目の前には、長く長く続く階段だけがある。
 通常の階段は爆発によって破壊されていたため、非常階段を使うしかなかった。
 非常階段はホテルの外壁に鉄筋で剥き出しのまま設置されているため、走っていると強く吹いてくる海から冷たい風に強くあおられてしまう。
 杜刑事と別れてからずいぶんとこの階段を登り続けた気がしたが、立ち止まらずに上を見上げると階段は暗がりに向かって続くばかりで終りは見えなかった。
 時々、爆発のために階段がゆらゆらと揺れて、そのたびに少し駆け上がる速度をゆるめなくてはならない。だが爆発の振動に足を取られそうになりながらも、間に合うとか間に合わないとかそんなことを考えたりはしなかった。
 ただ早く時任に会いたい気持ちだけが…、それだけが胸の内にある…。
 あせる気持ちを握りしめた拳の中に押さえ込みながら、久保田はただひたすら上を目指していた。何も考えずにひたすら上だけを…。
 そばにいてやれなかったことを後悔するより、走って走り続けて早くそばにたどり着きたかった。
 早くたどりついて、温かい身体を抱きしめながら…、来るのが遅いって…、そう言いながらも笑ってくれてる時任の顔を見たかった。
 だから、どんなに苦しくても息が切れでも、立ち止まっている余裕はない。
 久保田が爆発の振動にバランスを崩して、右手で階段の手すりを触るとそこからは冷たさだけが伝わってきた。その冷たさを感じながらじっと暗闇を睨みつけると、時任を最上階に閉じ込めた犯人の声が脳裏によみがえってくる。
 その声を聞いた時に感じたのは、凍りつくような底知れぬ殺意だった。

 『…最初から最上階まであがって助けてる暇なんかなかったんだよっ!』

 犯人の口から時任の居場所を聞き出した瞬間、足の下で脈打っている心臓を止めることに躊躇も迷いもなかった。杜刑事が叫びながら止めようとする声も、遠くから聞こえてくるだけで何を言っているのか意味さえもわからなくて…。
 ただ何もかもが色を失って、マヒしていくような感覚だけが…、久保田を捕らえていた。
 激しい爆音の中で、世界が温度を亡くして凍り付いていく…。
 足元で何かが砕ける感覚がしたが、もうどうでもよかった。
 ただ聞こえてくる悲鳴が耳障りだったから、それを止めるために足に再び込めようとする。
 だがそうしようとした時、すぐ近くで聞き覚えのある声がした。

 『・・・・・久保ちゃん』

 そう呼びかけてきた声は聞こえてくるはずのない声で…、それは頭の片隅でちゃんとわかっている。けれどその声を聞いた久保田は、力を込めようとしていた足を止めた。
 まだ終わってない…、何も終わってなんかないから…。
 そうその声が言ってくれてる気がして、そう言ってる気がして…、久保田は震える右手で自分の髪を軽く掻きあげて長く続く廊下の先を見た。
 そこには何も見えては来なかったが、まだきっと上へと続く道は残っている。
 だから、まだ何も終わってはいなかった。
 「俺が行くまで…、待っててくれるよね?」
 久保田は何もない空間に向かってそう呟くと、杜刑事に伝言を残して走り出した。

 大切な人のいる場所を…、自分の想いのある場所を目指して…。

 けれど爆発で崩れ落ちた壁や瓦礫を乗り越えて、非常階段を休む間もなく駆け上がりながらも…、死ぬことを覚悟したりはしなかった。
 たどり着けなかったらなんて、そんなことは何も…。
 もしかしたらそれは…、時任を助けたいとかそういうことなんかじゃなくて…。
 本当にただ…、そばに行きたかっただけだからなのかもしれない。
 だから誰よりも近くに…、誰よりもそばに…。
 時任のそばに行けるなら、そこがどこでもかまわなかったから…、たどりつく先が終りでも終りじゃなくてもどうでも良かった。
 そばにいること、一緒にいること…。

 それだけが願いで…、どんな時でも願い事は一つだけしかなかったから…。

 荒く息を吐きながら階段を登り切ると、目の前に折れ曲がった鉄筋が見える。
 そんな風になっているのは、爆発のために途中で階段が吹き飛んでしまってたからだった。
 非常階段を登り切っても、まだここは時任のいる最上階じゃない。
 久保田は歪んで開きにくくなっているホテル内への扉を勢い良く蹴破ると、煙の漂うコンクリートの瓦礫の散乱した廊下を再び走り始めた。
 上へと登る階段を、その場所を探しながら…。
 すると煙の向こうから、久保田の方に向かって人影が近づいてくるのが見える。
 久保田が目を細めながらその人影を見たが…、それは時任ではなかった。

 「く、久保田せんぱーいっ!!!」
 「そんなまさか・・・・・・」
 
 煙の中から現れたのは、時任と一緒に捕まっていると思われていた藤原と蘭だった。
 藤原はうれしそうに手を振っていたが、蘭は驚いたような顔をした後、複雑な感情を含んだ瞳を久保田に向けている。
 しかし久保田はその視線を無視すると、少しだけ二人の前に立ち止まった。

