生活指導室のドアを開けると、そこに待っていたのは平井ではなかった。
 身構えていただけに、時任が拍子抜けしたような顔をしている。
 そんな時任に向かって、
 「よう、なんか面倒なことになってるらしいなぁ」
と、言ったのは三文字だった。
 三文字は前回ここに来た時にいた教師と同じく生活指導を担当している教師で、何かと執行部と縁のある人物である。あの頼りない教師ではなく、三文字が出てきたということは事態は更に深刻になったと見ていい。
 三文字の手には一通の封筒が握られていた。
 「密告とか怪文書とか、そおいうの送られてきちゃいました?」
 「相変わらず鋭いな、久保田」
 「自分の身は自分で守る主義だもんで」
 久保田が肩をすくめてそう言うと、三文字は苦笑しながら持っていた封筒を二人の前に差し出す。
 受け取った久保田が封筒を開けると、その中には三枚の写真と一枚の紙が入っていた。
 写真は三枚とも時任と久保田がうつっている。
 しかも、ラブシーンというオマケつきで。
 「な、なんだよっ、コレっ!!!」
 「うわぉ、結構濃厚ね」
 「ふざけてる場合かよっ!」
 時任は顔を真っ赤にして怒っていたが、久保田はじっと冷静に写真に見入っていた。
 三枚の内、二枚は校内、一枚は壁しか見えないので不明。
 一見、何も考えずにイチャついているようで、久保田はちゃんと時と場所を考えている。
 記憶している限りでは、こんな写真を取られるようなヘマはしていなかった。
 「合成だけど、よく出来てるなぁ」
 「よく出来すぎてて、合成だって証明できねぇだろ?」
 「ん〜、確かに。技術の進歩も問題モノだぁね」
 「で、問題なのがもう一つある」
 「あぁ、コレね」
 写真と一緒に同封されていた紙に印字されていたのは、
 『時任稔と久保田誠人は同居ではなく、同棲している』
という、簡潔な文面だった。
 一応、荒磯高等学校では不純異性交遊もしくは、同性交遊は禁止されている。
 付き合っているくらいなら黙認だが、同棲しているとなればちょっと状況が異なってくるのだ。
 「俺は事実がどっちだとしてもかまわんが、世間はそう思ってはくれないだろうしな」
 「ココロが広いね、三文字センセ」
 「そうでもないさ」
 時任を抜きにして久保田と三文字が内容とそぐわないくらいのんびりと話していると、その二人の間に時任が割って入った。
 「それでっ、結局なにがどうだってんだよっ!!」
 どうやら時任には話が見えていないらしい。
 三文字は久保田の方から時任の方に向き直ると、きっぱりと事実を告げた。
 「今日呼び出したのは事実の確認ってヤツだが、どちらにしろ近い内に同居をやめるように注意が来る。つまり、お前ら二人の同居が問題になってんだよ、時任」
 「そんなの俺らの勝手じゃんっ! なんで、んなこと言われなきゃなんねぇんだよっ!!」
 「そうなってんだから仕方ねぇだろ。ヘタに逆らえば退学だぞ」
 「なっ!!」
 退学と言われて、さすがに時任も事の重大さを感じたらしく黙る。
 どうやら、本当にこれは冗談では済まない気配がしていた。
 「コレを送ってきた人物に心当たりあるか?」
 「あるにはあるけどね」
 「シッポはまだつかめてないか…」
 「まっ、そんなトコ」
 「…手伝えることがあるなら」
 「お気持ちだけ頂いときます」
 二人に協力しようという三文字の申し出を、久保田は丁重に断わった。
 それは、今回の場合相手が相手だけに三文字にまで被害が及んでしまう可能性があるからである。
 あまり知られてはいないが、実は平井は現荒磯高校校長の甥。
 私立なだけに、やはりそういう関係は侮れないのである。

