金曜日の夕方、新聞の勧誘にやってきた中年の男は、新聞を取ってくれたお礼にと、ここから一番近い場所にある水族館の入場券を久保田の前に差し出した。 毎日、あらゆる新聞に目を通すのが日課になっているので、別に新聞を取るのはかまわないのだが、なんとなく不思議な感じがして、チケットを受け取った久保田はじっと入場券に描かれた魚を眺めている。 こういう勧誘でくれるのは、野球とか遊園地が多いので珍しかった。 「いやぁ、水族館好きなモノでね〜。ついついコレ配っちゃうんですよ」 「はぁ…」 男は水族館が好きで配っているらしい。 久保田は半ば押し付けられるようにして、その入場券を男から受け取った。 「よろしければ行ってくださいねっ」 「はぁ、どうも」 水族館に行くか行かないかはわからないが、別に害はないので久保田は入場券を返したりはしなかった。人間、疑いだせばキリがない。こういう勧誘員にも注意しなくてはならない時がいずれ来るのかもしれないが、とりあえず今はその必要はないようである。 渡したことに満足したのか、久保田の気のない返事を気にすることなく、勧誘員は礼を言うと笑顔で帰って行った。 「なに?誰か来たのか?」 久保田がリビングに戻ると、時任が床にゴロンと寝転がったままでそう言った。 家にいる時はテレビを見ているかゲームをしているかのどちらかなので、眠る時以外は時任はいつもリビングにいる。テレビの一番良く見える位置が時任の指定席だった。 この部屋にいる時は完全に無防備なので、格好もタンクトップ一枚で、寒い時には毛布を被っているという感じである。 まるで猫のように床に懐いている時任を見た久保田は、愛しそうに少し目を細めると、 「新聞の勧誘のオジサン」 と、言って入場券を時任に手渡した。 入場券を受け取った時任はそれを眺めていたが、しばらくすると床に入場券を置いて頬杖を付いた。 「水族館って、魚がいっぱいいるトコだよな?」 「そうだけど?」 「ふーん…」 時任は頬杖を付いて寝転がったままの姿勢で、足をブラブラさせていた。 何事か考え込んでいるようにも見えるが、別にただ眺めているだけのようにも見える。 久保田は時任の横に座ると、身体を跨ぐように床に腕を付いて、上から時任と同じように入場券を眺めた。 「行きたいの?」 「別にそんなんじゃねぇけどさ」 そんなんじゃないと言いつつも、視線はまだ入場券に注がれたままである。 時任はどうやら、水族館に興味があるらしい。 けれど素直に行きたいと言えないらしく、こうやってただ眺めているのだった。 ここで一緒に暮らすようになってから、買い物に二人で行ったり散歩に行ったりすることはあるものの、こういった場所に行った事はない。 それはやはり、久保田がそういった場所に興味がないことが原因なのだが、別に嫌いというわけではなかった。 久保田は水族館に行きたそうにしている時任の顔を覗き込むと、 「行こっか? 水族館」 と言う。 すると時任は、いきなりがばっと床から起き上がった。 「いたっ」 「いてっ!」 時任の頭に久保田の顎がぶつかる。 時任が痛そうに頭を抑え、久保田が軽く顎をさすった。 かなり痛かったようだが、どうやら怪我はしないで済んだようである。 けれど、久保田の顎は少しだけ赤くなっていた。 「なぁ、マジで行くのか?」 痛みからすぐに復活した時任は、嬉しそうな様子でそう言って久保田のそばににじり寄る。 すると久保田は入場券を床から拾い上げて、再び時任に手渡した。 「ちょうど仕事入ってないから、明日ね」 「明日になってやめるとか言うなよ?」 「いいませんって」 こんな風に水族館に行く約束をしている様子が、まるで仕事に忙しい父親が、子どもに約束するみたいだと気づいて久保田が苦笑する。 そういえば、誰かとこんな風に約束するのは初めてのような気がした。 そんな久保田の前で、時任は無くさないように入場券をテレビの上に乗せる。 その様子がとても可愛い感じがして、久保田は自分の隣に座ろうとした時任を強引に自分の膝の間に抱き込んだ。 「なにすんだよっ、俺はこれから風呂に行くんだからジャマすんなっ」 「なら、一緒に入らない?」 「ウチの風呂狭いじゃん」 「もうちょっと広いトコに住んどけばよかったなぁ」 「なんで?別に一人ずつ入ったら問題ないだろ?」 「…それはそうだけどね」 無邪気で元気。 時任は久保田に気を許すようになってから、目に見えて変わってきている。 警戒するように睨み付けてきた瞳が柔らかくなって、いつもしかめ面だったのがこんなにも楽しそうに嬉しそうに笑うようになった。 