プルルルルル・・・・・・・、プシュー…、バタン…。



 そんな音を立ててドアが閉り、それぞれの目的地を目指して乗り込んだ乗客を乗せ、列車が駅を出て行く。けれど、駅のホームに居ながらも、久保田は乗らずにそれを見送った。
 そして、そんな久保田の横には苦しそうに肩で息をしながら、美里が立っている。
 けれど、久保田はボストンバックを持った手を肩に乗せ、背中で背負うように持ち、まるで数日の旅行に出るような出で立ちをしているが、美里の方は何も持っていない。
 そんな様子を見てもわかるように、二人は一緒に旅路に出る訳ではなかった。
 久保田はすでにマンションにあった少ない荷物を処分し、帰ってきたばかりの場所から再び遠ざかろうとしている。そして、その旅路に同行者はいない…。
 でも、それは今に始まった事ではなく、いつも久保田の隣には誰も居なかった。
 たとえ、並んで歩いていたとしても、その存在は必要不可欠じゃない。
 隣に居ても居なくても気にならない…、そんな存在でしかない。
 着ていた学ランを脱ぎ捨て、懐かしい校舎をを出た時から、隣には何も無い空白だけがあって…、かつて、そこに居た存在を想うたびに心が乾いていった。
 すでに時は過ぎ戻らないのに、遠くへと遠ざかっていくだけなのに忘れられない。存在を感じながら微笑んでいた、あの頃、すでに全てを覆いつくしていた想いは残酷なほど、深く…、深くなりすぎていて、結局、どんなに離れても、時が過ぎても忘れられなかった。

 ・・・・久保ちゃん。

 「・・・・・誠人」
 
 思い浮かべた人の声に重なり、別の声が久保田を呼ぶ。
 けれど、久保田は表情を変えず、視線も前に向けたままだった。
 そんな久保田には、昨日、抱きしめ好きだと囁いたような甘さはない。
 しかし、それと同じように、潮時だと切り捨てた時のような冷たさもない。
 これから旅立つ人のようにではなく、まるで何かを祈る人のように…、
 久保田は静かに…、ただ静かに一人でそこに立っていた。

 「・・・・・・ゴメンね」

 走り去っていく列車の巻き起こす風が、そう言った久保田の髪を乱す。
 そうして、風は久保田と美里との間で渦巻き、吹き抜けていった。
 まるで、昨日の夢を消し去り…、サヨナラを告げるように…。
 そんな風の中で久保田の言葉を聞いた美里は、震える手でポケットの中から折りたたんで入れてあった数枚の紙を取り出す。しかし、久保田はわずかに視線を投げただけで、その紙に何が書かれているのかを確認する事はしなかった。

 「一体、どこに行くつもりなの? それに、どうしてごめんねなんて…」

 久保田にそう問いかけ、震える美里が持っている紙が何なのかは見なくてもわかる。
 それは昨夜、久保田が賭け麻雀をして、手に入れた美里の父親名義の借用書で…。
 そこには美里が真面目に何十年働いても返し切れない、そんな金額が書かれている。
 この借用書のために美里はヘルスだけではなく、違法な取り引きの連絡係もさせられていた。しかも、時には連絡だけではなく、屈辱的な接客までさせられ…、今まで苦しい思いも痛い思いも山ほどしてきた。
 なのに…、美里は嬉しそうな顔をしていない。
 昨日、マンションの地下で好きだと言って抱きしめてくれた人が…、恋人がヤクザ相手に危険な勝負をしてまで、自分を縛り付けている借金を帳消しにしてくれたというのに、とても不安そうな顔をしている。そして、次に久保田が口にした言葉を聞いた瞬間、その不安が絶望に変わり、美里の手の中で借用書が強く握りしめられ、ぐしゃりと潰れた。

 「もう、どうしてなんて問いかける必要も、俺を追う必要もないのに…、そっちこそどうして?」

 どうして…と、久保田も美里も、お互いに向かって、そう問いかける。
 けれど、美里は答えを知っていて、久保田は答えを求めてはいなかった。
 列車が過ぎ去り風が止み、二人の間で白い紙がわずかに揺れていたが、その紙は二人を決して繋いだりはしない。そんな意味で、美里の住むアパートのポストに入れられていた訳じゃない。
 それを知った美里は瞳から涙を零しながら、首を何度も何度も横に振った。
 「もしかして、最初から知っていたの?それとも、後で誰かに知らされたの? だから、私と別れようなんて…っ」
 「違うよ。知ったのは昨日だし、ソレは原因じゃないから」
 「確かに連絡係をしながら誘惑して、誠人の事を引き入れろって言われてた。そうすれば借金を帳消しにしてくれるって言われて近づいた。だけど、本当に好きになって、好きになっていって…、だから…っ」
 「・・・ゴメンね」
 「ゴメンなんか要らない、こんなのも要らないっ!」
 「・・・・・・」
 「好きなの、誠人の事が本当に好きなのっ!誠人が一緒に居てくれるなら、借金なんてどうでもいい…っ、お願いだから信じてっ!私を置いて行かないでっ!!」
 必死に好きだと置いていかないでと叫ぶ声と、強く抱きしめてくる腕。
 美里は秘密にしてきた事を知られたから、別れを告げられたのだと思っている。
 だから、自分の事を信じてと久保田に願い続けてる。
 けれど、すべては嘘だった。
 好きだと囁いた言葉も、抱きしめた腕も偽りだった。
 居なくなったから探しに来た事でさえも、本当ではなかった。
 地下へ行ったのは、別の人を探すため。
 好きだと囁きたかったのも、抱きしめたかったのも美里じゃない。
 握りしめた拳銃の引き金を引かせないために、これ以上、騒ぎを大きくせず、ただの痴話喧嘩として収めるためについた嘘だった。警備室に殴り込まなかったのも、通報されて身動きが取れなくなるのを防ぐためで…、
 これはあくまで自分と美里との間での出来事で、時任には関係ないと、美里の行動を知りながら何もせずに様子を見ていた人物に知らせるためだった。

 すべては美里でも時任でもなく…、時任を想う自分自身のためにした事だった。

 久保田は自分を想い泣く人を見つめながら、好きだと叫ぶ声を聞きながら…、
 マンションに置いてきた写真に写る青空を思い出し、そこに書き記した永遠を想う。
 けれど、どんなにその空をその青さを想い続けても…、永遠なんてどこにも在りはしない。
 自分を抱きしめる腕を掴み強引に外すと、久保田はいつもとは違う真剣な目で、始めて真っ直ぐに美里を見つめた。
 「美里の言うコトは信じるよ」
 「ほ、本当に?」
 「だけど、一つだけ肝心なコトを忘れてない?」
 「肝心なコトって、一体、何を?」
 
 「俺が…、サイテイだってコト」

 久保田がそう言うと、美里が大きく目を見開く。
 そして、何も聞きたくないと耳を塞ごうとしたが、久保田は掴んだ腕を離さなかった。
 今よりも更に傷つけるとわかっていながら、知っていながら離さずに…、
 始めて視線を合わせ、真っ直ぐに見つめながら、残酷な真実を口にした。
 「地下で言ったのは何もかもウソで、あの場を丸く治めたかっただけ。潮時だって前言を撤回する気は無いし、借用書と専属契約を賭けたのも地下の件と俺が調子が悪いのを知った代行サンが、勝てると踏んで勝負を持ちかけて来たからってだけだしね」
 「そ、そんな・・・、そんなの嘘よっ」
 「サイテイ男の吐く愛なんて、大概ウソって相場は決まってる」
 「本当はあの地下での事が、私のした事が許せなくて…っ、だから!」
 「俺は何もされてないし、許すも許さないもないでしょ」
 「やめてよ、そんな言い方…っ。怒ってるなら怒ってるって、許せないなら軽蔑してるなら、お願いだから、そう言ってよっ!!」
 本当に地下での事は怒っていないし、軽蔑もしていない。
 そもそも、その質問をする相手を美里は間違えている。けれど、美里が質問をしなくてはならない相手、地下に拉致された時任は何も聞かず、何も言わずに美里を許していた。

