月が空にこれ以上ないと言っていいほど、丸く丸く空に浮かんでいる。
 満月だと思い空を見上げても、いつもどこかしら欠けていることの多い月だが、今日は完璧な円を描いていた。
 九月二十一日、十五夜…。
 今日は十五夜でしかも満月だという、とても珍しい日だった。
 そんな月に誘われてしまったのか、ベランダから満月を眺めていた時任が、リビングで本を読んでいた久保田を夜の散歩に誘う。
 久保田は読みかけの本から顔を上げて、灰皿でくわえていたセッタの火をもみ消した。
 「今日じゃなくても月が丸い日はあるっしょ?」
 「十五夜で丸いから意味あんのっ」
 「そうなの?」
 「早く来ねぇと置いてくかんなっ!」
 「はいはい」
 小さくため息をつきながらも、久保田は時任に続いて玄関に向かった。
 時任を一人で散歩に行かせても悪くはないが、せっかく誘ってくれたのを無視すれば、後で機嫌を取らなくてはならなくなるのである。
 それを考えると、一緒に散歩に行った方が良さそうだった。
 「やっぱ満月だと夜でも明るいよな」
 「そうだねぇ」
 二人で散歩に行くのは珍しいことではなかったが、満月だということを理由に散歩に出かけるのは始めてだった。
 楽しそうに前を歩く時任の後ろに続いて歩きながら、久保田は自分の足元に薄い陰を作っている満月を見上げる。すると、星の見えない夜空でも、くっきりと丸い月が地上を柔らかく照らしていた。
 その光に手をかざしても、少しも暖かさは感じられない。
 だが、その暖かさのない光には、強く照り付けてくる太陽とは違った優しさがある。
 眩しくて見つめていることすらできない太陽と違って、月は自ら輝くことすらなく、そっと闇に沈んだ街を見守っていた。
 「帰りにコンビニ行こうぜっ」
 「シャンプー切れてたから、それ買うついでにね」
 「・・・・・またフローラルな香りのにすんのか?」
 「うん」
 「べ、べつのにしねぇ?」
 「フローラル嫌い?」
 「嫌いとかいうんじゃねぇけど…」
 「だったら、そのままでいいっしょ?」
 「ううっ…」
 そんな風に何気ない会話をしながら、夜道に足音を響かせ…。
 行く先も目的地もなくただ満月に…、その穏やかな光に酔わされたように、ただひたすら久保田は歩き続けている。
 誰に見咎められることもなく、まるでこの世界に二人だけしかいないような錯覚を起こしそうな夜を泳ぐように…。
 
 音もなく、ただ静かに広がる、月光に照らされた景色。
 
 そんな現実味を欠いた景色を見ていると、なぜか世界に果てを見ているような気分になる。
 もしも世界に果てがあるのなら、きっとこんな感じなのかもしれないと…。
 だが、もしここが果てであったとしても、今、こうして二人であるように…、二人きりで世界の果てに立っているのだとしたら、ここがどこだろうとかまわなかった。

 たとえ、この柔らかな月の光にすら見守られていない世界だとしても…。

 久保田は白い月を見上げていた視線を、楽しそうに歩いている時任に向ける。
 すると時任は久保田の名を読んで、ゆっくりと綺麗に微笑みを浮かべた。
 「月まで手が届きそうな気ぃすんのに、ぜんっぜん届かねぇんだもんなぁ」
 「届きそうで届かないから…、キレイなのかもね?」
 「なんだそれ?」
 「なんだろうね?」
 美しすぎる月光が、目の前にある今を幻に見せていた。
 久保田はその存在がここにあることを確かめるように、時任に腕を伸ばす。
 すると、その腕は簡単に現実を掴んで時任の肩まで届いた。
 だが、久保田が掴んだ肩を抱きしめようとすると、その腕を逃れて時任が走り出す。
 白く輝く月の光を受けて、その後ろ姿はなぜかとても遠く感じられた。
 「早く来いよ、久保ちゃんっ」
 「わざわざ走らなくっても、月はちゃんと追いかけて来てくれてるよ?」
 「あ、ホントだ…、追いかけて来てるみたいに見える」
 「でしょ?」
 「なんか、こういうのっておもしれぇじゃんっ」
 そう言って思いっきりガキの顔してニッと笑うと、時任が再び走り出す。
 そんな時任を見て久保田はため息をついたが、やはり後を追って行くしかない。
 暗闇と静寂の中で、その後ろ姿を絶対に見失うわけにはいかなかったから…。
 時任がこの先を歩いて行くなら、どこまでもどこまでも歩いていかなければならなかった。
 「こっち曲がってくからなっ!」
 「はいはい」
 時任はそう言うと、目の前にある角を右に曲がる。
 なんとなく追いかけっこでもしているような気分になって、久保田は苦笑しながら再び満月を見上げた。
 どこまでも追いかけてくる月に、何かを重ね合わせるように…。
 こんな風に自分が誰かの後ろを、誰かの横を歩くことになるとは、時任に出会うまでは想像することすらしたことがない。それは、自分の隣りに誰かを置くつもりもなかったし、自分も誰かの隣りに並ぶつもりはなかったからだった。
 けれど今は、当たり前のように時任の隣りにいる。
 自分からそうすることを望んで…。

