さっきから、テレビの音だけが室内に響いている。
 そのテレビは床に寝転んでる時任が見てるからつけられていて、久保田の方はソファーに座って新聞を読んでいた。一緒に住んでるからいつも会話しているわけじゃなくて、二人で同じ部屋にいても黙っていることもある。
 ちょうど今もそんな時で、それぞれにやりたいことをしていた。
 けれど、だからといってケンカをしているのではなく、二人でいる空間で自然に呼吸して、自分の時間を過ごしているだけなのである。
 破られない沈黙は、緊張ではなく安心感から発生していた。
 「久保ちゃん」
 「ん?」
 「今日、どっか行く予定あんの?」
 「ないけど?」
 「ふーん」
 最初に沈黙を破ったのは時任だったが、かわされた会話はかなり短かかったため、またしても部屋に沈黙がおとずれる。
 そんな沈黙の中で、時任はリモコンでチャンネルを変えたりしながら小さくあくびをしていた。
 なんとなく気だるいような雰囲気で、手が無意識に目をこすっている。
 寝転がった状態なので、着ているタンクトップから時任の白い肌がのぞいていた。
 「そんなカッコで寝転がってると、風邪ひくよ?」
 「わぁってるって」
 久保田が注意しても、たぶん時任はそのまま何もしない。
 暑いのがかなり嫌いらしく、時任がクーラーの温度を低くしているのはいつものことだった。
 久保田は新聞から顔をあげて、そんな時任を見ながらセッタの灰を灰皿に落とす。
 その灰の落とし方は、なんとなく少しだけ苛立ちが混じっていた。
 こんな静かで何事もない時間は、ゆっくり本を読んだりしてくつろいでいるはずの時間なのに、久保田の視線は読みかけている新聞ではなく時任の方を向いている。
 実はさっきから、新聞を読んではいても意識は時任の方を向けられていたのだった。
 気にしているつもりはなかったが、しなやかに動く腕や、綺麗な首筋がどうしても視界をちらつく。
 久保田はそんな自分に自嘲しながら、短くなったセッタを灰皿でもみ消して、新しいセッタをポケットから取り出して火をつけた。
 そして、深く肺を汚して毒にしかならない煙を吸い込む。
 そうすれば、いくらか気が紛れるような気がしていた。
 けれどそれは、やはり気のせいなのかもしれない。
 上へ上へと昇っていく煙を見ながら、久保田は細く長く息を吐いた。
 
