朝の登校時間。
 時任と久保田はいつものように、二人並んで生徒用玄関へと向かっていた。
 今日は朝から太陽が強く照り付けていて暑いので、時任はぐったりした顔をしている。けれど久保田は、平然とした顔をしてのんびりと歩いていた。
 「久保ちゃん、暑くねぇの?」
 「ん〜?別に」
 「…あっそう」
 体温が高い時任とは反対に、久保田は体温が低い。
 そのせいかどうなのかはわからないが、久保田は真夏でも暑そうな顔をしたことがない。
 実際、聞いてみると暑いらしいのだが、その表情からは判断できなかった。
 「時任、久保田君、おはよう」
 二人で下駄箱の前で上履きに履き替えていると、その背後から声がする。
 それは、二人と同じ執行部員の桂木だった。
 「よう、桂木」
 「おはよ、桂木ちゃん」
 学校広しと言えど、時任と久保田に声をかけられる女子は桂木だけである。
 時任は置いておくとしても、久保田に話し掛けられるというのはかなり貴重だが、だからと言ってこの二人の間に恋愛感情が生まれることはない。それがわかっているのかどうかはわからないが、大勢いるだろう久保田のことを想っている女子、もしくは男子の恨みを買ってはいなかった。
 それはやはり、人徳というものもあるのかもしれない。
 「何、朝っぱらからぐったりしてんのよ」
 そう桂木が時任に言うと、時任は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
 「暑いんだよっ」
 「まあ…、暑いのは暑いわよね」
 「だろっ」
 時任は桂木が暑いことに同意したので、納得したようにうんうんと頷く。
 そんな時任を見た久保田は、その肩を抱くように手を伸ばした。
 「時任はお子様体温だからねぇ」
 「なんだよ、ソレっ」
 「あったかいなぁって、そーいう話」
 「バカにしてんだろ」
 「いんや、その逆なんだけど?」
 「…どうでもいいけど、手ぇ放せよ」
 「なんで?」
 「暑いっ!」
 「それくらいで放せなんて、傷つくなぁ」
 「それっくらいで傷つくなっ、バカ」
 放せと言いつつ、時任は久保田の手を振り払わないでそのままにしている。
 久保田は微笑んで時任を見ているし、時任も照れくさそうな顔して久保田の顔を見上げていた。
 そんな二人から漂ってくるのは、朝っぱらから胸焼けしそうなくらい甘ったるい空気である。
 「…今日も暑くなりそうだわ」
 桂木は肩をすくめると、ふざけ合いながら歩いている時任と久保田を追い越して教室に向かったのだった。




 私立荒磯高等学校、三年六組。
 校内で一番有名なクラスである。
 その理由は、誰しもが知っている有名人二人がこのクラスにいるからだった。
 だが、その有名人の内、一人は授業中だというのに机に突っ伏して眠っている。
 もう片方は一応起きてノートを取っていた。
 寝ている方が久保田誠人、起きている方が時任稔。
 二人は生徒会執行部でコンビを組んでいる。
 だがそういう理由がなくとも、一緒にいるのが当たり前のような感じのする二人だった。
 
 「時任、前に出て問題を解け」
 「クソッ、またかよっ」
 「文句を言わずに出て来い」
 
 二時間目の数学の時間。
 黒板に書かれた数式を前に、時任はぶすくれていた。
 今習っている所なので考えればなんとかわからないことはないが、産休に入った教師の代わりに来た平井という数学教師が、なぜか授業のたびに自分に当てるのでかなりムッとしている。
 始めは偶然かと思っていたが、こう毎時間ではやはり故意としか思えなかった。
 クラスメイト達もそれに気づいていて、また今日も黒板の前に立っている時任について隣とコソコソ話している者が多い。
 そんな生徒達に気づいているのかいないのか、平井は問題を解いている時任のそばに立って、イライラしたような様子で黒板を眺めていた。
 「そこの計算が間違ってる。こんな簡単な計算もできないのか?」
 「うっせぇなっ、今解いてる途中だろっ!」
 時任は真面目に問題を解いていたが、それでも平井は時任に文句をつける。
 しかもその文句はいつもどうでもいいようなものだったり、言う必要のない些細なことだったりするので、個人的に恨みでもあるのかと傍目から見ても思うくらいだった。
 けれど、時任と平井の過去にはどう考えても接点がない。
 さすがの時任も、授業中に教師を殴るわけにもいかず、切れそうになるのを耐えながら授業を受ける日々が続いていた。
 