 それから一週間して、本当に二人の元に同居をやめるようにとの厳重注意がきたのだった。



 
 「久保ちゃん、どうする?」
 「どうしよっか?」

 部屋のリビングで、時任と久保田はお互いの背中にもたれながら座っていた。
 顔が見えないので表情は見えないが、その分体温が伝わってくる。
 二人は時々こういう姿勢でいる時があった。そういう時は久保田が本を読んでいて、時任はぼーっとしていることが多い。
 しかし今日は、二人とも何もせずにこうして座っていた。
 やはり学校が言ってきた同居の件が、二人を悩ませているのである。
 同居を止めない場合は、停学。停学が終わっても同居していた場合は、退学。
 学校側が通知してきた内容はかなり厳しいものだった。
 男同士とはいえ、校内に同棲している者がいるという前例を作りたくないらしい。
 「ほとぼりが冷めるまで別居する?」
 後ろ手で時任の手をつかまえながら久保田がそう言うと、時任の身体が小さく揺れる。
 すると久保田はきつく時任の手を握った。
 「ねぇ、時任」
 「…なに?」
 「このままだとしばらく相方解消して学校で別行動するか、別居するしかないと思う」
 「・・・・・・」
 「時任と離れたくないケド」
 「うん…」
 「今のトコ方法がないから」
 写真は合成でそういう関係じゃないと否定するなら、しばらく一緒に行動することは控えた方がいいだろうし、そうしないならほとぼりが冷めるまで別々に暮らした方がいいだろう。
 どちらにしろ、しばらく離れ離れにならなくてはならなかった。
 「わかってる…」
 時任はそう言うと、久保田の手をぎゅっと握り返す。
 その手はわずかに震えていた。
 「時任」
 「…ちょっとの間だけだもんな」
 泣きそうな時任の声。
 その声を聞いた久保田は、振り返ってゆっくりと時任を抱き寄せながら、その柔らかい髪にキスをして肩口に顔を埋める。
 時任はそんな久保田の腕に身を任せながら、背中にそっと腕を回した。 
 「しょうがないって、ちゃんとわかってる。わかってんだけど、やっぱさ…」
 「うん」
 「久保ちゃんのコト困らせるってわかっててもさ」
 「うん」
 「ココにいたいし…、相方も解消したくない」
 「…時任」
 「なんて…、やっぱウソ」
 唇を噛みしめて、泣くのをガマンしている時任の気配が久保田に伝わってくる。
 久保田を困らせたくなくて、しばらく離れることを承諾した時任に、久保田は背中を優しく撫でてやりながら何かを考えるように目を伏せた。
 二人が出会ってここで暮らすようになってから、一日以上離れていたことなどない。
 それは、目を離した隙にいなくなるのではないかという不安のあらわれとも取れた。
 少しの間とはいえ離れていて、その不安と焦燥に耐えられるのかどうか、さすがの久保田も自信はない。いくら約束しても、気持ちを確かめ合っても、時任が自分から離れていかないという保障はどこにもないのである。
 久保田は閉じていた目を再び開けると、抱きしめていた時任の身体をゆっくりと自分から引き離した。
 「今日明日のことじゃないし、まだ時間あるから離れないで済む方法考える」
 「えっ?けどさ…」
 「大丈夫だから」
 「久保ちゃん?」
 さっき、離れるしかないと言ったのは久保田自身だったのに、今度は離れないで済む方法を考えるという。久保田は大丈夫だというが、時任は不審そうな顔をしていた。
 平井の弱点を握ってるいうなら話はまた変わってくるのかもしれないが、今の所そんな様子はない。けれど、久保田が時任にそう言うのだから本当なのだろう。
 「無茶はすんなよ」
 時任がそう釘を刺すと、久保田は苦笑して頷いたのだった。


 

