最上階へと続く階段の最後の一段を登り切ると、そこには瓦礫に埋もれた廊下があった。
 その廊下で少しだけ乱れた息を整えると、久保田は目の前の惨状を眺めて表情を少し険しくする。それは藤原が言っていたように、そこに爆発で出来た下へと続く暗がりがあったからだった。
 暗がりは思っていたより深く続いていて、その中からはどこからか吹き込んだ風音が聞こえる。
 その風に髪を撫でられながら廊下を走ると、久保田は穴の前に立った。
 室内は瓦礫に阻まれていて良く見えないが、おそらくこの暗がりの向こうに時任がいる。
 それを確信した久保田は、迷うことも暗がりを見つめることもなく…、一気に部屋に向かってジャンプした。向こう岸に向かって…、時任のいる場所に向かって…。
 もしも後戻りができなかったとしても、後悔なんて言葉は頭に浮かばないから…。
 吹き上げる風を切りながら飛ぶ久保田の瞳は、真っ直ぐ前だけしか見ていなかった。
 先にここを飛び越えた藤原や蘭よりも遥かに長く飛んで着地すると、久保田は室内に向かって再び走り出す。走り出した久保田の視線の先には…、爆発によって物が散乱した部屋の中に倒れている時任の姿があった。 
 久保田の唇が時任の名を刻んだが、目の前の光景に凍り付いて声がうまく出ない。
 手を出口の方に伸ばしたまま倒れている時任の足は血に塗れていて…、久保田が走り寄ってもその身体はピクリとも動かなかった。
 血を流している足の傷と、伸ばされたままの手のひらを見ているとズキズキと胸が痛んでくる…。
 久保田は床に膝をつくと…、ゆっくりと時任の口元に手を伸ばしながら唇をきつく噛みしめた。
 時任の顔色はかなり悪く、唇はいつもの温かい色を失って紫になっている。
 ドアに向かって手を伸ばしながら、きっと来るのを一人で…。
 こんな寂しい場所で一人きりで…、ずっと待っていてくれたに違いなかった。
 伸ばした指先が震えながら唇に触れると、そこに温かい息が当たる。
 その瞬間、深く長く息を吐いて…、久保田はもう片方の手も時任に向かって伸ばした。

 「・・・・・時任」

 名前を呼んで両手で倒れている時任をそっと抱き上げると、強くその身体を抱きしめながら…、それ以上は何も言わずに久保田は肩口に顔を押し付て目を閉じる。
 まるで何かを祈るように…、じっと何かを想うように…。
 すると時任の口からかすかな漏れたが、やはりまだ目を覚まさなかった。
 足の傷から血が流れ出して、そこから体温と体力が奪われていっている。
 そのせいで抱きしめている身体も、いつもよりずっと冷たかった。
 やっと会うことができて…、やっと抱きしめることができたのに…。
 抱きしめた部分から、触れ合った部分から…、ズキズキと痛みが広がっていく。
 けれどその痛みにうずくまって…、愛しい身体を抱きしめているわけにはいなかった。
 それは、時任の右手がドアの方に向かって伸ばされていたから…。
 待ち続けていてくれたのは、終わるためじゃないと知っているから…、わかっているから…。

 だから、まだここでは立ち止まれなかった。

 久保田は傷をいたわるように、優しく時任を両腕で抱き上げると…。
 破壊された部屋の隙間から吹き込んでくる冷たい風に髪を乱されながら、ゆっくりと歩いて出口であるドアの方を向く。だが歩き出そうとした瞬間、近くで起こった爆発のためにまるで地震が起こったかのように辺りが揺れた。
 久保田はなんとか倒れずにその場に留まったが、すでに先に起こった爆発でもろくなってしまっていた壁や床が、大きな音を立てて崩れ出し…、さっき飛び越えた穴がさらに大きくなる。
 下へ向かうためにはドアから廊下に出て階段を下りなければならないのに.、爆発の振動で階段へと続く廊下は完全に崩れ落ち、着地できる足場も完全に失われてしまった。
 もしかしたら、ここからは見えないがこの分だと階段も崩れ落ちてしまったかもしれない。
 けれどその暗がりの前に立った久保田は、瞳を閉じたままで目覚めない時任の額に口づけて…。
 そうしてから、こんな状況に追い込まれているというのが信じられないほど、おだやかに時任に向かって微笑みかけた。 

