荒く波打つ海の中に落とされた人魚がようやく海面から顔を出すと、すでに乗っていた船は後姿しか見えなくなってしまっていた。
 船は海が荒れることを予測して、航海を急いでいたのである。
 海は急激に湿気始め、いつの間にか暗雲が海をきらめかせていた夕日を隠そうとしていた。
 『嵐が来る…』
 生暖かい空気が不気味に頬を撫でるのを感じると、人魚は船に向かって泳ぎ始める。
 やっと逃げることができたのに、今まで自分が捕らえられていた場所へと…。
 そんな場所へ行けば、また捕まってしまうかもしれなかったが、それでも船に向かって泳がずにはいられない。自分を助けてくれた久保田が、あの船の上で危ない目にあっていると考えるといてもたってもいられなかった。
 波が荒くてなかなか上手く進めないことに焦りを感じながら、それでも必死で泳いだがやはり追いつけない。
 人魚は人間には聞こえない声で、船に向かって叫んでいた。
 久保田のことを呼んでいた…。
 けれど、その声は決して届かない。
 暗くなっていく空と、荒れ狂う波が人魚と船を隔てていく。
 『どうすりゃいいんだよっ!!』
 人魚が泳ぎながらそう大声で暗い海に向かって怒鳴ると、海中から一匹の人魚が現れて船に向かっている人魚の横に並んだ。
 突然現れた茶色い髪をした小柄な人魚は、船に向かって叫んでいる人魚の方を見るとムッとした顔をする。かなり怒っている様子だった。
 『もうっ、やっと見つけたわよ!時任っ!!』
 時任と呼ばれた人魚は、茶色い髪の人魚の方を見て少し驚いたように目を見開いた。
 それは、まさかこんな所まで自分を探しに来ると思っていなかったからである。
 『か、桂木! なんでこんなトコにいんだよっ!』
 『アンタを探してたに決まってんじゃないっ!!』
 『探してくれなんて頼んでねぇ!』
 『迷子になるアンタが悪いんでしょっ! 決まり破って外に出たりするから、こんなことになんのよ!!』
 『うっせぇっ!!』
 『とにかく、止まんなさい!!』
 黒い髪の人魚の時任と茶色い髪の人魚の桂木は、船に向かって泳ぎながら言い争いを続けている。桂木は人魚の住む深海へ時任を連れ戻しにやってきたのだが、時任は船に追いつくことに必死になっていて、止まれという桂木の言葉を聞かない。
 そんな時任を見た桂木は、荒れる海を進んでいる船を見て眉をひそめた。
 あの船に乗っているのは百パーセント人間で、それを時任が追いかけているということは、あの船の人間と時任がなんらかの関わりを持っているという事になる。
 人魚たちの住む深海の国の掟では、人魚は人間と関わりを持ってはいけないことになっていた。
 その掟はかなり厳しいものになっていて、人間と接触することはおろか見ることさえ禁止されている。つまり、人魚は深海から出ることはなく一生を終えなくてはならないという掟だった。
 だが、偶然読んでしまった古い文献に載っていた外の世界に興味を持った時任は、好奇心に負けて人魚の国から出てしまったのである。
 それを知った桂木は、手遅れだからあきらめるようにと周囲が止めるのも聞かずに時任を追ってここまで来ていた。
 『時任、アンタなんであの船追いかけてるの?!  あそこにいるのは人間よ!』
 『そんなのは当ったり前だろっ!!』
 『帰るのよっ、時任!!』
 『嫌だっ!!!』
 掟をやぶって外に出てしまったことからもわかるように、時任は一度言い出したら聞かない。
 だが、そういう時任のことをわかっていても、前を進んでいる船に追いつこうと泳いでいる必死さは普通ではなかった。
 嫌な、とても嫌な予感のした桂木は、高い波が押し寄せて海面を泳ぐのが困難になった海を眺める。空や海だけではなく、時任の身に嵐に似た何かが来るような予感がした。