 二人が住んでいるのはマンションの最上階だが、やはりそれ以外の階にはちゃんと住人がいたりする。
 コンビニに買い物に行くと言って部屋を出た久保田は、別の階の廊下を歩いていた。
 いつも真っ直ぐ最上階まで行ってしまうし、他の階の住人に知り合いもいないため、こうやって別の階を歩くのは始めてと言っていいが迷うことなく歩みを進めている。
 だが、ある一室の前に到着した久保田はピタッと足を止めた。
 「さて、行きますか」
 そう言った久保田は、その部屋のチャイムを鳴らす。
 しばらくすると、インターフォンから声がした。
 『はい、誰?』
 「宅配便です。お届けものが来てますけど?」
 『今開けます』
 もちろん久保田は宅配のバイトなどしていないが、その部屋の住人に平然とウソをついてドアが開けられるのを待っている。久保田が立っているのは、ちょうど魚眼レンズの死角になる場所だった。
 「あれ?さっき確かに…」
 ドアを開けた住人が魚眼レンズから誰も見えないので不思議そうにそう言ったが、本当にいないかどうか確認するべく音を立てて玄関のドアが開けられる。
 その瞬間を狙っていた久保田は、ドアが閉められるのを防ぐために強引に足を入れた。
 驚いた住人がドアを閉めようとするが、久保田は強引に身体をすべり込ませるとドアチェーンを外す。
 「な、なんだっ!?」
 叫び声をあげた住人に向かって、久保田は軽くおどけたように肩をすくめて見せた。
 「こんばんわ、平井センセ」
 「く、久保田っ!!」
 この部屋に住んでいたのは、時任をなぜか目のカタキにしている平井だったのである。
 久保田はそれを知っていて、ここに来たのだった。
 「な、なぜここがわかった?」
 いきなりあらわれた久保田に驚いた平井が、かすれた声でそう言うと、
 「さぁ、なんでわかったのかなぁ?」
と、言って冷たく微笑む。
 実際、平井が職員名簿に載せた住所は空家になっている場所を借りていたし、ここから通勤してはいたが車で行き来しているので、発見される可能性は低いはずだった。
 たが、こうして久保田は平井の部屋を探し当てている。
 納得いかないという顔で平井が久保田を見ていると、久保田はポケットから一枚の写真を取り出した。
 「さて、これはなんでしょう?」
 「それは…」
 「そう、俺と時任のらぶらぶツーショット写真」
 「そんなモノと何の関係があるんだ!?」
 「実は三枚送られてきたのは全部学校で撮ったみたいに見えるけど、実はその内の一枚だけ、合成じゃなくて本物なんだよねぇ?」
 「俺が知るわけないだろうっ!」
 「おっかしいなぁ。撮った本人が知らないなんて」
 「撮ってなどない!」
 久保田は平井が撮ったと断定しているようだが、平井は否定している。
 このまま撮った撮らないと会話は平行線をたどるように思えたが、久保田が写真の一部分を指し示すと平井の顔色が少し青くなった。
 「後ろに写ってる壁なんだけど、ここの所の影の部分。よーく見ると数字に見えるっしょ。これって俺らの住んでる階と部屋番号なんだよねぇ。こんな場所でこんな写真、タイミング良くとれる人物なんて限られてるっしょ?マンションの住人名簿調べてもらったら案の定ってワケ」
 「も、もし、それが俺の撮ったものだとしても、それが何だ? 俺は何も悪いことはしてないぞ。お前らは本当に同棲してるんだからなっ」
 「確かに俺と時任はそーいう関係ですけどね」
 「・・・・・・」
 久保田は平井に同棲している件を言われると、迷うことなくあっさりと時任との関係を認めた。
 それが意外だったのか平井はわずかに目を見開いたが、その後、なぜか複雑そうな顔で俯く。
 やはり、生活指導室と同じでどこか様子がおかしかった。
 「く、久保田」
 「まだ何か言いたいことでも?」
 平井の呼びかけに久保田が切り捨てるようにそう言う。
 すると平井は、意を決したように顔をあげて久保田の顔を正面から見た。
 「…俺のこと覚えてないのか?」
 「はぁ?」
 「俺は昔、お前に会ってるんだ」
 「全然覚えありませんケド?」
 突然、会ったことがあると言い出した平井に、久保田はきょとんとした顔でそう応じる。
 平井は本当に覚えていないらしい久保田を前にして、苦しそうにうめいて唇を噛みしめた。
 けれど、そんな平井を見ても久保田は一向に平井のことを思い出さない。
 どうやら、記憶の片隅にも残っていないようだった。
 平井は深く息をつくと、何かを訴えかけるような瞳で久保田を見つめる。
 久保田は相変わらず冷ややかな視線を平井に送っていた。
 「俺が大学を浪人してた頃、お前はまだ中学生で。その頃、俺はお前が住んでる近所に住んでたんだ。それで…」
 「・・・・・」
 「お、俺はいつも見かけるお前のこといつの間にか好きになってて、それで告白したんだ」
 「迷惑だなぁ」
 「…当時のお前も同じことを俺に言ったよ。迷惑だって…。俺は男だし、フラれるのは覚悟してたさ。けど、誰か好きなヤツとかいるのかって俺が聞いたら、そういうのに興味ないからだって言ったんだ。だから俺はあきらめたのに…、なんで付き合ってるんだっ!しかも男と!!」
 「で、逆恨みして時任をイジメめたワケ?」
 「あんなヤツ、久保田にはふさわしくないっ!」
 「・・・・・・」
 「俺はあいつより、先にお前に会ったんだ!」
 「一度と言わず、三度くらい死んでみる?」
 自分の方に腕を伸ばしてきた平井の腹に、久保田はそう言って容赦なく拳を繰り出す。
 そして、その拳を受けて転がった平井のわき腹を勢い良く蹴り上げた。
 「ぐぉっ!!」
 「まさか、これっくらいで音を上げたりしないよねぇ?」
 「や、やめてくれっ!!」
 「結構、重罪なんだよねぇ、アンタのやったコトって。だからさ、それなりの覚悟してもらわないと困るんだけど?」
 「がぁっ、ぐっ!!」
 「あぁ、一言いっとくけど、会った順番なんてカンケイないんだよねぇ。何番目に誰と会っても、どんな会い方したとしても、俺は時任以外選ばないから」
 「く、久保田…」
 「俺には時任以外いらないしね。だから、俺の邪魔するなら、アンタくらい平気で消しちゃうよ? 試しに消えてみる?」
 「こんなことして、ただですむと…」
 久保田に凍りつくような瞳で見下ろされて、平井の言葉が途中で止まる。
 そんな平井を見て、久保田は口の端を吊り上げて冷たく微笑んだ。
 「なーんてのは冗談だけど、さっさとこのマンションから出てっちゃってくれる?そうしないと、冗談だって保障できないよ?」
 「…学校にいられなくしてやる」
 「ご自由にどうぞ。ただし、時任に手出しした時は、この程度じゃすまないからそのつもりで」
 骨折などはないものの派手にボコボコにされた平井は、恨みに満ちた目で久保田を見ている。
 さすがにここまでやられたせいで、長年の恋心も冷めてしまったようだった。
 「そんじゃま、そういうことでヨロシク」
 やられた傷が痛くてうめいている平井に向かってそう言うと、久保田は一通の封筒をポイッと投げて部屋を出る。
 封筒の表には、退学届と書かれていた。
 「やっぱ怒るよねぇ?」
 時任のことを思い出しつつそう呟くと、久保田は買出しをするためにコンビニに向かったのだった。