 「なーんか、知らない内に恨みでも買ってんじゃないの?」
 
 放課後の生徒会室でちょうど平井の話題になったので、桂木がからかうような口調でそう言うと時任が嫌そうに顔をしかめた。
 「買ってねぇよ、ほんの数週間前に会ったばっかじゃん」
 「けど、わかんないでしょ?」
 「知るかっ」
 そんな時任と桂木のやりとりを聞いていた相浦は、
 「ちょっとこれを見てくれよ」
と言って、その二人の前に平井のプロティールの書かれた紙を前に置く。
 執行部の面々は、一人を除いてその紙に見入った。
 「え〜と、なになに。年齢は26歳、身長187センチ体重…」
 「違います、室田。そこじゃないでしょう」
 「ああ、悪い悪い」
 内容を読み上げようとした室田を、松原が止める。
 すると室田は咳払い一つして、重要な部分を読み上げた。
 「荒磯中学及び高校を卒業後、大学に進学…。現住所はここまで徒歩で通える範囲内だなぁ。独身だが、教員用の寮には入ってない。わざわざそれより遠い場所にアパート借りてる」
 荒磯の卒業生ということで一見接点がありそうに見えるが、年齢が違いすぎるので在校中に時任に合うことはないだろうし、そしてなにより時任は高校からしか荒磯に通っていない。ここより前にどこにいたかのかさえ不明だった。
 久保田は知っているのかもしれないが…。
 「ホントに接点ないのね。ひと目見て気に入らなかったとかってレベルなわけ? なんとなくわかる気もするけど」
 「気にいらねぇのは俺の方だっつーのっ!」
 桂木の言葉に過剰反応して時任が怒鳴る。
 すると執行部の面々は、作ったようなわざとらしい気の毒そうな顔をした。
 「まあなんにしても、これ以上エスカレートしないことを祈るのみね」
 「うわ〜、気の毒」
 「がんばってくださいね、時任」
 「その内、その教師も飽きるだろうし」

 「てめぇらっ、面白がってるだろう…」
 
 『気のせいだって』
 全員の声がハモる。
 やはり時任が言うように、全員が面白がっているらしかった。
 そんな執行部の面々を眺めつつ、久保田がセッタの煙をふーっと吐き出した時、勢い良く部室のドアが開く。そこからバタバタと入ってきたのは、執行部補欠の藤原だった。
 「おっそいわよっ、藤原」
 「そう怒鳴らないでくださいよ、ちゃんと用事あって遅れたんですからっ」
 遅刻したことを桂木に怒鳴られると、藤原はムッとした顔で桂木にそう言った。いつもはあせって言い訳をする藤原がこうはっきり言うということは、用事があったというのは事実らしい。
 「用事って何よ?」
 そう桂木が尋ねると、藤原は肩をすくめて、
 「平井って先生に呼びとめられたんですよ。時任先輩と久保田先輩こと聞かせてくれって言われて…」
と言った。
 その発言に、桂木は不審そうな顔をし、相浦は考え込むように顎に手を当てる。
 松原と室田はお互いの顔を見合わせた。
 「どうしたんです、一体?」
 「なんでもねぇよっ!」
 「怒鳴らないでくださいよっ、相変わらず野蛮な人ですねっ!」
 「うっせぇ、バカっ!」
 いつものように言い争いが始まった時任と藤原を見ながら、久保田はやはり何も言わずにセッタの灰を携帯用灰皿にポンッと落としたのだった。



 『三年六組の時任。三年六組の時任〜、生活指導室まで来るように』

 そういう放送が校内に流れたのは、執行部で平井の話をした翌日のことだった。
 公務について呼び出される時は、時任と久保田とセットで呼び出しがあるので、これはやはり公務とは別の件で何かあるらしい。
 一体、何だろうと誰しもが思っていた所に、心当たりはないものの一応生活指導室まで赴いた時任が戻って来た。
 「呼び出しはなんだったの?」
 そう桂木が聞くと、時任は近くにあった椅子をドカッと蹴った。
 「どうもこうもねぇよっ! パーカー着んのやめて、カッター着ろって言われたっ!」
 「はぁ?何よそれ」
 「服装違反だとよっ。くっそー、なんで今更言われなきゃなんねえんだよっ!」
 確かにいつも時任が来ているパーカーは制服ではないかもしれないが、カッターの変わりにTシャツを着ている者なら大勢いる。一応、白系を着ていることでOKが出ていたと思うのだが、それはやはり曖昧といえば曖昧だった。
 「久保ちゃんもそう思うだろっ!?」
 ムカムカしながら時任がそう言って同意を求めると、久保田は軽く首を傾げた。
 「ん〜、そうねぇ。呼び出されたのは時任だけだし、ちょっと作為的なものを感じるなぁ」
 「やっぱ平井?」
 「かもね」
 「くっそぉっ、何の恨みがあんだよっ!」
 「正面切ってやってる内はアレだけど、ちょっと姑息になってきたねぇ」
 無関心のようでいて、時任のこととなると久保田は良く見ている。
 けれど今回、久保田は時任に助け舟を出すようなことはまだしていない。
 時任はやはり、数学の時間になる度に黒板の前に立っていた。
 「ほんっと、先生に恨まれるなんて不運よねぇ。私なんか、昨日虹見ちゃってラッキーだったんだけど…、時任はやっぱ見てないわよねぇ。運悪いから」
 平井が来てから踏んだり蹴ったりな時任に桂木がそう言うと、松原がポンっと手を叩いて、
 「それなら僕も見ましたよ」
と、言う。すると室田がうんうんとうなづいた。
 「珍しく完璧な虹だったよなぁ」
 「ちゃんとつながってましたし…」
 どうやら、虹を見ていなかったのは時任と久保田だけらしい。
 相浦も藤原も見ていたようだった。
 「あぁ、僕はあの綺麗な虹を、久保田先輩と見たかったです〜。久保田せんぱぁい」
 「てめぇはすっこんでろっ。気色悪りぃっ!」
 「うがっ!!」
 藤原をガシガシと踏みつけている時任を眺めてため息をついてから、桂木は久保田の方を向く。すると久保田も何?という風に桂木の方を向いた。
 「どうするつもりなの?」
 「どうするつもりって?」
 「このままにしとく気ないんでしょ?」
 「そおねぇ…」
 「やっぱり、先生相手じゃなかなか難しいわよね」
 「まぁ、なんとかなるっしょ?」
 「なるといいけど」
 教師相手だと、ヘタに突付くと逆に足元をすくわれる可能性が高い。
 騒ぎを大きくすると相手を刺激するのは当たり前だが、時任はパーカーのことを言われて完全に頭に血が上っているようだった。




