空がゆっくりと…、ゆっくりと薄紅色に染まっていく…。



 けれど、それは暮れるのではなく、明けていく空の色。
 空も街も何もかもを覆い尽くしていた暗闇が、その色に染まっていくのを、時任は一人静かに見つめている。そして、空を見上げながら、懐かしい気持ちで目の前にある机をそっと撫でた。
 今、座っている硬い椅子も、落書きが書かれた机も何もかもがとても懐かしい。
 時任はその懐かしさと一緒に、改めて過ぎていった日々を思い返しながら…、
 視線を空から、机の上に置き忘れられた青い腕章へと落とした。

 ・・・・・・・執行部。

 青い腕章には、そう書かれている。
 かつて、時任も右腕につけていた事のある腕章は、あの頃から変わっていなかった。
 そして、今居る部屋も記憶の中より古びた感じはするが、何も変わった様子はなかった。
 けれど、ここはもう時任が居るべき場所じゃない。
 青い腕章を右腕につけて、ここに集っているのは時任でもかつての仲間達でもない。
 でも、それがわかっていても一度だけ、どうしてもこの場所に来たくて…、下校時間を過ぎて閉じられた門を乗り越え、運良く開いていた窓から入り込み、この部屋に来た。
 あの地下から地上へと無事に戻った時任は、美里が見つかった事だけを神崎に連絡し、その足で久保田の部屋でも、二人で暮らしていた部屋でもなく…、
 私立荒磯高等学校、生徒会執行部の部室である生徒会室に向かった。
 走って、走り続けて…、この場所にたどり着いた。
 そうして、誰も居ない部屋で一人きりの夜を越え、朝焼けを見つめている。
 久保田と出会い、そして別れた場所で…、二人で過ごし暮らした日々を思い出しながら…。
 けれど、その日々は遠く過ぎ去り、もう二度と戻らない。
 明けていく空は明日へ向かって続いてるけれど、決して過去には繋がってはいない。だから、どんなに後ろ髪を引かれても、懐かしさに振り返っても前に歩き出すしか道はない。
 けれど、明けていく薄紅色の空の下、視線を空から青い腕章を落とすと、時任の脳裏を過ぎるのは明日への希望ではなく…、昨日見た光景。
 その光景はいつかの雪の日の光景と重なり、時任の胸を苦しくしめつける。
 思い出すたびに苦しくて、苦しくてたまらなくて、その痛みに耐えるために歯を食いしばり…、落とした視線を再び上げて、一人きり空ばかりを見つめていた…。

 
 
 『好きだよ、美里』



 無理やり引き入れられたマンションの地下で、聞いた久保田の言葉。
 伸ばされた久保田の腕は時任の横をすり抜けて…、美里を抱きしめた。
 それは二人は恋人なのだから、当たり前の事だったけれど、久保田の腕が自分の横をすり抜けた瞬間に、心臓の鼓動がトクンと大きく一つ跳ねた。哀しいくらいに大きく跳ねて、次に胸が痛くなって…、思わず閉じてしまった目蓋が熱くなった。
 たぶん、今、自分の横にあるのは、雪の日と同じように絶対に見たくなかった光景で…、
 そして、同時に幸せな情景…。
 目を閉じてしまったので見えないけれど、きっと彼女も久保田も微笑んでいるだろう。
 そういう景色を熱くなった目蓋の裏で想像して、胸の奥に刺す様な痛みを感じながら、それでも時任も頬に唇に微笑みを浮かべた。すると、殴られた頬まで痛み始めて、開いた口から漏れた言葉が…、その痛みに震えた…。

