さっきまで暑くて暑くて死にそうだったのに、今は体に当たる風がひんやりと冷たい。
 頭にも何か冷たいモノが当たっている感じだった。
 時任は目を閉じたままで、涼しいことにほっとしてふーっと息を吐く。
 なんとかマンションにたどり着いたものの、あまりの暑さに時任は久保田の部屋の前で力尽きて倒れてしまった。 海から上がってきたばかりの時任には、夏の陽射しは厳しすぎたのである。時任が陸に上がってからここに到着するまでの間に一番驚いたのは、空気の悪さと異様なまでの暑さだった。
 だが、今からはこの空気も水も不味い場所で生きていかなくてはならない。
 それは時任が、自分の意思で選択したことだった。

 久保田のそばで生きるために…。





 通りかかった漁船に久保田が救助されるのを確認した後、時任は桂木とともに一度人魚の国へと戻った。
 このままこうしていても地上に久保田が帰ってしまった以上、もう会える見込みがないからである。
 けれどそれはあきらめたのではなく、もう一度会える方法を探すためにだった。
 人間になれる薬。
 その昔、人魚の国の姫が薬を飲んで人間になったと伝えられているが、その話に出てくる薬について伝えられているのは、実はお姫様の昔話だけじゃない。姫の他にその薬を飲んだ人魚が居るという噂を時任も桂木も聞いて知っていたので、それはもしかしたら単なる言い伝えじゃないかもしれない。
 そう考えた時任と桂木は、人魚の国に戻ると国の外れに住んでいる魔女の所を尋ねた。
 それは人魚姫のことを知っている者がいるとしたら、二人が生まれるずっと前から生きているこの魔女くらいだろうと思われたからである。
 深海に住む魔女は名前を五十嵐と言って、普段は主に薬を作ったり簡単な怪我の治療をしたりと、魔女らしくないことばかりしていた。それ故、人魚達にも評判が良く、怪我だけではなく悩み事の相談に訪れる者もいる。
 自分の住みかに二人を笑顔で迎えた魔女、五十嵐は入ってきた時任の顔を見るとすぐに、
 「一体、どこの誰に恋しちゃったのかしら?」
と、まだ何も言っていないのに聞いてきた。
 しかも、かなり確信と自信に満ちた声で…。悩み事相談に慣れているからかどうなのかはわからないが、五十嵐は時任が恋していることを顔をひと目で言い当てたのである。
 『こ、こ、恋って誰がだよっ!』
 「アンタに決まってんじゃないの」
 『してねぇってのっ!』
 「ちゃんと顔に書いてあるんだから、観念して白状なさい」
 『このクソばばぁっ!!』
 「なんですってぇ〜!」
 五十嵐と時任は、仲が良いのか悪いのか良く分からない。
 不毛な言い合いを始めた二人を前にした桂木は、深々とため息をついた。
 このままでは、いつまでたっても話がおわりそうになかったからである。
 桂木は二人の間に強引に割り込むと、五十嵐に事の次第をかいつまんで話して聞かせた。
 時任が海の上で人間の男と出会ったこと、その男が死にかけて時任の血を飲ませたこと。
 そして、時任が男に会いたがっているということを…。
 五十嵐は真面目な顔で桂木の話を聞くと、小さく息を吐いた。
 人魚が恋をしたらどうなるか、知っているからである。時任がどのくらい恋をしたのかはわからないが、忘れられるような程度ではないと五十嵐も桂木も見ていた。
 五十嵐に憎まれ口を利きながらもどこか元気のない時任の目は、久保田を想って泣きはらしたため赤くなってしまっている。きっと見た目以上に、久保田に会いたがっているに違いなかった。
 「時任。今からアタシが言うことを良く聞きなさい」
 『俺様に命令すんなっ!』
 「その久保田って男に会いたいなら、聞けって言ってんのよっ!」
 五十嵐がそう言うと、時任はじっと五十嵐を見つめたまま黙った。
 久保田に会いたいなら…。
 そう言った五十嵐の言葉が、時任の胸を痛くさせたからである。
 久保田と別れてから、時任の心の中は久保田のことで一杯になっていた。
 忘れれば、忘れてしまえれば楽かもしれないのに、忘れるどころか逆に想いが募っていく。
 時任は思いつめたような顔で、五十嵐が何か言うのを待っていた。
 あまり良い話ではないだろうとわかっていながらも、それでも何か希望が欲しかったのである。
 その時任の気持ちが伝わったのか五十嵐は近くにあった椅子に腰を降ろすと、迷いを振り切るように軽く頭を振ってから話を始めた。
 「人魚姫の話は知ってるわよね? 人間に恋した人魚が魔女から薬をもらって人間になるって話。あれは単なる物語じゃなくて実話よ。けれど、話と事実と一つだけ違っていることがあるの。それは人魚が飲んだのは普通の薬じゃなくて毒薬だったってことよ」