 まるで、酸素が足りなくて苦しいとでも言うように…。

 そんな久保田の様子を見てしまった時任は、テーブルの上の灰皿に増えていく吸殻を見て顔をしかめる。
 普段からかなり吸ってはいたが、ここの所のタバコの量は並ではなかった。
 まるでそれなしでは生きていけないかのように、次々とタバコに火がつけられる。
 いくら言っても聞かないが、やはり今日も時任は久保田に向かって怒鳴った。
 「いい加減っ、タバコ吸うのやめろっ!」
 「なんで?」
 「部屋ん中が煙だらけになってんじゃん!」
 「そーだねぇ」
 「…わかってて吸ってんのか?」
 「うん」
 久保田が上の空でそう答えるのを聞いて、時任は頭を抱える。
 久保田自身に、タバコの量が増えているという自覚がないことがわかったからだった。
 タバコを吸いたいというよりも、なくなったら新しいのを出してつけるという、習慣のような規則性のようなものでタバコに火がつけられている気がしてならない。
 なぜ吸うのかと尋ねたことがあったが、曖昧な返事で誤魔化された記憶があった。
 時任は久保田のそばまで歩いていくと、強引にその手からセッタを奪い取る。
 そして、まだつけたばかりの火を灰皿でもみ消した。
 すると久保田は新しいセッタをポケットから取り出して、再び火をつけようとする。
 時任はムッとした顔で新しく出されたセッタも、久保田の手から奪い取った。
 「やめろっつってんのが、聞こえねぇのかよ!」
 「・・・・・・聞こえてるよ?」
 「だったらやめろ!」
 「やめない」
 「やめない理由、言えよ。納得できる理由なら、もう止めねぇから…」
 そう言った時任の顔を、久保田は苦笑しながら見つめた。
 吸った理由も、やめない理由もはっきりとはわからなかったが、今吸ってる理由なら心当たりがある。
 なぜと理由を尋ねてくる時任の綺麗な瞳が、真っ直ぐ自分を見つめ返してくるのを久保田は目を細めて受け止めた。
 抑えがたい衝動が、次第に身体を支配しているのを感じながら…。
 こうやって見つめてくる瞳も、理由を言えなんて言う唇も、すらりと伸びた手も足、手を伸ばせばすぐ届く位置にある身体も、すべてが久保田の身体の感覚をおかしくさせている。
 目の前にある身体を、本当はすぐにでも自分の腕の中に収めてしまいたかった。
 何もかもが狂い出す前に…。
 久保田は自分の人差し指に親指の爪を立てると、小さくため息をついた。
 「理由…ねぇ」
 「なんかあるだろ?」
 時任はタバコを消した方の手を久保田の肩に置く。
 すると座っている久保田の目線の辺りに、時任の鎖骨があった。
 久保田は時任の手をやんわりとどかせると、それを誤魔化すように時任の右手を握る。
 その右手からは、暖かい時任の体温が伝わってきた。
 いつからだったか正確にはわからないが、時任を見ていると時々目眩がする。
 時任を感じると何かが激しく押し寄せてくる。
 久保田はポケットをさぐって再びセッタを取り出そうとしたが、その手を時任に払い落とされた。
 「理由は?」
 「…口がさみしいからかも?」
 本当か嘘か自分でもわからないような答えが、言い訳のように口から出る。
 そんな自分の言葉を聞きながら、久保田は無意識に時任の右手を握る手に力を込めた。
 まるで抑え切れない何かを押さえ込むように…。
 するとそんな久保田の前に、時任が赤い飴玉を差し出した。
 「口がさみしいなら、コレでもなめてろよ。少しはマシだろ?」
 「そういえば、さっきから甘い匂いしてるよね?」
 「さっきから、俺がなめてるせいじゃねぇの?」
 「…そうかもね」
 時任は自分がなめているということを証明するためか、赤い舌を出して見せていた。
 その赤い舌には、同じように赤い飴玉が乗っている。
 久保田はゆっくりと椅子から立ち上がると、時任の頬に手を伸ばした。
 「久保ちゃん?」
 時任は久保田が何をしようとしているのかわからないらしく、きょとんとした顔をしている。
 飴玉をなめていたせいで、少し濡れている唇がもう一度久保田の名を刻んだ。
 だが久保田はそれには答えずに、甘い匂いのする唇に自分の唇を押し付ける。
 すると時任は、反射的に久保田の身体を押し返そうとした。
 「んっ…」
 久保田は強引に舌を時任の中に差し入れると、舌で口内を犯すようにさぐる。
 熱い舌でその熱を伝染させそうとしているかのように…。
 濡れた音が室内に響くと、時任は顔を赤くして久保田の背中を軽く叩いた。
 その迷うような時任の拳の衝撃を感じると、久保田は名残惜しそうに短く音を立てて、時任の唇から自分の唇を離す。
 すると時任は、口を抑えて二、三歩後ろへと後ずさった。
 「な、なにすんだよっ」
 「アメ、ありがとね」
 「アメ?」
 「ほら、コレ」
 そう言ってさっき時任がしたように久保田が口を開けて舌を出すと、そこには赤い飴玉が乗っている。
 それはさっきまで時任がなめていた飴玉だった。
 「新しいのなめればいいだろっ」
 「時任がなめてる方が、おいしそうだったから」
 「どれも同じだっつーのっ!」
 「そうかなぁ?」
 とぼたけように久保田が微笑むと、時任は怒ったようにまたムッとした顔になる。
 ちょっと睨んでいるような時任の瞳を見てから、久保田は椅子に座って再び新聞を読み始めた。
 「アメあるから吸わないよ?」
 「うん」
 わざわざ久保田がタバコを吸わないと言ったのは、テレビを見に行くと思っていた時任がまだ傍にいたからだった。まだ傍にいて、久保田が読んでいる新聞を横からのぞきこんでいる。
 その気配を肌の匂いを感じながら、久保田は時任の赤い唇から奪った飴玉をなめていた。
 
 苦い想いとともに、灰皿に押し付けられた吸殻の前で…。


                                             2002.8.16
 「吸殻」

「抱擁」
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