 「これで、めでたしめでたし…、だよな…。みんな無事でさ、ホント…、良かった…」

 殴られて気を失って、一時はどうなる事かと思っていた。
 けれど、久保田が来た事で窮地を免れて…、時任に突きつけられていた拳銃も今は無い。なぜ、時任に嫉妬して、こんな行為に及んだのかはわからないが、ケンカをしていた二人が仲直りした事で、緊張していた周囲の空気が緩んだのが感じられた。
 それに始めは流れている噂の通りに部屋の中に居る女達が、ここに無理やり捕らわれているのかと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。意識を取り戻した時、時任の背中には拳銃の銃口が突きつけられていたが、他の女達は縛られていだけで危害を加えられている様子はなかったし、怯えている様子もなかった。
 それを見た瞬間…、これは芝居だと気づいたが…、
 拳銃を握りしめた美里の手が震えている事にも気づいて、時任も芝居を続けた。
 本当は久保田は美里を好きで、美里も久保田を好きなのだから、こんな事をする必要は無い。けれど、それを信じられないほど、こんな事をしてしまうほど、美里が精神的に追い詰められているのを感じたから…、もう何も言わなかった。
 誰も怪我をしていなくて無事で居るのなら、それで良かったから…、
 もう…、何も言う必要はなかった…。
 届かない想いを抱きしめている事が、どんなに切なくて苦しい事なのか…、
 それを誰よりも知っていたから、久保田が必ず来るのを確信して待ちながら、長い間、抱きしめ続けていた想いが終る瞬間を、打ち砕かれる瞬間を待っていた。

 「始まる前から終ってんのに、今更だよな…。ホント…、バカだよな…」

 思わず漏れた小さな小さな呟きは、誰の耳にも届かずに消え…、
 ようやく、開いた瞳で自分を複雑な顔で見つめる美里を見つめ返すと、時任は感じていた頬の痛みも忘れ、晴れやかな精一杯の笑顔を浮かべる。そして、後ろから自分を呼ぶ美里の声が聞こえた気がしたが、何も言わず何も聞かずに一人で部屋を出た。

 「幸せになれよ、久保ちゃん…。久保ちゃんが幸せで居てくれないと…さ、俺も幸せにはなれねぇから…」

 そう言って精一杯浮かべた笑顔の裏には、涙が滲んでいて…、
 それでも、ただ幸せだけを祈った…。
 誰よりも好きな人の幸せを祈って、まるで、そこに自分の心を置き去りにするかのように、部屋を出て振り返らずに来た道を戻り、慌てて追ってきた男に案内されて地下から1階へと戻る。そうして、ケータイで神崎に連絡と許可を取って、まだ一週間も経っていないのに久保田のマンションに別れを告げた…。

 「今度、会うときは、ちゃんとホントの笑顔でいる…。だから、その日まで…」

 サヨナラの言葉は楽しかった日々の二人の笑顔が邪魔して、その日から続いていたのかもしれない想いが…、喉に詰まって苦しくて声にならない。でも、それでも時任は前に向かって足を踏み出し、一人きりで歩き出した。
 久保田のために、自分のために前に歩き出した。
 けれど…、久保田のマンションが見えなくなった辺りで、時任の足は止まり…、
 まるで、何かを追い求めるように見上げられた瞳が、やっと雲の隙間から、のぞき始めた哀しいくらい澄んだ青い空を映した。

 「でも、だけど…、俺はどこへ帰ればいんだろ。もう帰りたい場所なんて、どこにもねぇのに…」

 二人で暮らしていたマンションで膝を抱えて待っていても、もう二度と明るい光に満ちていた遠い日々は帰っては来ない。二人で笑い合っていた日々は、いつの間にか遠く遠く…、手の届かない場所へと過ぎ去り、後には恋しさと切なさと…、涙だけが残った。
 そうして、帰る場所を失くして、ひたすら一人歩き続け届かない想いを抱きしめながら、この場所にたどりついて…。けれど、まるで迷子の子供のように、寂しさと哀しみに揺れる時任の瞳は、もう涙だけは零さないようにと空を見上げ続けていた。

 「なぁ、俺はいつからこんなになっちまったんだ? こんなの…、ぜんぜん俺らしくねぇし、ホント笑っちまうよな…」

 前に向かって歩きたい。
 もう涙なんかは捨てて、前に向かって歩き出したい。
 けれど、そう思うのに…、そう思っているのに過去が後ろ髪を引いて、前に踏み出そうとした足を掴み、立ち止まらせる。明日に向かおうとしているのに、これ以上、一人で前には進みたくないと心が泣いて…、零れ落ちた涙が胸を濡らした。
 足を前に踏み出そうとするたびに、久保田との距離が開いていくようで怖かった。
 もう二度と二人で過ごした日々は戻らないのに、遠い日々に手を伸ばし続け…、
 帰りたい…、帰りたいと無意識に願いながら、ここに来てしまった。

