目が覚めると、時任が部屋から消えていた。
 何者かが侵入した気配がない以上、自分から出て行ったに違いない。そのことを知った久保田は、時任がなぜ出て行ったかを考えるよりも早く、着替えをすませて玄関へと向かった。
 それは出て行った理由よりも、時任の身体の方が気がかりだったからである。
 痛んで思うように歩けない、暑さにふらつく足ではそう遠くには行けない。
 とにかく、早く時任を見つけなくてはならなかった。
 「背負って行ってあげるって言ったけど…、それじゃダメだった?」
 時任の行きたい場所が海だろうとどこだろうと、一緒に行くつもりだった。
 行けるところまで一緒に行くつもりだったのに、時任は一人で行ってしまった。
 久保田を置き去りにして…。
 ゴメンと言ってた時任の哀しい瞳が思い出されて、久保田は目を細めた。
 別れはいつも唐突に、音もなくやってくる。
 それが今で、今日だとは思いたくなかった。
 そうであってほしくなかった。
 なのに、すでに久保田の腕の中には抱きしめるべき存在はいない。

 こんなにはっきり、昨日抱いた身体と唇の感触を覚えているのに…。


 とにかくマンションの周辺から探すことにした久保田は、息が詰まるほど暑い空気の中を走っていた。照りつける夏の太陽の光が暑く暑く大地に降り注いで、それが久保田の心を焦らせる。
 こんな中を時任が歩いて行ったのかと思うと、たまらなく胸が苦しくなった。
 時任はいつも元気そうにしていたが、それが本当ではないことを久保田は薄々気づいている。
 けれど、必死にそれを隠そうとしてる時任が、気づかないでくれと目で訴えていた。
 だから何も言えなかった。
 時任が、その嘘に久保田が騙されてくれることを望んでいたから。
 けれどそれは間違っていたのかもしれない。
 足の痛みも心の痛みも何もかも、抱きしめてやれば良かったのかもしれない。
 時任がそれを望んでいなくても…。

 「時任っ」

 名前を呼んで焼け付く太陽に照らされながら、走っても走り続けても時任に追いつけない。
 お金は持ってないしタクシーの乗り方も教えていないので、歩いていった以外は考えられないが、時任の姿はすでにマンションの周辺にはなかった。
 来た時が突然だったように、時任は突然消えてしまった…、痕跡を何も残さずに。
 久保田は照りつける太陽を見上げると、近くにあった塀を右手の拳で殴りつける。その様子はまるで心の痛みに耐えるために、他の場所に傷を作りたがっているかのようだった。
 いくら名前を呼んでも腕を伸ばしても、時任には届かない。
 何度好きだと言っても、愛してると叫んでも、その想いは苦しく胸をしめつけるだけで…。
 伝えるぺき相手はいないのに、熱に浮かされて浮かぶ陽炎のようにすべてがその想いに犯されていくのを感じた。
 どこを探せばいいのか、そんなのはわからない。
 けれど時任を見つけなければ、あの部屋には戻れなかった。
 時任のいない部屋に戻りたくはなかった。
 「かならず行くから…」
 久保田はそうつぶやくと、再び時任を探すために走り出そうとする。
 だが、そんな久保田を呼び止めた人物がいた。