 『言わなくてもわぁってるって、ココでの事はヒミツにすんだろ? その代わり彼女のコトを頼む…なーんて、そんなの言われるまでもねぇだろうけどな』

 そう言った時任は明るく笑っていたのに、なぜかとても哀しそうに見えた。
 けれど、久保田がどうしたのかと問いかける間も無く、時任は美里の無事を神崎に連絡するからと、すぐに久保田に背を向け…。そうして、一週間を待つことなく調査は終了し、久保田の元から居なくなってしまった。
 だから、別れを惜しむ間も無かった。
 再会した時も、別れの時も何一つ言えなかった。
 元気でと幸せにと、それさえも言えないまま…、また離れていく…。
 時任を拉致した美里が、どこまで何を知っているのかはわからないけれど、久保田が抱きしめた瞬間に勘違いだったと思っただろう。大した会話も無く別れた二人には一緒に暮らしていた頃の…、笑い合っていた頃の面影は無かった。

 ゴメンね…、ウソツキで…。

 殴られた頬が痛いはずなのに、そんな素振りも見せずに笑って頼むと言ってくれたのに…、約束を守る事もできずに傷つけて泣かせる事しかできない。わざと罠にはまりに行って手に入れた借用書も、いつの間にか足元に落ちてしまっていた。
 久保田は心の中でそっと…、哀しく静かに呟きを漏らした後に、片手を伸ばして借用書を拾い上げると、美里に向かって差し出す。けれど、美里は差し出された手を叩き、その衝撃でまた借用書が、ひらひらと足元へと落ちていった。
 「こんなのいらないって、私が欲しいのはこんなのじゃないって、どうしてわかってくれないの?」
 「・・・・・・」
 「誠人…っ」
 「そう言われても欲しいモノは持ってないから、あげられないし…、ゴメンね」
 「嫌よっ、ゴメンなんて聞きたくないっ! 私は嘘でもいい、夢でもいいから、誠人とずっと一緒に居て、好きだって言って抱きしめていたいの…っ、ただそれだけなのっ!!」
 「・・・・・・・」

 「お願いよ、嘘でもいいから好きだって言って…。夢でもいいから…、ずっと一緒に居るって言ってよ…っ!」

 美里の瞳から零れ落ちた涙が、久保田の着ているシャツを濡らし…、
 胸に押し付けられた額から、美里のぬくもりが想いと一緒にゆっくりと伝わってくる。
 けれど、それでも美里と同じ想いを、美里に対して抱く事はできなかった。
 それは自分が最低だからなのか、それともたった一人しか想えないように生まれついているからなのか、どうかはわからない。心は間違った想いを抱き続けたまま、今も目蓋の裏に焼きついて離れない青空ばかりを求め続けて…、
 いつも届かない空に手を伸ばし、その眩しさに目を細めていた。
 でも、もうそれも終わりにしなきゃね…と、心の中で呟き苦笑しながら、久保田は最低で最悪な男にふさわしい残酷な言葉を更に口にしようとする。眩しさに細めていた目を閉じながら、想いのすべてを暗闇に閉ざそうとした。
 しかし、その瞬間に何かを切り裂くように激しい足音が辺りに響き、頬に衝撃と痛みが走る。そして、その衝撃に久保田が閉じかけた目を開くと、視界の中に…、懐かしい人の姿があった。

 「これ以上、彼女を自分を傷つけるような真似をしてごらんなさい。今度はそれくらいじゃ済まないわよ」

 とても久しぶりに会う…けれど、女にしておくのが勿体無い気風の良さも、お節介な所も何もかも変わらない。あまりに何も変わらなくて、まるで過去に迷い込んだような錯覚に捕らわれる。昔よりも背も髪も伸びて、大人の女性らしく綺麗になっていたが、それでも、そんな彼女の上には今もあの青空が広がっているような気がした。

 「・・・・・・久しぶり、桂木ちゃん」

 なぜともどうしてとも問わずに久保田がそう言うと、桂木は視線を久保田ではなく美里に向ける。そして、呆然とした様子で自分を見ている美里の右手を取り強く握りしめた。
 「久保田君のマンションから、ここまで案内してもらったけど…、どうやら迷子になっていたのは私ではなく、貴方のようね。だから、きっと貴方は嘘でもいい、夢でもいいなんて哀しい事ばかりしか言わないんだわ…」
 「私が何を言おうと、貴方には関係なんて…っ」
 「確かに関係は無いのかもしれないけど、聞いてて引っ叩きたくなったのよ、最低野郎の顔をね」
 「誠人は最低なんかじゃないっ!」
 「最低よ。偽りで愛を語る男は、ゴミでクズで女の敵だわ」
 「・・・・・っ! この手を放してっ!」
 「ダメよ。今はこの手を放せないし、放したくない。迷子の子の手は放しちゃダメだって、そんなの常識でしょう?」
 「な、何を訳のわからない事を言ってるのっ、私は迷子なんかじゃないわっ!!」
 自分の手を握って放さない桂木を、美里は鋭く睨みつける。
 けれど、桂木は怯まず手も放さずに、美里を真っ直ぐに見つめた。
 その視線はどこか久保田の想い人に似て…、近くで二人の様子を見ていた久保田は、あぁ、だからかと今更のように一人納得する。無意識に面影や声や仕草や、何か少しでも似ている部分を求めていたから、冗談半分、本気半分で付き合って欲しいと言ったのかもしれない。
 美里も始めて会った時、笑顔が少しだけ…、似ている気がして手を伸ばした。
 でも、そんな気がしただけで違う事は、誰に言われるまでもなくわかっている。誰よりも本当はそれを知っているはずなのに、それでも離れている事に、離れていく事に耐え切れずに…、
 気づけば、いつもどこかに誰かに…、大切な人の面影を求めていた。

 「ホント、まるで迷子のコドモ…、だぁね」
 
 そう呟く久保田のすぐ近くで、桂木と美里が話を続けている。
 その会話は久保田の耳にも届いていた。
 自分のせいで泣く人と、その人を助けようとする人の声。
 けれど、久保田の口からは、呟きの他は何も出て来ない。
 嘘ばかりをつきすぎて、嘘に塗れすぎて何も言葉が出て来なかった。
 
 ・・・・・・なんて、酷い有様だろう。

 そう思いながら引き結んだ唇には、もう苦笑すら浮かばない。
 苦しいのか哀しいのか、泣きたいのか…、それとも笑いたいのか…、
 それすらもわからずに、ただ立ち尽くす事しかできなかった。
 もしかしたら、遠く遠くへと離れたつもりで、ずっと…、こんな風に立ち尽くしていたのかもしれない。自分を呼ぶ声が聞こえるたびに、その存在を隣に感じるたびに口元に微笑みが浮かんでくるような…、あの頃に…、あの青空の下に…、
 けれど、そんな久保田の頬を手ではなく、桂木の声と言葉が打った。

 「私には貴方の想いを、想い続けるのを止める権利なんてない。おせっかいな事をしてるって…、本当はわかってる。けど、それでも何も言わずにはいられなかった…、久保田君を殴らずにはいられなかったっ。私はあの頃の久保田君を知ってるから、貴方が哀しい事ばかり言うから…、どうしても迷子の貴方の手を握りしめずにはいられなかったのよ…っ」
 
 桂木は久保田の想いを知っている。
 まだ、久保田の上に青空があった頃から、知っていて黙ってくれていた。
 でも、おせっかいな桂木の事だから、ずっと心配してくれていたのだろう。
 ずっと心配して…、忘れずにいてくれたのだろう。
 だから、今、この場所で美里の代わりに久保田の頬を叩き、久保田の代わりに美里の手を握りしめている。
 そんな桂木はどこか今も想い続けている人に似ていて、重なる面影に胸が苦しく締め付けられて…。そして、目の前にいるのは桂木だとわかっているのに、そんな部分に心が動かされて…、
 いつもいつも最低なばかりで救いようが無くて、閉じた唇にはもう苦笑さえも浮かばない。
 けれど、動かされた心に反応するかのように、閉じた唇が開かれ…、抱きしめ続けてきた真実を口にする。すると、なぜかいつもと変わらないつもりだったのに、声がみっともなく擦れて、途中で言葉が途切れた。

 「ホントはね…、サイアクだとかそうじゃないとかなんて関係ない。ただ、俺は世界中でたった一人しか好きになれなかったし、これからもそうだろうからって…、それだけのコト…。サイテイで救いようの無いバカの…、そんなくだらないハナシだから…」

