部屋から出られない状態だったが、時任は久保田の前では毎日元気にしていた。 だが、今日はどことなく元気がない様子で、じっと何事か考え込んでいる。 久保田はそんな時任を見ながら、わずかに首を傾げた。 機嫌が悪いというのとは違うが、なぜかあまり久保田の顔を見ようとはしない。 こんなことはここに時任が来てから始めてのことだった。 「もしかして、足痛かったりする?」 そう久保田が尋ねても、時任は首を横に振ってなんでもないと言うだけだった。 部屋にいない間に時任に何があったかはわからないし、聞いても時任が答えないのではどうしようもない。久保田は小さくため息を付くと、テレビを見ながら座っている時任の隣に腰を降ろした。 テレビはバラエティ番組をしていたのだが、時任は眺めているだけで見ていないらしく、笑うような場面でも表情が変わらない。 久保田は横から腕を伸ばし、時任の肩を掴んで自分の方へ引き寄せた。 「…久保ちゃん?」 「今度、二人でどっかに出かけよっか?」 そう久保田が言うと、時任は驚いたように目をしばたいた後、らしくなく無理をしているような感じの笑みを浮かべた。 「もう少し暑くなくなって、足が良くなってからってのはダメか?」 「暑かったら暑くないトコに行けばいいし、足が痛いなら背負って行ってあげるから」 「・・・・・・」 「どこか行きたいトコある?」 「・・・・・・海」 暑い所は時任の身体に負担がかかる。 自分でも暑くなくなってからと言ったのに、なぜか時任が言ったのは一番暑そうな場所だった。 けれど、冗談で言ったのではないことがその表情からわかる。 久保田は抱き寄せている時任の顔を覗き込むと、微笑んでからその唇に自分の唇を寄せた。 ただいまのキスはさっきしたし、お休みにはまだ早すぎる。 だが、久保田はいつものようなキスではなく、激しく深く時任の唇を奪った。 「お帰りのヤツは…、さっき…」 時任が不審そうにそう言うが、キスは一向に止まない。 抱きしめている久保田の腕から逃れられず、時任は激しい翻弄されて腕を突っ張る。 なのに、久保田はさらにきつく時任を抱きしめるだけで離れることを許さなかった。 「んっっ…、はぁ…」 「…時任」 「もう…、やめ…」 「やめない」 時任にキスしながら、久保田はポケットの中に入れている一枚のウロコを思い出していた。 ずっと抱きしめていたいような気がしていたのに、別れなくてはならなかった人魚のことを…。 あの人魚のように、時任ともいつか別れなくてはならないかもしれない。 そう思うとキスをやめたくなかった。 時任を抱きしめている腕を絶対に離したくなかった…。 「くぼ…ちゃ…?」 「コレ、時任が持っててくれる?」 「・・・・・っ!」 「俺の大事なお守り。預かっててよ」 ぐったりとなってしまった時任から唇を離すと、久保田はポケットからウロコを取り出して時任に渡した。そのウロコは通りかかった漁船に助けられた時、服に付いていたものである。 大きさも形も普通の魚とはあきらかに違うウロコは、海と空と同じ綺麗な青色をしていた。 「久保ちゃん…、俺は…」 「どしたの?」 「なんでもない…」 時任はウロコを見た瞬間、すごく驚いた顔をしていた。 まるで、それが何のウロコか知っているかのように。 なんでもないと言いながら、時任の顔は泣き出しそうに歪んでいた。 「俺は男だけど…」 「うん?」 「久保ちゃんは俺のコト抱ける?」 「時任?」 「抱けるなら…、抱いてくんない?」 「抱けるっていうより、抱きたいって思ってるけど?」 「…ホントにそう思ってんの?」 「うん、だから…、イヤだって言っても途中でやめてあげられない」 「いいから…、イヤだって言ってもやめてくんなくていいから…」 「…ソファーとベッド、どっちがいい?」 「ベッド」 なぜ時任がいきなり抱いてくれと言い出したのか、久保田にはわからない。だが、抱いてくれといった時任の瞳が真剣だったので、それから目をそらすことはできなかった。 その理由を問うことも…。 じっと決意を込めたような瞳のまま何も言わずに、時任が久保田の首に腕を回してくる。 久保田は頬に軽くキスすると、時任の軽い身体を両腕でそっと抱き上げた。 「今ならまだ引き返せるよ?」 リビングを出て廊下を歩いた先の部屋のドアの前で久保田がそう言ってたが、やはり時任は何も言わずに首を横に振る。