「始めましてこんにちわ、雪村智子です」
 
「どーも…」
 実家に呼び出されて久保田が向かった先は、都内にある高級ホテルだった。
 ここで人と会う予定になっていたが、別にその人物と話しなどする気はない。
 そのため、久保田の服装はかなりラフなものである。
 だが、相手である雪村智子はかわいらしい花柄のワンピースを着て、きっちり化粧をしていた。
 実はこのホテルに呼び出されたのは、智子と見合いをするためだったのである。
 ずっと断わり続けていたが、ひと目会ってくれるだけでいいとあまりにもしつこかったので見るだけならと仕方なく応じたのだった。
 「まぁ、本当に良くいらしてくださったわねぇ」
 
智子の付き添いに来ている厚化粧の中年女性が、智子の前の席に座るようにすすめる。
 しかし、久保田は席の前に突っ立ったままで一向に座ろうとしなかった。
 「すいませんけど。会うだけって約束なんで、これで」
 「そ、それではお話が違うじゃありませんかっ」
 智子の顔をあまり見もせずに、久保田がこの場から立ち去ろうとすると、付き添い人が慌てて立ち上がる。おそらく、この見合いがうまく行くだろうと思っていたのに違いない。
 だが、久保田を呼び止めたのは付き添いではなく智子本人だった。
 「誠人さん、待ってください。確かに私は、政略結婚のために貴方に会うように言われました。けれど、私は前から貴方のことが好きだったんです。だから来たんです」
 久保田に追いすがりながら、そう言った智子の言葉にウソは感じられない。
 おそらくどこかで久保田を見て、それで好きになってしまったのだろう。
 しかし、真剣な瞳で本気で好きだと言っている智子を見ても、久保田は眉一つ動かさなかった。
 「政略結婚だろうとなんだろうと、そういうのに興味ないんで」
 「私と付き合ってもらえませんか?」
 「付き合うつもりありませんケド?」
 「…本当は政略結婚でもなんでも、貴方のそばにいられるならそれでもかまわなかったんですっ、なんでもよかったんです。だから私と…」
 なんとか久保田を自分の方へ振り向かせようとしてそんなことを言ったらしいが、その言葉を聞いた久保田は薄く笑った。なんでもいいと言いながら、そう思っていないのを見抜いていたからである。
 「なんでもいいなんて言っちゃっていいの? えーっと、雪村サンだっけ? 俺はアンタと絶対一緒に暮らしたりしないし、キスだって、セックスだってしない。それでもいいワケ?」
 「そ、そんな…」
 「俺が抱きたい相手は一人しかいないけど、それはアンタじゃないんだよね」
 「…その相手って誰なんですか? 恋人はいないって聞いたのに」
 「人魚姫」
 「えっ?」
 久保田はそれだけ言い残すと、今度は本当に智子達を置いてホテルを出る。
 会うという約束は果たしたのだから、誰にもとやかく言われる筋合いはなかった。
 その場にいたのが智子だろうと誰だろうと、久保田の行動は変わらない。
 今、久保田の心を捕らえているのは、早く帰って来いと言ってキスしてくれた時任だった。
 出会ってまだ二週間しか経っていなかったが、時間とか日数とかそんなものを飛び越えて、久保田の心には時任が住みつき始めている。
 時任のことだけしか考えられなくなっていく自分を、久保田は苦笑しながらも自覚した。
 時任しか抱きたくないと言った瞬間に、自分が時任を想っていることを完全に自覚したのである。
 時任の正体があの人魚だろうと、それとも逃亡中の殺人犯だろうと関係ない。
 久保田は今ここにいる、自分のそばにいてくれている時任に恋し始めている。
 急な坂道を…、止まらず転がり落ちるように…。
 恋など知らない、したこともない冷め切っていたはずの心で…。
 大物政治家の跡取りとして育てられた久保田は、母親が亡くなった中学の時に家を出た。
 父親は久保田を道具としか見ておらず、亡くなった母親の方も子供に関心はない。母親は子供が生まれてから、そして自分の命が尽きる瞬間まで…、
 結局、一度も子供の…、久保田の名前すら呼ぶ事はなかった…。
 そんな環境で育った久保田は、感情が感覚が何かマヒしている。
 そのマヒした久保田の感覚を、感情を、時任が取り戻してくれようしていた。

 恋という形で…。
 
 久保田は時任の夕食を作るためにスーパーへと向かいながら、今日はカレー以外に何か作ろうかと考えていた。カレーが四日間続いたせいで、時任がさすがに文句を言ったからである。
 「…チャーハンでも作ろっかなぁ」
 そう考えている自分が妙におかしくて、久保田は小さく笑う。
 時任の一言でこんなにも動かされている自分を、不思議だと思ったが嫌だとは思わなかった。
 久保田は歩きながらポケットからセッタを取り出してつけようとしたが、ポケットにはなぜかセッタしか入っていない。出かける時には入っていたような気がするから、もしかしたらどこかで落としたのかもしれなかった…。