 翌日は天気は良かったが、浮いている雲が雨雲に見えなくもないどことなくおかしな天気だった。
 そんな中をいつものように登校した時任と久保田だったが、一時間目の授業が何か気づいた時任は思いっきり顔をしかめた。
 「朝っぱらからアイツの嫌な顔見なきゃなんねぇのかよっ!」
 「まあまあ、押さえて」
 「くそぉっ!」
 久保田になだめられて時任が席に着くと、いつも通りに一時間目の授業が開始される。
 だが、数学の授業をするために教室に入ってきた平井を見て、教室内にどよめきが走った。
 平井の顔には青アザができており、他の場所も怪我しているらしくどことなく動作が鈍い。
 そんな平井を見た時任と桂木は、同時に久保田の方を見た。
 けれど久保田は平井の方など少しも見ておらず、じっと窓から外を眺めている。
 時任と桂木は事実の確認をあきらめて黒板の方を向いた。
 教科書をパラパラと開く音が室内に響き、いつものように教科書の内容にそって授業が進んでいく。 そんな中で、やはり前に出て黒板で問題を解く段になると時任の名前が呼ばれた。
 「時任、前に出て来いっ!」
 いつものことなので、クソッと思いつつも時任が前に出ようとする。
 けれど怪我が原因しているのか、時任を見る平井の目は恐ろしく険悪だった。
 これはただでは済みそうにない。
 「ったく…」
 そう呟いて時任が前に出ようとすると、それより先に何者かが黒板の前に立っていた。
 どうやら、問題を解くつもりのようである。
 その何者かはスラスラとよどみなくチョークを走らせると、くるっと向き直って平井の方を見た。
 すると、平井は血走った目で時任の代わりに問題を解いた人物、久保田誠人を睨んだのだった。
 「時任にやれと言ったんだぞ」
 「合ってるんだから、問題ないでしょ?」
 「退学届を出してやるっ」
 「だから、どうぞご自由に?」
 平井が睨んでも久保田は平然としている。
 そんな久保田に痺れを切らせた平井が、無謀にも久保田を殴りかかろうとすると、その間に時任が割って入った。
 「てめぇっ! 久保ちゃんに手ぇ出したらぶっ殺すっ!」
 「お前も退学だっ!!」
 久保田をかばうように立ちはだかった時任に平井がそう怒鳴ったが、時任はそれを軽蔑したような目付きで見ると、
 「あっそう、勝手にすれば?」
と言う。
 そして時任は一枚の封筒を平井に投げつけた。
 「時任」
 「ゴメンな久保ちゃん」
 「いつ書いたの?」
 「久保ちゃんがコンビニ行ってる隙に書いた」
 投げた封筒には退学届と書かれている。
 時任は久保田と同じく、昨日の時点で退学届を書いていた。
 「一緒にいられないなら、ガッコなんか行かなくていい!だってさ、久保ちゃんと比べるモノなんか何にもあるワケねぇじゃんっ! 俺はどうしてもなんででも、何があっても何が起こっても絶対に久保ちゃんと一緒にいてぇのっ!!」
 始め久保田は学校にいられることを前提でどうするかを考えていた。
 けれど実は、時任は始めから久保田と一緒にいられることを前提でずっと考えていたのである。
 「…時任」
 「久保ちゃん?」
 「行くよ」
 「えっ、わぁぁっ!」
 久保田は強引に時任を抱きかかえると教室を出て廊下を走り出す。
 そんな二人を追って平井も教室から出ようとした。
 「二人とも止まれっ!! 授業中だぞっ!!」
 けれど、平井は教室から出ることができず、ドアの前で止まる。
 ドアの前には桂木を筆頭とした、三年六組の生徒達が立ちはだかっていた。
 「これ以上あの二人を邪魔すると、あたし達が許さないから覚悟してくださいね」
 険悪な笑みを浮かべた桂木と同じくやる気に満ちた生徒達を見た平井は、ガックリとうなだれてその場にしばらく立ち尽くしたのだった。