 「遠くからなんて…、見つめてられないから…」

 久保田は月に向かってそう言うと、時任の曲がった角を右に曲がる。
 角は直角に曲がっていたが、曲がってからその先は長く真っ直ぐ道が伸びいていた。
 さっきと同じようにほんのりとした月光に照らされた道が…。
 だが、その光で作られた影は、道沿いに立てられている民家と電信柱のものしかなかった。
 その先にも振り返った後ろにも、なぜか時任の姿が無い。
 いくら走って行っていたからといっても、まだそんなに距離が開くほど時間はたっていなかった。どこかに隠れているのかとも思ったが、やはりいくら探しても時任が見つからない。
 時々、いたずらみたいな真似をすることはあったが、本気になって必死に探している久保田を見て、時任が平然と隠れているなんてありえなかった。
 「時任っ!」
 久保田は真っ直ぐ伸びた道を走りながら、声を出して時任の名を呼ぶ。
 だが、その声は静寂に吸い込まれていくだけで、返事が返ってくることはなかった。
 久保田は長い道の先まで行くと、その周囲を時任の姿を探して見回す。
 その額には、走ったからだけではない汗が浮かんでいた。
 嫌な予感ばかりが頭の中を過ぎったが、それを振り切るように再び走り出そうとする。
 しかし、満月に包まれた道が街が…、まるで夢の中の景色のように見えて…。
 久保田の思考を鈍らせていた。
 時任を探さなくてはならないのに、これがすべて夢のような気がしている。
 本当はマンションの部屋にあるベッドに眠っていて、ただ目を覚まして瞳を開けたら、時任がちゃんと目の前にいるのではないかという気がしていた。
 けれどこれは、紛れもない現実で…。
 時任がいなくなったのも本当のことだった。
 マンションに一人で帰ったのかと考えたりもしたが、二人で散歩に行こうと言った時任が久保田を置いて一人で帰るとは思えない。
 久保田はその場に立ち止まって、早くなってくる鼓動を押さえるように自分の左胸を押さえた。

 「…時任の居場所、教えてくれない?」

 そう言って久保田は満月を睨んだが、月は美しく輝くだけで静寂を保ち続けている。
 まるで月光に惑わされて…、地上から姿を消してしまったかのように…。
 時任は久保田の前から忽然と姿を消した。
 どこまでもどこまでも、その後ろ姿を追いかけて行くつもりだったのに、目の前にはただ長く続く道だけがある。
 時任が曲がり角まで戻ってきているかもしれないと思った久保田は、探しながら走ってきた道を元来た方向へと歩き出そうとした。
 だが、前に一歩足を踏み出そうとした瞬間、着ている上着の裾が何かにぐいっと引っ張られる。不審に思った久保田が見てみると、誰かの手がその裾を握っていた。
 しかも、裾を握っている手は明らかに大人の手ではなく、小さな子供の手である。
 久保田は小さな手を見てから、更にその下に視線を向けた。
 「・・・・・どうかしたの?」
 そう声をかけると、久保田のすぐそばに立っていた子供は裾を握っていた手をさらにぎゅっと握りしめる。子供は大きな瞳で久保田を見上げると、きょとんとした顔で首をかしげた。

 「ここどこ?」

 そう言って黒い真っ直ぐな瞳が、久保田を見つめてくる。
 その瞳は良く知っている誰かにあまりに似ていたので、久保田は驚いたようにいつもよりわずかに目を見開いた。
 黒い髪も細く尖った顎と頬の輪郭も、良く眺めて見るとその人物に似た面影がある。
 久保田は自分の身長の半分にも満たない四歳、五歳くらいの子供に向かって…。
 思わずその名を…、いつも誰よりも呼んでいる名を呼んだ。

 「…時任?」

 その呼びかけはその子供に向かってなのか、それともただの呟きだったのかは久保田自身にもわかっていない。
 だが、そう呼ばれた子供は不思議そうな顔をして目をしばたくと小さな口を開いた。

 「なんでナマエしってるの?」

 これは偶然なのか…、それとも月が見せている幻なのか…。
 子供は時任と呼ばれて、久保田に向かってそう返事を返してきた。
 久保田は袖を握っている手をゆっくりと自分の手で握りしめると、その場にしゃがみ込んで子供の目線に自分の目線を合わせる。
 時任という名の子供は、そんな久保田の視線から目をそらさずに見つめ返していた。
 「自分のお名前言える?」
 「うん」
 「じゃあさ…、言ってみて?」

 「ときとう、みのるっ」

 ・・・・・・時任稔。
 子供は元気良くそう答えて、久保田の手を握り返してきた。
 けれどその手は久保田の知っている時任の手ではなく、子供らしく小さくて柔らかい。
 久保田は深く息を吐いて、それから再び息を吸い込むと、再び時任稔と名乗った子供に質問をした。
 「自分のおウチが、どこかわかる?」
 「…わかんないっ」
 「なんでココにいるの?」
 「・・・・・・わかんない」
 「ココで誰か見なかった?」
 「・・・・・」
 質問を続けていてる内に、子供の瞳が少しずつ潤み始める。
 子供は自分の家がどこかも、なぜここにいるのかもわからないようだった。
 「なんにもわかんねぇもん…」
 久保田が質問ばかりするので、子供はとうとう泣き出してしまった。
 始めはそんな風には見えなかったが、やはりこんな暗い夜道で一人きりでいて、かなり心細かったに違いない。
 久保田は子供の頭を優しく撫でてやってから、その身体を抱き上げて背中に背負った。
 「ウチがわかんないなら、俺んトコに来る?」
 「・・・・オジサンのウチ?」
 「…オニイサンと一緒に来る?」
 「うん、行くっ」
 「じゃ、決まりね」
 そう言うと子供を背負ったまま、久保田はマンションへの道を歩き始める。
 いなくなった時任を探さなくてはならなかったが、なぜか背中のぬくもりを感じていてると不思議とその気持ちが薄らいでいくのを感じていた。
 離れられないと想っていたのに…、そばにいることを望んでいたのに…。
 そんな自分を奇妙に思いながらも、月光に照らされてマンションに向かって歩いていた。
 まだ沈まない満月を…。
 どこまでも追いかけてくる月を眺めながら…。


                   

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