パシィィンッ!
 
 いきなり放課後の保健室に響いた音。
 それは、時任が五十嵐先生の頬を平手打ちした音だった。
 冗談で殴りかかるなんてことはしょっちゅうだったけど、時任が平手打ちっていうのはスゴク珍しい。
 殴るのも平手打ちも暴力には違いないケド、平手打ちの方がなぜか痛い気がする。
 それはたぶん、平手打ちした時任が驚いた顔をしていたせいかもしれない。
 何が起こったのかわからない。
 時任の顔はそう言ってる。
 たぶん、ホントに自分のしたコトが信じられないでいるんだろう。
 時任は五十嵐先生の顔を見ると、哀しそうに瞳を揺らした。
 
 「時任は悪くない。悪いのは俺だから」

 俺が時任にそう言ったのは、五十嵐先生を時任に平手打ちさせたのが俺だったから。
 ヤキモチ焼かせて、それをただ黙って見てた俺のせいでこうなったからそう言った。
 けど、時任は自分が悪いと思っているみたいで、頭を撫でても哀しそうな顔をしたまま俯いているだけで…。
 「…時任」
 いつもみたいに笑っていてほしくて、名前を呼んで時任の頬の辺りを撫でようとしたら、時任はその手から逃げるように走り出した。
 俺に背中を向けて走ってく時任を見た瞬間、なぜか背筋に冷たいモノが走る。
 ザワザワと何か胸の中がざわめいてきたけど、これがなんなのか良くわからなかった。
 とにかく、時任を捕まえることだけが優先してて、それだけは絶対にしなきゃならないことで…。
 それだけを思うのが精一杯だった。
 追いかけて走って、走り続けて…。
 見慣れた後ろ姿を見失わないように追い続ける。
 こんな時に限って、時任はいつもよりもスゴク足が早くて、全然追いつけなかった。
 距離が少しずつ開いて行くのを感じる。
 時任が走っている方向は、俺らのマンションとはまったく逆の方向だった。
 
 もしかして、帰らないつもりだったりする?

 そう思った瞬間、何かが胸の中で弾けた気がした。
 弾けたのは、たぶん時任に知られないようにしてたモノ。
 隠していた衝動。
 俺は、こんな風に時任が俺の腕から逃げてくのを許せない。
 絶対に許せないし、許してやれない。
 たとえ時任が、俺以外の誰かを好きだと言っても…。
 何かが壊れていくような、めちゃくちゃになっていくようなカンジがして思わず立ち止まると、時任の姿が俺の視界から消えていた。
 もし、ホントにこのまま時任が帰って来なかったら…。
 もし、時任が見つからなかったら…。
 俺はたぶん、何もかもを壊しながら歩いてくことになるんだろう。





 見失った辺りを探したけど、暗くなっても時任を見つけることができなかった。
 いつもは何も感じることのない街並みが、ひどく忌々しく思える。
 細い路地が何本も伸びてるから、そこに入られると探すのはかなり難しい。
 俺は頭上にある電灯が点り始めたのを見て、細く長く息を息を吐いた。
 完全に暗くなると、もっと探しづらくなる。
 時任が行きそうな場所を考えながら歩いてると、小さな公園が見えた。
 電灯の中にぼんやりと浮かび上がってる、誰もない寂しいカンジの公園。
 なんとなくココに時任が来たような気がして、俺は公園に足を踏み入れた。
 「ホントにどこ行ったんだろうね?」
 誰に言うでもなくそう呟いて、ポケットに入ってるセッタをくわえて火をつける。
 セッタのフィルターから吸い込んだ煙は、いつもより苦かった。
 肺を犯していく、煙を深く吸い込んで吐き出す。
 そして、すぐ近くにあったベンチに腰を降ろして少し休けいしていると、持ってきていたケイタイの着信音が静かな公園に響いた。
 「…はい」
 『あっ、久保田君?』
 ケイタイに出ると、そこから聞こえてきたのは五十嵐先生だった。
 そういえば、学校に提出した身上書の書類にケイタイの番号書いてたような気がする。
 何かあったらということを考えて、時任の身上書に自分のケイタイの番号を書き込んでいた。
 ケイタイの向こうから聞こえてくる五十嵐先生の声は、気のせいではなく焦っている感じだった。
 『今、藤島君から電話があったのよっ』
 「フジシマ?」
 『久保田君と同じ荒磯の三年生』
 「はぁ…」
 『その子の家に時任君がいるらしいの』
 良くわからないけど、フジシマというヤツの家に時任がいるらしい。
 なんで時任がソコにいるのか知らないけど、五十嵐先生のトコに連絡があったってことは、時任に何かがあったってことだろう。
 「住所教えてもらえます?」
 『…何があったか聞かないの?』
 「行かなくちゃならならいならないことに、変わりはないですから」
 『それはそうなんだけど…』
 「教えてください」
 『わかったわ』
 五十嵐先生に住所を聞くと、それはこの公園のすぐ近くだった。
 やっぱり時任はこの公園に来たに違いない。
 ここでたぶん、フジシマというヤツに会ったんだろう。
 『久保田君のこと呼んでるって…、藤島君が言っていたわ』
 「・・・・・」
 『寄り道しないで、早く行ってあげなさいよ』
 「すいませんでした」
 『えっ?』
 「時任が平手打ちしたの、俺のせいですから」
 『いいのよ、そんなこと気にしなくても』
 「ホントにそう思います?」
 『…久保田君』
 「俺は時任を追い込んで楽しんでたのに」
 『・・・・・』
 五十嵐先生に言ったのは俺の本音。
 俺に誰かが触れるたびに、ヤキモチを焼いている時任を見て楽しんでた。
 時任が俺のコト想ってくれてるって確認するのに、それが一番手っ取り早かったから、自己満足のために五十嵐先生や藤原を利用してた。
 時任が苦しんでるのを見て、五十嵐先生を平手打ちしてるのを見て、楽しんでるなんてサイテイでサイアクだけど。
 このキモチは止められない。
 『…いじめてばかりいると嫌われちゃうわよ?』
 「気をつけます」
 『言われるまでもないでしょうけど、時任のことお願いね』
 「了解です」
 お願いといいながらも、五十嵐先生の声には不安の色が混じってた。
 五十嵐先生が俺のコト好きだとかいいつつ、時任のコト気に入ってるって知ってる。
 藤原にしても、あの大塚にしても、結局のところ気になっているのは俺じゃなくて時任だった。
 みんなに好かれるのはいいコトかもしれないけど、俺はそれを喜んであげられない。
 ゴメンね、時任。
 やっぱ、俺ってサイテイでサイアクみたい。