 『あの船、沈むかもしれないわ…』
 そう桂木が呟くと同時に、突然大きな波が船を襲う。
 船は波のあおりを食って激しく揺れ、船体が斜めになる。
 危ないと思った瞬間、船と同じように桂木と時任も大きな波に飲み込まれて海中へと沈んだ。
 『きゃぁぁっ!!』
 『うわっっ!!』
 海に飲み込まれて、身体が海へと沈んでいく。
 人魚とはいえ、この状況ではあらぬ場所に流されてしまうかもれしない。
 あまり遠くに流されてしまうと、人魚の国まで戻れなくなる可能性もあった。
 掟をやぶって外に出たまま戻れなかった人魚は、実は時任のように自分のいる場所がわからなくなったケースが多いと言われているのである。桂木は海流に流されないように必死に耐えていたが、時任は自分が戻れなくなるかどうかなど気にしてはいなかった。
 波に飲み込まれた船に乗っていた久保田を助けなければと、それだけを考えていたのである。
 時任は感だけを頼りに死に物狂いで泳いで、奇跡的に船影を視界に捕らえることに成功したが、船はすでに海中に沈んでいく所だった。
 船体から無数の泡が吹き出していて、次第に船内を空気ではなく海水が満たしていくのがわかる。この嵐の中、船に乗っていた人間が助かる可能性はかなり低いに違いなかった。
 時任はしきりに船の周囲を見回していたが、この暗い海の中で久保田一人を探し出すのには無理がある。だが、荒れ狂う海と沈んでいく船を見ても、時任はあきらめたりはしなかった。
 目を凝らして、じっと暗い海水の中を見つめ続けている。
 けれど、周囲には何も見つからないので船の中へ時任が入ろうとすると、沈んでいく船よりも下の辺りに何か白いものが目の端に映った。
 ユラユラと沈んでいく白い布のような物。
 それを見た瞬間、時任はそれを目指して泳ぎ出す。その白い布のような物は…、船の下で暗い海の底に沈んで行こうとしているのは、時任がもう一度会いたいと願っている人だった。
 白く見えていたのは、久保田が着ていたシャツだったのである。
 『泳げんのに助けられないなら、俺が人魚だって意味ないじゃんかっ!!』
 時任はそう叫んで必死に、沈んでいく久保田を追いかける。
 海に住む人魚は、自由に泳げるはずだった。
 けれど、それなのに…、こんな時に限ってうまく泳げない。
 時任が必死に手を伸ばしても、久保田は次第に海の底へと近づいていく。
 頼むから、お願いだから…届いてくれ…っ。
 そう願って、ずっと久保田に向かって手を伸ばし続ける。
 すると一瞬だけ、眠っているように閉じられていた久保田の目が開いたような気がした。
 少し沈むのが遅くなったような気がして力を込めて泳ぐと、顔が見えるほど近づくことに成功して、久保田の手を時任がしっかりと掴む。
 間近で見た久保田の顔は、これから死ぬかもしれないのに微笑んでいた。
 優しく柔らかに…。
 時任は久保田の身体を両手で捕まえると、海面へと上昇を始める。
 久保田の身体は重かったが、水をかなり飲んでいるため早く海面へ出なくてはならなかった。
 『…早く、早く上にっ!!』
 冷たく感じられる久保田の身体が危機感をあおる。
 時任が久保田の身体をぎゅっと抱きしめて上へ上へと泳ぐと、やがて海面へと到達した。
 だが、海の外ではまるですべてを飲み込もうとしているかのように波が荒れ狂っている。
 こんな状況では、久保田を介抱するための安全な場所などどこにもない。
 久保田は水を飲み込みすぎていて、すでに呼吸が停止していた。
 けれど、時任はまるで自分の心のように荒れ狂う波間で…、強く…、
 打ち寄せてくる波の中で、ただひたすら冷たくなっていく久保田の身体を抱きしめていた。
