どこまでも広がる空、その青を映している海、そして人が踏みしめている大地。
 それはあまりにも広すぎて、まだ人の領域ではない部分も存在する。
 だが、人の好奇心や探究心がその領域さえも踏みしめ、世の中には不思議なことは何もなく、何もかもが人間の知る領域になってしまう日がやがてはくるのかもしれなかった。
 今の所はそんな気配はないらしく、大なり小なり新しい発見というものがまだ存在している。
 ニュースになり、人々の話題に上るような発見。
 そういう発見が起こったのは、海洋生物の研究のために太平洋上のある海域を探索していた日本人研究者達の一団の乗った船でだった。
 「こ、これは…、本物なのか?」
 「…どうやら鱗も、尾びれも本物のようです」
 上半身は人間、下半身は魚。
 こういう生物に名前をつけるとしたら、やはり誰もが人魚、マーメイドとつけるだろう。
 研究者達は人間が漂流していると思って引き上げたのが人魚だったので、ひどく驚き、慌てふためいていた。もしこれが本当に人魚だとするなら、生物学上で重大な発見である。
 どういう身体の構造になっているかは不明だが、作り物でも紛い物でもなかった。
 研究者達はこの発見に狂喜乱舞したが、それはなぜか最初の内だけだったのである。
 「私が先に発見したのだから、私の研究所へ…」
 「いや、これは世紀の大発見なのだから、設備の整った研究室に輸送し、そこで人魚の保護をしつつ研究を行うべきだ」
 「設備など、国から研究のための予算が降りれば問題ない。世紀の大発見なのだからな」
 「そんな事を言っておいて、自分だけで研究するつもりだろう?」
 「独り占めにするとでも言うつもりかっ! 失敬な!」
 「違うと断言できないだろう? 発見者を自分だけの名前にしようとしているのだから」
 広い海の上で、研究者達は第一発見者の権利をめぐって争っていた。
 この大発見を自分のものにし人魚の研究ができれば、地位も名声も手に入るし、自分の中にある好奇心も探究心も満たされる。
 特に人魚が漂流しているのを発見した、教授として席を置いている大学でも腹黒いことで有名な冬木は、人魚を独り占めにしようと必死になっていた。
 「これからどうなるにせよ、一時、私の研究所で預かる」
 冬木がそう言うと、他に乗っている三人の研究員が何か言いたそうに冬木を見つめる。
 だが、冬木はそう言って譲らないつもりだった。
 「人魚って、陸上でも呼吸できるのかなぁ」
 そんな争いが行われている最中、一人だけぼーっと甲板に突っ立っている人物がいた。
 この船に乗っている中で一番若いと思われる男は、海の中から甲板にあげられた人魚をさっきからじっと見つめている。 人魚は海で漂流していた時と同じく、未だ気を失ったままだった。
 「助けられたんじゃなくって、捕まったみたいよ? 人魚サン」
 男は言い争いをしている研究者達に構うことなく人魚に歩み寄ると、顔にかかっている黒い髪を手でどける。瞳はきつく閉じられたままだったが、その顔はとても綺麗に整っていた。
 顎が尖っていて少しきつめだが美人の部類に入る顔である。
 研究者達は研究のことしか頭にないようだったが、男はあらかじめバケツに汲んできていた海水を人魚の身体にかけてやっていた。下半身が魚である以上、乾燥するのは良くないと思ったからである。
 「おいっ、何をしているっ!」
 冬木が男に向かってそう怒鳴ると、男はのほほんとした口調で、
 「別に何も?」
と、言って再び人魚の身体に海水をかけ始めた。
 研究員達は男の行動を見て、陸に上げたままでは人魚の命にかかわるかもしれないことにやっと気づいたようで、慌てて捕獲した魚用の水槽はどうかなどと話し始める。
 だが冬木は、男の行動が気に入らないらしく、男の手から海水の入ったバケツを叩き落した。
 「久保田、お前は単なるアルバイトだっ。余計なことはしなくていい!」
 冬木に久保田と呼ばれた男は、軽く肩をすくめて叩き落とされたバケツを拾う。
 その様子からは、冬木のことをどう思っているかはわからなかった。
 「連れて帰るにしても、死んでたら困るかなぁって思ったんですけど?」
 「うるさいっ!」
 冬木と一緒に探索船に乗っていた久保田は、実は冬木のいる大学に通っている学生だった。
 通っていると言っても、席を置いているだけでろくろく授業にも顔をださない有様だったが、なぜか今回の海洋探索の手伝いをするというバイト募集に応じて来たのである。
 冬木が久保田を採用にしたのは、先月、自分のゼミに通う女子学生に就職を盾にセクハラしている場面を見られたせいだった。弱みを握られているせいか、久保田を見る冬木の目は怯えと苛立ちを含んでいる。
 だが久保田はそんなことなど気にしていないようで、ヒステリックに怒鳴りつけてくる冬木を相手にしていない。実は弱みを握ったからではなく、本当にただバイトをするために久保田は来たのだが、冬木はそう思っていないようだった。
 「目を開けて…」
 久保田はバケツを甲板に置くと、目を閉じたままの人魚に手を伸ばす。
 冬木がやめろと怒鳴っていたが、その言葉を無視して久保田の手は人魚の頬に触れた。
 「・・・・・・・・・っ!」
 人魚は久保田の手が頬にふれると、驚いたようにパッと目を開く。
 人魚の瞳は黒く澄んでいてとても綺麗だったが、その綺麗さに驚くのではなく、瞳にある光の強さに久保田が小さく息を漏らした。
 甲板を見回すとすぐに自分が置かれている状況を理解したようで、人魚は両手で上半身を起こすと久保田と周囲にいる人間を鋭く睨みつける。人魚は甲板で身動きの取れない身体ながらも、自分で自分の身を守ろうとしているらしく、海の方へちょっとずつ後退しながら手に拳を作って身構えていた。
 人魚は人間に似た姿をしているだけではなく、頭脳も人間と等しく発達している。
 人魚が後退を始めると、研究者達が人魚を取り押さえようと周囲を囲み始めた。
 「怖いことは何もしないよ?」
 「何もしないから、おとなしくしてくれ」
 口々に恐がらないで、安心して、信用してくれなどと言っていたが、この言葉は全部ウソである。
 研究者達は人魚を研究することしか考えていなかった。
 人魚のことが世間に知られれば人道的な問題について問われるだろうが、やはり人魚とはいえ下半身は魚である以上人間ではないことは確かである。実際、ここにいる人間の中で人魚を人間を見るのと同じような目で見ていた者は、久保田以外にいないようだった。
 人魚は敏感にそれを感じ取ったのか、自分を取り押さえようと伸ばされてくる手を力一杯拳を振り回しながら叩き落していた。
 人魚にとって、人間は自分達を害する相手でしかなかったのである。
 しかし、普段は海の中で生活しているため、振り回している人魚の拳が次第に弱くなってきていた。
 やはり、水のない場所にいるのには限界がある。
 人魚は苦しくなってくる息と重くなってくる身体を感じながら、唇を噛みしめてその辛さに耐えていた。
 けれど弱った所につけこんで、たくさんの手が襲ってくる。
 必死に自分を守ろうとしていたが、ここら辺りが限界だった。
 しかし、体力が限界に近づいて弱っている人魚をかばうように、横から二本の腕が伸ばされる。
 その腕に驚いた人魚は思わず噛み付いたが、腕の持ち主である久保田は人魚に向かって優しく微笑みかけた。
 「おとなしくしててくれる?」
 「・・・・・・・・」
 「大丈夫だって言ってあげられないけど。水のあるトコに連れていってあげるから」
 久保田は自分の腕に噛み付いている人魚の頭を軽く撫でてやると、人魚は久保田の腕から唇を離した。
 人魚の瞳は自分が噛み付いたキズを見た後、真っ直ぐに久保田の顔を見上げる。
 人魚はしきりに口を小さく動かしていたが、声が出せないらしく何も聞こえない。
 久保田を見つめる人魚の瞳は哀しそうに潤んでいた。
 「痛くないから、心配しなくていいよ」
 久保田がそう言うと、人魚は久保田の瞳をじっと見つめてかすかに笑みを浮かべる。
 その笑みを見た久保田は小さく頷いて、人魚を抱き上げた。
 「どこに連れて行くつもりだっ!」
 人魚を抱き上げて連れて行こうとしている久保田を見て、冬木が顔色を変える。
 他の研究者達も久保田の行動に身構えていた。
 久保田が人魚を逃がすのではないかと危惧していたのである。
 「もうちょっとガマンしてね?」
 「・・・・・」
 冬木達の心配に気づいてないかのように久保田は人魚に向かってそう言うと、魚用の水槽に向かうべく船内へと消えていく。
 不穏な空気を漂わせている冬木達を、人魚は久保田の背から鋭い瞳で睨みつけていた。