 フジシマの家に着いてチャイム鳴らすと、それらしき人物が青い顔して出てきた。
 何があったのか知らないケド、顔が青くなるくらいのことはあったらしい。
 「時任、迎えに来たんだけど?」
 俺がそう言うと、フジシマは青い顔のままで家の中を指差した。
 「トイレにいるから…さ。なんかさっきから、吐いてるみたいで…」
 フジシマを無視して家の中に入ると、トイレの辺りから呻き声が聞こえてくる。
 よくよく聞いてみると、それは呻き声じゃなくて泣き声のようだった。
 「時任…」
 呼んでみても返事がないし、ドアもカギがかかってて開かない。
 俺はフジシマの方を振り返ると、時任がこうなっている理由を聞いてみる。
 するとフジシマは怯えたような顔で、小さく首を横に振った。
 「な、なにしたって、別に俺はなにも…」
 「何もないのに、こんなになるワケないよね?」
 「それは…、その…」
 「時任の様子がおかしいのに気づいてながら、家まで連れてきて何するつもりだったのかなぁ?説明してくんない?」
 「ぐ、具合が悪そうだったら、連れてきただけだ」
 「具合が悪そうで弱ってるからって、襲うなんてケダモノだよね?」
 「俺はキスしかしてない!」
 「へぇ、キスね」
 「…ぐっっ!」
 俺は加害者のくせに被害者面したフジシマの腹の拳を叩き込むと、ついでに倒れたフジシマの背中を踏みつけた。
 「キスだけって言ったけど、それだけで十分殴る理由あるんだよねぇ」
 「ううっ…」
 「時任連れ込んでヤることしか考えてなかった?」
 「く、くぼた…」
 フジシマを適当に蹴り飛ばすと、俺は時任のいるトイレの前に立った。
 中からまだ呻き声が聞こえている。
 知らない男にのこのこついてって、キスまでされた時任に怒りに似た何かを感じないワケじゃないけど、そういう事態を招いたのは間違いなく俺だった。
 「・・・ちゃん、…くぼちゃん」
 トイレの中か聞こえてくる声は、俺を呼んでる。
 時任はこんなになっても、ちゃんの俺のコト呼んでくれてた。
 小さな哀しい時任の声…。
 俺はトイレのドアと少し距離を取ると、足でドアを思い切り蹴った。
 するとドアは数回蹴っただけであっけなく開く。
 開いたドアの中をのぞいてみると、トイレの中でうずくまってる時任がいた。
 「迎えに来たよ、時任」
 俺がうつむいたままの時任にそう言うと、時任はビクッと肩を震わせてゆっくりと顔を上げる。
 いつもの時任と違って、今の時任はひどく怯えたような表情をしてた。
 けど、五十嵐先生のコトでこんなに怯えているとは思えない。
 俺は時任の腕をぐいっと引っ張って立たせると、強引にこの家のキッチンまで連れて行った。
 「くぼちゃ…」
 「吐いたから気持ち悪いでしょ?」
 「…俺さ」
 「フジシマとキスして吐いたんだよね?」
 「・・・・・・・」
 フジシマとキスしたことを俺が知ってるとわかった時任は、何も言わずに水道の蛇口を捻った。
 きっと時任は俺にキスしたことをちゃんと言おうとしてたんだと思う。
 けど俺は、時任の口からそれを聞きたくなかった。
 時任からしたワケじゃないってわかってても…。
 「ゴメン…、久保ちゃん…」
 「・・・・・・」
 「許してくんなくていい。けど、殴っても、蹴っても、何してもいいから。あそこに…、久保ちゃんのいるトコにどしても帰りたい」
 何してもいいから、そばにあの部屋においてほしい。
 時任は俺にそう頼んでた。
 あやまるのはやっぱり俺の方で、そばにいてって頼むのも俺の方なのに…。
 「ゴメンね。やっぱサイアクでサイテイなのは俺の方だから」
 「…久保ちゃん?」
 「許さなくていい。蹴っても殴っても何してもいいから…。離れないでいてよ、時任」
 嫉妬して、想いをキモチをためして、それでもどこか不安定になる。
 優しく穏やかに抱きしめたいのに、バランスが悪くて、まるで下へ下へと落ちていくような想いしか持てなくて、いつも強く激しく抱きしめることしかできない。
 欠陥品のココロしか持ってない俺には、そういう想い方しかできなかった。
 「ゴメンね…」
 もう一度あやまると時任は小さく頭を左右に振って、ぎゅっと俺に抱きついてきた。
 時任の暖かい体温と柔らかい身体の感触が、なぜか痛くて苦しい。
 けど、そんなに痛くて苦しくても、もうどうにもならなかった。
 
