あるべきモノがそこにないと何か落ち着かない。
 あると信じていたモノがなくなっていると、必要以上に驚いたりするものである。
 ベッドの中でぐっすり寝入っていた時任が寝返りを打つと、なぜかそこにあるはずの暖かい感触がなかった。
 時任は一気に目が覚ましてパチっと目を開いたが、やはりそこに久保田の姿はない。
 「・・・・・・・くぼちゃん?」
 目を覚ましたとはいえ、まだ寝ぼけているので久保田を呼ぶ時任の声は、どことなく頼りなくて幼い感じがする。隣にいないのならトイレに行った可能性が高いが、時任は再び目を閉じることはせずにベッドから起き上がった。
 なんとなく、再び目を閉じる前に久保田の顔を見たいと思ったてしまったからである。
 久保田がこの部屋のどこかにいることはわかっていたが、一度そう思ってしまうとどうしてもそうしないと眠れない。
 「…ねむい」
 時任はそう言って目をこすりながら、寝ていた部屋からリビングへと向かう。
 暗い廊下を過ぎてドアを開けると、やはり廊下と同じように暗いリビングが見えた。
 すでに目が暗さに慣れているので、完全に真っ暗というわけではない。
 トイレには誰もいなかったので、ここに久保田がいるはずだったが、いくら見回してもキッチンにもリビングにも人影はなかった。
 「まさか、こんな時間に買い物とか?」
 時任がリビングの時計を見ると、針はすでに夜中の三時を指していた。
 普通は買い物に出かけるような時間ではない。
 だが、いないとなればそれしか考えられなかった。
 仕方ないので久保田を探すために、時任が踵を返して廊下に出ようとする。
 しかしその瞬間、時任の頬に柔らかな風が当たった。
 時任が不思議に思って風の吹いてきた方向を見ると、ベランダへの窓のカーテンがゆっくりと揺らめいている。どうやら風はリビングから吹いてきているようだった。
 ベランダの窓は開いているようで、そこから風が吹き込んできている。
 窓が開いているということは開けた人物がいるということで、その人物が時任以外の誰かということになると、やはりそれは久保田しかいないのだった。
 「久保ちゃん?」
 時任が名前を呼んで窓へと歩いて行くと、やはりベランダには久保田がいた。
 久保田はベランダから空を眺めてらしく、窓に背を向けてセッタを吹かしている。
 セッタの煙はゆらゆらと空へ立ち昇っていた。
 「…眠れねぇの?」
 時任が久保田の横に立ってそう言うと、久保田は時任の方を見ずに微笑む。
 その微笑みは、時任の言ったことが事実だと認めていた。
 眠れないから、久保田はベットから出でここでセッタを吹かしていたのである。
 ただ一人で、静かに…。
 時任はセッタを吹かしている久保田を見てちょっと眉間に皺を寄せたが、久保田と同じようにベランダから空を見上げる。
 そこには丸くなりかかっているが、丸くなりきれていない少しだけ欠けた月が輝いていた。
 「月がキレイだよな…」
 「うん、そうだね」
 時任も久保田もそう短く言葉を交わしたっきり、黙って月を眺めている。
 丸くなりきれない月は、雲か何かがかかっているのかひどくぼんやりとしていて、綺麗だがどこか頼りない印象を受けた。
 そんな月を見ている二人の頬と髪を緩やかな風が撫で、少しずつ零れ落ちていくように時間が過ぎていく。しかし時任は眠気に負けそうになりながらも、じっと久保田の隣に立ち続けていた。
 何をするでもなく、何を話すわけでもなく…。
 けれどそれもすぐに限界がきて、時任の頭がぐらりと後方に揺れる。
 コンクリートの上に倒れそうになった時任を、とっさに横から腕を伸ばして久保田が支えた。
 「時任、眠いならベッドに戻りなよ」
 「…久保ちゃんは?」
 「俺はもうちょっとココにいるから」
 「だったら俺もいる」
 「かなり眠そうだけど?」
 「そんなことないっ」
 久保田が寝ろと言っても、時任はベッドに戻ろうとしない。
 もう半分くらい寝ている感じだったが、それでもベランダから動かなかった。
 「時任」
 「…ん〜」
 「眠いなら、俺の肩に頭のせときなよ」
 「・・・・・さんきゅ」
 久保田は眠そうにしている時任の頭を肩に乗せさせると、腰に腕をまわして身体を支えた。
 こうしていないと、いつ倒れるかわからなかったからである。
 けれど時任は、そんな久保田の行動に気づいているのかいないのか、肩に頭を乗せたままうっすらと開けた瞳で不完全な月を見つめていた。
 眠気と戦いながら…。
 おそらく、時任は久保田がベッドに戻るまでこうしているつもりだろう。
 「心配かけてゴメンね」
 久保田はそう言って、時任の身体を自分の方へ抱き寄せながら、半分眠ってしまっている時任の頭に頬を寄せた。
 心の中にある伝えきれない気持ちを伝えるように。
 けれどその気持ちを、その想いを伝えることを久保田は望んでいなかった。
 消したいと思っても消えない、無くなれと思っても無くならない想いを。
 鼓動と体温を感じるたびに起こる凶暴な衝動を…。
 完全な粗悪品で不良品な自分を、知られるわけにはいかない。
 久保田は吸っていたセッタのフィルターの部分をギリリと噛むと、時任の体温と匂いを感じながら不完全な月を眺める。 
 月はまるでその身体を狂気で満たしているかのように、白く冷たく輝いていた。
 「…くぼちゃ…ん」
 「なに?」
 「・・・・・・・どこにも…、行くな」
 半分眠ってはいても、寄り添っている久保田から何かを感じたのか、時任がたどたどしいけれど哀しそうさを感じさせる口調でそう言う。
 それを聞いた久保田は、小さく息を吐いてそっと気づかれないように時任の頭に唇を寄せてそっと目を閉じた。
 「どこにも行けないから…、どこへも行かないよ?」
 「く、ぼ…ちゃん?」
 時任の呼びかけに、久保田の唇が声もなく何かの言葉を刻む。
 それは、時任にまだ一度も言ったことのない言葉だった。
 「なにか…、言った?」
 「なにも言ってないよ?」
 「・・・・・・」
 久保田はつぶれかけた時任を支えてやりながら、ベランダを離れるとリビングへと戻る。
 窓を閉めるために再び外を見ると、やはり不完全な月は空から二人を見下ろしていた。
 けれど久保田は腕の中で時任が身じろぎしたのを感じて、月から時任へと視線を移す。
 時任は完全に眠りに落ちようとしていた。

 「眠りなよ、時任。俺の理性がまだある内に…」
 
 カーテンを閉めると室内を再び暗闇が包む。
 日が昇り朝が来るまで、夜が終わりを告げるまで、もうあまり時間は残されていなかった。


                                             2002.7.26
 「月光」

「吸殻」
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