学校から急いで帰る途中に、時任は久保田を見つけた。
 買い物の帰りらしく、手にはビニールの買い物袋を下げている。
 「久保ちゃん!」
 時任が呼ぶと、久保田は時任に気づいて歩みを止めた。
 「おかえり」
 「ただいまっ」
 時任を見つけた瞬間、久保田の瞳の色が優しくなる。
 哀しいくらい優しい色。
 そんな瞳を向けられると、やっぱりその瞳のワケを考えてしまう。
 「久保ちゃん、ちょっと寄り道していいか?」
 腕をぐいっと引っ張って時任がそう言うと、久保田はいいよと軽くうなづいた。

 見慣れた風景、いつも歩く街並み。
 夕暮れ時の道を、並んで歩く。
 制服姿の時任と私服姿の久保田は、同い年なのに四つくらい年が離れていそうに見えた。
 こんなに大人びていて自分でなんでもできるのに、久保田には何かが欠けている。
 おそらく、その欠落が久保田を周囲から浮き上がらせている原因なのだろう。
  時任の方は、何にも負けない強さを持っているように見えるが、時々、どうしようもなくあやうい感じに見えることがある。
 そういう時は、時任も久保田と同じくどこかが欠けている感じがした。
 時任はマンション近くの公園に行くと、そこにあるブランコに腰かける。
 すると、久保田もブランコに座った。
 「なんか久しぶりだよな。二人で公園にくんの」
 「そーだね」
 砂山が作りかけになっている砂場。
 誰もいない滑り台。
 そして、小さく揺れるブランコ。
 暗くなりかけているので、遊んでいる子供の姿もない。
 時任はポケットから部屋のカギを取り出すと、それを手のひらに乗せた。
 「…久保ちゃん」
 「うん、何?」
 「久保ちゃんは俺のコト好き?」
 「うん」
 好きかと聞かれて、久保田は迷いなく即答する。
 けれど、その返事を聞いた時任は嬉しそうな顔をしていなかった。
 時任は手のひらの中のカギをギュッと握りしめると、
 「じゃあさ。俺のコト好きでいるのって苦しい?」
と、久保田に続けて質問をする。
 すると久保田は、少しだけ驚いたような顔をした。
 お互いの気持ちを口にしてから、二人のバランスが少しだけくずれかけている。
 一番ほしかったものを手に入れた瞬間から、失うことが恐くなった。
 好きすぎて、愛しすぎて、その想いが止まらない。
 「もし…、もし久保ちゃんが苦しいなら部屋を出てく。俺は久保ちゃんのコト苦しめるために一緒にいたいんじゃねぇの。絶対にそんなのやだから…」
 部屋を出てくと言った時任を、久保田がじっと見つめている。
 時任は久保田の顔を見ずに俯いた。
 「ゴメン、久保ちゃん。久保ちゃんのコト好きだから、一緒にはいられねぇ」
 自分のココロに嘘をつく。
 けれど今、久保田のためにできることはこれしかないと時任は思った。
 苦しめる原因が自分なら、離れるしかない。
 好きだと何度繰り返しても、それが久保田に伝わらないならそうするしかなかった。
 「…カギ。返すから」
 ブランコから立ち上がって、久保田の前に立つ。
 時任は久保田に向かって部屋のカギを差し出した。
 このカギには、たくさんの想いが詰まっている。
 時任の想いと久保田の想い。
 久保田がカギを受け取らないので、時任は久保田の手を取ってその上にカギを乗せた。
 「俺のコト好きになってくれてありがと、久保ちゃん」
 泣きそうな気持ちをぐっと堪えて、時任が久保田に笑いかける。
 その笑顔は、見ている者の胸を痛くさせるような笑顔だった。
 「じゃあなっ」
 時任が久保田の部屋に来た時、時任は荷物なんか何も持っていなかった。
 その身一つで久保田の部屋に来たので、あの部屋から持って行くものもない。
 あの部屋にあるものは全部、久保田が時任のために買ったものだった。
 だから、持っていけない。
 