やはり決意は固いらしかった。 久保田は時任の意思を再度確認すると、ドアを開けて部屋の中に入る。 そして、時任をベッドの上へと横たえた。 時任はすぐに抱かれると思っているのか身構えていたが、久保田はそうすることはせずにベッドの端に腰を降ろす。それから久保田は、いつもはしないような真剣な顔で時任の顔を覗き込んだ。 「抱く前に言っときたいことあるんだけど、聞いてくれる?」 「…わぁってるよ。これ一回きりだって言うんだろ?」 時任が久保田の言いたいことを決め付けてそう言うと、久保田は微笑んで時任の頬に右手を伸ばしてくる。触れてくる手の感触があまりに優しかったので、時任の瞳がまた哀しそうな色になった。 だが、その瞳の色を見ても、久保田は時任に触れた手を下ろさない。 時任は強引にことを進めようと、久保田の唇に自分の唇を重ねようとしたが、時任の唇は久保田の右手で塞がれてしまった。 「なんで? やっぱ抱きたくなくなった?」 「違うよ」 「だったら…」 「言いたいことがあるって言ったっしょ?」 「・・・・聞きたくない」 「そうかもだけど、時任に知ってて欲しいから」 「・・・・・・・」 久保田が何か言おうとした瞬間、時任が手で耳をふさぐ。 しかし、強引に時任の手は久保田によって耳から外されてしまった。 「時任がなんで、俺に抱かれたいのか知らないけど…」 「・・・・・」 「時任を抱きたいって思うのは、俺が時任を好きだから」 「…えっ?」 「時任を好きだから抱きたくなったって言ったら、信じてくれる?」 好きだから抱きたい。 久保田の言ったことが本当だとは、時任には信じられなかった。 けれど久保田はちゃんと時任の目の前にいて、優しく微笑んでいてくれる。 好きだから、だから抱きたいと言って…。 「久保ちゃん…」 本当は久保田に好きだと言いたかった。 好きだから…、抱いてほしかったって言いたかった。 そう言って、キスして想いを伝えたかった。 けれど、どうしても好きだと言えない。 時任は好きだと言ってくれた久保田に答えを返さず、言葉ではなく唇に想いを込めて久保田に口づけた。好きだ、大好きだって、それだけを伝えるように…。 「…時任」 「ゴメン…、久保ちゃん」 ゴメンとあやまった時任の言葉に答えず、久保田の唇は時任の首筋から鎖骨へとすべっていく。時任は久保田の唇を感じながら、涙が流れ落ちそうになるのを耐えていた。 好きだと言ってもらって、抱いてもらって、哀しむ必要なんてどこにもないのに、何かが胸の中に重く哀しく降り積もっていく。 痛む足と、動きづらくなっていく身体が、不安と別れの予感を孕んでいた。 「あっ……」 「ちょっと痛いけど、いい?」 「う…ん…」 「叩いても殴ってもいいから、逃げないで俺に抱かれてよ、時任」 「逃げたり、なんか…」 「逃がさないから」 久保田の熱に翻弄されながら、時任の身体も熱くなっていく。丁寧に優しく身体を開かれて、欲望を暴かれていきながら、時任は久保田の背中に爪を立てた。 久保田が少し顔をしかめたが、時任はそれでも背中に引っ掻き傷をつける。 すると久保田の動きが、時任の中へと自分を刻みつけようとするかのように激しくなった。 「うぁっ、あっ…」 「好きだよ、時任…」 身体中で久保田を感じて、時任の中がそれだけで一杯になっていく。 何もかもが溶けていくような気がして、時任は久保田の背中に腕に必死にしがみ付いていた。 自分の中にある久保田への想いが、心を壊していくような気がして…。 抱いてとねだってすがっても、好きだと耳元で囁かれても…、 時任の耳にはまるで迫ってくる不安と別れが…、波になって押し寄せてくるように…、 ・・・・どこか遠くで海鳴りが聞こえていた。 「…あれ?もう朝?」 何度も何度も抱かれて、シーツも毛布もぐちゃぐちゃになっている。 疲れ果ててそのまま眠ってしまった二人だったが、汗でベタベタしているのが気持ち悪くて、時任の方が早く目を覚ました。 横でまだ眠っている久保田の顔を少し眺めた後、時任はそこら中に散らばっている服を持って、そっと部屋を出て汗を流すためにバスルームに向かう。 バスルームに入って鏡にうつった自分を見た時任は、昨日のことを思い出して顔を真っ赤にした。 鏡にうつった自分の身体には、久保田の付けた赤い痕が無数についていたからである。 