 これは一体、誰の声だろう…。
 情けなく震える声が、自分のものだとはとても思えない。本当に迷子の子供のようでみっともなく、情けなくて…、口にしてしまった想いに胸が押しつぶされそうで苦しい。
 そんな久保田を見ていた美里は、いつもと違う様子に目を見張り…、
 美里の視線を追うように同じ方向を見た桂木は、瞳に哀しみの色を滲ませた。
 「・・・・・・こんなの誠人らしくないよ。全然…、誠人らしくない」
 そう呟いたのは、桂木ではなく美里で…、
 桂木に取られた手とは反対側の、今も久保田に触れていた左手を離す。
 そして、ゆっくりとゆっくりと触れていた名残りを惜しむように、けれど止める事なく手を放し…、見つめていた久保田から視線を逸らした。
 「誠人はいつも冷静で、どんな時でも顔色一つ変えないで…、そういう人でしょう? なのに、どうして…、そんな…」
 「・・・・・」
 「お願いだから、そんな顔で、そんな声で好きだなんて最低だなんて言わないで…。お願いだから…、ポーカーフェイスで何事にも動じなくて、そういういつも誠人で居てよっ。私の事を好きだなんて、言ってくれなくてもいいっ。だから、そんな顔しないでよ…っ!」
 美里はそう叫びながら唇を噛みしめ、桂木に取られていた右手を取り戻す。
 そして、こんなの誠人じゃない…と呟きながら、その手を胸の辺りで硬く握りしめた。
 でも、そんな風に言われても、今、自分がどんな顔をしているのか久保田にはわからない。
 らしくないとは思ってはいても、胸の奥の想いを言葉にして声に出してしまった瞬間に何かが壊れてしまったのか、美里の言う、いつもの自分にはなれなかった。
 時任を想うと表情も感情も、声すらも自分の思い通りにならなくて、何も偽る事ができない。再会した日のように溢れ出した想いに引きずられて、どうする事もできなくて…、
 ただ、ひたすら情けなく、酷く…、いつも救いようが無かった。
 脳裏に焼きついた青空が想いが、守り続けてきた偽りの殻を破ろうとする。
 大切なのは守り続けてきた偽りの方なのに、それを自分は選んだはずなのに、いつも真実が邪魔をして何もかも壊そうとする。
 けれど、再び疑念を抱いた美里の言葉が、図らずも偽りの殻が壊れていくのを防いだ。

 「まさか好きって…、あの人の事じゃないわよね? 誠人がホモだなんて、そんなの信じられないし、そんな事ある訳ないし…っ。ご、ごめんなさい、あんまり誠人らしくないこと言うから、ちょっと混乱して…、いきなり気持ち悪いこと言って…」

 あの人が誰なのかは、聞かなくてもわかっている。
 地下での騒ぎの原因になったのだから、考えるまでも無い。けれど、一体、何を見て何を思って拉致したのかはわからないが、そんなのはあり得ない事だった。
 昔ならまだしも、今あんな勘違いをするなんて…、本当にどうかしている。バカップルなんて呼ばれていた頃と違って、今は肩を組むどころか二人で並んで歩く事すら無いのに、本当になぜ勘違いをしたのかわからない。
 拉致する前に、かつての相方に聞いてさえいてくれたらと…、
 そうじゃないと違うと単純で明快な…、あの頃と同じ答えがすぐに返ってきただろうにと…、
 そう思うと苦笑さえ浮かばなかった久保田の口元に微笑みが浮かんだ。

 「一緒の部屋に居ただけで、しかも相手が男で疑われるなんてね。ま、そういうヒトも居るんだろうけど…。もしかして、俺もそんな風に見えてたりする?」

 微笑みを浮かべた唇で刻む嘘には、震えも動揺も無い。
 いつもの冷静さを取り戻した久保田の声に、美里が逸らしていた視線を向ける。
 そして、良かった、やっぱり違うわよねと呟き、頬を流れる涙を右手で拭った。
 「本当にごめんなさい…、混乱して変なこと聞いちゃって…。けど、誠人が好きなのが、本当にあの人で…。もしも、フられた上に男なんかに負けたなんて、酷すぎるし哀しすぎるから…」
 「・・・・・そう」
 美里の言葉に久保田ではなく、桂木が辛そうに瞳を伏せる。
 そして、拳を硬く握りしめ唇を開いたが…、声を出すこともなく、すぐに閉じた。
 ここで話を蒸し返せば、また時任に害が及ぶし、美里を責めたところで何もならない。男女間に生まれた恋愛感情しか受け入れられないからといって、それを責めるのは…、その逆を責める事と違うようでどこか似ていた。
 時任を拉致した時には、嫉妬混じりの悪意が美里の中にはあったのかもしれない。けれど、気持ち悪いと男なんかに負けたと言った時、美里は当たり前の事を言っているような顔をしていた。
 まるで、昔、時任が久保田との間に恋愛感情なんて無いし、そんな事はあり得ないと言っていた時のように…、とても自然だった。
 久保田と違い地下での事を知らない桂木は、これは責める事ではないのだと、そう思って口を閉じたらしく、久保田は浮かべていた微笑みを少し深くする。すると、そんな桂木と久保田の耳に、好きだと言ってくれなくてもいいと繰り返し言う…、美里の哀しい声が響いた。
 「好きになってくれなくてもいい、傍に居られるだけでいい…、本気でそう思ってるわ。それでも…、 どうしても私じゃダメなの?」
 「うん」
 「・・・・・・即答なのね」
 「考えるまでもないから」
 「…そう、なんだ? けど、私の事…、少しは好きで居てくれたよね? 好きじゃなきゃ、付き合って…」
 「カラダだけは、多少」
 「・・・・っ!」
 哀しい美里の声に答える久保田の酷い言葉に、桂木が表情が険しくなる。
 しかし、そんな視線を向けながらも、今度は止めようとはしなかった。
 久保田の告白を聞いてもあきらめないのなら、もうこうするしか美里の目を覚まさせる術はないと思ったからだろう。殴りたい衝動を抑えながら自分を睨む桂木の視線を感じた久保田は、心の中であやまりかけたが、そうするのをやめて酷い言葉をを淡々と美里に告げた。
 最低で酷い男にふさわしく…、
 まるで、それを美里だけではなく、桂木にも見せ付けるように…。
 けれど、やはり桂木は動かず拳を握りしめたまま、じっと成り行きを見守っていた。
 「今はダメでも…なんて思ってるなら、期待するだけ無駄だから念のために言っとくけど。この先、何年経っても好きにならないし、なれない」
 「そ、そんな先の事、今はわからない…、でしょう?」
 「わかるよ」
 「…っ!でも、それでも私は誠人と…っ!」
 「ふーん、じゃ今までとオナジでカラダだけで、こっちのヤりたい時にヤられるってだけの存在でいいんだ? それなら、ちょっとだけ考えてあげてもいいけど?」
 「・・・・本気で本当に今まで私の事、そんな風に思って…、た?」
 「最初から、そういうカンジだったし、今更デショ」
 「い、今更って…っ」
 身体の関係を持つ前も、持った後も、好きだと言ったのは地下での一度きり。
 会うのは仕事の連絡の時で、抱くのはそのついでのようなものだった。
 連絡以外の誘いには気が向けば乗るし、向かなければ無視していたし…、
 それでも横浜に戻って数ヶ月、今まで関係のあった女の中では長く続いた方かもしれない。
 思い返せば返すほど、美里との関係は最低で最悪でしかなかった。
 そこにあるのは男の欲望だけで、他に何も有りはしない
 なのに、それでも夢を見続けようとする美里の前に、久保田は残酷な現実を突きつけ、流れ落ちる涙も見ずに切り捨てる。でも、それは地下での時と同じように美里のためではなかった。
 「自分に都合の良いコトだけ信じて夢だけ見てれば、生き方としては楽な部類に入るのかもしれないけどね。そういう独りよがりのクダラナイ夢は、一人で見ててくれる?」
 「くだらない…、夢…」
 「少なくとも、俺にとっては」
 「・・・・・・・・」
 「サヨナラ…。今度は俺みたいじゃないのにしなね」

 バシィーーンッ!!!