 「ここは行き止まりじゃないから…、まだ走らなきゃね…」
 
 久保田はそう囁くと暗がりではなく、まだ崩れていない廊下の続いている方に視線を向ける。
 だがその廊下の先には、下へと続く階段はなかった。
 けれどそれがわかっていながら、久保田は抱き上げていた時任を肩にかつぎ直すと勢いをつけるためにドアから下がる。崩れ落ちてしまった側の廊下ほどではないが、やはり今から飛びうつろうとしている反対側の廊下までの距離もかなりあった。
 うまく飛び越すことができなかったら、二人ともただではすまない。
 しかし、久保田は足を前へと踏み出すと勢い良く走り出した。

 どこに続いているかわからない…、行き止まりかもしれない場所に向かって…。
 
 ドアのところで踏み切って飛んだが、やはり二人分の重さを背負って飛ぶのには無理があった。
 久保田は片足だけでなんとか着地したが、もう片方の足は何もない空間を蹴る。
 ぐらりと身体が揺れて…、かついでいる時任の身体が暗がりに吸い込まれそうになった。
 すると一瞬、いつの日かの懐かしい光景が…、その中で笑っている時任の顔が脳裏に浮かんだ気がしたが、それを振り払うようにしてぐっと腕に力を入れて前のめりなると、久保田は時任の身体ごと床に倒れ込む。しかし、倒れこんだ床も爆発のためにもろくなっていた。
 このままここに留まっていたら、二人の重さで床が崩れ落ちてしまう可能性もある。
 そのため床から息をつく間もなく立ち上がると、久保田は気を失ったまま目覚めない時任をしっかりと両腕で抱き上げて走り出した。
 両腕の重さを、その大切さを痛み続けている心で感じながら…。
 するとさっき見えた懐かしい光景が、なぜか脳裏に鮮やかによみがえってくる…。
 その光景の中ではやはり時任は、明るい日差しの中で眩しいくらい綺麗に笑っていた。
 
 『久保ちゃん…』

 生徒会室の窓をいっぱいに開いて、青すぎるくらい青い空を背にして立った時任に名前を呼ばれて、それから何を話したのかは忘れてしまっていたけれど…。
 その時に感じた感覚だけは、今もはっきりと胸の奥に残っている。
 綺麗な青空と笑顔と…、そして目の前に広がった光に満ちた空間があって…。
 きっとたくさんのことを想って感じたのかもしれなくても…、残ったのはたった一つだけで…。
 それは今も変わらずに…、ずっとずっと感じていることだった。
 けれど、ずっと感じ続けているその想いを胸に抱いて、二人で前に歩き出そうとしたのに…。
 今、目の前にあるのは暗がりだけしかない。

 廊下を曲がった先にあったものは、上へと続く階段だった。

 しかし久保田は一気に地上ではなく、空に向かうか階段を駆け上がる。
 迷うことも絶望することもなく…、ただ上へ上へと…。
 もしも背中に羽がついていたら飛んでいけたかもしれないけれど、二人は人間だからその先には行けない。
 久保田が階段の行き止まりにあるドアを開けると、そこには暗い夜空だけがあった。
 ぼんやりと雲に煙った月が、たった一つだけ浮かんだ空が…。
 その空を眺めながら久保田が数歩前に進むと、屋上の中央に何か木の箱のようなものが置かれているのが目に入る。
 あきらかにあやしいその箱を、揺らさないように注意しながら開けて見ると…。
 やはりそこには…、時を刻んでいる時限式の爆弾が入っていた。

 「ごめんね、時任…。 行き止まりに向かってしか走れなくて…」

 すでに残り二十分を切ったデジタル数字を見ながらそう言うと、久保田はわずかに届いている月の光に照らされた時任の顔を見て…。
 それから目を細めながら、時任を抱きしめながら…、空に浮かぶ月を見上げた。
 唯一、二人に届いているわずかな光を…。
 するとひらひらと空から、まるであの月から降り注ぐように、静かに静かに白い粉雪が降り始めた。
 秋の終りに降り始めた早すぎる初雪は…、冷たいコンクリートの上で時任を抱きしめている久保田の上にも降り注ぐ。
 空から舞い落ちてくる白い雪の粒を眺めながら、久保田はそっとそれを手のひらの乗せた。
 その白さを見つめる間すらなく、溶けて消えていく雪を…。
 二人のいる空に近い場所に…、降り積もり始めた雪を見つめながら…。
 すると雪を受けた手のひらに…、温かいもう一つの手のひらが重ねられた。
 その温かい手のひらを握り返すと、まるで雪のように愛しさだけが胸の中に降り積もっていく。
 抱きしめた腕に、握りしめた手のひらに…、その想いを降り積もらせながら…。
 久保田はその想いの苦しさと温かさを感じながら…、時任の唇が自分の名を刻むのを見つめた。
 