 時計の針が静かな室内にコチコチと響いている。
 そんな中で時任は黙ってノートにペンを走らせていた。
 「久保ちゃん、コレ合ってる?」
 「ん〜? 合ってる」
 「やった」
 負けず嫌いの時任は、授業中平井に当てられるようになってから、予習なんていうものを始めていた。面倒ならわからないできないと放り出してしまえばいいのだろうが、それは時任のプライドが許さなかったようである。
 そのせいで、久保田は毎日時任の予習につき合わされていた。
 「ねぇ、時任」
 「なんだよ?」
 「そろそろ寝ない?」
 「ヤダ、もうちょっとするっ」
 時任はなんでもやり始めると夢中になるので、それをやめさせるのは容易ではない。
 時任が勉強をしているせいで、久保田は一緒に寝ようというさそいを何度も時任に断わられていた。一緒に寝ようというのは、ただ単にベッドで一緒にという意味ではない。
 つまり、抱いてもいいか?という意味なのである。
 「ちょっ、よせって久保ちゃんっ!」
 「なんで?」
 「邪魔だからに決まってんだろっ!」
 勉強している時任を背後から抱きしめた久保田を、時任はムッとして怒鳴りつける。
 けれど久保田は時任の身体を離そうとはしなかった。
 「…最近、冷たいよねぇ。そんなに俺のコト邪魔?俺なんかいらない?」
 「そ、そんなワケねぇだろ」
 「あんまりほっとくと、浮気しちゃうかもよ?」
 浮気などする気もないのに久保田がそう言うと、時任はギョッとした顔をして思わず自分を抱きしめている久保田の腕に自分の手を乗せる。すると久保田はそんな時任の手を取って、それに軽く口付けた。
 「俺のコト捨てないでね」
 「く、くぼちゃんっ…」
 「エッチしようよ、時任」
 「ヤダ」
 「ヤダって言われても、止まらないんですけど」
 「わっ、ど、どこさわってんだよっ!」
 「エッチしたくなるようにしてあげるよ、時任」
 久保田は時任のTシャツをたくし上げると、その中にゆっくりと手を這わせる。
 嫌がる時任がその手を止めようとしたが、音を立てて首筋にキスを落とされ、くすぐったくて止める手にも力が入らない。
 「イヤだってばっ、あっ…」
 「こんなにカンジちゃってるのに、止められるの?」
 「べ、べんきょう…しなきゃ…」
 「俺と一緒に夜のお勉強しようね」
 「・・・・・・っ!」
 ジーパンに直接久保田の手が忍び込んできて、その手の冷たさに時任が身体を震わせる。そんな時任を愛しそうに見つめながら、久保田は時任自身を捕らえて手を動かし始めた。
 「んぁっ…、や、やめっ…」
 「そんな気持ち良さそうな声で、やめてなんて言うの?」
 「だ、だって…あ、あぁっ」
 「ココでする? ベッドに行く?」
 手を止めないままで、久保田が時任にそう聞く。
 腰をがっちり固められて、急速に手で欲望を暴かれて、時任は涙目になりながら断続的に声を上げている。 久保田の手からも、濡れたような音が響いていた。
 「時任」
 「うっ、あ…、ベ、ベッド…」
 時任がそう答えると、久保田は素早く時任を抱き上げて寝室に向かう。
 やはり今日の勉強はこれまでのようだった。




 「やっぱカッターなんか着ねぇよっ。持ってねぇし」
 「まあ、いいんでない?」

 翌朝、時任は生活指導の教師の言うことをきかずに、いつも通りパーカーを着て家を出た。
 この件はあまりきつく言われたことではなかったので、その内曖昧になるだろうと思われたが、やはりこれだけではなく、時任に対する嫌がらせは終わらなかったのである。

                          『虹の向こうに 前編』 2002.6.3 キリリク7716

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