「マジで抱かれちまったんだよな…、久保ちゃんに…」 抱かれたことも、好きだと言われたことも事実だったが、なんとなくまだ実感が薄い。 久保田につけられた痕を指でたどりながら、時任はあらぬ場所の痛みに眉をひそめる。 それは昨日の出来事を証明する痛みだった。 男同士は恋愛できないと言われていたのに、久保田は自分を好きだといってくれて抱いてくれた。信じられないことだが、それが事実なのである。 「このままじゃ…、いけねぇのかよ…」 鏡の中の自分に問いかけるように時任がそう言う。 するとその瞬間、胸が苦しく痛くなって、何かが喉の奥からせり出してくるような感じがした。 「ゴボッ、ゴホゴホ…」 めまいもしたが、息もかなり苦くて、時任は近くの洗面台に向かって咳き込む。 するとボタボタッと何かか落ちて、洗面台が赤く染まった。 「な、んだよ…、コレ…」 洗面台を赤く染めていたのは、時任の血だった。 思わず口元に手をやると、そこにべったりと血が付く。 この血が自分の吐き出したものだと知った時任は、血の付いた両手を洗面台の上でぎゅっと握りしめた。毒薬の影響で吐血したのかもしれないが、吐き出した血の量が多すぎる。 毒薬は時任の足だけではなく、内臓までも冒していたらしかった。 「やっぱ…、ダメなのか…」 生きることをあきらめるつもりはなかった。 死ぬつもりで久保田のそばに行こうとしたのではなかった。 けれど確実に、着実に、時任の身体を毒が侵食していく。 力が入らなくなっていく身体が、時任から自由を命を奪おうとしていた。 「ゴメン…、久保ちゃん」 昨日と同じように久保田にあやまった時任は、血で汚れた洗面台を水で流した。 まるで自分がいた痕跡を消すように…。 久保田に抱かれた身体はいつもよりもかなり重くて動きづらかったが、こうやってまだ動ける内にここを出ようと時任は思っていた。 久保田が好きで大好きで、そばにいたくて抱きしめられたくてたまらない。 けれど、久保田の前で死ぬわけにはいかなかった。 自分の死を、久保田に背負わせるわけにはいなかった。 だから、死んでいく自分の姿を久保田に見られたくない。 好きだから、誰よりも想っているから、その腕で死んでいくことはできなかった。 だからどうしても、今、出て行かなくてはならなかった。 「好き…、ホントに好き、誰よりも好きだから」 シャワーを浴びて服を来た時任は、未だ眠りの中にいる久保田にそう囁く。 小さ過ぎる声で、ありったけの想いを叫ぶように…。 流れ落ちる涙をぬぐいもせずに、時任は久保田の姿を自分の胸の中に焼き付けようとするかのように見つめていた。 好きで大好きで、恋しくてたまらない久保田の姿を…。 「バイバイ、久保ちゃん。一緒にいてくれて、サンキューな…」 時任はそう言い残すと、振り返らずに部屋を出て玄関へと向かう。 その足取りはかなり遅かったが、時任は歯を食いしばって必死に歩いた。 時任は自分の意思でここに来たが、やはりここを出て行くのも自分の意思だった。 ポケットの中にある自分のウロコを握りしめて、時任は外へと歩き出す。 暑い空気に目眩がしたが、なんとかそれに耐えて歩く…。 すると、マンションの前にあるコンビニを過ぎた辺りで、時任の横に車がすうっと止まった。 「やっと出て行く気になったのね?」 「てめぇのためじゃねぇけどな」 車に乗っていたのは、久保田の婚約者だと名乗っていた雪村智子だった。 どうやらマンションの前で様子をうかがっていたらしい。 時任がじろっと睨みつけると、智子は勝ち誇ったような顔で笑った。 「ライターは誠人さんのだったでしょ? だから私の言ったことがホントだってわかったわよね?」 「それがなんだよ?」 「誠人さんは私のものよ。誠人さんは私が好きなんだから」 久保田が自分を好きだと言った智子の言葉に、時任が眉をひそめる。 確かにライターは久保田のものだったが、時任は久保田の言葉を疑ったりはしなかった。 「久保ちゃんに好きだって言われたことあんのかよ? ねぇだろ?」 「そ、そんなことないわ」 「ウソばっかついてんじゃねぇよっ」 「私がウソ言ってるって、証拠でもあるの?」 智子に嘘だという証拠を見せろと言われた時任は、Tシャツの襟元をぐいっと引っ張って降ろしてみせた。そこには、久保田のつけた赤い痕が無数に散っていたからである。 