 「お、降ろせよっ、久保ちゃんっ!」
 「いいから、もうちょっとガマンしなさいって」


 久保田は時任を抱きかかえたまま、廊下を走り階段をのぼる。
 平井から逃げるというだけではなく、何か急いでいるようだった。
 そんな久保田に時任は首をかしげていたが、バンッと勢い良くドアを開けて屋上に到着した途端、その謎が一気に解ける。
 屋上に出ると霧雨が二人の頭や肩を濡らした。
 「久保ちゃん」
 「うん」
 「虹だ…」
 時任は久保田に抱き上げられたままその首にしがみついて、陽光に照らされて七色に光っている虹を眺める。虹は完全な形で半円を描いていた。
 七つの色が鮮やかにキラキラと輝いて見える。
 その姿はとても幻想的で、とてもこの世の産物とは思えない。
 浮かび上がっているように見えるため、それは本当に橋のように上を歩いて渡れそうだった。
 「すっげーキレイだな。ウソみたいにキレイ」
 「そーだね」
 「渡れたりとかしたらいいのにな」
 「時任なら渡れそうな気がするケド?」
 「どーいう意味だよ、それ?」
 「さあ?」
 久保田が微笑んでそう言うと、時任も同じように微笑んでそれを見返す。
 二人の視線が絡み合った瞬間、二人はどちらからともなく唇を寄せた。
 まるでベールのように霧雨が降り注ぐ中、二人は夢中になってキスし合う。
 辺りからは雨の匂いがしていた。
 「…サンキュ、久保ちゃん」
 キスの合間に時任が礼を言うと、久保田は苦笑して時任から唇を離す。
 すると時任が久保田の目蓋に唇を落とした。
 「せっかく礼言ってんのに、なんて顔してんだよっ」
 「ん〜、だってさ。礼を言わなきゃならないのは俺の方だから」
 「なんでだよ?」
 「俺のコト選んでくれてありがとうって」
 「当たり前だろっ、バカっ!」
 バカといわれたのに、久保田は柔らかく優しく微笑んでいる。
 時任もそんな久保田にふわっと微笑みかけた。
 「好きだよ、時任」
 「俺も好き、すっげぇ好きだから。それ、忘れんなよっ」
 「うん」
 光を湛えた虹は、次第に薄れていってその形を失っていったが、二人は未だ降り注ぐ霧雨の中をお互いを決して離すまいとするかのように抱きしめ合っていた。




 平井は荒磯に来る前も、他の学校で問題を起こしていたらしく、教育指導の行き過ぎということで処分を受け、別の学校に転任していった。
 この処分については、時任と久保田の証言の他に桂木と三年六組全員の証言が証拠になったようである。
 もちろん、二人の退学届は無事に回収されたのだった。

 「ああいうことがあったんだから少しは気をつけなさいよねっ、まったく」

 平井が転任した後のある放課後、生徒会室のドアを開けた桂木が中にいる人物に向かってそう言ったが、その声は小声過ぎて届いていないようだった。

                          『虹の向こうに 後編』 2002.6.3 キリリク7716

中 編

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