 船は出港した港に向かうべく、帰路を急いでいた。
 人魚を発見してことに船内の空気が異様に熱気を帯びているため、誰もがどことなく落ち着きがない。
 誰もが、人魚を連れて帰ってからのことを考えていた。
 連れ帰った人魚の研究を自分が中心になってするのと、中心になった誰かの指示によって研究を進めたり補佐するのではかなりの違いがある。
 このままでは冬木にすべてが奪われるような気がして、研究者達は神経をピリピリさせていた。
 船全体の空気が張り詰めているので、船に乗っている船員達もどこか緊張気味である。
 だが、そんな船内の空気に影響されることもなく、久保田は船内の廊下を歩いていた。
 人魚がいる水槽に向かうためである。
 結局、久保田以外の人間を人魚が嫌がったため、人魚の世話は久保田一人にまかされていた。
 「人魚って、魚食べてるのかと思ったのにねぇ?」
 そうぼんやりと呟いた久保田の手には、食事用のトレーが乗っている。
 トレーの上には久保田が作ったカレーが乗せられていた。
 実は始め生の魚や焼き魚をあげてみたりしたのだが、気に入らないらしく食べない。
 色々ためして、やっと食べてくれたのがカレーだった。
 人魚のいる船倉に到着すると、久保田はそこにある水槽を覗き込む。
 すると久保田の影が水面に映ったのがわかったらしく、人魚はすぅっと泳いで水面に顔を出した。
 「はい、おまちどうさま」
 顔を出した人魚に久保田がカレーを差し出すと、人魚は水から出て水槽の枠に座る。
 その横に久保田が座ると、人魚は久保田の手からカレーの乗ったトレーを受け取って食べ始めた。
 甲板に引き上げられた時はかなり具合が悪そうだったが、今は回復したらしく元気になっている。勢い良くカレーをぱくついている人魚の横顔を見ながら、久保田は何かを考え込むように長く息を吐いた。
 このまま船が港に着けば、人魚は確実に研究するためにどこかに閉じ込められてしまうだろう。
 そして、きっと死ぬまで海に帰れないに違いない。
 久保田はカレーを食べている人魚の肩に自分の頭を軽く乗せると、
 「海に帰りたい?」
と、聞く。
 すると人魚は、食べ終えたカレーのトレーを横に置いてゆっくりと頭を縦に振った。
 やはり海で生きてきた人魚が、陸上で狭い水槽の中で暮らしたいなどと思うはずがない。
 久保田が腕を伸ばして軽く人魚を抱きしめると、人魚は抵抗せずにじっとしていた。
 暴れられるかと思っていた久保田は、じっと抱きしめられてくれている人魚に柔らかい笑みを浮かべる。
 抱きしめた人魚の身体は、水の中にいるから冷たいと思っていたのに暖かかった。
 暖かくて、気持ち良くて、ずっと抱きしめていたい。
 今まで誰も抱きしめたいと思ったことなどなかった久保田だったが、この真っ直ぐな綺麗な瞳をした人魚だけはなぜかそんな風に感じてしまう。
 久保田はゆっくり人魚から身体を離すと、ここに連れてきたと時と同じように人魚を抱き上げて甲板に向かった。