「な、なんなのよ…」 「コレ付けたの久保ちゃん」 「そんなの嘘よっ」 「てめぇが信じても信じなくても、どっちでも俺には関係ねぇよ。久保ちゃんが俺のコト好きだって知ってんのは、俺だけで十分だからな」 「・・・・・このヘンタイっ! 誠人さんを誘惑したのねっ!」 「誘惑できねぇだろ。てめぇには」 「許せないわっ!!」 智子は運転手に命じると、時任を自分に乗っている車に強引に引っ張り込ませた。 普通ならば走って逃げることが出来そうだったが、時任は立っているがやっとの状態だったので簡単に拘束されてしまう。 さっき血を吐き出したせいか目の前が少し暗く感じられて、時任は軽く頭を振った。 「早く車を出してっ!」 「かしこまりました」 智子に命じられて、運転手が車を出す。 雇われている運転手は智子のボディーガードも兼ねているので、智子に忠実な者が職務についている。そのせいなのか、それともこういうことに慣れているのか、時任を拉致しろという命令にも一切逆らわなかった。 「どちらに参りましょう?」 「どこでもいいわ。とにかく遠くに行って」 「はい」 車の振動に揺られながら、時任は縛られた手をなんとか動かしてポケットに入れていたウロコにさわる。それは、なんとなくそこに久保田の想いがあるような気がしたからだった。 もう人魚ではなくなってしまっているが、久保田が自分のウロコを大事に持っていてくれたことがとてもうれしかった。そんな風に忘れないでいてくれていることを知った瞬間、想いが通じなくてもいいから抱かれたいと思った。 自分のことを、あの日のことを覚えていてくれた…。 それだけでどうしようもなく、想いがあふれてきそうだったから…。 「久保ちゃん…」 「馴れ馴れしく誠人さんのこと呼ばないでくれないかしら?」 「てめぇこそ、馴れ馴れしいんっだよっ」 「アンタさえいなくなれば、誠人さんは私の所に来てくれるわ」 「来ねぇよっ!」 智子は時任のせいで、久保田が自分の方を向かないと信じ切っていた。 だが、時任の言うように久保田が智子の方を向くとは思えない。 久保田は時任に、時任だけに恋していた。 「ここら辺りでいいわ。どこかで止めて」 「わかりました」 どれくらい車が走ったのか、時計を持っていない時任にはわからなかったが、なんとなく懐かしい匂いがしてきた。 どこからか聞こえてくる鳥の鳴き声と、ザザァと打ち寄せる波の音。 海が近いことを知った時任は、思わず窓から外を眺めようとする。 だが、車が急に停止したので、前のめりに倒れてしまった。 「な、なにすんだよっ」 「降ろしてあげるんだから、おとなしくしてなさいよ」 運転手に乱暴に車から降ろされ、腕の縄を解かれた時任は、智子に殴りかかろうとする。 だが、運転手の手で簡単に取り押さえられてしまった。 「ここから民家のある場所までは、一時間くらい歩かなくてはならないわ。誰かが通りかかって車にでも乗せてってくれることを祈るのね」 「…逆恨みかよ?」 「誠人さんのそばにいる貴方が悪いのよ」 智子はあまり人の通らない砂浜に時任を残すと、運転手に命じて元来た道を戻っていく。 置き去りにされた時任は、再び咳き込みながら足元に広がる砂浜に膝を付いた。 懐かしい青い海が、白い砂浜が時任の目の前にある。 照りつける太陽がじりじりと熱かったが、それでも海は懐かしくてたまらなかった。 「みんなは…、元気にしてっかな…」 打ち寄せては返していく波の音を聞きながら、時任が力尽きたように砂の上に倒れる。 もう歩く力も気力も時任の中に残っていなかった。 焼け付く太陽がまるで命を吸い取っていくかのように、時任の上に降り注いでいる。 海の方へと腕を使って這って行ったが、人魚ではなくなってるので海には帰れない。 もう海の中では生きていけない身体だった。 「もうどこへも…、帰れねぇんだな…」 時任はポケットに入っているウロコを取り出すと、自分の視線から見てちょうど空と海との境目にそれをかざす。 すると、ウロコの青い青い色は空と海とのちょうど境目みたいな色をしていた。 空と海が出会うことなんてありえないのに…。 青はそこで…、時任の目の前で出会っていた。 哀しみの色を残して…。 |
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