 「・・・・・くぼ…、ちゃん?」
 「うん…」
 「なんで…、ここに…」

 「時任が呼んでくれてる声が、ずっと聞こえてたから…」

 身体に触れてくる温かさに瞳を開けると…、薄くぼんやりとした光の中でなにか白いものが降り注いでいるのが見えたから…、不思議に思ってその白さに触れようとした。
 けれど、伸ばした手のひらがたどりついたのはもっとべつのもので…。
 そこから感じられるぬくもりを握りしめていると、空から降り注ぐ雪がゆっくりとぼやけて滲んでいく。
 時任は握りしめた手とは反対側の手を上へと持ち上げると、微笑んでくれている大好きな人に向かって伸ばして…。それから、手のひらでゆっくりとその頬を撫でた。

 「なんで来たんだよ…、バカ…」
 
 時任がそう言いながら肩口に額をつけると、久保田の手が髪を優しく撫でてくれる。けれど視界はぼやけていくばかりで…、空を見上げても降り続いている雪を見ることはできなかった。
 どうしても会いたかった…、だからそばに来て欲しくて…。
 だからずっとずっと、その名前を呼び続けていたのに…、口から出たのはそんな言葉だった。
 戻ると蘭に言ったように…、まだあきらめてはいなかったけれど…。
 こんな冷たく雪の降り注ぐ行き場のない場所に、久保田をいさせたくはなかった。
 だからなんとか一人だけでも脱出できる方法を探ろうと、涙をぬぐって辺りを見回そうとする。
 しかしそんな時任の視界を、久保田の手がそっと覆い隠した。
 「ごめんね…、いくら逃げ道を探してくれても一人じゃ行けない…。行き止まりに向かってしか走れなくても…、俺は時任と一緒にいたいから…」
 「・・・・・久保ちゃん」
 「それに…、まだあきらめてないでしょ?」
 「そんなのは当たり前じゃんか…、まだあきらめるには早いだろ。目の前に行き止まりしかなくても…」
 「…うん」
 「だから…、一緒に…」

 ・・・・・帰ろう。

 そう言いかけた言葉は、重ねられた唇に吸い込まれて最後まで言うことはできなかった。
 けれどその想いはキスの甘さと一緒に…、深く静かに胸の奥に染み渡っていく。
 手のひらの雪は溶け行くけれど、抱きしめあった腕と重ねられた唇に込められた想いは…、雪のように降り積もったあの白い封筒のように消えたりはしなかった。
 たとえ行きつく先が行き止まりでしかなかったとしても…、その想いだけが…。

 ずっとずっと…、見えない明日まで続いていくかのように…。

 けれど確実に時はすぎて、二十分あったはずの時間はすでに十分になってしまっている。
 しかも屋上に仕掛けられていた爆弾は、箱の大きさから見てもかなりの爆発が予想された。
 おそらくホテル内での爆発は脅しで、屋上に仕掛けられた爆弾が本命といった所だろう。
 この爆弾が爆発すれば、ホテルは全壊する危険性があった。
 屋上から捨ててしまえば助かる可能性があるかもしれないが、中に水銀レバーか取り付けられている。水銀レバーというのは、水銀につけられたまるい玉がちょっとでも平行を崩すと転がって、ある場所まで来ると爆弾の配線と繋がってしまって爆発するという仕組みだった。
 動かすことが不可能ということになると、自力で爆弾を解体するしか方法がない。
 久保田は時任の見ている目の前で爆弾の箱を開けると、ここに来る途中で拾ったカッターナイフを片手に少し雲の切れ間からのぞいた月の光の下で中の配線を探リ始めた。
 「久保ちゃん…、解体の仕方わかんの?」
 「いんや…。けど、やらないよりやった方がいいっしょ?」
 「だよな…」
 「・・・・・コワイ?」
 「ぜんっぜんっ」
 「ホントに?」
 「・・・・ウソ。ホントはちょっとだけコワイ」
 「・・・・・うん」
 「けど、ちゃんと一緒にいるじゃん…、いつもみたいにそばに…。だからコワくてもなんでも、何が起こっても後悔だけはしないから…」
 降り注ぐ雪を眺めながら、時任がそう言って爆弾を解体している久保田の背中に頭を預けると…。
 久保田は微笑んで、手に持っていたカッターで配線を一本切る。
 けれど、その配線を切っても爆発しないという保証はどこにもなかった。
 「・・・・・時任」
 「なに?」
 「好きだよ…。言葉なんかじゃ足りないくらい…」
 「じゃあ、残り一分になったらさ…」
 「…うん」