 「こんにちわ。お久しぶりです、誠人さん」

 一瞬、誰だか思い出せなかったが、しゃべり方に特徴があるのでかろうじて記憶の隅に引っかかる久保田に声をかけてきたのは、この前ホテルで会った見合い相手の雪村智子だった。
 偶然を装ってはいたが、まるで時任がいなくなったのを知っているかように現れたのは、あまりにもタイミングが良すぎる。久保田は現れた智子と後ろに控えている運転手らしき男に、感情のこもらない冷ややかな視線を投げた。
 「実家の方から、何かお聞きになりましたか?」
 「べつに何も聞いてませんけど?」
 「縁談の話、まだ終わってないみたいなんです。誠人さんのお父様も私の父も乗り気で…」
 「はぁ」
 「だから、何かご迷惑がかかっていないかって、心配で来てみたんです」
 確かに智子の言うような事はまったく考えられないわけではないが、見合いの件を久保田はきっぱりと断っていし、この件についてはあれから音沙汰がない。
 確かに智子の実家は資産家なので利用価値があるかもしれないが、それを考えるなら智子よりも他に居そうだし、会った時の智子の様子からして、雪村家の方から縁談を持ちかけて来た可能性が高いかった。
 「…なるほどね」
 「誠人さん?」
 久保田は智子からすっと視線をそらすと、背中を向けて歩き出す。
 すると、智子があせったように久保田を追いかけてきた。
 「まっ、待って…、せっかく会ったから、お茶でもご一緒に」
 「しないよ」
 「ちょっと待ってくださいっ!」
 「・・・・・」
 「誠人さんっ!」
 智子が何度呼んでも久保田は振り返らない。
 何度、呼びかけても返事すらしなかった。
 まるで、智子の声も姿も見えないとでも言うかのように…。
 「お願いっ、待って」
 時任がいなくなったら、久保田が振り返ってくれると思っていた智子は、そんな久保田を見て唇を噛みしめた。久保田のそばから時任が消えても、その存在が久保田の心に影を落としている…。
 けど…、そんな事はあり得ないし信じない…。
 男である久保田が、同じ男である時任を想っているはずなどないと智子は決め付けていた。
 だが、智子にはこんなに冷たい久保田が、優しく時任に微笑みかけているのを車から見かけたことがある。あれは行くあてがないという時任への愛情ではなく同情だと信じていたが、今はその時の事を思い出すと、時任に見せられた肌に散った鬱血の跡が目の前にチラついて仕方が無かった。
 
 「探したって、見つかりっこないわっ!」
 
 背中しか見せない久保田に、智子は思わずそう叫ぶ。
 その瞬間、呼んでも呼んでも振り返らなかった久保田が智子の方を振り返った。
 真夏なのに、冷気すら感じる冷たい笑みを浮かべて…。
 すると、そのあまりの冷たさに智子が思わず身震いして鳥肌を立てた。
 「時任がドコにいるのか教えてくんない?」
 「…し、知りません」
 「知ってるよね?」
 「どうして、そんなことがわかるんですか?」
 「だったら聞くけど、さっきから知らないはずなのになんで聞かないの? 外出なんてしたことないから、偶然、会う事もないはずなのに…」
 「えっ?」
 