 次の列車に乗る人々が集まり始めた駅のホームに鳴り響く、2発目の平手。
 泣きながら走り去る美里の姿と足音に、人々の視線がその原因である久保田に集中する。けれど、久保田は落ちた借用書をゆっくりとした動作で拾い上げただけで、赤くなった頬に手を当てる事もせず、同じ場所に動揺も無く静かに立っていた。
 そのせいか人々の興味が薄れるのも早く、集中していた視線は、すぐにバラバラと元の場所へと戻っていく。しかし、桂木の強く鋭い視線だけは、久保田から外される事はなかった。
 「アンタにしては下手な別れ方ね。でも、その無様さも計算の内かしら?」
 そういう桂木の声は、突き刺さるような視線とは違い、穏やかで優しい。
 久保田は予想外の事に首を少し傾げ、そっちこそ、何の計算?と言い返す。
 すると、桂木は残念ね…と、口元に笑みを浮かべた。
 「それこそ、今更よ。アンタが最低な事くらい、とっくの昔に知ってるわ。だから、私に何を見せた所で何も変わらないし無意味よ」
 「・・・それって、何のハナシ?」
 「私がここに居る理由の話。本当は気づいてるんでしょう? だから、急ぐ旅でもないのに、早くココから逃げ出したがってる」
 「・・・・・・・・」

 「もうじき、時任がココへ来るわ」

 まるで、死刑宣告のように響く、桂木の声。
 そう…、確かに言われるまでもなく、久保田は気づいていた。
 なぜ、まるで何もかも知っているかのように、早朝に久保田のマンションを訪ねたのか…。なぜ、美里と一緒に来ていながら、すぐに姿を現さなかったのか…、
 桂木には不審な点が多く、その点をたどれば答えは簡単に出てくる。
 久保田の前に姿を現す前、おそらく、桂木はケータイで時任を呼んでいたに違いない。
 そして、時任と美里が鉢合わせしないように、時任が間に合わなかった場合は久保田を引き止めるつもりで、近くに潜んで見張っていたのだろう。おそらく、おせっかいな性格が災いしなければ、あのタイミングで久保田の前に姿を見せる事はなかったはずだ。
 何もかも知っているような口ぶりから、神崎の仕事の件とも関わりがある可能性も高い。
 けれど、久保田が知りたいのは、もっと別のことだった。
 神崎や桂木が何をしようと、何を思おうと、そんな事はどうでもいい。
 ただ…、知らなかった事実を知らされて、かつての相方が表情を曇らせたり、苦しんではいないかと、それだけが気がかりだった。それだけが気にかかり、苦しさと痛みが胸の奥から、殺し続けていた想いと一緒に這い上がってきて…、旅立とうとする久保田の髪を引く…。
 けれど、だからこそ、ここで立ち止まる訳にはいかなかった。
 
 「・・・・・・どうして?」

 時任が来る事を告げた桂木に、久保田が言ったのはたった一言だけ。
 でも、その一言は押し隠した苦しさと痛みに冷たく凍りつき、聞く者の身を震わせる。それは高校時代の久保田を知る桂木も例外ではなかったが、それでも視線を逸らせる事はなかった。
 桂木は肩を小さく震わせながらも冷たさの裏側に潜む、たった一人に向けられた激しい恋情と愛情を…、その哀しさと切なさを暗く沈む瞳の中に見出そうとしているかのように見つめながら、ポケットから何か小さな紙のようなものを取り出す。そして、その紙を片手に大切に守り続けてきた風景を青空を壊したのではないかと疑う久保田に向かって、そうじゃないと違うと首を横に振った。
 「私は一度守った約束を、今更破るつもりはないし…。昔のアンタ達を知ってるから、いつも見てる事しかできなかった。でも、もしかしたら、そんなのはただの言い訳なのかもしれないわね。何もできなかった自分自身への…」
 「・・・・・忘れてくれれば良かったのに」
 「無理よ、そんなの。だって、忘れてしまったら、大切な想い出までなくしちゃうわ。それに、私は時任を見てる時の久保田君の顔が、一番好きだったしね」
 「ソレって、告白?」
 「さぁ、どうかしら? 時任も久保田君と一緒にいる時の顔が、一番好きだったわよ」
 「意外と気が多いよね、桂木ちゃんって」
 「その割りに噂はからっきしだったのよねぇ。誰と一緒に居ても一つも噂にならなかったのって、一体、どういう了見なのかしら?」
 そう言って軽く笑い、おどけてみせる桂木に、久保田を包む冷たい空気が緩む。
 昔と何も変わらない桂木の様子に、久保田はわずかに肩から力を抜き小さく息を吐いた。
 あれから、もう七年も時が経ってしまったのに、桂木と話しているとあの頃に戻ってしまったような錯覚に捕らわれる。けれど、錯覚は錯覚でしかなくて…、過ぎてしまった時は戻りはしない。
 なのに、今にも自分に向かって駆けて来る足音が、自分を呼ぶ声が聞こえてきそうな気がしてきて…、久保田はもう列車が来るからと、桂木との話を適当な所で切り上げようとした。
 しかし、桂木はそれに構わず話し続ける。
 そして、その声は相変わらず穏やかで優しかった。
 「きっと、久保田君の事だから気づいてるでしょうけど…、時任が久保田君のマンションに行ったのは、人探しの調査のためなんかじゃないわ。本当の依頼は人探しじゃなくて、アンタ達を会わせる事だったから…」
 「その依頼、桂木ちゃんが?」
 「いいえ、私じゃなくて彼女の依頼。彼女にはどうしても気持ちを整理するのに時間が必要だったから、今でなければダメだったのよ。自分が幸せになろうとする今だから、彼女は神崎さんにアンタ達を会わせて欲しいって依頼を…」
 「彼女?」
 「時任の元、彼女よ…。知らなかったかもしれないけど、時任と彼女は五年も前に別れてるわ。でも、それでも彼女は時任の幸せを祈っていたから、アンタ達を会わせたいと思った。久保田君がずっと祈っていたように彼女もずっと祈っていたから…、私がしたくても出来なかった事をしたのよ」
 「・・・そう」
 「そして、彼女に依頼された神崎さんも彼女に相談された私も、彼女には何も言ってない。久保田君の想いは何一つ…、言葉にして伝えたりはしてないわ。・・・さっき言ったように、時任にもね」
 「・・・・・・・・」

 「けど、言葉にして伝えない代わりに、これを神崎さんに託して時任に渡した…。昔、私達がまだ腕に青い腕章をつけていた頃、誰かさんがらしくなく、必死に取り返したものを…」

 桂木はそう言うと、持っていた小さな紙切れを久保田の前に差し出す。
 けれど、久保田はそれにチラリと視線を落としただけで、受け取ろうとはしなかった。
 その昔、久保田が必死になって取り返したもの。
 それは一枚の紙ではなく写真で、そこには久保田自身と時任が写っている。
 らしくなく油断していて撮られた写真で、犯人は何の趣味なのかラブシーンばかりを盗み撮りして、売りさばいていた女子生徒。早々に犯行を突き止めて取り返しはしたが…、改めて盗み撮りされた写真を見た久保田は、あまりの可笑しさに腹を抱えて笑った。
 校内でバカップルなんて呼ばれてる自分達が、今更こんな写真を誰に見られた所で、一体、それがどうしたと何だというのだろうかと、自分で自分が可笑しくてたまらなかった。
 きっと、時任だって何やってんだよって、軽く笑い飛ばしてくれる。
 そんな写真を必死に取り返して、あまりの自分の馬鹿さ加減に笑いが止まらなかった。

 『コレ、松本に渡しておいてくれる? 今回の証拠品』
 『…って、何笑ってるの?』
 『ん〜、ちょっちね。腹がよじれるほど、バカバカしいコトあったから』
 『バカバカしいこと? 今回の件じゃなくて?』
 『今回の件のような、そうじゃないような?』
 『何よ、それ』
 『さぁ?』

 あの時、あまりに馬鹿馬鹿しくて笑いが止まらなくて、桂木に写真を頼んだ。
 それがこんな事になるとは思わなかったが、別にそれで何か問題がある訳じゃない。
 この写真に映し出されているものは、すべて冗談にしかならないし…、
 伸ばした指先も触れかけた唇も、そこに込められた想いさえも笑い話にしかならない。
 なのに、桂木は写真を見つめながら、笑わないで…と哀しそうに言った。
 「あの時、久保田君が笑ってたから、この写真が気になって松本会長に渡せなかったのよ。連続で撮られた二枚とも…、笑える写真じゃなかったから…」
 「どうして? こんな脅迫のネタにもならない写真を取り返して、バカバカしくて笑いたくならない?」
 「ならないわよ。けど…、笑ってるアンタを見てたら、なぜか泣きたくなったわ」
 「・・・・・・・」
 「笑った分だけ、哀しくなったから…。いつか、この写真を時任に見せてやりたいって…、そう思ったのよ…」