 「足りない分だけ…、キスしてくんない?」

 配線を探りながら解体して残ったのは、起爆スイッチに繋がる赤と青の二本の線…。
 その二本を残して…、久保田は時任の頭に積もった雪を少し払ってやると…。
 言葉じゃ足りない想いを伝えるために…、いつも真っ直ぐ見つめてくる瞳を見つめ返しながら、少し冷たくなってる柔らかい唇に深く深く口付けた。
 足はかなり痛んでいるはずなのに、そんな素振りさえ見せずに微笑み返してくれてる時任を、ぎゅっと抱きしめながら…。
 するとそんな二人を包みこむように激しく降り出した雪が、白く白く辺りを染めていった。
 
 まるで空からも…、その想いが降り注いでいるかのように…。

 けれど時は残酷にすぎていって、残り三十秒を切っても時は止まらない…。
 デジタル表示されている数字が二十秒になると…。
 久保田はゆっくりと唇を離して…、時任の額に自分の額をくっつけた。

 「赤と青…、どっちが好き?」

 カッターナイフを握った久保田が、穏やかに微笑みながらそう言うと…。
 その質問を聞いた時任は、あの夏の日のように…、眩しいくらい綺麗に笑った…。
 











 青く果てしなく続いていく空…、そこを流れていく白い雲…。
 明るい日の当たるベンチに座ってそれを眺めていると、まるで時が止まったかのように思える。
 膝の上に置いている花束を落とさないように気をつけながら小さく伸びをすると…、蘭はふーっと深く長く息を吐き出した。
 「本当に…、今日は天気がいいわね…」
 そんな風に呟きながら目の前に広がる空を眺めていると、あの日のことがウソのように思えてくる。
 けれどその傷跡は、やはり今も蘭の胸の中に鮮明に残っていた。
 廃墟になったホテルと…、降り積もる想いを綴った青い封筒とともに…。

 二つの殺人事件と…、シーパレスホテルの爆破事件…。

 その事件は新聞やテレビで派手に報道され、事件に関った人々の周囲は一気に騒がしくなったが、それも一ヶ月をすぎると人の記憶から忘れ去れたかのように静かになった。
 まるで何事もなかったかのように…。
 だが二人の人間が、あのホテルで殺されたことは紛れもない事実だった。

 「あれ…、もしかして君は鷺島さん?」
 「あっ、はい…、お久しぶりです」
 「あんなことがあったから、心配してたんだけど…、元気そうで良かった」
 「刑事さんも、お元気そうですね」

 「まあ…、いつまでも落ち込んではいられないからね」

 ベンチに座っていた蘭に話しかけてきたのは、ちょうど用事があってここを通りかかった高本刑事だった。一度、事件のことを聞きたいと思っていたが、高本刑事も何か話したいことがあったらしく、座ってもいいかと断ってからベンチに蘭の隣に座る。
 すると少し肌寒い風が、すっかり冬らしくなった花壇を吹き抜けて頬を撫でた。
 やはり天気がいいとは言っても、冬の空気は冷たい。
 けれど蘭も高本刑事も、ベンチからどこかに行こうとは言わなかった。
 「あの…、事件のことで少しうかがってもいいですか?」
 「ああ、かまわないよ?」
 「ホテルに仕掛けられた爆弾のことなんですけど…。本当にあれは、野島さんが仕かけたものだったんでしょうか?」
 「・・・・・野島はタイマーにスイッチを入れたのは自分だけど、仕かけたのは自分じゃないって言い張ってる。でもそれが本当かどうかは、まだわかってないけどね」