 思い出を持っていくと辛くなるから…。

 時任がくるっと久保田に背を向ける。
 だが、そのままここを立ち去ろうとした瞬間、時任の腕を久保田がつかんだ。
 「いたっ!」
 久保田の指先が白くなっている。
 力一杯握られた時任の腕に痛みが走った。
 「痛いって!」
 痛みに顔をしかめて時任がそう言うと、久保田が時任を睨みつけた。
 するとその視線を受けて、時任の身体がビクッと揺れる。
 思わず目を閉じてしまった時任を見た久保田は、少し腕の力を緩めた。
 「俺のことコワイ?」
 「…久保ちゃん?」
 「コワイから逃げんの?」
 そう言う久保田の声は少しかすれている。
 腕から伝わってくる小さな振動は、久保田の手がわずかに震えているからだった。
 「余裕なんて最初からなかったよ。時任が俺のコト好きになってくれる前から、俺は時任のコトでいっぱいだったしね。だから、ズルイことばっか考えてた。時任が俺のコトしか考えられなくなるように…」
 「んなことねぇのに、なんでっ」
 「…このままじゃ、俺は時任のこと閉じ込める。出られない檻の中に」
 久保田はそこで言葉を切ると、時任の腕を引っ張って、その身体を抱きしめた。
 息苦しいぐらい強く。
 苦しい痛い気持ちが、抱きしめる腕の優しさに触れて切なさに変わる。
 少しの間そうしたあと、久保田は時任をその腕から開放した。
 「逃げなよ、時任。俺が追いかけられないくらい遠くに」
 「久保ちゃん」
 「今ならまだ逃げられるから、だから今の内に早く…」
 予想していなかった久保田の言葉。
 久保田から離れるつもりだったのに、時任はこの場から立ち去ることができない。
 そんな時任の身体を軽く押すと、久保田は時任に向かって何かを投げる。
 時任がキャッチしてみると、それは久保田の銀行のカードだった。
 「身体だけには気をつけて、どんな時でもちゃんと食べるモンは食べなさいね」
 今できるせいいっぱいのコト。
 最終的なところで、やはり久保田は自分よりも時任を優先していた。
 気持ちなんて知らないと言いつつも、自分のエゴで時任を縛り付けることができない。
 久保田は苦笑すると、時任に向かって背を向けた。
 「早く行きなさい」
 その言葉を聞いても、時任は動けない。
 久保田の背中を見ていると、久保田に対する思いで胸が焼きつきそうになる。
 一歩、また一歩と後ずさりながらも、時任はじっとその視界に久保田を捕らえていた。
 次第に辺りが暗くなって、街灯がつき始める。
 二人の距離がじりじりと広がっていくたびに、時任の視界がぼやけていく。
 遠くなって、ぼやけていって、とうとうその姿がかすんで見えなくなった。
 時任は後ずさりをやめると、ぎゅっと目を閉じる。
 そして、キリキリと痛んでくる胸を右手で押さえると大きく息を吸った。
 「久保ちゃんっ!久保ちゃんっ!久保ちゃーん!!」
 ありったけの力を振り絞って胸を痛くさせている原因の名を呼ぶ。
 久保田のコトを欲しがっている時任のココロが悲鳴を上げていた。
 独り占めにして、閉じ込めたがっていたのは久保田だけではない。
 時任だって、久保田に自分だけを見てほしかった。自分だけを見つめてほしかった。
 
 …離れることなんてできない。
 もうずっと前から、ココロの中は久保田への気持ちでいっぱいだったから。
 こんなに苦しくなるほどに。

 「なんで後ろ向いたまんまなんだっ! なんで追いかけてこねぇんだよっ! 久保ちゃんは俺がいなくても平気なのか!? 俺は平気じゃねぇのにっ!! ぜんぜんっ、ぜんぜんっ、平気じゃねぇのにっ!!」
 辺りに時任の哀しそうな声が響き渡る。
 時任は荒い息を吐いて顔をしかめた。
 息が苦しい。
 泣きたいのに泣けなくて苦しい。
 胸を服の上からぎゅっと握っていると、その身体を暖かい何かが包んだ。
 「…時任」
 すぐそばで久保田の声がする。
 自分を抱きしめているのは、良く知っている感触の腕だった。
 「捕まえたよ、時任」
 久保田の声を聞いた途端、堰を切ったように時任の口から嗚咽が漏れ始めた。
 「うっ…」
 「もう逃がさないから、絶対に。そんなことしないから…」
 強く強く抱きしめ合いながら、二人はお互いから離れられないことを自覚する。
 もうすでに、離れることが叶わないほど、想いは深すぎるほど深かった…。
                                    2002.3.22

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