 『行くぞ、久保ちゃん』
 『行くよ、時任』

 そう呼びかけ合って迷いも戸惑いも無く、いつでも前に向かって走り出せた…、
 あの頃のままで居られたらと、あの頃のままで居たかったと…、
 この七年の間にどんなに願ったか、どんなに願って止まなかったかわからない。
 でも、そう願うのは久保田を好きだからで、大好きだからで…、
 そんな心で、そんな願い事をいくらしても叶うはずはなかった。
 たとえ奇跡が起こって過去に戻ったとしても、相方ではいられないし友達にもなれない。
 好きだと気づいた瞬間に、恋した瞬間に別れはやって来て…、二人を引き離した。
 
 「ずっと、ココに居たかった。ずっと、ココに居られたら良かったのにって、あの日から、ずっと思ってた…。だけど、もうとっくの昔に、ココは俺らの場所じゃなくなっちまってたんだよな。そんなのは当たり前のコトだけど、今、始めてわかった気がする…」

 そう呟いた時任の目の前で夜は確実に開けていき、空はやがて薄紅色から青に変化していく。そして、昇った太陽が、これ以上、この場所に立ち止まっている事を許してはくれない。
 時任は深呼吸するように大きく息を吸い込んで吐き出すと、ポケットに入れていたケータイを取り出す。そして、数日前に登録したばかりの番号に、相変わらず空を見上げたままで電話をかけた。
 けれど、電子的な音声が耳に響くだけで、かけた番号には繋がらない。
 もしかしたら、まだ眠っているのかもしれなかった。
 でも、それでもケータイを耳に当てたままで、時任は座っていた椅子から立ち上がり、見上げていた空に背を向ける。そして、ぽつりぽつりと想いの雫を落としていくような、そんな速度で時任は歩き始め…、懐かしい生徒会室を出て外へと向かった。
 そして、二人で暮らしていたマンションではなく、働いている探偵事務所へと足を向ける。もう二度と遠い日々に帰れないけれど、せめて…、足だけは前に向かって踏み出したかったから、昔、久保田の隣に並んでいた頃のように走り出したかったから…、
 美里の仕組んだ事とは別の、時任が感じた謎を解き明かすために探偵事務所を目指した。

 「俺は行く…、行くよ、久保ちゃん」

 一人きりで走り出しながら、そう呟いたが、繋がらないケータイからは返事なんて聞こえない。けれど、もしも繋がっていたら久保田が何と答えるのか、時任にはわかっていた。
 きっと、何も聞かずに静かに、うん…とうなづいて…、
 きっと、最後にゴメンねと、久保田は言うのだろう。
 だから、電話はしたけれど、繋がらなくて良かったのかもしれない。
 久保田にゴメンねと言われたら、またきっと空を見上げても涙が零れ落ちてしまうから…、
 かけ直したりはせずに、繋がらない電話をそのまま切った。
 そうして、一人で歩き出し、走り出し…、そうして今回の件を改めて考え直してみる。
 すると、今回の件は何もかもが、最初から不思議な事だらけだった。
 探偵事務所に来た依頼と、不自然な神崎の行動と発言。
 流れ始めた噂と、その調査の方法。
 そして、今も不思議な事に、あっさりと調査中断の許可が出た。
 何もかもが神崎らしくなく、無意味で中途半端である。
 時任は眉間に皺を寄せると、今回の件について、あらゆる可能性を考えてみた。
 しかし、得ている情報量が少なすぎるため、推理する所か予想すら立てられない。
 頭の中で組み立てたピースは、穴だらけだった。
 けれど、それでも気のせいだと、見過ごせない何かがある。
 公園で久保田と再会した事が偶然であったしても、なぜ、この時期にテレビでも報じられているような行方不明者の依頼があり、401号室のチャイムを鳴らさなくてはならなかったのか…、
 そして、なぜ神崎はそれが久保田の部屋だと知りながら、アポイントも何も取らずに時任を連れて仕事を依頼したのか…、
 繋がらないようで繋がる線が、どこかにあるような気がしてならなかった。
 今回の件は偶然のようで、偶然じゃない。
 この線を繋ぐ…、何者かの意図が働いている。
 事務所に辿り着くと、時任はこの謎の答えに続くドアを…、神崎の居る部屋のドアを開けた。
 すると、自分の椅子に深々と沈み込むように座りながら、テレビのニュースを見ている神崎の姿が目に入る。そして、次に聞き覚えのある名前がニュースで報じられているのが、部屋に足を踏み入れた時任の耳に聞こえてきた。