 笑った分だけ、哀しく…。

 桂木の言った言葉を久保田は口には出さず、心の中で呟いてみる。
 けれど、写真を見て笑った時も、今も哀しみは湧いてこなかった。
 だから、久保田は偽りではなく、思いのままに首を横に振った。
 「・・・・べつに哀しくはないよ」
 「嘘つき」
 「それは否定しないけど、哀しくないのはウソじゃない。笑った分だけ…、そう、たぶん青空がキレイに見えたから…」
 「青…空?」

 「うん…、ウソツキだけど…。これだけは、たぶんホント」

 きっと、相方だったから、あの青空の下では偽りの無い笑顔でいられた。
 これからもずっと一緒に…、ずっと隣にいるんだろうと当たり前のように思えた。
 そうして、たぶん相方でいられたなら、今も傍に居て…、
 恋さえしなければ、間違えたりさえしなければ…、隣で笑っていたりしたんだろう。
 だから、あの青空の下でしか立ち止まれない。
 ずっと…、ずっと続いてるかもしれなかった場所にしか立ち止まれない。
 なのに、桂木はあの空の下ではない場所で、久保田を引きとめようとした。
 「どうして、彼女があんな依頼をしたのか、わからない久保田君じゃないでしょう? だから、泥沼なんて言わないで立ち止まって…」

 ・・・・・・・・時任も今なら。

 そう言いかけた桂木の言葉を、久保田は伸ばした手で写真を奪い取る事によって止める。
 そして、改めて写真に写る過去の風景を、その中に居る自分と時任を眺めた。
 懐かしい教室と学ランを来た二人の姿…。
 届かない想いのように、寄せられた唇が触れる事は一度も無かった。
 でも、それで良かったんだと、二人の背後の窓一面の青空を見て改めて思う。
 久保田は手に持った写真をポケットの中に仕舞い込むと、言いかけた桂木の言葉を引き継ぐように、今なら…と口にした。
 「今なら、あの頃とは違うかもしれない…。けどね、桂木ちゃん…、始まる前から終ってたんだ。もう、とっくの昔に終ってたから・・・、このままで、終ったままでいさせてよ」
 お願いだから…と言葉では告げず、久保田は向けた視線で語りかける。けれど、桂木はめったに他人に頼み事も願い事もしない久保田の願いを聞き入れず、首を横に振った。
 「そんなのは、久保田君の思い込みだわ。始まってないなら、終ったりもしない。始まりもしないで逃げ出したら、きっと後悔だけが残って・・・」
 「・・・残らないよ」
 「そんなの嘘よ」
 「ウソじゃないし、強がりを言ってるワケでもないよ。笑っていてくれるなら、幸せでいてくれるなら…、後悔なんて残らない」
 「でも・・・、たとえそうだとしても、時任が笑っていられる、幸せで居られる場所は久保田君の隣かもしれないじゃない。だから、その可能性を考えないで逃げ出すって言うなら、時任を不幸にするのは誰? 時任の傍でしか笑えない久保田君を不幸にするのは一体、誰だっていうの?」
 「・・・・・・・・」

 「それに本当は久保田君の中では、何も終ってなんかない。だって、そうでしょう? もしも、とっくに終ってるなら、逃げる必要なんて・・・」

 桂木がそう言うと同時に列車の到着を知らせる音楽が鳴り始め、久保田に向けられていた視線がホームの入り口にに向けられる。しかし、未だ、そこに待ち人の姿はなかった。
 その事にホッとしながら、瞳に切ない色を滲ませながら、久保田は足を前へと踏み出す。そして、時任の無邪気な笑顔を、そこにあった平凡で穏やかだった…、温かな日々を思い出しながら、まるで二人で過ごした3年間を振り返るように、3歩だけ歩いて立ち止まった。
 「・・・・たとえば、今だからじゃなくて、今だけなら立ち止まったかもしれない。もしも、今だけで今日だけで、もうじきでもいい世界が終るなら、立ち止まって手を伸ばして抱きしめたかもしれない。時任の想いなんて意志なんて無視してでも…、ね。だけど、今だけでも今日だけでもなく世界は続いていくし、明日は来るから立ち止まれない。それに可能性を考えるなら、それこそ止まるべきじゃないし…」
 「それって、どういう…意味?」
 「俺の伸ばした手を時任が取ってくれる可能性じゃなくて、時任が別の手を…、柔らかい可愛い手を取る可能性。恋愛して結婚して、子供がいて…、そういう未来を捨てるなんて幸せを捨てちゃうようなモノでしょ?」

 「何言ってるのよっ、今はそんな一般的な、普通の話をしてる訳じゃ…っ!」

 このまま旅立つと、その意思を決して変えようとしない久保田の言葉に思わず、桂木がそう叫ぶ。けれど、その瞬間に列車が巻き起こす風に髪を撫でられながら、桂木はハッとしたように大きく目を見開いた。
 さっきから、二人は普通の話はしていない。
 それは話の内容が、男女間の話ではないから…。
 それは当然で当たり前で普通だと言ったら、それは嘘になる。
 なのに、普通の話をしている訳じゃないと言った自分自身にショックを受けている桂木が何を思っているのかは、何となく聞かなくてもわかる。でも、ここで何を言っても姉御肌で、いつも自分より人の事を思いやってばかりいる、優しい桂木の事だから自分を責める事しかしないだろう。
 だから、久保田はあえて何も言わず何も聞かずに、さよならの代わりにありがとうを言った。
 「ありがとね、桂木ちゃん。変わらないでいてくれて、忘れないでいてくれて…。桂木ちゃんが変わらないで忘れないでいてくれたから、あの日々に…、青空が綺麗に見えてた日に少しだけ立ち戻れた気がする。なぜ、あの場所に立ち止まりたかったのかも、やっと、本当にわかった気がするから…」
 「・・・・・久保田君」
 「時任が来たら、逃げるサイテイな俺の代わりに…、ゴメンねって伝えてくれる?」
 「嫌よ、そんなのっ。絶対に伝えないわっ」
 「・・・・・いつでも、どこに居ても幸せを祈ってるからって」
 「久保田君っ!」
 開かれた列車のドアに吸い込まれていく人々の列に従い、久保田もその中に紛れようとする。けれど、桂木の手が待って行かないでと久保田の腕を掴み引いた。
 ここに向かっている、時任の想いを伝えようとするかのように…。
 しかし、次に久保田が口にした言葉を聞くと、桂木の手は急速に力を失って下へと落ちる。その言葉には、まだ青空が綺麗に見えていた頃、何度も何度も繰り返し、誰よりも大好きな人によって、つけられたられた傷が深く刻まれていた。
 「昔も今も幸せを祈りたいから、なんてウソ。たぶんホントはただ、二度終るのが怖いだけ…。だから、逃げるよ。この想いが消えるまで…、逃げて逃げ続けて…」

 ・・・・・・・・きっと、二度と戻らない。
 
 閉じられたドアに遮られて、最後の言葉は桂木には届かず…、
 やがて、駅のホームに発車のベルが鳴り響く。
 今も忘れられない想いと治らない傷を抱え微笑むと、久保田は瞳で必死に何かを訴えかけようとしている桂木に向かって首を横に振った。
 けれど、やがて走り出し遠ざかっていく桂木が後ろを振り返り、久保田は思わずつられて、その視線の先を見る。すると、そこには息を切らせながら走ってくる…、もう会わないと、もう顔すら見る事はないと思っていた人の姿があった…。
 