 「時任って誰ですか?って…」

 久保田の言葉に智子が凍りつく。
 確かに、さっきから時任を知っているような口調のまま話していた。
 ようやく我に帰った智子は、ゆっくりと近づいてくる久保田から逃げるように後退し始める。
 けれど、久保田はそれを逃したりはしなかった。
 「俺のコト好きだって言ったよね?」
 「・・・・・・」
 「なんで逃げるの? 嫌いになっちゃった?」
 「…わ、たし」
 智子の方へわざとそんなことを言いながら久保田が歩いていると、その間にさっきから黙って見ていた運転手が二人の間に割って入った。
 普段は智子の命令がないと動かないが、久保田が危険だと感じたらしい。
 この運転手がただの運転手ではないことは、引きしまった身体や体格を見れば十分だった。
 「お嬢様に近づくな」
 「ならさ、オタクが案内してくれてもいいんだけど?」
 「断る」
 「『断る』なんてさ、やったコト認めてる発言しちゃっていいのかなぁ? 人さらいは犯罪なんだけど?」
 「・・・・・・・黙れ」
 運転手の拳が久保田に向かって鋭く打ち込まれる。おそらく一発で気を失わせるつもりだったようだが、運転手の拳は軽々と久保田にかわされた。
 人通りのある道なので、あまり派手には暴れられない。
 運転手があせって再び久保田に攻撃しようとするが、その前に久保田の蹴りが運転手のわき腹に重い音を立てて打ち込まれた。
 「ぐぅっ…!!」
 「あ、ちょっとやりすぎ? 運転できないと困るんだけどなぁ」
 「く、くそっ!」
 「ケガしたくないなら、やめた方がいいと思うけど?」
 見た目は運転手の方が強そうに見えるが、久保田の方がケンカ慣れしている。
 ボディーガードだというプライドからか、運転手が再び久保田に襲いかかろうとするとそれを智子が止めた。周囲を歩いている人々が、こちらに注意を向けつつあることに気づいたからである。
 「貴方は車に戻っていて」
 「し、しかし…」
 「大丈夫よ」
 智子がそう言うと、運転手は久保田を横目で睨んでから車の方へと向かう。
 その姿を見送ってから、智子は背筋を伸ばして久保田と向かい合った。
 どうやら、久保田と運転手が争っている間に何か思いついたらしい。
 智子は自分から久保田の前に立つと、勢いよく頭を下げた。
 「ごめんなさい…。あの子が貴方のそばにいるのがうらやましくて、それでちょっと意地悪してしまったんです。けど、あの子が部屋を出たのはあの子自身の意思なの」
 時任が自分から出て行ったことは、言われなくても初めから知っている。
 だが、智子は久保田が知らないと思って、その事実を知らせることで自分のしたことを誤魔化そうとしていた。何か言われる前にあやまってしまえば、それですむと思っているのである。
 時任に悪いことをしたとか、そんなことは一切思っていない。
 ただ久保田に嫌われたくないという理由で、あやまっているのだった。
 「車でちょっと遠くまで行ったけど、自分で戻ろうと思ったら戻れるような場所なんです。だから、戻る気があるなら、きっと…」
 「時任はドコかって聞いてんだけど?」
 「だから、自分で戻れる場所にって」
 「…場所、さっさと言ってくんない?」
 久保田は智子の謝罪など少しも聞いていなかった。
 許すとか許さないとかそんなことなど、考えもいなければ思ってもいない。
 智子が何を思っていようと、まったく興味がなかったからである。
 ただ時任が遠くに連れて行かれてしまった事実だけが、久保田にとって知らなくてはいけないことで重要なことだった。
 だが、智子にはそれがわかっていない。
 すでに許す許さないのレベルではないのに、智子はまだ久保田が自分を許してくれていないと思っていた。許されようとしていたのである。
 「連れて行った場所は、きっともう移動してしまっていると思います」
 この期に及んでも、智子は久保田と時任を会わせたくなくてそんなことを言う。
 すると、久保田は右手の指を三本折り曲げて銃の形を作ると、人差し指の先をすぅっと智子の眉間に押し当てる。智子は目を見開いて、驚いた顔をしていた。
 「時任は移動してない」
 「…どうして、そんなことがわかるんですか?」
 「動きたくても動けないし、帰りたくても帰れないから」
 「えっ?」
 「人殺しになりたくないなら、さっさと言いなよ。今すぐ言わないと、警察にやっかいになる前に殺しちゃうよ?」
 「一体…、何の話を…」
 「簡単に説明すると、アンタを殺すって話してんだけど?」
 久保田が目を細めて、真っ直ぐ智子を見ていた。
 その瞳は冷たかったが、その中に熱い何かが潜んでいる。
 智子はこの時になって、久保田にとって自分の存在が紙切れよりも軽いことを知った。
 もし本当に久保田が拳銃を持っていたとしても、智子に向かって弾く引き金は一瞬の迷いもなく弾かれるだろう。
 久保田の瞳には、憎しみどころか殺意すらなかった。
 憎む価値も殺す価値だけではなく…、智子には何の価値もないとでもいうように…。
 「…連れていった場所まで案内、します」
 震える声と身体で智子がそう言うと、久保田が構えていた手を下ろす。
 だが、智子の震えは収まらなかった。
 資産家の家に生まれ、大切に育てられてきた自分が…、 
 自分の存在が紙切れ一枚よりも軽くなることを、初めて知ってしまったからかもしれない。
 久保田の中に智子は微塵も存在していない。
 存在しているのは、その心に刻まれているのは時任だけだった。
 
 「そんなに…、そんなに好きなんですか?」

 車で時任のいる場所に向かいながら智子がそう尋ねるが、久保田は窓の外から見える景色を眺めたままで何も言わなかった。
 だが、智子が気づかないくらい微妙に久保田を包む雰囲気が変わる。
 先ほどから見え始めた海が、キラキラと久保田の視界の中で輝いていた。
 時任が行きたいと言っていた海が、空の青を映して一面に広がっている。
 その色があまりにも鮮やか過ぎて…。
 ただ打ち寄せては返す波に、何か想いが満ちているような錯覚に陥る。
 目の前に見えているのはただ青いだけの海じゃなくて、時任のいる海だった。