 『それでは次に、行方不明になっていた女子高校生に関するニュースです。神奈川県横浜市にある私立荒磯高等学校に在学中の永沢薫さん、17歳は…、昨夜、ケータイの出会い系サイトで知り合ったという37歳の男性の自宅で、男性の家族の通報により無事に保護され・・・・・』

 ニュースを聞きながら時任が前に立つと、神崎は軽く頭を掻きながら深く長く息を吐く。
 そして、テレビの方へ向けていた身体と視線を時任の方に向け直し、近くで電卓を叩いていた加奈子に外出しなくてはならない用事を頼むと、机に置かれていた冷めた茶を飲んだ。
 「その様子だと…、やっと気づいたか?」
 茶を飲み終えた神崎は、コトリと音を立てて湯飲みを置くとそう聞いてくる。
 まるで、時任が気づくのを待っていたかのように…。
 今回の出来事はやはり最初から仕組まれていたのだと、神崎の言葉を聞いて再確認した時任は静かにうなづいた。すると、神崎はそんな時任の瞳と頬の痣をじっと見つめた後、真剣な顔で殴ってもいいんだぞ…と言う。
 けれど、時任は首を横に振り、拳を振り上げたりはしなかった。
 「・・・・・俺は殴るよりも、ワケが知りたい」
 「・・・・・・・・」
 「女子高生が行方不明だって依頼は、ウソだったんだな。あの通りで流れてた噂と関係があるって予想も何もかも…、俺をあのマンションに行かせる口実だったんだ。そして、あらかじめ調べてた401号室に連れて行って、久保ちゃんと一週間同居させて…、一体、何の目的でそんなマネしたんだよ…っ!」
 「時任…」
 「俺を陥れようとか、そんな目的であんなマネをしたんじゃないって…、それだけはわかってる。けど、これは俺らの問題だ。もしも、誰かから何かを聞いて、こんなマネしたってんなら、もう二度とこの件には関わらないでくれ…。頼むから、俺と久保ちゃんの間に誰も入らないでくれ…」
 「・・・・・・・・・・」

 「頼むから…、もう誰も・・っ」

 今までもこれからも離れていくばかりなのに叶わない事を口にして、時任は唇を噛みしめる。今度、また会う時は笑顔でと心で誓いながらも、開いた口から想いが零れ落ちて…、後悔が時任の表情を曇らせた。
 こんな事を言うつもりじゃなかった。
 ただ、神崎の言葉や行動の意味を、その後ろに隠された意図を知りたかっただけだった。
 なのに、久保田の事を口にすると平静ではいられなくて、時任は探偵失格だと苦笑を浮かべながら殴られた頬を押さえる。すると、神崎は机の引き出しを開け、中から一枚の白い封筒を取り出し、時任の前に差し出した。
 「これは、本当の依頼人からだ」
 「ホントの…、依頼人?」
 「この依頼があった時、一度は断ったんだが…。お願いしますと頭を下げながら、熱心に頼まれてね。だから、一つだけ条件を出して依頼を受けた。それに、お前は誰も関わって欲しくないと言っていたが、彼女はすでに関わっているし、これくらいはして構わないだろうと踏んだ」
 「彼女って、一体誰なんだ?! それに、すでに関わってるって…っ」