 何事もなく日々は過ぎていき、重ねられたキスの数も次第に増えていく。
 まだお互いの気持ちも知らないのに、二人はまるで恋人のようにキスだけを交わしていた。
 時任は人間というのは男同士での恋愛はありえないと信じていたし、久保田は真っ直ぐ見つめてくる瞳を前にするとなぜか何も言えず、これ以上先には進めない。
 二人はキスして抱きしめ合いながら、片思いを続けていた。
 
 「そんなに遅くはならないから」
 「晩メシはてきとーに食っとく」
 
 久保田が習慣になってしまったキスをしようとすると、時任はおとなしく顔を上げてキスする体制を取る。瞳を閉じてちょっと唇を突き出した姿は、かなり可愛く見えた。
 未だ足の調子があまり良くないので、時任の身体を抱きこんで支えてやりながら柔らかい唇に自分の唇を重ねる。早急なキスは時任がいやがるので、久保田はいつもゆっくりとしたキスをしていた。
 けれど、実はキスの仕方を嫌がっているのではなく、早く唇が離れていってしまうのが嫌だっただけなのである。
 できるだけ長くキスしていたかったから、時任はゆっくりとしたキスを久保田に要求していた。
 「う…、んっ…」
 「…時任」
 「もうちょっと…ゆっくり…」
 「ゆっくり…ね」
 「…んんっ」
 いつもいつも挨拶のフリして、想いを気持ちを込めてキスする。
 時任は痛む足で立ちながら、久保田とのキスだけに集中していた。
 少しでもちよっとでも長く、久保田を感じるために…。
 名残り惜しい様子でチュッと音を立てて唇が離れると、久保田は時任を残して部屋を出て行く。
 それを見送る時任は、さっきのキスで身体に感じてしまった熱を持てあましていた。
 男の身体にはすぐに慣れたが、久保田を感じるたびに男としての部分が反応してしまう。
 事前に五十嵐から色々聞かされていたので処理の方法は知っていたが、なんとなくそんな自分を見ていると盛大なため息が出た。
 
「なにやってんだ…、俺」
 そばにいれば、そばにいられればそれで良かったはずなのに、何かが足りないと感じてしまう。
 抱きしめられた時とか、キスした時は特に…。
 時任が女だったら答えは簡単だったのかもしれないが、男なのでどうしていいのかわからなかった。
 足を引きずりながらソファーまで戻ると、時任は昨日からしていたゲームをするためにゲーム機に電源を入れる。久保田がいない間は静かだと落ち着かないため、ゲームをしているか寝ているか、どっちかのことが多かった。
 留守番することに慣れてはいるが、やはり久保田の匂いの染み付いた部屋に一人でいたくない。
 時任はテレビから流れてきた音楽を聴きながら、コントローラーを握った。

 トゥルルル…、トゥルルルル・・・・・。

 ゲームのセーブデータを呼び出した瞬間に、部屋にある電話が鳴った。
 てっきり久保田からだと思った時任は、慌てて受話器を取ると通話ボタンを押す。
 けれど、そこから聞こえてきたのは久保田の声ではなく見知らぬ女の声だった。
 「もしもし、久保ちゃん?」
 『違う、私は誠人さんじゃないわ』
 「だ、誰だよっ」
 『私は雪村智子』
 「ゆきむら?」
 
 
『誠人さんの婚約者よ』

 電話の向こう側から聞こえた言葉はウソだと思った。
 久保田に婚約者がいたなんて、とても信じられなかった。
 だが一緒に暮らしてはいるものの、時任は本当に何も久保田のことを知らないのである。
 『貴方に話があるの。ちょっとマンションから出てきてくれないかしら?』
 「…話ってなんだよ。用があんなら電話で言えっ」
 『それじゃあ、率直に言うわ。貴方、そこから出てってくれない?』
 「久保ちゃんがいていいっつってんだから、てめぇには関係ねぇだろ?」
 『あるわよ』
 「ねぇよっ!」
 『私達今度結婚するんだけど、結婚後は二人でそこに住むことになってるの。けど、貴方がいるでしょ?本当はすぐにでも出てってほしいけど、誠人さんは優しいから貴方のこと追い出せないのよ』
 「ウソだっ!」
 『ウソじゃないわよ。ウソだと思うなら、私のところまでいらっしゃいよ。誠人さんが私のモノだってことを証明してあげるから』
 「・・・・・・・・っ」
 時任が智子の誘いに乗ってマンションの外まで出てみると、そこにはまったく見覚えのない20歳前半くらいの女が立っていた。
 