 「もしかしたら本当は…、父は自首ではなく自殺を…」

 蘭はそう言いかけたが、途中で言葉を切るとひざの上の花束を軽く握りしめる。
 花束にされている花は…、冬には不似合いな黄色いヒマワリだった。
 始めはもっと別の花を買うつもりだったが、店頭に並んでいたこの黄色い花を眺めている内に、なんとなく買ってしまっていたのである。その花の黄色い花びらをじっと見つめた蘭は、少しだけ思いつめたような表情をしたが…、小さく息を吐き出すとすぐに明るい表情に戻った。
 「事実がどうなのかは私にもわかりません…。けど、私は父を信じていたいと思うんです。信じないで後悔するより、信じて後悔する方がいいって…、そう言ってくれた人がいるから…」
 「鷺島さん・・・・」
 「それに母が亡くなったことも…、父が殺されてしまったことも悲しくて辛くてたまらないけど…。二人が愛し合ってたって、それがわかって良かった…、本当に良かったってそう思うんです…」
 「・・・・・君は強いね」
 「強い?」
 「お父さんを信じてあげられるくらい…、君は強い。それは、とてもスゴイことだと俺は思うよ」
 「いいえ…、それは違います。私は強くなんかありません…」
 「えっ?」

 「私よりも…、もっと強い人を知ってますから…」

 そう言いながら空を見上げた蘭の脳裏には、港で会おうと言ってくれた人の顔と、行き止まりしかない最上階に向かって走っていった人の背中が浮かぶ。
 二人とも蘭が知っている中で、一番強い人だった。
 けれどその強さ故に、二人は真っ直ぐにしか走って行けないのかもしれない。
 蘭は花束を持って立ち上がりながら礼を言うと、高本刑事も慌てて立ち上がった。

 「と、と、とにかく…、まだまだ大変だと思うけど元気出して…」
 「はい…、ありがとうございます…」

 もしかしたら、高本刑事がベンチに座ったのはただ蘭を励ましたからなのかもしれない。
 高本刑事は頼りない感じだが、職業が刑事だとは思えないほど優しい雰囲気の持ち主だった。
 蘭が花束を持って歩き出すと、高本刑事の携帯が勢い良く鳴る。
 どうやら、何かまた事件が起こったらしかった。
 蘭は高本刑事が携帯で話している声を背後に聞きながら、ベンチのある小さな庭から白い建物の中に入る。
 すると偶然、すぐ近くに見たことのある黒いコートを着た背中が見えた。
 その背中に向かって蘭が声をかけると、黒いコートの人物は手に荷物を持ったままゆっくりと振り返る。
 振り返った人物は…、荒磯高校の久保田誠人だった。
 「こんにちは…」
 「どーも」
 短いあいさつをかわすと、蘭は少しだけ歩いて久保田の方に近づく。
 このまま行ってしまうのではないかと蘭は思ったが、久保田は立ち止まってくれていた。
 そんな風に久保田と話すのは、まだ数回しかない。
 しかしあの事件が終わってしまったせいか…、ホテルで話した時のような緊張感はなかった。
 「そこで高本刑事に会いました。もしかして、ここには事情徴収に?」
 「ただの見舞い」
 「そうですか…」
 「聞きたいことがそれだけなら、もう行きたいんだけど?」
 「えっ、あっ…、ちょっと待ってください…」
 久保田はのほほんとそう言って歩き出そうとしたが、それを再び蘭が呼び止める。
 そして黄色い花束を軽く握りしめて、あの時から…。
 最上階に向かって走って行った後ろ姿を見た時から、したかった質問を久保田にした。
 「私…、貴方に聞きたいことがあったんです…」
 「なに?」
 「・・・・・・戻れるって確信は、初めからあったんですか?」
 「いんや」
 「だったら…、戻れないかもしれないって思ってても、それでも走って行けたのは愛してたから?」
 「さぁ…、どうだろうね?」
 「久保田さん…、曖昧な答え方をしないでくださいっ。そんな答えを聞きたくて質問したんじゃないんです」
 「・・・・・・・・」
 「ちゃんと答えてくれないとあきらめられない…。時任君が貴方しか見てなくても、それでも私は好きだから…、だから…」
 蘭が久保田に答えを聞こうとして詰め寄ると、薬の匂いのする廊下の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてくる。
 けれどその声は蘭ではなく…、やはり久保田を呼んでいた。
 始めて会った時から…、ずっとそうだったように…。
 松場杖をつく音を聞くと、蘭が顔を少しだけ泣きそうに歪める。
 けれど蘭は涙をこぼさずに、黄色い花束を好きな人ではなく久保田に向かって差し出した。
 