 本当にどうしようもなく、サイテイでサイアクなくらい時任に恋してたから…。






 外に出ると辺りはすでに真っ暗になってた。
 あの時にいた公園の辺りはホントに真っ暗で、電灯の明かりがついてる場所だけあかるく見えてる。座ってたベンチは暗くてよくわかんなかった。
 フジシマの家を出た後、マンションに向かって歩き始めた久保ちゃんは、俺のコト背負ってくれてる。ホントは自分で歩けるけど、なんとなく今日は久保ちゃんに甘えてたかった。
 「眠いなら、寝ていいから」
 「うん」
 久保ちゃんは、なんで逃げたかとかそういうことは何も聞かない。
 ただ黙って俺のコト背負って、あの部屋に連れて帰ってくれてる。
 歩くたびに揺れる背中にぴったりくっついてると、痛くて苦しくてざわざわしてた気持ちがだんだん静かになってくのがわかった。
 そうすると、五十嵐の時のコトが頭の中に浮かんでくる。
 たぶんあの時、俺は嫉妬してた。
 すごくすごくっ、どうしようもないくらい嫉妬してた。
 だから、久保ちゃんに触れてる手が、それを払いのけようとしない久保ちゃんが嫌で嫌でたまらなくて、俺は五十嵐を平手打ちにして…。
 そういう風に嫉妬してる自分を認めたくなくて逃げ出した。
 こんな嫌なキモチや想いはいらないって思ったから、投げだそうとしてた。
 でも、想いもキモチも全然なくならないし、追い出せない。

 ココロが想いがめちゃくちゃになっても逃げ出せないくらい、久保ちゃんが好きだから…。

 「久保ちゃん」
 「ん?」
 久保ちゃんの広い背中で揺られながら名前を呼ぶと、いつもみたいに返事がかえってくる。
 俺は久保ちゃんの首に手を回して抱きつくと、肩の辺りに額をピタッとくっつけて目を閉じた。
 「明日、五十嵐にあやまる」
 「悪くないって言ったのに?」
 「それでも、あやまりてぇの。自分から逃げたくねぇから…」
 「・・・・・・・」
 「サイテイでサイアクでも、めちゃくちゃでボロボロでも久保ちゃんのコト好きってキモチを離したくない」
 「サイテイでサイアクでも?」
 「それでも大切。久保ちゃんにしかキスされたくないって、当たり前のコトにちゃんと気づいたから、めちゃくちゃでもボロボロでも自分にウソつけなくなった」
 「逃げた方が楽かもしれないのに?」
 「楽になったら、キモチが死んじゃうじゃん。死んじゃうくらいなら楽になんなくていい」
 
 「・・・・・・・・好きだよ、時任」
 
 久保ちゃんはめちゃくちゃでボロボロな俺のキモチにキスするみたいに、好きって言ってくれた。
 嫉妬ばっかして、サイテイでサイアクな好きなキモチ。
 けど、俺の中にはこのキモチしか詰まってなかった。
 久保ちゃんが好き…。
 たったそれだけだけど、なによりも重くて何よりも大切。
 だから、逃げずに歩かなきゃダメだって…、ちゃんとわかった。
 「久保ちゃん」
 「なに?」
 「好き」
 「…うん」
 「大好き」
 好きって、大好きって、何度も何度も久保ちゃんに言ったら、久保ちゃんは首を抱きしめてる俺の腕の辺りに小さくキスをした。
 くすぐったかったけど、久保ちゃんの唇の感触がキスした辺りに残ってる。
 キスしたい大好きな唇の感触。
 帰ったらこの唇と、いっぱいいっぱい気持ちいいキスしようって思った。
 
 好き、大好きって何度も何度も叫ぶみたいに…。
 
 キスしたいから、好きってもっともっと言いたいから。
 だから一緒に帰ろう…、久保ちゃん。


 
                                             2002.7.13
 


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