 「ここの辺りです…」

 智子がそう言って運転手に車を止めさせると、久保田は車を降りる。
 それに続いて智子も降りようしたが、久保田が振り返ったので降りることができなかった。
 久保田が目で消えろと言っていたからである。
 車道を降りて砂浜へと歩いて行く久保田の後姿を見送りながら、智子はぎゅっと座席のシートを握りしめた。
 「もう二度と会えないのね…」
 智子は、今度などということが存在しないことを感じている。
 あの海へと続く砂浜に入ることを許されないのは、久保田の心から拒絶されてしまったことを示していた。











 海鳴りが遠くから近くから聞こえてくる。
 真夏の海は、冬の海よりも透明で深い青色をしていた。
 足に絡みつく砂を踏みつけるようにして音を立てて歩くと、焼けた砂が靴の中まで伝わってきて気持ち悪くなってくる。けれどそんなことを気に止めず、久保田は海に向かっていた。
 海水浴客も居ない白い砂浜を見ていると、目が痛くなってくる。
 けれどじっと辺りを見渡しながら、久保田は流れる汗をぬぐう事もせずに歩き続けていた。
 海へ海へと…。
 ただひらすら時任だけを想って…、恋して…、その姿を探していた。
 それはたぶん時任のためではなく、時任をなくしたくない久保田自身のためだった。
 
 ザザァー…、ザァー…。

 波ばかりが打ち寄せては消えていく。
 空から照り付けている太陽に焦りを感じながら波打ち際まで到達すると、波が打ち寄せている海岸の、久保田がいる位置から左側の向こうに何かが見えた。
 小さくてここからは良くわからなかったが、それを見つけた瞬間、すでに久保田は走り出していた。
 「時任っ!」
 砂に足を取られそうになりながらも、目指す場所に向かう。
 段々と近くなってくるにつれて、その姿がハッキリと見えてきた。
 太陽に向かって仰向けに倒れている人影は、足の辺りが波に洗われている。

