐が顔を見合わせると、それには答えず自分にしがみ付いている子供を抱き上げた。久保田と子供という組み合わせは、始めは似合わない気がしていたが、こうやって抱き上げている様子を見るとなかなか様になっている。
 制服さえ着ていなかったから、親子と言っても誰も疑わないかもしれない。
 久保田は子供を抱き上げたまま、子供と視線を合わせると優しく微笑んだ。
 「ちょっと用事あるから、ココでおとなしく待っててくれる?」
 「やだっ」
 「どしてもダメ?」
 「くぼちゃんといっしょに行くっ!」
 どうしても久保田から離れたくないらしく、子供は久保田の首に小さな腕を回してしがみ付く。
 そんな子供に久保田は少し困った様子だったが、その顔はなぜかどことなく嬉しそうに見えた。
 「じゃあ、一緒に行こっか?」
 「うんっ!」
 久保田が子供と一緒に行くことを決めると、子供は本当に嬉しそうに笑う。
 その顔はいつも素直じゃない時任と違って、思わずじっと見つめてしまいそうなほど可愛かった。
 仲良し親子をしている二人を見て、桂木は軽く頭を振る。
 もし本当に二人が親子だとしたら、久保田はかなり重傷な親バカだった。
 「子連れで授業なんて、どうするつもりなのよ?」
 「どうにかなるっしょ?」
 桂木は止めさせようとしていたが、久保田は止める気は全然ないらしい。
 抱き上げていた子供を床に降ろすと、子供の小さな手に久保田は自分の手を差し出した。

 「行くよ、稔」
 「いこっ、くぼちゃんっ」

 久保田が子供に稔と呼びかけたのを聞いた桂木と五十嵐は、再びお互いの顔を見合わせる。だがそれに構うことなく、久保田は稔の手を引いて保健室を出て行った。


                   

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