部屋の前に倒れてたのは偶然なのか、それとも何か理由があったのか?
 それはわからなかったが、時任が何も言わないので久保田も聞いたりはしなかった。
 聞かなかったというより、聞く必要がなかったという方が正しいのかもしれない。
 人魚のことを忘れたわけではなかったが、ただ無事でいてくれることだけを願っていた。
 あの青い海で元気にしていてくれることだけを…。
 始めは顔が似ているせいで気まぐれを起こしたのかもしれないが、人魚に似ているからという理由ではなく時任に興味を持ち始めている自分に久保田は気づいていた。
 他人との関わりが面倒でこの部屋に誰も入れたことがなかったのに、時任がここにいることに違和感はまったくない。久保田がこの部屋に一人で住み始めたのは高校生の頃からだったが、誰かと暮らす気になったのは初めてだった。
 「久保ちゃんっ、ここ?」
 「あ〜、そこはね…」
 「あっ、やめろって…」
 「もっと先までやってあげるよ?」
 「ちょっ、ちょい待ちっ!」
 「待てないなぁ」
 「うっ…」
 時任は暑さに弱いので、部屋から外に出ることはあまりできない。
 そのため、部屋にいる時は二人でゲームをしているか、ビデオを見てるかしていることが多かった。
 部屋の中にいてヒマだという時任に、ゲームを教えたのは久保田である。
 時任はゲームが気に入ったようで、久保田に買ってもらったゲームを夢中になってしていた。
 「なんでそんなのわかんだよっ」
 「俺が時任クンのお師匠様だから」
 「誰が師匠だっ」
 「わからないことがあったらなんでも聞きなよ。手取り足取り教えてあげるから」
 「…なんか、久保ちゃんが言うとあやしすぎ」
 「そう?」
 久保田が言っているのは冗談でもなんでもなく、本当に時任は何も知らない。
 常識はわきまえているものの、テレビや電化製品の使い方を知らないどころか、信じられない事に水道から水を出すことすら知らなかったのである。その時任に久保田があれこれと世話を焼いて教えたので、今は部屋で生活するのには何も不自由が無い程度にはなっていた。
 荷物らしいものは何も持っていなかったので、久保田は自分の服を時任に着せていたのだが、やはりかなり身長差があるのでどうしてもサイズが合わない。今日もぶかぶかのTシャツとジーパン姿の時任を見て、久保田は軽く頭を掻いた。
 「…これはちょっと、ねぇ?」
 こうして見ていると、ぶかぶかの服を着ているせいか時任がかなり華奢に見える。
 久保田より身長が低いのでどうしても時任を上から見ることになるのだが、そうすると視線がなぜか首筋や鎖骨へと落ちてしまう。
 そんな自分の反応に苦笑しながら、久保田は時任の足に腕を伸ばした。
 時任は足が痛くて歩けなくなることがあるので、一日一回気休めにしかならないが、久保田が足をマッサージしているのである。そうやって気休めにしかならないマッサージをしながら、あまりに痛そうなので病院に行くことを進めた事もあったが、なぜか時任はどうしても行きたがらなかった。
 「今日の調子はどう?」
 「まあまあ…」
 ゲームしている時任の足を捕まえて、太腿から足先まで順番に揉みほぐしていく。
 時任の足はあまり肉がついていないので、揉むのにそれほど時間はかからない。
 すらりと伸びた綺麗な足に久保田が手を這わせていると、時任がくすぐったそうに首を縮めた。
 「く、久保ちゃんっ、くすぐったいっ…」
 「もうちょっとで終わるからガマン」
 「今日はあんま痛くねぇから、へーきだって」
 「俺がやりたくて、やってるだけだしね」
 「…久保ちゃん」
 「ん?」
 「・・・・・・・なんかこの体勢、ちょっとヘンな気ぃするけど?」
 「気のせいっしょ?」
 久保田は、時任の片方の足を肩にかけて反対側の足を揉んでいた。
 時任は足を担がれているせいで、床に寝る格好になってしまっている。
 実は久保田はワザとこうしているのだった。
 「…結構、いい眺めだよねぇ」
 「なんか言ったか?」
 「べつに」
 他人に無関心で、自分に無頓着な久保田だったが、どうしても時任のことだけは気になって仕方がない。 こうやって足をマッサージしてやりながらも、治って出て行かれたら嫌だなぁと思っていたのだった。
 まだはっきり恋愛感情を持っていると自覚していなかったが、ころころ変わる時任の表情や仕草にいつの間にか視線を奪われている事、そして自分が時任に欲情しているという事だけがわかっている。
 もともと、男とか女とかそういうことにはこだわってはいないが、実はそのどちらにも興味がなかった。
 性欲がないわけではなかったが、あえて誰かを抱きたいとは思ったことが一度もなかったのである。
 なのに…、時任にだけは欲情してしまう…。そういう意味で時任をこの部屋に置いたわけではなかったが、どうしても自然に腕が時任の方へと伸びてしまっていた。
 「時任」
 「なに?」
 「ちょっとじっとしててくれる?」
 「いいけど?」
 時任は久保田を信じ切っているようで、無防備な姿をその前にさらしている。
 久保田は担いでいる足を下ろすと、時任の身体をゆっくりと抱き起こして、そのまま自分の腕の中に抱き込んだ。あの日、人魚にしたのと同じように…。
 すると、時任の肩が小さくピクッと揺れる。
 けれど久保田は時任を離さずに、時任のぬくもりと感触を確かめるように抱きしめた。
 時任の身体から、あの人魚と似た暖かさを感じながら…。
 「く、久保ちゃん?」
 「こうしてるのイヤ?」
 「イヤ…、とかそういうんじゃねえけど…」
 「ホントに?」
 「…うん」
 嫌じゃないと言った時任の顔を見ると、頬がほんのり赤く染まっていた。
 無理して我慢しているのではなく、本当に嫌がっていない様子である。
 久保田はそんな時任を見て微笑むと、更に強く時任をぎゅっと抱きしめた後、時任の唇に軽く触れる程度のキスを落とした。そっと、時任をおどろかせないように…。
 すると、時任は頬だけではなく耳まで赤くなった。
 「な、なにすんだよっ」
 「アイサツみたいなもんだから、気にしなくていいよ」
 「あ、アイサツ?」
 「そう、アイサツ」
 「アイサツする時にすんの?」
 「そう、することになってんの」
 「そ、そっか…」
 久保田のウソに、何も知らない時任がまんまと引っかかる。
 テレビを見ているのでバレるのは時間の問題だが、それまでかなりキスできそうだった。
 もごもごと口の中で何かを呟いている時任にもう一度キスをすると、久保田は時任を離して立ち上がる。
 部屋の中から出られない時任を置いていくことはあまりしたくなかったが、バイトの時と買い物の時は置いていかざるを得ない。それに今日は実家からの呼び出しで、どうしても行かなくてはならない場所があった。
 「ちょっと出てくるから」
 久保田はそう言うと、時任の頭を撫でてからリビングを出ようとする。
 すると時任が立ち上がって、久保田の後に着いて歩いてきた。
 どうしかのかと思って久保田が立ち止まって振り返ると、唇に柔らかいものが当たる。
 それは、さっき久保田がキスした時任の唇だった。
 「タイクツだから、早く帰って来いよっ」
 「了解」
 時任は教えられたことを、すぐに実行してみたらしい。
 久保田はそんな時任に優しく微笑んでみせると、今度は本当に玄関に向かって出て行く。
 そんな久保田の背中を見送る時任は、まだ頬と耳が赤く染まったままだった。