 まるでそこで眠ってしまっているかのように…。

 久保田は人影のある場所まで到達すると、そこで眠っている人物の顔を見る。
 それは間違いなく、探していた時任だった。
 こんな場所で、こんなに寂しい場所で一人で眠っている時任を見た瞬間、久保田は熱く焼けた砂の上にひざまずく。
 こんなに太陽に照らされているのに、時任の顔は真っ青で…。
 久保田が何度呼んでも目を開かない。
 「…時任」
 久保田は名前を呼びながら両手でその頬を包むと、自分の額を時任の額にくっつけた。
 顔は青いのに額は焼けそうに熱い。
 時任の腕を取って脈を図ると、弱いがまだかろうじて心臓が動いていたが、どう見てもかなり危険な状態だった。手や口の辺りに付いている血が、赤くて、赤すぎて苦しくなる。
 久保田はポケットからハンカチを取り出すと、海水で濡らして手や顔から血をぬぐってやってから時任の額に当てた。
 「一緒に海に来てあげられなくてゴメンね、時任。海に行くって、背負ってくって約束してしたのに…、あんなに一緒にいたいって願ってたのに…、どうしてなんだろうね?」
 照りつける太陽が時任の命を縮めていく。
 必死の想いで病院に連れて行こうと、久保田が時任を抱き上げようとする。
 けれどその時、力のない手が久保田の腕をつかんだ。
 「時任…」
 「病院に行っても…、ダメだから…」
 時任のかすれた声が久保田の耳に小さく届く。
 波の音にかき消されそうなその声を耳にした瞬間、久保田は砂浜に倒れている時任の肩を両腕で抱きしめた。
 その身体を命を抱きしめるように…。
 すると時任は泣きそうに顔をゆがめて、手で自分の顔を覆った。
 「…なんで、ココにいんの?」
 「会いたかったから…、どうしても会いたかったから来たよ、時任」
 「俺は会いたく…なかった…」
 「うん。それでも俺は会いたかったから…」
 抱きしめている時任の肩が震えている。
 零れ落ちそうになる涙と、大好きな胸に抱かれていたくなる気持ちが痛くて…。
 好きだと言いたくて、叫びたくて、それがとても苦しかった。
 命が消えて行こうとしている今になっても、久保田への想いばかりが胸の中にあって、そればかりが打ち寄せる波のように心に打ち寄せてくる。
 久保田の身体から匂ってくるセッタの匂いが、なぜかとても懐かしくて…。
 一緒にすごした日々が、暖かい陽だまりのようだった日々が切なく思い出された。
 まだ身体中に残っている久保田の刻んだ痕跡ともに…、好きだと言われて抱かれたことも…。
 だから、このままでいるわけにはいかない。
 どうしても好きだから、恋する気持ちは止められないから、久保田を思って痛み続けているこの想いは消せなかった。
 だからどうしても駄目だった。
 「…もう行けよ、俺はへーき、だから」
 「どして?」
 「一人でいたい…から…」
 「時任」
 「頼む…、頼むから帰れ、久保ちゃん」
 「・・・・・」
 「最後の願いくらい…、聞いてくれても…いいじゃん」
 これが時任の最後の願いだった。
 どうしても叶えたいことだった。
 久保田に自分の死を背負わせないことだけが、それだけがたった一つの願いだった。
 けれど久保田はゆっくりと首を横に振る。
 時任は力のない腕で、久保田の背中を叩いた。
 「どっか…行け…、行けよ…」
 どこかに行けと、いなくなれと言いながら、耐え切れなくなった涙が頬を伝う。
 もう何が哀しいのか、何が苦しいのか…。
 なにもかもがごちゃまぜになって、良くわからなくなっていた。
 久保田の腕で死ねないと思っているはずなのに…。
 久保田に抱きしめられて、キスされて、好きだと言われたかった。
 久保田のことが好きだから…。
 海の底で会いたいと願っていたあの時よりも、ずっとずっと好きだから、恋しくて、恋しすぎて離れられない。このまま死んで逝きたくなかった。
 けれどもう…、歩くことも立ち上がることもできない。
 身体が重く重くなっていくのを感じていた。
 「どうして…、聞いてくんねぇの…」
 久保田の体温を痛みとともに感じながら時任がそう言うと、久保田は時任の頬を伝う涙にキスしながら目を閉じた。
 「少しでも一秒でも長く一緒にいたいから、お願いは聞いてあげられない。…それに、最後の願いなんて、そんなのは聞きたくないから…」
 「くぼ、ちゃん…」
 「時任は俺と一緒にいたいって思ってくれないの? 好きだって、一緒にいたいって想ってるのは俺だけ?」
 「・・・・・・・・」
 「人魚姫に恋したなんて…、そんなのバカだって思ってる?」
 久保田の口から人魚という言葉が出て、時任がハッとして目を見開く。
 そんな時任の顔を見て、久保田は優しく微笑んだ。
 「…もしかして、…知ってた?」
 「初めは他人の空似かと思ってたけど、もしかしたらって思ったからウロコ渡して試してみた」
 「・・・・・・」
 「海の底から俺に会いに来てくれたって、自惚れてもいい?」
 「くぼちゃ…」
 久保田の腕から離れなくてはならないと思っていたのに、人魚だということが、久保田に会いたくて、会いたくて海の底から地上に来てしまったことが知られてしまった瞬間、何かが時任の中で壊れた。
 それは抑えていた、久保田への好きという気持ちと想いだった。
 恋しくて一緒にいたいと願っている心だった。
 「くぼ…ちゃん…」
 「…うん」
 「ホントは…好きだから…、スゴク好きだから…。会いたかった…」
 「時任」
 「だから…会えてうれしかった」
 会えたことが、一緒にいられたことが…。
 好きだと言われて、好きだと言えたことがうれしかった。
 だから、毒薬を飲んだ時と同じように、死ぬ間際になっても後悔などしてしなかった。
 たとえもう希望が残されていなくて…。

 死に逝くしか、道がなかったとしても…。

 青い海と空がまぶしくて時任が目を閉じると、久保田のキスが瞼に唇に降ってくる。
 それを受けながら、時任は白い砂を握りしめていた。
 後悔などしていないのに、この海に…、この広すぎる空と海の下に久保田を置いて逝きたくなくて、その想いが硬く拳を握らせる。
 すると久保田がキスを止めて時任の顔を覗き込んだ。
 「どしたの?」
 「…帰りたい」
 「海に?」
 「部屋に…帰りたい…」
 故郷のことを忘れてはいなかったが、もうそこは時任の帰る場所ではなかった。
 久保田の居る場所が、あの部屋が帰る場所だった。
 時任がそう言うと、久保田は時任の肩に顔をうずめて、
 「じゃあ、一緒に帰ろっか?」
と、少し震えたような声で言う。
 するとその声を聞いた時任は、腕を必死で持ち上げて久保田の頭を抱きしめた。