 「久保ちゃん…っ!!!!」

 自分を呼び走ってくる人の姿を久保田は目で追い続け…、けれど、手は伸ばせない。
 どんなに恋しくても立ち止まるには、二人の間にあった青空は遠すぎて…、
 終わりしか知らないから、始まってから終るなんて予想もつかなくて…、
 抱きしめてからキスしてから離れるなんて耐えられないから…、やっと訪れた今に、どうしてもすがり付けなかった。
 久保田は目蓋の裏に焼き付けるように遠ざかっていく恋しい人の姿を見つめながら、せめて…、今が少しでも優しくあるようにと願いながら、微笑み続ける。穏やかに優しく微笑んで、胸の痛みではなく…、あの青空だけが大好きな人を包んでくれるようにと祈りながら…、
 ホームが見えなくなると、一度だけ時任…と名を呼び目を閉じた。


 ・・・・・・・・・目を閉じたはずだった。


 けれど、その瞬間…、脇腹の辺りに衝撃と痛みが走り、久保田は閉じた瞳を開く…。
 すると、落とした視線の先…、脇腹からナイフの柄のような物が生えていた。
 それはまるで現実味のない光景で、でも、そこから伝わってくる痛みが夢ではないと知らせてくれる。脇腹からナイフの柄のような物が生えているのは、そこに刺さっているからに他ならない。
 でも、それが現実だと理解しながらも、久保田は慌てたり叫んだりはしなかった。

 「・・・・・・・なら、仕方ないやね」

 そう呟いた久保田の瞳に映る、ナイフの柄を握りしめる手。
 その持ち主を見た久保田は、口元に笑みを浮かべ、痛みに擦れた声でそう呟く。
 時任の事に気を取られすぎていて、こんなに接近するまで気づかなかった。振り返らなければ簡単に気づけたのに…、時任の名を聞いた瞬間に見つめずにはいられなかった…。
 久保田の脇腹に深々とナイフを突き刺していたのは、すでにホームから走り去り居なくなっていたはずの美里で…、どこで手に入れて来たのか、それとも最初から持っていたのか、美里はナイフを握りしめたまま、恐怖のためか身体を硬直させ震えている。声も出せない様子で、それが幸いしたのか、起こっている事態に気づいている者はまだ居なかった。
 二人の一番近くにいる女子高生達は、誰と誰が付き合ったとか別れたとか、そんな話に夢中になっている。視線だけを動かして、それを確認すると久保田は驚かせないように小声で話しかけながら、美里の手を上からそっと握りしめた。

 「大丈夫…、心配ないよ。心配ないから、落ち着いて…」

 かけられた声に美里はビクッと肩を震わせたが、まだ声が出ない様子で…、黙り俯いたまま顔をあげようとはしない。けれど、久保田はそんな美里に大丈夫だからと、心配ないからと優しく声をかけ続けた…。
 そうしている間にも、ナイフで刺された傷から血が流れ出し、久保田の身体をジャケットの内側に着ている白いシャツをゆっくり、ゆっくりと赤く染めていく。刺されたナイフは鋭く殺傷力が高かったのか、女の力にしては深く突き刺さっていた。
 しかし、久保田は口元に笑みを浮かべたまま、倒れずに平然と立っている。
 本当は出血と痛みで倒れてしまいそうだったが、今はまだ倒れる訳にはいかなかった。
 久保田は声をかけている内に、少しずつ震えの治まってきた美里の手を、ゆっくりとナイフの柄から外させると、その手を包み込むように握りしめる。そして、やっと顔を上げた美里の恐怖と憎しみ…、そして哀しみに歪んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。
 「何も心配いらないから、次の駅についたら降りて…、忘れるんだ…、全部。そして、誰に何を聞かれても、知らないって言えばいいから…、ね?」
 久保田がそう言うと美里の歪んだ瞳に、止まっていたはずの涙が溢れ始め…、
 震える唇が…、ごめんなさいと言葉を刻む。
 けれど、それに向かって、久保田は穏やかに笑って首を横に振った。

 「ゴメン…なのは俺の方、でしょ? いつも、いつだって、そうだったから…、ゴメンなんて言わないでサヨナラだけ言ってよ。手も振らないで…、振り返らないで…」

 やがて、次の駅に列車が到着して、再びドアが開かれる。
 すると、久保田は震えて歩き出せない美里の背中を軽く押し、出口へと導き…、
 自分に向かって伸びてくる手に持っていた借用書を握らせると、一瞬だけ、大丈夫だと伝えるように優しく触れて…、サヨナラを告げるように離れた。
 そして、刺さったままになっているナイフとシャツに滲んでいく赤を、誰の目にも触れないように隠しながら、閉じられていくドアの音を聞き、発車する列車の衝撃に耐える。
 無事にこの列車から美里を降ろした後しなくてはならないのは…、このまま気づかれずに出来るだけ長く、出来るだけ遠くまで立ち続ける事だけ…。
 そうすれば、周囲に居た人間が美里が無実だという事を証言してくれる。
 久保田はジャケットでナイフの柄を拭いて指紋を消し、念の為にわざと脇腹に触れ、右手の手のひらを赤く染めると、それを塗り込めるように念入りに自分の指紋を付けた。

 「・・・・・・サイテイでも血くらいは役に立つ、かな」

 赤く染まった右手をポケットに突っ込み、クスリと笑うと振動で脇腹に鋭い痛みが走る。でも、その痛みすら何かおかしくてたまらなくて、笑わないように耐えていると目尻に生理的な涙が滲んだ。
 こんな時なのに痛みじゃなくて、そんな事で滲む涙を左手の人差し指で拭い…、
 横浜から、時任から…、遠ざかっていく列車の窓を、その窓に写る景色を見つめる。
 すると、灰色の街の上…、空はポケットに入れている写真のように青くて…、
 思わず目を細めると、なぜか自分を呼ぶ時任の声が聞こえたような気がした。
 流れ出していく血のせいなのか、次第に霞んでいく景色の中、空だけがやけに青くて青すぎて…、その鮮やかさが目に染みる。そう言えばと思い出した右腕から腕章を外した日も、二人で暮らした部屋を出た日の空も…、確かこんな青い空だった…。
 別れの日だというのに雨粒一つ降らせてくれない空に、ほんの少しだけ恨み言を言いたい気がしたが、それも…、もうどうでも良い事なのかもしれない。
 空は雨を降らせてくれなかったけれど、罪に罰は下った。
 だから、今なら…、今だけは神様を信じてもいい気分になったのかもしれない。
 久保田は写真の入ったポケットを軽く撫でると…、たった一つだけ願い事をしながら…、
 夜空ではなく…、唯一、今も二人を繋いでいる空に見つめながら、脳裏に誰よりも青空の似合う、誰よりも好きな人の笑顔を思い浮かべた。


 ・・・・・・・・・・・泣かないで。


 泣かないで…、笑っていて・・・・・。
 この罪にくだった罰に、涙なんて流さないで…、
 写真に写り込んでしまった過ちも、涙と一緒に忘れ去って…、
 どうか笑っていて・・・、お前だけは青空の下に居てと祈り願い…、
 けれど、青空を映す窓に向かって伸ばした指先は記憶をたどるように、柔らかな髪を撫でるように動き、細められた目から一粒だけ涙が頬を伝った。

 「好きだよ…、時任…」

 青空に向かって告げた言葉に、返事が返ってくるはずもなく…、
 やがて一つ駅を通過するたびに、窓に伸ばされた指先が下へと落ちていき、それと同時に身体もゆっくりと床へと沈み込むように倒れていく。それに気づいた乗客達が騒ぎ始めたが、久保田の耳にはもう、そのざわめきは届かず…、何も聞こえなかった。
 ただ、穏やかな静寂だけが、完全に床に崩れ落ちた久保田を包み込み…、
 閉じられていく視界の中、鮮やかな青だけが抱きしめ続けていた想いと混じり合い…、零れ落ちた一粒の涙と一緒に胸に焼きついた。
 

 ・・・・・・さようなら、愛しいひと。


 もう…、たぶんずっと前から、恋なんて通り越して愛していた。
 だから、君さえ笑っていてくれるなら…、哀しくはなかった…。
 想いが届かなくても、唇が嘘しか紡げなくても…、
 あの青空を君を想うだけで・・・、それだけで・・・・・、

 ・・・・・・・・・時任。

 目蓋が完全に閉じられると同時に、思考も止まり…、
 けれど、久保田を乗せた列車は次の駅まで走り続け、景色は流れ続ける。
 そして、そんな久保田を手を伸ばし続けていた日々へと…、愛しい人へと続く…、
 哀しく透き通った青だけが、静かに見つめていた。