 「やっぱ、人間と人魚って習慣とか違ったりすんだな…」

 時任は今まで、キスは好きな人とするものだと思っていた。
 だから、挨拶ですることがあるとは考えたこともなかったのである。
 久保田に抱きしめられてドキドキして、キスされて心臓が破裂しそうになった。
 キスが挨拶という意味だったことに少しガッカリしたが、それでもドキドキが止まらない。
 久保田にとって、男である自分はそういう対象外であることはわかっているのに、抱きしめられたりキスされたりするとどうしても久保田への想いと気持ちが募ってしまう。
 時任はソファーまで戻って、その上にゴロっと横になると、そこに置かれているクッションをぎゅっと抱きしめた。胸の中にある想いを押さえ込もうとするように。
 そばにいることができてうれしかったが、そばにいるから辛く感じられることもある。
 いっそのこと、自分があの時の人魚だと言ってしまえばいいのかもしれないが、出会った時に言いそびれて以来、なぜか言い出しづらくなってしまっていた。
 「ずっとココにいられるワケねぇよなぁ。そもそも、久保ちゃんが俺のコト助けてくれたのが奇跡みたいなモンだし…」
 久保田はいつまででもいていいと言っていたが、それを真に受けたりはしていない。
 離れたくなかったが、離れる覚悟はしているつもりでいた。
 けれど、どうしても嫌だと叫んでしまっている自分がいる。
 時任は久保田の唇の感触を思い出しながら、じっと天井を見つめた。
 「何があっても、どしても離れたくねぇって言ったら…、久保ちゃんは…」
 そこまで言いかけたが、最後まで言わずに時任が口を閉じる。
 その瞳は哀しそうに揺れていた。
 さっき歩いたせいか足がズキズキとまた痛み出し、時任は足を手で抱えるようにして丸くなる。
 一度、足が痛くて倒れて以来、久保田はマッサージをしてくれていたがやはり効果はなかった。
 久保田には隠しているが、足の痛みは次第に増してきている。
 痛みに耐えて歩くのは難しいので、いない時はこうやってじっとうずくまっていることが多かった。
 「…くっそぉ、死んでたまるかよっ」
 五年前に毒薬を飲んだ人魚は一ヶ月。
 時任が毒薬を飲んでから、もう二週間が過ぎようとしていた。
 久保田との生活にもやっと馴染んできたのに、一緒にいることがこんなにもうれしくてたまらないのに足の痛みがそれを邪魔する。
 歯をギリリと噛み締めると、何が何でも生き抜いてやると叫びながら、時任は寝ているソファーの背をガンッと力一杯叩いた。
 

                  

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