 「お前も良く知ってる人物だ。まさか、忘れた訳じゃないだろう? お前の事を誰よりも想っていた、そんな彼女の事を…」

 神崎の言葉を聞いて思い浮かんだのは…、たった一人だけ…。
 どうして、どうしてと哀しそうな声で、何度も何度も時任に向かって問いかけていた…、
 それでも、頬を涙で濡らしながらも、元気でと手を振ってくれた人。
 時任が震える手で差し出された封筒を受け取ると、宛名の部分に神崎の名前が…、
 そして、差出人の部分に、かつて時任が付き合っていた彼女の名前が書かれていた。
 それは間違いなく見た事のある彼女の字で…、時任は神崎の許可を得ると、封筒の中から便箋を取り出した。

 ・・・・・・・私、結婚します。
 
 始めに目に飛び込んできたのは、そんな文字で…、驚いてわずかに目を見開く。
 けれど、次の瞬間に時任が浮かべたのは、柔らかな優しい微笑みだった。
 自分の勝手で傷つけて泣かせて…、その罪は決して消えたりしない…。
 けれど、その彼女が好きな人と結婚すると知って、本当にうれしかった。
 本当にとてもうれしくて、そんな資格はないとわかっていても幸せを願わずにはいられない。久保田のように恋していた訳じゃなかったけれど、それでも…、彼女を好きだったのは本当で…、
 だから、幸せになるという彼女に自然に微笑みが浮かんだ。
 罪は消えない…、けど、俺の事なんか忘れて幸せに…、
 でも、そう願う時任を…、自分を傷つけ泣かせた時任の事を彼女は心配していて、今も時任の幸せを願ってくれていた。


 ・・・・・今頃になってと、あきれてらっしゃるかもしれません。
 けれど、これから幸せになる…、その時になって後悔したんです。
 あの時、勇気を出して正直に告白してくれた時任君に向かって…、
 どうして、どうしてって…、問いかけるばかりで泣くばかりで…、
 ありがとうって、どうして言えなかったのかって…、
 どうして・・・、大好きな人の幸せを祈れなかったのかって、とても後悔したんです。
 時任君の事が好きだったから、誰よりも大好きだったから…、

 ・・・・・・本当は誰よりも、時任君の幸せを祈りたかったのに。

 
 目の前で霞んでいく、彼女の優しい文字の裏側に…、
 脳裏に浮かぶ彼女の笑顔と涙に…、今も覚えている自分に向かって囁いてくれた、伝えてくれた言葉が重なり、想いが胸に詰まって声にならなかった。

 ・・・・・好き、大好き。
 誰よりも好きだよ…、時任君…。
 
 どうしてだろう、何でだろう。
 彼女は好きで居てくれたのに、どうして彼女を一番好きになれなかったんだろう。
 こんなに想っていてくれたのに、どうして…、哀しみばかりが広がって…、
 ただ、好きなだけなのに涙ばかりが零れ落ちて、頬を心を濡らしていくんだろう。
 自分を好きだと言ってくれた彼女の痛みが、久保田を想う時任の痛みと重なって、その痛みに時任が胸を押さえる。けれど、その痛みは胸を押さえても押さえても消えなくて、強くなっていくばかりで…、微笑みを浮かべていた唇が哀しみと痛みに歪んでいく。そして、ごめん…、やっぱり上手く笑えないと胸の中で呟き、歪んだ唇を噛みしめると、時任の手から封筒と手紙が床に向かってすべり落ちた。

 「俺が彼女の依頼を受けるのにした条件は、今もお前が久保田君を想っているかどうか…。だから、もしも今もお前が久保田君を想っているなら、一度でも良いから会わせて欲しい。想いを伝える時間を作って欲しいと…、そう彼女は俺に依頼したんだ…」

 そう、依頼の事を話した神崎の声は、すぐ近くで聞いているはずなのにどこか遠く…。
 久保田と暮らした日々も、彼女と一緒に居た日々も、何もかもが遠く遠くなって…、
 やがて、長く伸びた想いの影が行き場を失くし、すべてを覆い尽くしていくように、時任から笑顔を微笑みを奪い…。けれど、抱きしめた想いだけを胸に時任が俯くと、足元にすべり落ちた彼女からの手紙と、そこに込められた温かな想いがあった。
 哀しみばかりが広がっているのに、胸は苦しく痛んでばかりいるのに…、
 それでも、涙を笑顔に変えた彼女の想いを入れた封筒は、想いを書き綴った手紙は、本当の笑顔を失くしてしまった時任にまるで語りかけるように…、
 切なく哀しく揺れる瞳に暗い床の色ではなく、優しい白を映した。
 すると、時任はその白を求めるように手を伸ばし、ゆっくりと封筒と手紙を拾い上げる。
 けれど、拾い上げようとした封筒の中から、時任でも彼女でもない…、もう一人の届かない想いが零れ落ち…、
 それを見た時任は驚いたように目を見開いたまま、手紙を拾おうとした姿勢のままで動かなくなった。
 