そんな時任の変化を見て、自分も嬉しいと感じている自分に気づいた久保田は、そんな自分に不思議な感じがしたりするが、そう感じることは決して嫌な気分ではない。 時任に変えられてしまうのなら、それでいいと久保田が思っていたからである。 変わるべくして変わるのなら、それもいいだろうと…。 久保田は眼鏡の奥から横顔を眺めつつ、自分の腕の中でジタバタ暴れている時任を更にぎゅっと抱きしめた。 「…どうかしたのか?久保ちゃん」 急に強く抱きしめられた時任が不思議そうな顔で久保田にそう聞く。 たが、久保田は小さく笑って、 「なんでもないよ」 と、答えただけだった。 テーブルには時任が食べた菓子袋と飲みかけのペットボトル。 床にはやりかけのまま投げられているゲーム。 ソファーにはいつも使っている毛布がある。 いずれも、時任がいなくては、ここに存在しなかったらなかった物達だった。 この場所に、この部屋に時任がいて、ちゃんと存在したという痕跡が残っている。 久保田は時任に気づかれないように、柔らかくて触り心地の良い髪の毛に軽く口付けると、その身体を腕の中から開放した。 「風呂に入っておいでよ。俺はあとで入るから」 「わぁった」 時任は抱きしめてくる腕の意味を聞かず、久保田に短く返事をすると着替えを持って風呂へと向う。 そんな時任の後姿を見ながら、久保田はセッタに火をつけて煙を深く肺に吸い込んでから、ふーっとため息をつくように吐き出したのだった。 約束の土曜日。 久保田と時任は予定通り水族館へと来ていた。 あまり大きな水族館ではなかったが、そこそこ人気のある所らしく親子連れが次々と入場している。 男女のカップルも何組かいたが、やはり久保田と時任のように男二人で来ているのは珍しい。 二人の近くにいる何人かが久保田達の方に視線を向けているが、当の本人達はその視線に気づいているのかいないのか、少しも気にはしていない様子だった。 久保田は一見のほほんとした感じのヤサ男に見えるが、どこか近寄り難い雰囲気をまとっているため、なんとなく微妙に目立つ。だがそれは時任も同じことで、見た目は普通のどこにでもいるような男子高生風なのだが、何もかもを真っ直ぐに射抜いてしまうような、綺麗でキツイ瞳を見た瞬間に誰もがハッとさせられてしまう。 特に目立つという訳ではないが、この二人を見ていると、なぜかまるで微妙にピントのずれた写真を見ているようなそんな感覚に捕らわれるのだった。 「早くいこうぜ、久保ちゃんっ」 「はいはい」 時任は久保田の服の端を右手で掴むと、ぐいぐいと引っ張っていく。 久保田は小さく欠伸をしながら、時任のするままに任せて入場口へと向かった。 入場口で入場券を切っていたショートカットの女性従業員が、そんな二人の様子を見てクスクスと笑っていたが、そんな微笑ましい二人の姿を見たのであれば無理もない話だろう。 水族館は規模は大きくないが水槽の配置などに気を使っていて、見ていて飽きることが無い。 ただ魚の種類を掲示して見せるのではなく、まるで海そのものを見せようとしているような感じがした。 ここの入場券を渡した勧誘員は、おそらくそういう所が気に入っているのだろう。 入場券を渡して中に入った二人は、入ってすぐの場所にある巨大な水槽の前で足を止めた。 その水槽にはイルカは三頭ほどいて、分厚いガラスの中をグルグルとじゃれあいつつ、すらりとした美しい姿をライトに照らされながら泳いでいる。 水底にはユラユラと水面が映って揺れていた。 「…なんか音がする」 イルカ達を眺めながら時任がそう言うと、久保田は聞こえてくるキューキュゥンという音を聞いて、 「あれはイルカの鳴き声。ああやって鳴いて話してる。今、俺達が話してるみたいに」 と、説明する。 すると時任はふーんと関心したように言ってから、少しだけ首を傾げた。 「なんであんな声で鳴くのかな?」 「なんでって、なんで?」 「良くわかんねぇケド、スゴク響いてくるから」 そう言った時任の瞳には、水の中で揺らめいている煌きが映っている。 久保田はポケットに突っ込んでいた手を出すと、 「あんな風に鳴かないと届かないのかもね、声が」 と、静かな口調で時任の問いに答えてからその肩に手を置く。 時任は肩に乗せられた手を別に気にした様子もなく、黙ったまま水槽を眺めていた。 しばらくそうして二人でイルカを眺めた後、時任と久保田は順路に従って通路を歩き始める。 サンゴ礁を模した水槽や、マングローブの生えている密林を模した水槽など様々な水槽があり、そこには浅瀬に住んでいる魚、深海にすんでいる魚。小さなものから大きなものまでいる。 