 「ホテル内の普通の階段は破壊されてるけど、たぶんまだこの先の非常階段でなら一階に下りられるから…」

 立ち止まった久保田は二人にそれだけ言い残すと、再び上を目指して走り出そうとする。
 だがそんな久保田の前に、藤原が立ちふさがった。
 まるで、時任のそばに行こうとする久保田の行く手を阻もうとするかのように…。
 二人の横で蘭が慌てていたが、藤原は目の前にいる久保田をじっと見つめた。
 「時任先輩は最上階の部屋にいます…」
 「知ってるよ」
 「でも信じたくないけど、もうダメなんです…、間に合わないんです…」
 「・・・・・・・」
 「部屋の前が爆発で大きな穴が開いていて…、時任先輩は足をケガしてて…、だから…」

 「だから、置いてきちゃったの?」

 淡々とした久保田の言葉に、藤原が少しだけうつむいた。
 けれど久保田は事実を言っただけで、藤原を責めたりはしていない。
 もしも責めるとしたら、肝心な時にそばにいてやれなかった自分だった…。
 時任がケガをしていると聞いた瞬間に、久保田の鼓動が少しだけ早くなる。
 ケガの具合はハッキリとはわからないが、藤原の話からするとかなり酷いようだった。
 おそらく、時任は自力では動けない。そう確信するのは、時任がもしも動けるなら這ってでも脱出しようとするに違いなかったからだった。
 久保田は藤原の横をすり抜けると、再び走り出そうとする。
 しかし、再び顔を上げた藤原が何かを伝えようとするかのように、久保田の腕を手で強くつかんだ。
 「このまま上に行けば久保田先輩まで死んでしまいます…。でも、今ならまだ・・・僕と一緒に降りれば間に合います。死ぬとわかっていて、行かせることなんかできませんっ。お願いですから一緒に逃げてくださいっ」
 「腕、離してくれない?」
 「久保田先輩が死ぬことを時任先輩だって望んでませんよ…、きっと…」
 「それが何?」
 「それがって…」
 「時任が望んでも望んでなくても、俺には関係ないから…」
 「・・・・・・・・っ」
 関係ないと言い切った久保田に、藤原が唇を噛みしめる。
 すると久保田は藤原の方ではなく、これから走って行こうとしている先を見つめて口元にわずかに笑みを浮かべた。しかし笑みを浮かべた口元とはうらはらに、瞳はあまりに遠くを見つめすぎていてどこか哀しみを含んでいる。
 その笑みを見た藤原がゆっくりと久保田の腕から手を離すと、そんな二人の様子を見ていた蘭が久保田の前に立った。
 「貴方は時任君のことなんて、少しも心配なんかしてなかったはずなのに・・・・、どうして…、どうしてそんな風に笑うんですかっ!」
 「心配はしてたよ…、ずっとね…」
 「ウソよっ!! だって貴方は事件のことばかりで…っ!」
 「事件を解決したのは、時任がそうしたいって思ってたから…。だから、ホントは事件が終わってくれるなら、犯人はアンタでも誰でも良かった」
 「だ、誰でも良かったなんて、そんな…」
 「俺は探偵になんかなりたくないし、警察からの感謝状も欲しくない…。俺が欲しいのはたった一つ真実じゃないから…」
 「・・・・・だったら、貴方の欲しいものは何なの?」

 「この世でたった一人の…、抱きしめてたいヒト…」

 久保田はそう一言だけ言い残すと、蘭の横をすり抜けて走り出す。
 すると、時任の元に向かおうとする久保田の背中に向かって蘭が泣きながら叫んだ。
 「私も時任君のそばにいたかったっ! 離れたくなんかなかったっ! けど…、けど時任君が待ってるのは私じゃなくて貴方なの…っ! だからお願いっ! 時任君を助けてっ!!」
 涙に震えた蘭の声が廊下に響き渡ると、そんな蘭の後ろから藤原が叫ぶ。
 その叫び声は、蘭と同じように泣き声に近かった。
 「必ず帰ってきてくださいっ! 時任先輩と一緒にっ!! 戻って来なかったら許さないって…っ、そう時任先輩に・・・・!!」
 二人の声が届いたかどうかはわからなかったが、久保田は背中を向けたまま一度も振り返らずに、蘭達が降りてきた階段のある場所へと廊下を曲がって姿を消す。
 すると、蘭は泣き崩れるように瓦礫の散乱した床に膝をついた。
 「どうして…、どうして平気な顔して走って行けるの…」
 「・・・・・・蘭さん」
 「間に合って欲しいって、死んで欲しくないって思ってるし…。必ず無事で戻ってくるって信じてるわ…、でも、私はあんな風に走っていけない…」
 「・・・久保田先輩と時任先輩について、僕が言えるのはたった一つだけです」
 「・・・・・・・・」

 「二人で一緒にいることが、自然で当たり前だって…、それだけなんですよ」

 藤原はそう言うと、床に膝をついている蘭の肩になぐさめるように軽く手を置いた。
 このままここに立ち止まっていてたら、自分を置いて逃げろと言った時任の気持ちを無駄にしてしまうことになる。藤原の助けを借りて立ち上がると、蘭はもう一度だけ久保田の走り去った先を見てから、非常口に向かって走り出した。
 時任とした約束を思い出しながら…。
 けれど前に向かって走り出しても、蘭の涙は止まらなかった。


                     
『降り積もる雪のように.21』  2003.2.20 キリリク7777

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