 ・・・・・・・・こんなのは、当たり前にジョウダンに決まってるだろ。

 今は届かない遠い日に、そう言った自分の声が耳を打ち、拾おうとした拍子に封筒から零れ落ちた一枚の写真が胸を刺す。
 そこに映し出された光景は今ではなく、過去のもので…、
 高校の教室と思われる場所と、そこに居る二人の男子生徒が写っていた。
 教室には壁際に居る二人の他に生徒が居るのかどうか、部分的に映した写真では判断が付かない。けれど、きっとたぶん誰も居ないだろうと、簡単に予想する事が出来た。
 映し出された状況から、それがわかってしまった…。
 しばらく、過去の光景を見つめてから、やっと動き出した時任は床に落ちた写真を拾い上げる。そして、震える指先でゆっくりと…、そこに写る人を優しく撫でた。

 「こんな…、こんなコトって…、マジでウソだろ? だって、俺らは相方で同居人で、それ以上でも以下でもなくて…、しかも同じ男なのに…っ、なんで…、どうしてこんな…っ」

 空を見上げながら、ずっと耐えていた…。
 もう絶対に涙だけは、零さないように空ばかりを見上げていた。
 けれど、優しく撫でた写真の上に、そこに写る人の上にポツリと涙が零れ落ちる。
 この写真を撮ったのが、誰なのかわからない。
 そして、どうしてそんな物を彼女が持っているのかわからない。
 けれど、隠し撮りと思われる写真に写っているのは間違いなく、高校時代の時任と久保田だった。
 おそらく、撮られた時期は三年…。
 窓際の席で自分の椅子に横向きに座った時任は、壁に背中を預けて眠っている。そして、そんな珍しい時任の横に久保田は居て…、その手は時任の頬に添えられていて…、
 ゆっくりと唇を重ねるために顔を近づけようとしている、そんな瞬間をとらえた写真。
 それは校内の誰に見せても、やっぱりとかまたか…くらいにしか思われない、そんな写真だった。第一、唇を重ねようとはしていても、実際に重なっている訳じゃない。
 そんな行為は日頃から、冗談で何度も何度もした事があって…、
 でも…、だからこそ、時任にはわかってしまった。
 重ねようとした唇の意味を、そこに込められていた想いを知ってしまった。 
 自分がそんな久保田の想いを…、どれほど、踏みにじってきたのかを…。