 『午前11時の、・・・・ニュースです…。昨日の午前9時頃、神奈川県横浜市・・・にある、・・マンションとその所有者である・・・の所属する暴力団・・・会に、・・・・の一斉捜査が入り・・・・・』

 赤信号で立ち止まった交差点…。
 ビルに設置された巨大パネルのニュースの内容が、時折、耳に入ってくる。
 けれど、途切れた部分を聞くために、耳を済ませる事はしなかった。
 ニュースを聞くまでもなく、すでに内容は知っているから、そんな必要はない。
 時任は小さな花束を片手にニュースを流し続けているパネルではなく、その上にある空を見上げると…、眩しさと青さに目を細めた…。

 「昨日まで雨だったのに…、すっげぇ天気」

 そう呟くと雨上がりの少し湿った風が頬を撫でる。
 すると、その風に誘われるように、ふーっと口から細く長く息が漏れた。
 天気予報では曇りだったが、今日は一日中、良い天気になりそうだと思いながら…、
 やがて、青に変わった信号と歩き出す人の群れに混じり、時任も歩き出そうとする。
 しかし、ふいに横から聞き覚えのある声がして、前に踏み出しかけた足を止めた。

 「あれから一年ですか…、早いですね」

 キッチリとスーツを着込み、時任と同じように花束を片手に持っている人物は、そう言うと…お久しぶりですと時任に声をかけてくる。けれど、つい最近も会ったばかりなので、久しぶりという挨拶はあまり合っていないような気がした。
 だから、思ったままの返事を時任が返すと、スーツを着た人物…、橘遥は高校時代から変わらない綺麗な顔に妖艶な微笑みを浮かべる。そして、確かにそうですが、何となく、そんな気がしたので…と、相変わらずの調子で食えない答えを口にした。
 「今、ニュースで流れていた事件。内部にスパイとして入り込んで情報を流し、警察に証拠を掴ませて逮捕させたのは、貴方だと聞きましたが…、どうやら本当のようですね」
 「…って、そんなの誰に聞いたんだよっていうか、まだ何も聞かれてねぇし、言ってもねぇのに何でホントだってわかんだよ?」
 「そうですね…、特に理由はありませんが…。さっき空を見上げてた貴方の背中が、なぜか高校の頃の貴方の背中とダブって見えたせいかもしれません。今も昔も変わらず貴方の右腕には、あの腕章が似合いますよ」
 「ソレって、今でもガキ臭ぇって言いたいのか?」
 「そう言って欲しいんですか?」
 からかうような口調でそういう橘にムッとしながら、それでも、なぜか、そんな会話に妙な懐かしさを感じて、たまにはこういうのも良いか…と思いかけ苦笑する。橘は昔も今も変わらずと言ったが、あの頃の自分なら、絶対にこんな気分にならなかった…。
 青から再び赤に変わった信号機を眺めながら、そう思うと過ぎてしまった年月を感じて…、時任は唐突に襲ってきた疲れと目眩に、右手の親指で皺の寄りかけた眉間を揉むように抑える。探偵事務所に入って探偵になってから忙しい日々を送ってはいるが、特にこの一年はテレビで流れているニュースの件…というよりも、久保田の元彼女である美里の関係で目が回るほど、忙しかった。
 
 『お願い・・・、私を警察に連れて行って…』

 どこで調べたのか事務所に、そんな電話が美里からかかってきたのは、久保田が刺されてから一週間後。美里は久保田を刺した翌日に自首しようとしたらしいが、その直前に関係のあった暴力団に拉致され監禁された。
 法に触れる取り引きの連絡係をさせていた美里が、別件とはいえ自首するとなると、そこから色々と関係を洗われて、知られては不味い情報を吐かされる可能性がある。借用書はすでに久保田から美里へと渡っていたが、借金は帳消しにしても手放す気はなかったらしい。
 久保田の事件は刺されて倒れたと思われる時間、接触した人間がいなかった事や、凶器であるナイフに久保田本人以外の指紋しか残っていなかった事で、直前に別れ話をしている所を目撃されていた美里への嫌疑はすぐに晴れたが…、囚われの身は変わらず、前と同じように連絡係や接待をさせられていた。
 そこから美里を救い出すには、本当に開放するには本体を叩くしかない。
 そう判断した時任は暴力団の金の流れと背後関係を、自分の身を危険に晒しながらも、一年近くかけて徹底的に調べあげた。
 その時、久保田が住んでいたマンションの地下の事も、知る事になったのだが…、
 あのマンションに住む住人の元には、一目につかないように地下通路を通って定期的に女が派遣される。つまり、マンションの賃貸料に売春行為で発生する料金まで含まれていたらしい。
 それを知った時、住んでいた久保田はどうだったのかと考えたかけたが…、二人で部屋に居た数日間が脳裏に浮かび、すぐに首を横に振った。
 美里から少しだけ、自分の知らない久保田の事を聞いた。
 けれど、自分の知る久保田が偽物だとは思わない。久保田は久保田だから…、何を聞いても、それが自分の知る久保田を信じない理由にはならない。
 だから、地下についての情報も、迷うことなく警察に全て流した。
 
 「・・・・・久保田君の元彼女だそうですね、犯人」

 長く続いた調査で、さすがに疲れを隠し切れない時任の顔ではなく、その手の花束を見つめて橘がそう言う。その声にハッとして、いつの間にか足元に落ちていた視線を上げると、そのタイミングを待っていたかのように信号が赤から青に変わり…、
 時任は前に向かって足を踏み出しながら、何の話だとそっけなく答えた。
 しかし、それだけでは、やはり誤魔化されてはくれない。そっけない時任の様子を見た橘は微笑みながら、同じように足を前に向かって踏み出し、いつか刺されるのでは…と実は思ってたんですよと物騒なことを言った。
 「あんなに捻くれているクセに、ああいう所は不思議と素直ですからね。本当に好きな相手以外は、たとえ抱きしめ合っていても何してても笑顔すら、おざなりですから」
 「だから、さっきから何の話を…」
 「久保田君の話…、ですよ」
 「・・・・・・」
 「彼はいつも一人だけを目で追っていた…、たった一人だけを見つめていた。だから、いつも他のモノが目に入らない…、見えない。恋は盲目とは、良く言ったものです」
 「橘、俺は…」
 「別に貴方を責めたくて、こんな事を言ってる訳じゃありません。それに永遠に気づかなかったとしても、自分の想いを伝えようとしなかったのは久保田君ですから…、それは仕方の無い事です。ですが、あまりにも貴方ばかりを…、貴方だけを見つめ続けていたから、その想いを少しでもわずかでも伝えたいと…思わずにはいられなかったんです」
 橘はそこで一旦言葉を切ると、結局、思うだけで伝えられませんでしたが…と、らしくなく苦笑する。そして、過ぎてしまった日々に想いを馳せるように、わずかに視線を上げて、二人の上を覆い尽くしている青空を見つめた。
 「なぜ、自分の身を危険にさらしてまで、彼女を助けたりしたんです? 助ければ自首するという話だそうですが…、証拠も無いのに自首すると本気で思ってるんですか?」
 「それは俺じゃなくて、美里さんの決める事だろ?」
 「・・・・・まさか、彼女を許すとでも言うつもりですか?」
 「・・・・・・」
 「もしも、僕が同じ立場なら、どんな理由があろうとも許さない…、絶対に…。なのに、どうして貴方はそんなに平然としていられるんです? 貴方の久保田君を想う気持ちは、その程度のもの…、だったんですか?」
 詳しい事情を知っている橘の質問に、情報の発信源が誰なのか思い至り、時任はあきらめたように小さく息を吐く。そうして、改めて久保田の事件と今流れているニュースを思い返し、花束を持つ手にわずかに力を込めた。
 でも、それでも美里を助けた事に後悔は無い。けれど、それは職業である探偵としてではなく、高校時代のように正義の味方だからでもなかった。
 ナイフの柄に残された久保田の指紋と血痕。
 そして、刺されても立ち続けた久保田の意志が何よりも大切だったから、守りたかったから、彼女を助けたいと思った。だから、彼女を助けたのは自分のエゴで、自己満足でしかない。
 橘は今も似合うと言っていたけれど…、今の自分には青い腕章は似合わない。
 自分の右腕を見つめた時任は、大人びた穏やかな笑みを口元に浮かべるとサイテイだ…と、久保田に似た口調で言った。
 「その程度って言われても、自分の気持ちがどれくらいかなんて俺にはわからない。けど、俺は彼女に自首して欲しいなんて思ってないし、自首を勧めたりもしない。久保ちゃんはソレを望んでないし、俺も望まない…。俺がしたかったのは彼女を助けるコトじゃなくて、久保ちゃんの望みを叶えるコトだったから…、良いんだ…」
 「・・・・時任君」