 今日の海はかなり荒れていて波が高い。
 久保田は船員や冬木達に見つからないように甲板に出ると、人魚と一緒に船の上から海を眺めた。
 すでに夕刻が近づいているので、太陽が水平線の彼方に消えようとしている。
 その消えかけた太陽の光を受けながら、波がキラキラときらめいていた。
 青く深く続いている海は人魚の住む場所だが、久保田の住める場所ではない。
 久保田は海から人魚の方に視線を移すと、その髪に頬を寄せる。
 人魚の髪からは潮の、海の匂いがした。
 「俺も一緒に行けたらいいなぁって思うんだけど、行けないから…」
 「・・・・・・・・」
 「だから、ココでお別れ」
 久保田が別れを告げて人魚を海に帰そうとする。
 だが、人魚はぎゅっと久保田にしがみついて離れなかった。
 「どしたの?」
 「・・・・・・」
 どうして帰らないのかと久保田は聞いたが、人魚は思いつめたような瞳で黙って首を横に振る。
 さっきまで帰りたいと言っていたはずなのに…。
 久保田が首をかしげると、人魚が口の動きだけで必死に何かを伝えようとしてきた。
 だが、その言葉を解読する前に甲板に複数の人影が現れる。
 それは、人魚が水槽からいなくなったことを発見した冬木達だった。
 「久保田。人魚を水槽に戻せっ!」
 「自分が何をやってるのかわかってるのかっ!」
 人魚を海に帰そうとしている久保田に、冬木達がじりじりとせまってくる。
 だが、久保田はそんな冬木達の方を見ようともせず、人魚に向かって笑いかけた。
 「…さよなら」
 さよならを聞いた人魚の瞳が大きく揺れる。
 その瞳は久保田と離れたくないと叫んでいた。
 けれど、久保田はゆっくりと腕を離して青く深い海の中へ人魚を帰す。
 すると、人魚は大きな水しぶきを立てて海へと落ちた。
 「き、貴様っ!!」
 「こいつっ、なにしやがるっ!!」
 久保田の背後に怒りに満ちた声が響く。
 冬木達の手には、いつの間にか甲板掃除用のモップなどの武器が握られていた。
 背後から漂ってくる空気は、ただの怒りではなく殺意。
 久保田は人魚が海に帰ったのを確認すると、ゆっくりと冬木たちの方へと振り返った。

 「人魚なんて誰も信じませんよねぇ? あれって、おとぎ話でしょ?」

 いっせいに襲ってくる怒りと殺意を前にして、久保田は冷たい笑みを唇に浮かべていた。


                   

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