 『俺らはホモじゃねぇし、そんなんじゃないもんな? 久保ちゃん』
 『そうそう、俺ら相方だし』
 『マジであり得ねぇって』
 『だぁね』

 あの頃…、何度、そんな会話を繰り返しただろう。
 校内での噂の事を聞かれるたびに、そんな風に答えていた気がする。
 その時、自分の横で微笑んでいた久保田を思い出すと、自分の気持ちに気づいてなかったからと言い訳なんて出来なかった。
 あんなに近くに居たのに、ずっと傍に居たのに…、
 どうして、久保田の気持ちにも自分の気持ちにも気づかなかったんだろう。
 同じように眠る久保田に寄せた唇を冗談にして、現実から目を逸らし続けて…、
 好きだったのに大好きだったのに傷つける事しか…、できなかったんだろう…。
 前に進もうと足を踏み出したはずなのに、後悔ばかりが胸を過ぎって久保田の想いを写し出した写真を濡らした。
 「・・・・・・久保ちゃんのコト、知ってたのか?」
 「知ってた訳じゃないが、薄々感じてはいた…。お前を見る時の久保田君の目だけは、いつも自分の気持ちに正直だったからな…」
 「全部、俺のせいだ」
 「それは違う。何も言わず、想いを伝えない事を選んだのは久保田君だ」
 「違うっ!俺のせいだっ!!俺が気づかなかったから、傍に居る事が当たり前で…、それがすごくうれしくて楽しくて…。自分の気持ちに気づこうとしなくて、男同士でなんて気づきたくないって…、たぶん無意識に思ってたから…っ!」
 「しかし、今は気づいてるんだろう? だったら…」
 「でも、もう遅いっ、遅いんだ…っ。久保ちゃんには他に好きなヤツが居て、もうダメなんだ!」
 「まだ、告白もしてないのに、どうしてそう決め付ける?」
 「告白なんかしたら、そんなコトしたら…っ、きっとめちゃくちゃになるっ。今も過去もめちゃくちゃになって、思い出さえも無くなっちまうっ、だから!」
 「だから、もう自分の気持ちさえ伝えられないって言うつもりか? 相手からも自分の想いからも逃げ続けて、これからもお前は泣き続けるつもりなのか?」
 「加奈子さんから逃げ続けてるアンタになんか、そんな事言われたくないっ!!俺のコトも久保ちゃんのコトも、何も知らないクセに…っ!!」
 神崎に向かって、そう叫んでしまってから、しまったと思った。
 けれど、時任が謝るよりも早く、神崎はポケットから小さな箱を取り出す。
 そして、その箱を開けて、中身を時任に見せた。
 箱の中には二つの指輪が入っていて、それがどういう物なのかは聞かなくてもわかる。時任が指輪から神崎に視線を戻すと、神崎はパタリと小さな箱を閉じた。
 「そう、今まで俺もお前と同じで逃げ続けてきた。加奈子は元々、俺の兄貴の恋人だったからな…。俺が原因で二人が別れてしまってからは、特に逃げてばかりだったような気がする」
 「原因で別れたって…、なんで?」
 「加奈子も俺も、お互いが好きだと気づいたのは…、加奈子と兄貴が付き合うようになった後だった。だから、気持ちは告げなかったし、お互いの気持ちに気づく事もなかった。しかし、兄貴だけは俺と加奈子の気持ちにづいていて、二人で幸せになれと手紙だけを残して居なくなった」
 「居なく、なった…?」
 「もう…10年以上も前の事だ。それから、ずっと探してるんだが、未だに見つからない。まったく、自分で呆れるほど、無能な探偵だよ、俺は…」
 自分と加奈子のために居なくなった兄の事を語る神崎の横顔は、とても哀しそうだった。いつもの自信もどこかへ消え失せたように無くなって、寂しそうな瞳が指輪の入った箱を見つめる神崎の姿は、この事務所に来てからも来る前も見た事がなかった。
 だから、加奈子との間に、こんな過去があるなんて思いもしなかった。
 二人は男と女で障害は何もなくて、告白さえすれば結ばれると思っていた。
 だけど…、それは時任の思い込みでしかなくて…、
 告白できない二人の心は、自分達のために居なくなった兄を想う哀しい気持ちで満ちていた。
 「兄が居なくなって、俺達は探偵をしながら兄を探した。とにかく、兄を探し出さなければと必死になった…。だが…、今回の事で少し考えが変わったんだ…」
 「もしかして、だから指輪を…」
 「あぁ、俺達は今まで兄貴のために、幸せになってはいけないような気がしていた。しかし、本当は逆だったのかもしれない…」
 「逆?」
 「兄貴のために俺達は幸せになってはいけないと思っていたが、そんな俺達の幸せを兄貴は祈っていた。だから、お前の幸せを願う彼女を見てると…、俺達が幸せになったら、兄貴が帰って来る気がして…」
 「・・・・・神崎」