 「二人で幸せになってください、誰よりも…。もしも幸せじゃないなら…、私はあきらめてなんかあげませんから…」

 蘭は真剣な表情で久保田を見つめていたが、久保田の方はすでに蘭の方を見てはいない。
 馴れない松場杖をつきながらやってくる時任の方を…、愛しそうに眺めていた。
 その瞳は…、時任を見つめる視線はあまりにも優しくて…、優しすぎて見ていると胸が痛くなる。
 そんな久保田の瞳を見た蘭は、泣き笑いのような表情を浮かべると黄色い花束を持ったまま立ち去ろうとする。すると後ろから…、久保田の声が聞こえてきた。

 「幸せは誓えないけど、誰にも譲れない。 たとえ離れることが運命だったとしても…、繋いだ手は離せないから…」

 その言葉を聞いた蘭が…、久保田の方を振り返って見ると…。
 久保田は廊下に荷物を置きっぱなしにしたまま、松場杖でうまく歩けずに転びそうになっている時任に向かって歩き出していた。
 そんな久保田の後ろ姿は、やっぱり最上階に向かって走って行ったあの時と同じに見える。
 蘭は置きっぱなしにされている荷物の上に花束を載せると、時任に見つからない内に入ってきた慌てて中庭に出た。
 久保田の後ろ姿に向かって…、微笑みを送りながら…。
 しかし、時任は自分の方に向かって歩いてくる久保田の後ろに、走り去っていく蘭の姿を視界に捉えていた。

 「おいっ、ちょっと待てって!!」

 時任は蘭を呼びとめようとしたが、やはり足を引きずっては思うように歩けなかった。
 けれど、それでも必死に歩いていると杖に足が当たって前のめりになる。
 このままだと転んでしまう所だったが、走ってきた久保田が時任の身体を支えたので無事だった。
 「あっ、あぶねぇ…」
 「走ると転ぶって言ったっしょ?」
 「けど、さっきそこに蘭が来てて…」
 「見間違いじゃない?」
 「そんなはずは…」
 「それにもし蘭ちゃんが来てたら、時任に会わずに帰るはずないしね」
 「・・・・確かにそうかもだけど」
 「それより、今から退院手続きするからロビーに行くよ」
 「わぁった」
 時任は納得してない様子だったが、おとなしく久保田と一緒にロビーに向かう。
 けれど荷物の所に置かれた花束を見ると…、時任はじっとその花を見つめた。
 黄色い黄色いヒマワリの花を…。
 すると久保田は無言で、その花束を時任に渡した。
 花束にどんな想いが込められたかは…、受け取った時任にも渡した久保田にもわからない。
 けれどなぜか…、ようやくあの事件が終わろうとしているような気がした。
 時任が花束をひざに置いてロビーのソファーに座って待っていると、しばらくして退院の手続きを終えた久保田が戻ってくる。
 すると時任は、なぜか病院の長い廊下の方に視線を移した。
 「なぁ、久保ちゃん…」
 「ん?」
 「…人を憎むことも、生きる理由になったりすんのかな?」
 「さぁ…、生きる理由は人それぞれだと思うケド?」