 「かえろ、くぼ、ちゃ…」

 時任の言葉が途中で小さくなって消える。
 すると久保田を抱きしめていた腕が力なく、ゆっくりと久保田から離れて行った。
 何かがすぅっと抜けていくように、久保田が抱きしめている時任の身体が重くなっていく。
 久保田は重くなっていく身体を…、消えていく命を…。
 両腕でしっかりと自分の身体に抱き込んだ。
 「時任…、時任…」
 「・・・・・・」 
 「一緒に帰るって約束したのに、また約束守って…やれないなんて…さ。…ゴメンて、あやまってばっかりで…、そんなのは痛すぎるよ、時任」
 打ち寄せる波の音も、聞こえてくる鳥の声も、もう何も聞こえない。
 視界も白く白く染まって、海も空も色を失っていく。
 抱きしめている身体のぬくもりと匂いだけを感じながら、久保田は砂の上でただひたすら時任を抱きしめ続けていた。
 なにもかもが失われていくようで、すべてからなくなっていくようで…。
 その喪失感が思考を想いを奪っていく。
 久保田はうつろな瞳で、海ばかりを見つめていた。

 パシンッ!!

 それからどれくらいたった頃だったか、頬に鋭い衝撃が走って久保田は目を覚ました。
 すると、時任はさっきと同じ状態で腕の中にいる。
 それだけを確認してまた意識を手放そうとすると、再び頬に衝撃が走った。
 