 『…死ぬなよっ!!死ぬんじゃねぇよっ! 俺は何も言ってないっ!!まだ何も伝えてねぇのに!!』
 助けてくれてありがとうって言いたかった。
 人魚なのに優しくしてくれて、抱きしめてくれて、それがすごくうれしかったって…、そう伝えたかった。なのに、時任の腕の中で久保田の身体が冷たく冷たくなっていく。
 時任は久保田の青くなってしまっている唇に口付けて空気を送り込んだが、久保田の呼吸は戻らなかった。
 何度何度、口付けてもピクリとも動かない。
 時任はそれでもあきらめずに、抱きしめて空気を送り続けていた。
 視界がぼやけてきて、久保田の顔も荒れる海も暗い空も何もかも見えなくなっても…。
 涙が頬をしたたり落ちても、それにすら気づかずに…。
 『…時任』
 波に飲まれていた桂木がようやく海の中から顔を出すと、人間の男を抱きしめて必死にそれを助けようとしている時任の姿が見えた。
 あの勝気な時任が涙を浮かべているのを、桂木は生まれて初めて見る。
 時任があの人間の男に恋していることは、誰の目にも明らかだった。
 どんな経緯でそんなことになったのかはわからなかったが、このままでは大変なことになる。
 桂木はそんな時任を見て、人魚の国から出てはいけない理由を思い出していた。
 その理由を聞いた時はそんなことがあるわけないとバカにしていたが、今の時任の姿を見ているとその理由を納得せざるを得ない。
 人魚は基本的に性別がなく不老不死だが、一度恋するとその相手を一生恋し続ける運命にあって、その恋が終わった時…、人魚は泡になって天に昇るという…。
 泡になるというのが事実かどうかは知らないが、恋した相手を想うあまり死んでしまうらしい。
 それなのに、時任の恋した相手は今、時任の目の前で死んでいこうとしていた。
 桂木は何かを思い切るように頭を左右に振ると泣いている時任のそばまで泳いでいき、ぐったりしている男の顔を見る。海の底に沈んで苦しかったはずなのに、男はなぜか微笑んでいた。
 微笑んで死んでいこうとする男と、それを必死で引き止めようとしている時任。
 その二人の顔を見た桂木は、取り乱している時任の肩に左手を置いてその頬を軽く叩く。
 すると、時任は何をされたのかわからない様子で呆然としていたが、桂木は強い口調で男を助ける方法を時任に教えた。
 それはおそらく時任にとっては、苦しみが長引くだけの結果にしかならないのかもしれない。
 だが桂木は、今死ぬことよりも希望のある方に賭けたいと思ったのだった。
 『その男に、アンタの血を飲ませるのよ。そうすれば運がよければ助かるわ。』
 『俺の血?』
 『人間が人魚を捕まえたがっている理由を知ってるでしょ? 私達が不老不死だからよ』
 『…もしかして、血を飲んだら助かんのか? 不老不死になって』
 『それはありえないわ、人間は人魚にはなれないもの。けど、一時的な作用はあるから、うまくすれば陸地に着くまで持つかもしれ…』
 桂木がそう言い終えるよりも早く、時任は自分の鱗を取って、それで自分の手首を切りつけていた。
 切り付けられた手首からは、赤い血がポタポタと流れ落ちていく。
 時任はその血を自分の口に含むと、さっきしていたのと同じように久保田の口に口移しで注ぎ込む。
 なんとか飲み込んでくれることを祈りながら…。
 すると、喉仏が奇跡的に少しだけ動いて、血が久保田の身体の中に入っていく。
 不老不死と言われている人魚の血。
 その血を飲み込んだ久保田を時任と桂木が見守っていると、さっきまで青かった頬にすぅっと赤みがさして久保田の胸が上下に動き始める。
 二人が驚いて顔を見合わせると、久保田は咳き込んで飲み込んでいた水を吐き出した。
 『助かったみたいね』