 そこまで言うと、五十嵐はじっと時任の瞳を見つめる。
 時任は毒薬だという話を聞いても、眉一つ動かさなかった。
 動揺もしていない。
 五十嵐はそれを確認すると、話を先に進めた。
 「毒薬の成分がなんなのかは私にもわからないわ。けど、細胞そのものを変化させるってことだけはわかってるの。細胞が変化することでどれくらいの負担が身体にかかるか…、それが問題なのよ」
 『つまり身体が持つかどうかが問題…と、いうことなんですか?』
 桂木が五十嵐にそう尋ねると、五十嵐はコンコンと指先で横にある机を叩いた。
 「人魚姫がしゃべれなかった…、という話は知ってるわよね。魔女に要求されたということになってるけど、それはおそらく薬の副作用よ」
 『それじゃあ、その毒薬飲んだら時任も?』
 「実はね。噂で知ってるだろうけど、前に毒薬を飲んだ子がいたのよ。五年前くらいだったかしら? その子は声をなくしたりはしなかったけど…」
 『けど?』
 「飲んで一ヶ月後に死んだわ」
 飲んだ人魚が一ヶ月で死んだ。
 五十嵐がそう言った瞬間、桂木は思わず息をのむ。
 しかし、やはり時任は話に耳を傾けたまま、表情を変えずにじっとしていた。
 五年前に死んだ人魚は、時任と同じように深海から出た後、地上で人間として暮らしたいと言い出したらしい。それで人魚姫が飲んだという毒薬を飲んだわけなのだが、一ヶ月間苦しみ抜いた末に命を落とした。
 あんなに行きたがっていた地上に行くこともなく…。
 その話を聞いた桂木は、時任のそばに行ってその肩を強く掴んだ。
 『久保田ってヤツのことは忘れるのよっ』
 『・・・・・・』
 『今はムリかもしれないけど、きっと時間が過ぎたら忘れられるわっ。だから…』
 恋した人魚は恋し過ぎて死ぬと言われているが、今ならまだ間に合うような気がして、桂木は時任を止めようとしてそう言った。
 外のことなど忘れて、またこの深海で暮らしていけばいい。
 けれど、時任は首を大きく横に振った。
 『時任っ!』
 『まだ死ぬって決まったワケじゃねぇだろ』
 『けど、前に飲んだ子が死んだのは事実じゃないっ』
 『そうかもしんねぇけど…。きっとソイツは後悔してねぇぜ、飲んだコト』
 『…本当に死ぬかもしれないのよ』
 『死なねぇよ、絶対に…』
 桂木は、なぜ死なないと言い切れるのかわからない…。
 なのに、そう言った時任はもう一度、死なないと言ってニッと不敵に笑う。
 その笑顔を見ていると、時任が強がりではなく本気でそう思っているようにしか見えなかった。
 まるで、死ぬことなど少しも考えていないように…。
 『その毒薬ってヤツ、持ってんだろ?』
 人間になるために、久保田に会うために毒薬を飲む決心をした時任が、五十嵐の方に右手を出してそう言う。すると、五十嵐は不敵な笑みを浮かべている時任に向かって、同じようにニッと笑いかけた。
 「アタシが渡した毒薬で死なれると迷惑だから、絶対に死ぬんじゃないわよ。時任」
 『ったりめぇだろっ! 誰が死ぬかよっ!』
 「死んだら呪ってやるから、覚えときなさい」
 『覚えとく必要なんかねぇってのっ』
 五十嵐は部屋の奥から小さな茶色の薬ビンを持ってくると、それを時任に渡す。
 茶色の薬ビンの中に満たされた同じ色の液体は、五十嵐の家に古くから伝わる人魚姫の毒薬だった。
 桂木は薬ビンと時任を見て、つぎに五十嵐に視線を向ける。
 その視線を受けた五十嵐は、小さく頭を左右に振った。
 「誰にも止める権利はないわ。これは時任の恋だもの」
 『…私、もう止めようなんて思ってないです』
 「あら、どうして?」
 『時任にみたいに図太くてしぶといヤツが、死ぬなんてありえませんから』
 「それは言えてるわねぇ」
 『でしょう?』
 五十嵐と桂木は、顔を見合わせてから同時に肩をすくめる。
 毒薬を飲むことを止めるのも、時任の恋を止めることもできない以上、時任の言葉を信じるしかなかった。
 けれど二人は仕方なく信じるのではなく、本当に時任の言葉を信じたように見える。
 五年前に毒薬を飲んだ人魚は後悔なんかしてなかった。
 そう時任が言ったように、時任自身も決して後悔などしないことを二人とも知っていたからである。
 「その久保田って人の居場所は、アタシが調べといてあげるわ。特別サービスなんだから、感謝なさいよ」
 『へーへー、感謝してます』
 「…わかっても教えてやらないわよ」
 『さっ、さっきのはナシっ、マジで感謝してんだってっ!』
 「・・・・・ちゃんとわかってるから、安心なさい」