 「しっかりなさいっ!!」

 衝撃の原因を久保田は確認したが、思考がうまく働かないのでしゃべることができない。
 そんな久保田を眉をしかめて見ているのは、時任に毒薬を渡した魔女の五十嵐だった。
 海に住んではいても、五十嵐は魔女なので地上でも人間と同じように歩ける。
 そんな五十嵐の様子を見守るように、海の中から一匹の人魚が顔を出していた。
 それはやはり、時任を心配していた人魚の桂木である。
 二人は時任が地上に行ってから、懸命に毒薬を飲んでも助かる方法を探していたのだった。
 文献は古いものなので、事実と変わっている部分があったりするのだが、色々な実例をつなぎ合わせた結果、一つだけわかったことがあったのである。
 それは昔、本当に実在した人魚姫が恋している相手である王子を殺そうとしたことだった。
 泡になって消えるのを防ぐには、王子を殺すしかない。
 有名な人魚姫の物語ではそうなっている。
 五十嵐は一瞬、久保田の顔を見てうっとりとした表情をしたが、それを振り切るように左右に振ってから、久保田の前に一本の短剣を差し出した。
 久保田はそれを素直に受け取ると、自分の喉元に向かってそれを突き立てようとする。
 それを五十嵐がすばやく腕を抑えて止めた。
 「ば、バカなことしないでよっ、死ぬために渡したんじゃないのよ!」
 「…邪魔しないでくんない?」
 少し意識が戻ってきた久保田がそう言うと、海の方から声がした。
 「なにやってんの! なんで死のうとするのよ! あんたが死んでも時任は喜ばないわっ!!」
 「だからなに?」
 「なに? じゃないわよ! 時任はね、生きることをあきらめたりなんかしなかったわよっ、どんな時だって! あんたのとこに行ったのだって死ぬためじゃないって言ってたのよっ!」
 海から出られないことにイライラしている桂木がそう怒鳴ると、久保田は時任の髪を撫でながら桂木の方をじっと見つめている。
 桂木は久保田のうつろな瞳を見返しながら、ため息をついて哀しそうな顔をした。
 「…早くしなきゃ間に合わないわ」
 久保田の腕の中でぐったりしている時任を見た五十嵐がそう言うと、桂木が大きくうなづく。
 桂木は自分が行けるギリギリの位置まで久保田に近づくと、短剣を渡した理由を話し始めた。
 「人魚が人間になるには、毒薬を飲まなきゃなれないの。時任が人間になれたのは、そのせいよ。けど、長生きはできないわ。もって三週間か一ヶ月ね…」
 「・・・・・・・」
 「だから、毒を中和しなきゃならないのよ」
 「中和?」
 「中和作用があるのは、人間の血よ」
 人魚姫の物語には、隠されていた事実があった。
 人魚姫の姉達が人魚姫に短剣を握らせたのは王子を殺すだめではなく、人間の血を飲まなくてはならなかったからなのである。
 だが人魚姫は王子が他の国の王女と結婚したため、助かることを選ばずに死んだのだった。
 「けど、すべての血が中和に利くってワケじゃないわ。人間の血は血でも、人魚の血を飲んだ人間の血が必要なのよ」
 「・・・・・・・・」
 「心配いらないわ。あんたは前に時任の血を飲んでるから…」
 「いつ?」
 「船の事故であんたが死にかけた時よ」
 久保田には、船から落ちてからの記憶がない。
 だが、おぼろげに海の中で時任の顔を見たような気がした。
 あの海が荒れた日、久保田が時任を海へと帰した日に、時任は久保田を助けようと自分の手首を切りつけたのである。
 あの日、時任がしたように久保は迷うことなく手首を短剣で切りつけた。
 すると、切り付けた部分から血が焼けた砂の上にこぼれ落ちる。久保田はその血を自分の腕の傷に口付けて口に含むと、血の気を失っている時任の唇に自分の唇を重ねた。
 生きて…、再び目を開けてくれることを…。
 好きだと言ってくれた、この唇が再び自分の名前を呼んでくれることを願いながら…。
 この命が、想いが消えてしまわないように、強く強く抱きしめて…。
 「…時任」
 飲む余力がないのか、時任の口元から久保田の血が滴り落ちている。
 久保田は再び深く手首を切りつけてから、何度も時任の口元に血を運んだ。
 自分の足元に血が広がっていくのも構わずに…。
 「ちよっと…、アンタまで死んじゃうわ。やめなさいよっ、もういいわ…。もう十分よ」
 五十嵐が止血しようとするが、久保田はそれを受け入れない。
 時任ばかりか、久保田の顔色まで悪くなってきている。
 このままでは失血死するかもしれなかった。
 海の中からそれを見ている桂木は、唇をかみしめて海水をばしゃっと顔にかけてから、五十嵐に向かって左右に首を振った。
 「時任だけじゃなかったのね。会いたいって、好きだって想ってたの…」
 「けど、こんなのって哀しすぎるじゃない!」
 桂木も五十嵐も、久保田を見守っているしかできなかった。
 時任が久保田を助けるために手首を切ったように、久保田も時任を助けようとして手首を…。
 それは恋している二人が、お互いを自分を助けようとした結果だった。
 どうしても傍に一緒にいたいと願って、本気で本当の恋をしたから…。
 それを失ってまで生きていられなかった。
 生きていたいと願っても、心が死んでいくのも、想いがあふれていくのも止まらないから、たとえ暗闇がすべてを包んでも、ずっとずっと抱きしめていたかった。
 時任の身体からも、久保田の身体からも命が失われていく。
 次第に久保田の身体が揺らいでいき、砂の上に倒れてしまいそうになる。
 すると、その衝撃で時任のポケットから青いウロコが落ちた。
 空と海の境界線…。
 その色をしたウロコは、白い砂浜の上で太陽の光を浴びてきらめいている。
 ウロコは太陽の光を反射して、まるで朝日のように時任の目の辺りに当たる…。
 すると、その瞬間、時任の喉が大きく動いた…。
 久保田が意識を失いそうになりながら口付けて注ぎ込んだ血が、時任の喉を通って体内に入っていくのが喉の動きでわかる。その様子を見た五十嵐が久保田に何か言おうとする前に、閉じられていた時任の瞳がゆっくりと開いた…。
 「…時任?」
 「くぼ…ちゃ…ん」
 まだ完全に意識は戻っていなかったが、ちやんと胸が上下して呼吸しているのがわかる。
 久保田が血に塗れた腕で時任の顔をさわろうとしたが、その腕は五十嵐によって奪われ、布できつく付け根を縛られた。
 血を失いすぎてはいるものの、どうやら失血死はまぬがれたようである。
 五十嵐はポケットからソーイングセットのようなモノを出すと、針に糸を通して久保田の傷口を縫い始めた。
 「麻酔なんかないからかなり痛いけど、じっとしてなさい…」
 見ているだけでも痛そうだったが、久保田は自分の傷よりも時任のことが気になるらしく、少しだけ顔色の良くなった時任を瞬きを忘れたかのようにじっと見つめていた。久保田の血を飲んで毒薬が少しは中和されたようだが、時任はまだ安心とは言えない状態である。
 時任が再び死にかけはしないかと、そればかりを考えている久保田のことがわかったのか、桂木は中和についての残りの説明を久保田にした。
 「中和には少し時間がかかるわ。けど、今みたいじゃなくて少しずつ飲ませたらいいから」
 「…そうすれば治る?」
 「足が痛くなくなれば、もう大丈夫…って。あっ、言っとくけど、ムリして飲ませないでよ? あんたが死んだら、時任まで死んじゃうんだから、そこんとこ気をつけてよねっ」
 「ちゃんと、わかってるから」
 「ホントでしょうねっ!?」
 桂木が腰に手を当ててそう言うと、うつろな表情をしていた久保田の口元に少しだけ笑みが浮かんだ。それがとても優しい笑みだったので、桂木は同じように笑みを浮かべる。
 痛いくらい哀しい空気が張り詰めていた浜辺が、ようやく穏やかな空気に包まれつつあった。
 「はい、これで終わりねっ!」
 「どーも」
 「ちゃんと病院には行きなさいね」
 「…はい」
 五十嵐が手首の治療を終えると、桂木は人間に見つかるのを恐れて再び海へと身体を沈めていく。そんな桂木を追うように、五十嵐も海へと歩き始めた。
 「言われるまでもないでしょうけど、時任のことお願いねっ」
 「会いたくなったら、ここら辺の海で待っててちょうだい〜。アタシから会いに行っちゃうからぁ」
 「な、なに言って!」
 「だぁってぇ、時任にはもったいないくらい、いい男なんですものぉ」
 「…時任に殺されると思うけど」
 漫才のように言い合いながら桂木と五十嵐が海に消えていくと、久保田は海に向かって深く頭を下げた。それは時任を助けられたのは、海の底から着てくれた二人のおかげだからである。
 そうやって久保田が頭を下げていると、時任の腕が伸びてきて久保田の髪を軽く撫でた。
 けれど、まだしゃべるほどの元気はない様子で、うっすら開けた目が桂木と五十嵐の消えた海を見つめている。そろそろ日が落ち始める頃だった。
 「…一緒に帰ろう、時任」
 久保田がそう言うと、時任がうっすらと微笑みを浮かべる。
 その微笑みを見た久保田は、優しく微笑み返して時任の額に小さくキスを落とした。そしてやはり足元がまだふらついていたが、時任を背中に背負うと久保田は砂の上に立って歩き始める。
 