水族館に集められている魚達は日本では見られないような珍しいものから、いつも見慣れているものまでいた。 「これってサンマだよな? 魚屋にならんでるヤツ」 「だぁねぇ」 「一杯いるけどさ、コレも食えるんだよな?」 「どこにいても、サンマはサンマだからねぇ」 「うわ〜、なんか一杯だしキラキラ光ってんじゃんっ!」 「う〜ん、結構うまそうだねぇ」 「釣ったら釣れる?」 「釣れるかもね」 秋刀魚や鯵、鯛などの様々な魚の泳ぐ大きな水槽の前では、二人は焼くとか煮るとか、そういう事を話していたため、別な意味で周囲の注目を集めていた。 久保田はぼ〜っとした感じで魚を眺めていたが、秋刀魚や鯵を眺める時任の顔にはうまそうと書いてあるように見える。もし時任が猫だったら、本当に魚を取りそうだった。 そんな感じで次々見ていくと、さっきよりももっと薄暗いエリアに入る。 そこでは、水槽の中は白や青い光りではなく赤い光に満たされていた。 いつも見慣れているのとはまったく違った感じの、どこかいびつさを感じさせる魚達が泳いでいるのを見ながら二人は進んだが、ある一つの小さな水槽の前に来た時、時任が立ち止まった。 「何この魚? すっげー白い」 「ああ、コレは深海魚の中でもかなり深いトコのヤツ。光がぜんぜん届かないくらい海の底に住んでる魚って、ソコにも書いてあるっしょ?」 「あっ、ホントだ」 それはホントに小さな水槽で、その中に泳いでいる魚も小さかった。 骨が透けるほど白いその魚は、ゆっくりと海水の中を泳いでいる。 赤い光の中でぼんやりと浮かぶその姿は、周囲の魚よりも更にいびつで異様な感じがした。 「こいつ、目ないの?」 書いてある説明を読んでから、時任は少し驚いたようにそう言う。 その白い魚には本当に目が無かった。 始めから暗闇に生きているから、見る必要がないから…。 けれどそう言われても、なんとなくすっきりとしないものが胸の中にしこりとなって残る。 時任は再び久保田の服の端を握ると、それを少しだけ自分の方に引き寄せた。 「久保ちゃんはさ」 「うん」 「眼鏡取ったらどんくらい見える?」 「う〜ん、ココくらいから時任の顔見てもぼやけてるくらいかなぁ」 時任の質問に久保田がそう答えると、服を握っていた手を離して、時任が両手を久保田の顔に伸ばす。 そして、久保田がいつもかけている眼鏡を外した。 久保田の眼鏡は、近視だけではなく乱視もかなり入っている。 そのため久保田は、その低い視力以上に眼鏡を外すと見えない。 「俺の顔見える?」 そう言って時任が少し背伸びをしながら久保田の顔に自分の顔を近づけると、久保田は小さくクスッと笑った。覗き込んできた時任の顔が、あまりにも近づきすぎていたからである。 時任と久保田の距離はもう少しだけ近づけばキスできる距離だったが、二人ともそれ以上は動かなかった。 「さすがにこれくらい近いと暗くても見えるよ?」 「ホントに?」 「うん」 「ふーん」 久保田の視力検査をした時任は、納得したのかしないのかはわからないが、すうっと近づけていた顔を離した。そうすると、また再び二人の距離が少し遠くなる。 久保田の右手がわずかに動いたような気がしたが、その手はやはり伸ばされることはなかった。 水槽の明かりに照らしながら眼鏡を見ている時任の横で、久保田はぼんやりと水槽の赤い光を見つめている。その瞳には光のみで、魚の姿は見えていなかった。 「久保ちゃん、眼鏡」 このままでは久保田は歩くことさえままならないので、時任が眼鏡を再び久保田の顔にかけようと手を伸ばす。けれど手を伸ばした瞬間、辺りは本当の暗闇に包まれた。 「あれ、停電?」 「久保ちゃんっ」 「時任、こっちに…」 時任がこちらに伸ばしてくれているはずの手に向かって久保田が手を伸ばすが、その手は冷たい暗闇の中で空気だけを掴んだ。 『お客様にご連絡いたします。只今、停電となっておりますが、直ちに予備電源に切り替えますので、しばらくそのままで動かずお待ちくださいませ』 館内にアナウンスが入り、周囲にどよめきが走る。 だが、アナウンス通りすぐに水槽と非常灯に明かりが点ったので、たいした混乱はなかった。 「時任?」 そう言いながら久保田は、見えない目を凝らして周囲を見回す。 明るくなったのはわかるが、なぜかそばに時任の気配が感じられない。 停電していたのはたった数分だったはずなのに…。 久保田は周囲の足音や話し声に気を配りながら時任を呼んだが、やはりいくら呼んでも返事は返って来なかった。 |
『運命のヒト 前編』 2002.6.4 キリリク10000 後 編 キリリクTOP |