 「でもさ、そういうのって…、そういう生き方ってさ…。辛いだけだろ…」
 
 そんな風に少し考え込みながら時任が言ったのは、見舞いに来ていた高本刑事が大島社長を殺害した犯人である野島のことを少し話したからである。
 拘置所で厳しい取調べを受けている野島は、大島社長を殺害した理由を、
 『人殺しのクセに、善人づらしているのが許せなかった…』
と、そんな風に言ったのだと言っていた。
 犯人を憎んで、復習することだけを考えて生きてきたのに…、ようやく見つけた犯人は自分のしたことを深く悔いていて…。その犯人の口から、自分にできるつぐないはなんでもするからとそう言われた瞬間が…、一番、犯人を許せないと思った瞬間だったと…。
 けれどそう言った野島の気持ちは…、時任にはわからなかった。
 野島の言葉を考えながら、時任が冷たく長く続く廊下を見つめ続けていると、そんな時任の髪を久保田の手が軽く撫でる。いつもは文句を言う時任がその手に、じっとおとなしく髪を撫でられていると、
 「失ったモノの大切さもその大きさも、幸せだったってことも…、それに一番気づくのはなくした時かもしれない…。だからとっさにそれを埋めるには…、それを埋めるほどの何かは…、憎しみしか見つけられないのかもね…」
と、そっと囁くように静かに言った。
 それを聞いた時任は何かを言おうと口を開きかけたが…、結局、何も言わないままに松場杖と久保田に助けられながらソファーから立ち上がる。そしてマンションに帰るために病院の出口に向かって…、薬の匂いじゃなくてセッタの匂いの染み付いたあの部屋に向かって歩き出した。
 けれど歩き出した時任を引き止めるかのように、ロビーから鋭い悲鳴が上がる。
 その悲鳴はまるで辺りを切り裂いていくようで…、騒がしくなったロビーを見ているとあのホテルでの出来事の再現のようだった。
 「久保ちゃん…、まさかまた…」
 「二度あることは、三度とは言うけどねぇ…」
 「くっそぉっ、ざけんじゃねぇよっ! あんなのが、三度もあってたまるかっ!」
 「…で、どうするの?」

 「どうするって…、そんなのは決まって…」

 時任は出口に向かっていた足を止めると、騒ぎが起こっている方に振り向こうとする。
 だがそんな時任の横を、勢い良く制服を着た二人の高校生が走りすぎた。
 その二人の内の一人は髪の長い女の子で、すらりとした後ろ姿はモデルのようである。
 もう一人の方は男で、後ろ姿だけなのであまり良くはわからなかったが…。
 どことなくその背中を見ていると、なぜか目に見えない何かを背負っているように見えてくるから不思議だった。

 「どこに行くつもりなのよっ、新一! 今日はお見舞いに来たんでしょっ!」
 「見舞いは後回しだっ。今はそれどころじゃねぇだろっ!」
 「ちょ、ちょっと、待ってよっ!」
 「早く来ねぇと置いてくぞっ、蘭!」

 二人はどうやら、これから事件が起こった現場に向かうらしかった。
 そんな二人の後ろ姿を見送った時任と久保田は、思わずお互いの顔を見合わせる。
 そして、同時にニッと笑みを浮かべると、事件現場ではなく出口に向かって再び歩き出した。
 「俺らは真実を見抜く探偵じゃなくて、強気をくじき弱きを嘲る正義の味方だもんなっ」
 「そういうこと」
 「そんじゃ、謎解きは探偵にまかせて」
 「俺らは帰るとしますか」
 二人が病院の玄関を出るとパトカーのサイレンが聞こえてきたが、時任も久保田も気にせずに呼んであったタクシーの乗り込む。犯行時刻に時任と久保田は現場にいたことになるが、あの二人が事件を解決するのなら、事情徴収に呼び出されることもなさそうだった。
 タクシーに乗り込んだ時任は、運転手に行き先を伝えている久保田に向かって右手を伸ばす。
 すると久保田は前を向いたまま、ゆっくりとその手を握りしめた。
 「久保ちゃん…、どうせ俺が言わなくても赤切ってただろ」
 「なんで?」
 「・・・・・聞く前から、俺が赤が好きだって知ってんじゃんかっ!」
 「あれぇ、そうだったっけ?」

 「とぼけんなっ!!」
 
 そんな風にいつものように笑い合って、微笑み合っていると…、病院へと向かうパトカーの音が近づいてきて、すぐに遠ざかった。
 走り出したタクシーの車窓から見える空は、まるで海のように青く青く目の前に広がっている。
 けれどエンジンの振動に揺られながら瞳を閉じると、あの日に降り積もった白い雪が見えてくるような気がした。
 今も雪のように降り積もりつづける愛しさと恋しさと、消える事のないその想いのように…。

 あの鷺ノ鳥島に降り注ぐ…、白い粉雪が…。


                                            終

                    
『降り積もる雪のように.22』  2003.2.27 キリリク7777

前 へ

キリリクTOP