 「そう思う俺の考えは…、間違ってると思うか?」

 そう言った神崎に、時任は迷わず首を横に振る。すると、神崎は少し笑って手を伸ばして時任の頭を乱暴に撫でてから、その手で指で写真に落ちた涙を軽く弾く。
 そして、まだ学ランを着ていた頃の二人が写る写真をじっと見つめた。
 「お前に想いを告げなかった久保田君は、きっと…、お前の幸せを願ってたんだろう。久保田君の幸せを願う、今のお前と同じように…」
 「・・・・・・」
 「けどな、お前の幸せは何だ? そして、久保田君の幸せは一体何だと思う? 一緒に居た頃は、いつもあんなに幸せそうに笑ってたクセに…」
 写真に写った久保田の想いを手に、未だ迷う時任の胸を神崎の言葉が打つ。
 けれど、二人で笑い合った日々は、すでに遠く遠ざかって戻らなくて…、
 写真に写る久保田の想いも、ただ…、そこに写しだされているだけの過去でしかない。そして、笑い合った過去の中に時任の幸せがあったとしても、今の久保田が同じとは限らない。
 あまりにも時が過ぎて、あまりにも笑い合った日々が遠くなり過ぎて何もかもが手遅れだった。二人で笑い合った日々が、あまりにも幸せすぎて…、そんな日々がずっと続くと信じていたから、自分の想いさえ気づかずに、いつも後悔ばかりが頬を伝い…、
 今も…、そんな涙が頬を伝い落ちている…。
 けれど、そんな日々を思い返しながら、流れ落ちた涙を拭いながら、写真の中の二人を見つめた時任は、自分の幸せを願ってくれた彼女の言葉を胸の中で繰り返し…、
 そうして、写真だけを手に、抱きしめてきた想いだけを胸に走り出した。
 手遅れでもいい…、拒絶されてもいい…、
 それでも、ただ好きだと大好きだと…、それだけを伝えたかった。
 誰よりも好きだから、誰よりも幸せを祈りたいから…、
 
 久保田に向かって、本当の笑顔を贈れるように…。

 けれど、ようやく走り出して、たどり着いた先で…、
 久保田の住むマンションで見たものは…、誰も居なくなってしまった401号室。脅迫紛いに401号室の鍵を開けさせた警備員に問い質してみたが、昨日の内に引っ越したのだと告げられた。
 昨日の地下の件が絡んでいるのかと、久保田に何かあったのではないかと心配したが、まるで時任が来る事を知っていたように置かれていた写真が…、
 何も無くなったリビングの床に置かれた一枚の写真が、久保田が自分の意志で部屋を出て行った事を教えてくれる。時任は突然の出来事に呆然としながら膝を突き、見つけた写真を手に取るとゆっくりと裏返してみた。
 すると、そこにはゴメンでも、サヨナラでもない二つの文字が…、
 写真に写る青い、青い空へと綴るように書かれていた。
 
 ・・・・・・・永遠。

 青い空の下に居るのは、まだ別れの日が来る事など思いもせずに…、
 こんな日が永遠に続くような、そんな気がしていた頃の大人になりかけの子供達。
 懐かしい制服を着た桂木や相浦や…、松原や室田もいて誰もが笑っている。
 久保田も微笑み、時任もそんな久保田に肩を抱かれながら笑っている。
 そんな写真を見つめてると、次第に視界がぼやけて霞んできて…、
 皆の笑顔も二人の笑顔も見えなくなって…、
 その後には、ただ視界一杯に青だけが…、ずっと続くと信じていた…、
 そんな永遠の空だけが広がっていた。

 ・・・・・・・視界いっぱいのブルー。

 あの頃の二人の上に広がっていた青空は、一体、どこへ続いていたんだろう。
 青い青い空の下で笑い合っていた二人の幸せは、一体、どこにあったんだろう。
 久保田の想いと願い…、残された2枚の写真を見つめながら…、
 同じ想いと願いを抱きしめながら、時任は強く硬く握りしめた拳にポツリと涙を落とした。

 「どうして、何でなんだよ、久保ちゃん。俺らは同じ空の下で笑ってたはずなのに…さ。どうして、好きだって…、そんなたった一言だけが、いつも…、どうして…っ」

 どんなに泣いても叫んでも…、あの青空に手は届かない。
 遠く過ぎて戻らない日々の青空は、久保田の残した文字とともに時任の心にゆっくりと染み込み滲んで、ただ青く…、どこまでも青く…、

 ・・・・・広がっていくだけだった。

 
                                                        2009.7.2

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