当たり前に朝が来るように、当たり前に夜がやってくる。 　だが、暗闇がすべてを覆い尽くしても、人工の星が無数に散りばめられているこの街は眠らない。 　そこに人々がいる限り、そこに人が生きている限り…。 　この街に完全な眠りは訪れないのかもしれなかった。 　 　「久保ちゃん、早く来いっ」 　「はいはい」 　 　所々にある街灯に照らされて、アスファルトの上をコツコツと歩く音が響いている。 　それは、スニーカーを履いて軽快に歩いている時任と、その後ろから単調なリズムで歩いている久保田が立てている音だった。 　まるで追いかけっこでもいているかのように響くその音は、二人が住んでいるマンションを出た時からずっと続いている。 　夜の静寂を破るのではなく、その闇に紛れるように…。 　いつも買い物をしているコンビニを過ぎて、こんな所まで歩いて来る理由も目的もなかったが、それでも久保田は楽しそうに歩いている時任の背中を追って歩いていた。 　「今日はドコまで行くの？」 　「わっかんねぇよ、そんなのっ」 　「目的地くらい決めたら？」 　「決めたら面白くねぇじゃんかっ」 　「そんなモンかなぁ？」 　「そんなモンだっつーのっ」 　時任はそう言うと、かなり面倒臭そうに歩いてる久保田を振り返って少しすねたような顔をする。 　こんな風に二人で歩くことになったのは、時任が散歩に行くと言ったせいだった。 　なぜなのか理由はわからないが、時々、時任は夜に外に出たがる。 　それに付き合うのがいつの間にか久保田の習慣になっていた。 　「久保ちゃんっ、あそこの電柱まで競争しねぇ？」 　「行ってらっしゃ〜い」 　「なに手ぇ振ってんだよっ。あんま運動とかしねぇんだから、健康のために走れっ」 　「死なない程度に健康だから、十分だと思うけど？」 　「十分なワケねぇだろっ！」 　「丑三つ時に散歩してるほうが、不健全っぽくない？」 　「夜の方が歩きやすいから、いんだよっ」 　夜が歩きやすいという時任の言葉に、久保田はうっすら口元に笑みを浮かべて同意する。 　確かに人々が大勢歩いている明るい昼間より、夜の方がなぜか歩きやすかった。 　その理由ははっきりとはわからないが、夜歩くと妙な開放感と高揚感が全身を包む感じがする。 　それがいつもより足を軽くしているのかもしれない。 　暗闇がすべてを隠しているせいか、時任は楽しそうに夜を徘徊していた。 　無邪気に久保田のコートのすそを引っ張って、笑ったり、すねたり、怒ったりしながら…。 　まるで夜を縄張りにして生きる猫のように…。 　しかし久保田は曖昧な笑みを浮かべると、コートのすそを引っ張っている時任の手をはずした。 　「久保ちゃん？」 　「あんまり遠くまで行くと、夜明けまでに帰れなくなるからここらヘンで帰らない？」 　「もうちょっとだけっ」 　「帰るよ、時任」 　「…後から一人で帰るっ」 　久保田が帰ろうと言っても、時任はまだ行くと言って聞かない。 　時任が一人で暗い夜道を歩いて行こうとすると、久保田は手を伸ばして時任の腕をつかんだ。 　「なにすんだっ」 　「何もわかってないから、わからせてあげようかと思って」 　「わかってないって、どういうコトだよ？」 　「こういうコト…」 　そう言って久保田は強引に腕を引っ張ると、自分の両腕の中に時任を抱き込む。 　すると抱きしめた瞬間、時任がいつも使っているシャンプーの匂いが久保田の鼻をくすぐった。 　その匂いは自分も使っているので知ってはいるが、今はなぜか目眩がするほど甘く匂ってくる。 　離せと暴れている時任を久保田がきつく抱きしめると、ビクッと驚いたように身体が震えた。 　「…夜に一人で歩いてると、危ないオジサンやオニイサンにこーいうことされちゃうよ？」 　脅すようにそう言いながら久保田が腰の辺りに手を這わせると、時任は腕を伸ばしてその手を押しのけようとする。しかし久保田の方が力が強いので、その手はすぐに封じられてしまった。 　「俺はオンナじゃねぇから、こんなのわかんなくてもいいじゃんかっ！」 　「オンナじゃなくったって、今、されてるっしょ？」 　「く、久保ちゃんはそーいうヤツと違うし、危なくねぇじゃんかっ」 　「・・・・・・危なくない、ねぇ？」 　時任は身体を強張らせながらも、逃げ出したりせずに久保田の目を真っ直ぐ見つめていた。 　そんな時任に苦笑しながら久保田が背中を優しく撫でてやると、強張っていた時任の身体からすうっと力が抜けていく。すると抱きしめる力を緩めていないので、力の抜けた時任の身体は胸に寄りかかるようにしてゆっくりと久保田の腕の中に収まった。 　 　「こういう時はもっと抵抗しなね、時任」 　「痴漢にあったら、ぶっ飛ばすから平気だっつーのっ」 　 　時任は久保田の胸に頬を寄せると、笑いながら腕を伸ばして久保田の背中に手を回す。 　まるで恋人同士が抱き合うように、二人はお互いの体温を感じながら抱き合っていた。 　優しくそっと…、心を身体を包み込むように…。 　久保田はその暖かい抱擁になぜか苦しそうに目を細めると、時任の肩に額を押し付ける。 　すると時任はその頭を軽く撫でた。 　「なに甘えてんだよっ」 　「たまには甘えてみるのも、いいかなぁって思って」 　「ガキくせぇこと言ってねぇで早く帰ろうぜっ。マジで夜が明けちまう」 　「そんじゃ、帰りますか？」 　「おうっ」 　久保田が腕を緩めると、時任はその腕から逃れてマンションに向かって歩き出す。 　だが、時任のしなやかな身体と回された腕の感触が、久保田の中にある熱を呼び覚ましていた。 　その熱が衝動となって、目の前にある背中に再び手を伸ばしたくて、その身体を抱きしめたくてたまらなくなる。 　綺麗な首筋に赤い唇に口付けたくて…、何かが狂いだしそうだった。 　 　「久保ちゃんっ、おせぇよっ」 　「ほーい」 　久保田はポケットからセッタを取り出して火をつけると、ため息のように煙を吐き出してから、時任の後を追いかけるように歩き出す。 　すると、それを確認した時任が早足で歩き出した。 　二人の前方に見えるのはやはり暗がりと、少しばかりの照明で朝の気配は感じられない。 　夜はまだ帳を下ろしたまま、しばらくは明けそうになかった…。

2002.8.29 　「抱擁」 「口唇」 　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　*ＷＡ部屋へ*