ぎっと睨みつけながら時任が智子の所に歩いて行くと、智子は突然時任の方に拳を突き出す。
 何かされるのかと思って時任が身構えると、その拳の中から銀色のライターが現れた。
 「これはこの間、誠人さんが私の部屋に来た時に忘れてったものよ。見覚えあるでしょ?」
 「・・・・・・知らねぇよ、そんなの」
 「玄関にでも落ちてたって渡してみればいいわ。自分のものだからちゃんと受け取るわよ」
 「・・・・・・」
 
「誠人さんと私が結婚するのはもう決まったことなの。親同士も了解してるし、誠人さんにとってもそれが幸せなんだから、邪魔しないで」
 「幸せって、そんなの久保ちゃんじゃなきゃわかんねぇじゃんかっ」
 「男の貴方と不毛に暮らしてるより、幸せに決まってるじゃない。それに私達は愛し合ってるの。愛し合ってるから結婚もするのよ。そして、私は誠人さんの子供を産むの」
 「・・・・・」
 「家庭と家族を作って幸せに暮らす。それは貴方にはできないことよ。だから邪魔しないで、誠人さんと私の幸せを…、絶対にっ」
 智子は言いたいことを言い終えたのか、時任に出て行くように念押して小さな紙切れを渡すと乗ってきた高級車に戻る。時任に渡された紙切れには、智子の携帯の電話番号が書かれていた。
 久保田の部屋を出て行くなら、新しい住まいを用意すると智子が時任に言ったのである。

 『とにかく、そのライターを渡してみればいいわ。私の言ってることが本当だってわかるから』

 そんなの嘘だと思いながらも、そう言った智子の言葉が胸に引っかかった。
 それに言われたことも、ズキズキと心を痛ませる。
 自分は女じゃないから結婚もできないし、子供も産めないのは本当で…。
 自分と久保田が今も未来も恋人になんてなれないのも事実だと、そう思い込んでいた。
 時任は渡されたライターをぎゅっと握って、足の痛みに耐えながら部屋へと戻って行く
 暑さに耐えられない身体も、痛みがひどくなる足も重くて重くてたまらなかった。
 けれど今はそれ以上に、現実が重く時任の肩にのしかかっている。
 いつもよりももっと、歩くのが辛くて仕方なかった。
 「幸せって何だよ…、わかんねぇよそんなの…」
 部屋に戻った時任は、ソファーではなく床の上に寝転がって丸くなる。
 胸と足の痛みを押さえるように。
 けれど痛みは一向に治まらなくて、時任は顔をゆがめてゆっくりと目を閉じた。
 室内には静かなクーラーのファンの音だけがわずかに響いて、さっきやろうとしていたゲームも電源が落とされたままになっている。
 時任は猫のように更に丸くなりながら、久保田が帰ってくるのを待っていた。
 ライターを握りしめながら…。
 そういえば少し前に、ちよっと出てくると言ったっきり、麻雀の代打ちのバイトが入ったからと朝まで戻らなかった日があった。もしかしたら、その日にライターを落としたのかもしれない。

 今日会った、あの智子という女の部屋で。
 
 時任がそのままの姿勢で眠っていると、いつの間にか日が暮れていていた。
 目をうっすら明けると、窓から差し込む日が赤く染まっていて眩しい。
 時任はゆっくり起き上がると、シャワーを浴びるためにバスルームに行こうとする。
 だがちょうどその時、玄関のチャイムの音が室内に鳴り響いた。

 
ピンポーン、ピンポーン…。
 「時任、開けて」

 久保田が帰ってきたことを知った時任は、ライターを片手に小さく深呼吸する。
 玄関に行ってドアを開けると、そこにはやはり帰って来た久保田が立っていた。
 「ただいま、時任」
 「おかえり」
 いつもと変わらない様子で帰宅した久保田と、できるだけ平静を装って話しながら、時任はライターを渡す機会を伺う。すると、まるでタイミングをはかったかのように、久保田がポケットから出したセッタを口にくわえた。
 これからセッタを吸うつもりなのである。
 時任はそれを逃すことなく、持ってるライターに火をつけた。
 「あれ?」
 「玄関に落ちてたぞ、コレ。久保ちゃんのだろ?」
 「ドコに落としたのなぁって思ってたケド、灯台下暗しだったわけね」
 「ったく、ちゃんと持ってろよっ」
 「はいはい」
 ライターが時任の手から、久保田の手に渡る。
 やはり智子の言う通り、ライターは久保田のものだった。
 時任は嘘だ信じたくないと思いながらも、ライターを受け取った久保田の姿を見てどうしようもなく哀しくなってしまっていた。


                    


次 へ
前 へ