 『…サンキュー、桂木』
 『助けたのはあんたで、あたしじゃないわ。それに…』
 『それに?』
 『今に、私に感謝したこと後悔するかもれしないわよ』
 久保田が助かったことを喜んでいた時任は、桂木の言葉に首をかしげる。
 まだ何もわかっていない時任に向かって、桂木は悲しそうに微笑んだ。
 ここからが、この瞬間からが、時任の死ぬほど苦しい恋の始まりだったのである。







 船が沈没した後、久保田は通りかかった漁船に救助された。
 救助された場所は沈没した場所からかなり離れていたが、海流に流れされたのだろうという事で世間も久保田自身も疑問を感じていない。
 沈んだ探索船の生存者は久保田一人で、他は全員が生存を絶望視されていた。
 沈没した海域から何人かの遺体が上がったが、まだ行方不明者も残っている。
 事故の原因は天候が悪くなってきたのにも関わらず港へと向かわなかった、船長の判断ミスということになっていた。
 ただ一人無事に生還した久保田を取材しようとマスコミが殺到したが、住んでいる場所がなぜかいくら調べてもわからず不明だったため、行方不明の冬木の取材を兼ねての学校での取材だけに留まっている。大学に席はあるものの、やはり相変わらず久保田は学校へは行っていなかった。
 そのせいで、おそらくいくらマスコミがマイクを向けても、久保田について答えられる人間はいなかったに違いない。久保田はかなり謎の多い人物だった。
 「アイス、溶けてなきゃいいけど…」
 暑く照りつける陽射しを感じながら、久保田は近くのコンビニで買ったアイスを入れた袋を眺める。
 住んでいるマンションからコンビニまでの距離はかなり近かったが、それでもやはり少しだけアイスが溶けてしまうくらい暑い日々が続いていた。
 大学には行っていないが、マスコミに見つかることなく平穏な日常を送っている。
 マンションの自分の部屋のある階に到着すると、久保田はポケットからカギを取り出した。
 それはいくらドアのチャイムを鳴らしても、ドアを開けてくれる人はいない…。
 つまり、この部屋に一人で暮らしているので自分で開けるしかないからである。
 だが、溶けかけたアイスを少々気にしながら自分の部屋の前へたどり着いた久保田は、カギをすでにポケットから取り出していたのにも関わらず、手が鍵穴にわずかに届かない微妙な位置で立ち止まった。
 「…行き倒れ?」
 久保田が微妙な位置で立ち止まったまま、そう呟いたのには理由がある。
 それは部屋のドアの前に、何者かがぐったりして床に倒れていたからだった…。
 ドアの前に行き倒れがいるので、鍵を開けたとしてもドアを開けることができない。少しの間、久保田はどうしようかと悩んでいたが、倒れている人物の顔を見た瞬間思わず呼吸を止めた。
 久保田が一人暮らしをしている部屋の…、ドアの前。
 そんな場所で、不自然に行き倒れている人物。
 その人物の顔は、あの船の上で出会った人魚にそっくりだった…。
 「まさか…、ねぇ?」
 久保田が屈み込んで確認したが、倒れている人物にはちゃんと足があった。
 顔は本当に瓜二つと言って良かったが、足がある以上、人魚ではないことは確かである。
 人魚の性別はわからなかったが、倒れているのはおそらく男に違いない。久保田は男をぼんやりと眺めるとドアのカギを開けて、行き倒れている男を抱き上げて室内へと運んだ。
 すると男は抱き上げられたのを感じたらしく、小さく身じろぎをする。
 けれど、救急車を呼ばずにそうしたのは男の顔が人魚に似ていたからなのか、それとも救急車を呼んで騒ぎになるのが面倒だったのか、それはまだ久保田自身にもわかっていなかった。
 

                  

次 へ
前 へ