 約束したあの部屋へと一緒に帰るために…。
 
 時任は久保田の背中で揺られながら、海の彼方を見つめていた。
 太陽が沈んでいく辺りを…。
 打ち寄せる波も、潮を含んだ風も、夕方になったせいか穏やかな響きで聞こえてくる。
 時任は久保田の首の辺りにぎこちない動きでゆっくりと腕をまわすと、広い背中に頬を押し付けた。しゃべれなくて伝えられない想いが人魚姫のように伝わらなくて、哀しみのあまり泡になってしまわないように…。
 するとそんな時任の気持ちがわかったのか、それに答えるように時任を支えていた腕を片方はずすと、首に回されている時任の腕を撫でた。
 「今度、海に還るその日が来たら…」
 
 一緒に逝くから…。

 最後の言葉は、途中までしか声にはならなかった。
 唇だけが刻んだ言葉は、背中に頬を預けている時任には見えてはいない。
 次第に海へと吸い込まれるように沈んでいく夕日が、空と海を赤く赤く染めていく。
 空と海の境界も同じ色に染まっていた。
 
 それはまるで、苦しくても哀しくても消えることのない想いが…、心が…。
 空と海に溶け込んだような、そんな夕暮れの色だった。

                                                終
                      『空と海の出会う場所で』  2002.8.9 キリリク20000
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