 『二人とも…、サンキューな』

 時任はそう言うと、二人の前で毒薬を一気に飲み干した。
 喉が痛くて焼けるような感覚がしたが、それでも後戻りをする気にはなれない。
 次第に呼吸が苦しくなって、心臓の鼓動が激しく打つ音が耳元で聞こえてきたが、時任は必死でそれをやり過ごそうとする。身体中が分解していく奇妙な感覚がして、信じられないほどの激痛が襲ってきたが、時任はうめき声一つ上げなかった。
 この激痛に耐えて、細胞の変化を乗り切らないと久保田には会えない。
 時任は船の甲板から海に落ちる瞬間に見た、久保田の笑顔を思い出していた。
 久保田の笑顔は優しいけれど…、どこか哀しい…。
 時任はそんな久保田のそばに行きたくて、久保田に会いたくて会いたくて仕方がなかった。



 たった一言でもいい、何かを久保田に伝えるために…。



 



 「涼しいのはありがてぇけど、ここってドコだよ?」
 時任がぱっちりと目を開くと、自分が見知らぬ部屋にいて、ベッドに寝かされていたことがわかった。
 外の暑さにやられて倒れた自分が、涼しい部屋にいる理由はなぜなのかわからない。
 起き上がって毒薬を飲んで変化した足をなんとなく見ながら、時任は自分のいる部屋を見回した。
 部屋にはベッドと本棚、そしてパソコンの置いてある机しかない。
 とりあえずこの部屋を出てみようかと思ったが、床に足を下ろすとやはりまだ足がズキズキと痛んだ。
 毒薬で声を失うことはなかったものの、時々、身体を刺すような痛みが襲ってくる。
 時任は痛む足をちょっと手でさすってから、立ち上がろうと試みた。
 けれどやはり足に力が入り切らなくて、どうしても足が震えてしまう。
 「…クソッ」
 そう言って歯を食いしばりながら、時任は痛みと震えに耐えて一歩足を踏み出そうとした。
 だが、その瞬間ドアがゆっくりと開いて何者かが部屋に入ってくる。
 時任がドアの方に視線をやると、そこにはあんなに会いたいと思っていた久保田が立っていた。
 突然あらわれた久保田に驚いて、時任の足からがくんと力が抜ける。
 すると、倒れかけた時任の身体を、久保田がすばやく抱きかかえた。
 「まだ寝ていた方がいいよ?」
 「…えっ、あっ」
 「自分が倒れたの覚えてる?」
 「それは、覚えてっけど…」
 「それで倒れてたのが俺の部屋の前だったから、とりあえずココに連れてきたってワケ」
 「…って事は、ココってアンタの部屋?」
 「うん、そう」
 「…そうなんだ」
 時任は間近にある久保田の顔を、思わずじ〜っと見つめてしまっている。
 今、ここに、自分のそばに久保田がいることが信じられなかった。
 けれど、これは紛れもない事実なのである。
 「俺は…」
 時任は久保田に助けてもらった礼を言おうと思ったが、なぜか言うことができない。自分があの時の人魚で、久保田に会いたくて会いに来たなんて信じてもらえないだろうと思ったからである。
 しかも人間にはなったものの、時任の性別は女ではなく男になってしまっていた。
 五十嵐の話では、時任の気質や性質が男に近かったせいで男になってしまったらしい。
 男になってしまったことを嫌だとは思わなかったが、やはり少し哀しかった。
 それは人間は性別が同じもの同士では恋愛はできないと、五十嵐から聞かされていたせいで…、
 だから、そういう意味で好きになってもらえる可能性がない事を、初めからわかっていたからである。
 「とにかく、回復するまでここで寝てなよ」