 「これで・・・、良いんだ…」

 そう呟いた声は、なぜか震えていて…、
 その震えが伝染したかのように、浮かべていた笑みに哀しみが混じり…、
 けれど、空はどこまでも青く、遠く…、握りしめた花達は鮮やかに…、
 まるで、枯れていく事を恐れていないかのように今を咲き誇る。
 橘は何かを思うように少し目を伏せると、自分の手の中の花達を時任の手に渡した。
 「僕は今日はやめて置きます。ですから、これは貴方から・・・・・」
 橘がそう言うのに無言でうなづき返すと、時任は二つの花束を手に歩き出す。
 橘と別れて一人きり、この一年で歩き慣れてしまった道を通り…、
 あの日と同じ青い空の下、再びめぐってきた季節を風景を眺めながら、過ぎ去っていった日々を思い唇を噛みしめた。
 けれど、過ぎ去った日々は、いくら唇を噛みしめても戻らなくて…、
 部屋の寝室に置いてきた写真を想うと、涙が零れ落ちそうになる。
 一年前、久保田の部屋でその写真を…、写真の裏側に永遠を見つけた日…。
 どうして・・・、どうして・・・と…、
 まるで、いつかの彼女のように、繰り返し呟く事しかできなかった。
 
 「・・・・・逃げてたのは、久保ちゃんじゃない。逃げてたのは自分の気持ちに気づきたくなくて、ずっと自分に都合の良い関係を無意識に押し付けてた…、俺の方だったのに…」

 ようやく、たどりついた場所で…、消毒の匂いのする部屋で…、
 時任はそう呟き、サイドテーブルに花束を置く。
 そして、規則的に繰り返す緑のラインの波を表示している機械と、その横にあるベッドの上で眠っている人を、大好きな人の顔を涙で潤んだ瞳で見つめた。
 けれど、久保ちゃん…と名を呼んでも目覚めない。
 脇腹に刺されたナイフを抜かなかった事が幸いしたのか、何とか一命は取り留めたが出血はやはり多く、その傷は深く内臓まで至っていて、久保田は一年経った今も昏睡状態のままだった。
 主治医をしてくれている、この総合病院の次期院長であり、高校時代は生徒会長もしていた松本も、久保田が昏睡状態のままなのか、それとも目覚めるのかどうかはわからないと…、助けて欲しいと頭を下げる時任に向かって、医者の顔をして言ったが…、
 病室のサイドテーブルに置かれた執行部で撮った写真を見ると目を細め、友人に話すような砕けた口調で、時任に久保田の事を話した。

 『あの頃、お前との事をバカップルと呼ばせていたのは、たぶん、傍にいながら気持ちを隠し通すのは難しいと、自分でもわかっていたせいだろう。だから、全部冗談にしてしまえば…、お前に気づかれずに済むと思ったのかもしれない。せめて、今だけは一緒に…、今だけは一番近くに居たかったアイツの、あれは最初で最後の我儘だった…と、俺は思ってる。まったく、捻くれているアイツらしい自虐的な我儘だ…』

 自分の抱いている想いが、弱いとは思わない。
 もしも、弱いのなら、こんなにも苦しく切なく…、そして哀しく想いが胸をしめつける事はないと思う。けれど、だからこそ、松本や橘…、そして桂木や元執行部の仲間達から、自分の知らない久保田の話を聞くたびに、その想いの強さを苦しさを思い感じて何も言えなかった。
 久保田の想いは、集合写真に写る青空から…、
 そこに写る微笑みから…、それよりも前から続いていて…、
 なのに、時任の想いは同じ場所から続いてはいない。
 ずっと、好きだった。
 ずっとずっと…、そう思ってはいたけれど…、
 
 あの青空の下で、久保田じゃない人と…、彼女と初めてのキスをした。

 そして、その唇で久保田を呼びながら、ずっと一緒だと信じていた。
 そんな時任に向かって微笑みかけていた久保田は、どんなに辛くて哀しかっただろう。どんなに切なくて苦しかっただろうと、そう思う事すら許されない気がして…、
 写真に写る無邪気な自分の笑顔を見るたびに、謝罪の言葉が胸から唇から零れ落ちそうになる。視界を滲ませる涙と一緒に、眠り続ける久保田の頬を濡らしてしまいそうになって…、
 けれど、そんな時はいつも拳を握りしめ、歯を食いしばった。

 「・・・・俺は泣かない。もう絶対に泣いたり、後悔したりしない。始めてココに来た日に、久保ちゃんの脇腹の白い包帯を見た時に…、そう決めたんだ」

 ごめん…、ごめんなさいと言って楽になるのは、久保田でも彼女でもなく自分だけ。
 傷つけた二人の涙と想いを、身勝手な後悔の海に沈めてしまえば、その後には深い痛みと哀しみが残るだけ…。
 彼女が恋人として、隣で笑っていてくれた日々も…、
 久保田が相方として、隣で微笑んでいてくれた日々も何よりも大切だったのに…、
 後悔なんてしてしまったら、そこにある想いまで否定してしまう事になる。
 だから、桂木に聞いた住所へ…、もうじき結婚するという彼女へ手紙を書いた時も、謝罪の言葉は書かなかった。どうか幸せにと祈り綴った後で、告白を受けた時の事や付き合い始めた頃の事…、様々な彼女との楽しかった日々を思い出しながら…、その想いを気持ちを小さく書き記した。

 ・・・別れても、離れても、ウソだけは一つもないから・・・。
 
 好きだと言った言葉も、笑った笑顔も本当で嘘じゃない。
 それが彼女に伝わるかどうか、彼女が信じてくれるかどうかはわからない。
 けれど、それだけは彼女に伝えたかった…。
 二人の思い出が、これ以上、彼女を哀しく傷つけないように…、
 これ以上、恋が愛が…、苦しみや痛みに変わらないように…。

 「ウソは一つもないから、後悔したくても出来ない。大切だから、そう思ってるから…、久保ちゃんが守ってくれた想い出は、今も昔も、ずっと大切なままだ…。何があったって何が起こったって、あんなに楽しかった日々を…、絶対に忘れたりするもんか…」

 時任はそう呟くと、視線の先にある大好きな人に向かって…、
 眠る久保田に向かって手を伸ばすと、その頬を両手で優しく包み込む。
 そして、そっと久保田の顔に自分の顔を近づけると、唇を寄せ目蓋にキスをして…、
 祈るように瞳を閉じると額をくっつけた。
 
 「好きだ、好きだよ…、久保ちゃん。きっと、自分が思うよりも前から…、ずっと…」

 何度、目蓋にキスしても…、何度、好きだと囁いても、久保田の瞳は開かない。
 けれど、時任は微笑みながら、繰り返し繰り返し好きだと囁き続ける。
 届かないと知りながら、想い続けてくれた久保田のように…、
 その苦しみを痛みを想いながら、胸の奥から溢れてくる想いを微笑みとぬくもりと一緒に伝え続けながら…、どうか瞳を開けてと祈り続ける。
 けれど、永遠に続く空のように、その空の青を映し、何度も何度も打ち寄せる波のように…、好きだ、好きだよと囁き続ける想いは、すでに恋を越え、愛に変わっていたのかもしれない。久保田が眠り始めて一年経った今日、始めて無意識に愛しているよ…と刻んだ自分の唇を噛みしめた時任の頬に、流さないと決めていた涙が一粒だけ伝い落ちた…。
 すると、その涙は列車の中で久保田の頬を伝い落ちた涙と同じ曲線を描き…、二人の頬を静かに濡らす。そして、そんな二人の様子を…、あの懐かしい日々と同じように、窓の外から綺麗に澄んだ青空が見ていた。



 切ない恋のように、手を伸ばしても届かない・・・・、





 青い青い・・・・、空が・・・・・。





 終。
 
                                                        2009.7.2

 
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