 久保田は時任をベッドに降ろすと、まるでなんでもないことのように簡単にそう言った。
 人魚ではない時任とは初対面で、見ず知らずの他人であるはずなのに…。
 時任は久保田の言葉に驚いてぱちぱちと目をしばしたくと、マジマジと久保田の顔を見た。
 「ココにいてもいいのか?」
 「いいよ」
 「なんで?」
 「そう聞かれても、困るんだけど?」
 「だって、迷惑だろ?」
 「う〜ん、そうねぇ…。けど、行くトコないでしょ?」
 「なんでわかんだよっ」
 「そーいう顔してたから」
 久保田に行くところがないと言われて、時任の肩がピクリと揺れる。
 確かに時任には、他に行く所がなかった…。
 毒薬を飲んで人間になった以上、もう深海にある人魚の国には帰れないし、戻りたいと思っても、もう二度と人魚には戻れない。ココに来たことも、毒薬を飲んだことも後悔はしていないが、人魚の国を懐かしむような気持ちはあった。
 時任が人魚の国の事を…、色んなことを思い出して少し表情を曇らせると、
 「まぁ、とりあえずだけどココに居なよ。部屋とか結構広いし、一人くらい増えても困らないからさ」
と言って、久保田は時任の肩を軽くポンッと叩く。
 すると、時任は少し潤んだ瞳で久保田の触れた肩を見ながらゆっくりと縦にうなづいた。
 「わりぃけど、しばらくココにいることにすっから」
 「いつまででも、どーぞ」
 「んなコト言ってっと、マジで居つくぞ」
 「別にいいんでない?」
 「・・・・・・ヘンなヤツ」
 「ヘンかなぁ?」
 久保田のとぼけた返事に時任が声を立てて笑うと、そんな時任を見た久保田も笑顔になる。
 久保田は時任が人魚だと気づいていないようだったが、やはり船の時と同じように優しかった。
 助けてくれて、ここに居ろと言ってくれて…、それがとてもうれしくて…、
 なのに、何かが時任の胸をチクリと刺す…。
 久保田に会いたくて会いたくてたまらなかった。
 もう一度会えてとてもうれしかった。
 けれど会ってしまったら、もう別れる瞬間を考えてしまう。いくら人間になれても、そばに居られても自分は男で久保田も男で、そして赤の他人で…、
 それで回復した後も…、ずっと一緒に暮らす理由なんてあるはずもなかった。
 「俺の名前は久保田誠人。オタクの名前は?」
 「…時任稔」
 「ふーん、時任ね」
 「久保田って、なんか呼びづらい」
 「好きに呼んでいいよ。久保田でも、誠人でも」
 「どっちも呼びづらいじゃんかっ」
 「そう?」
 「ん〜、じゃあさ。久保ちゃんって呼んでいいか?」
 「男にちゃん付け?」
 「呼びやすいだろ?」
 「う〜ん、まあいいけどね。時任が呼んでくれるなら、どんな名前でも」
 「なんだよっ、ソレ」
 「なんだろうねぇ?」
 自己紹介して時任って名前呼んでもらって、ドキドキが止まらなくなる。こうして時任はドキドキしながら…、そして自分が人魚だと名乗れないまま、久保田と共同生活を始めることになった。
 一応、身体が治るまでという期限付きで。
 けれど時任は時々痛む足を眺めながら、五十嵐の言葉を思い出していた。

 『飲んで一ヶ月後に死んだわ』

 今のところ痛むのは足だけだったが、副作用が出る可能性がまったくないわけではない。
 時任はそのことに不安を感じながらも、久保田と楽しそうに話しながら笑っていた。
 今、この瞬間を愛しむように・・・・・・。


                     


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