「お前は…、お前だけは幸せでいてくれないと困るんだ…」
救出口から出た、エレベータの箱の上。
そう呟き、久保田は暗い闇の中で地下一階のある下ではなく、上を見上げる。
すると、そこには当たり前に光はなく、暗闇だけが広がっていた。
マンションのエレベーターの箱の両端に、久保田が入れるような隙間はなく、この状態では地下一階へと降りるのは不可能。制御盤は上の機械室があればそこに、ピットに設置されている型なら下にあるに違いない。
つまり、この状態で久保田に出来る事は、実は何もなかった。
しかし、箱の上に居ることで成功している事が一つだけある。
それは、マンションの各所に設置されている防犯カメラに映っていないという事だった。
警備室で防犯カメラの映像を見ていた時、久保田は四階から降りてきたと予想される時任の姿を見ていない。つまり玄関と同様にエレベーターの映像も、すり替えが行われていた可能性が高かった。
だから、予想が外れていないのなら、警備室を出て以降の久保田の消息は不明。
警備員も警備室から出る事を許されていないのか、後を追っては来なかった。
警備員が動かないとなると外か地下か、どこかがリアクションを起こしてくれるはずだった。
しかし、この行動は何か確信があってしている訳ではない。
自分を意識した防犯カメラの映像の差し替えと、時任と美里が居なくなったタイミングと理由を考え…、引っかかった部分を重ね合わせると嫌な予感が胸を過ぎったからだ。
だから、これはただの勘なのかもしれない。
けれど、久保田は卓で牌を握る時のように、自分の強運と勘を信じた。
後ろを振り返り、迷い戸惑うよりも…、
たとえ何が起こるかわからなくても、迷わず信じた道に向かって…、
前へと踏み出す時任のように…、前へと足を踏み出し…、
自分を上の乗せた箱が予想通りに下に降り始めると、久保田は自分の中の予感が確信に変わるのを感じながら姿勢を低くした。
「他の思惑はどうあれ…。やっぱ、目的は俺ってワケね」
地下一階へと箱を呼んだのは、おそらくマンションの持ち主の関係者。
ここに誘われ、住んでいる久保田も無関係ではない。
しかし、地下の存在も使用目的も知らされていなかった。
そして、こんな出来事がなければ久保田も、そして時任も、その存在を知る事はなかっただろう。確かに時任は噂について調査していたが、未だに何も掴んではいなかった。
時任の身元を調べれば、地下の存在を知られないように用心はするかもしれないが…、まだ、こんな段階ではない。時任は天敵である警察ではなく、探偵だ。
だから・・・・、これは別件である可能性が高い。
久保田は地下1階で箱が止まると救出口から降り、開いた扉から乗り込んできた男の腹に拳を一発、容赦なく叩き込んでから、背後を取り、背中にライターを押し付ける。すると、警備室からの連絡で誰も居ないと油断していたのか、簡単に背後を取られた男はゆっくりと両手を肩の辺りまで上げた。
「早く呼んでくれて助かったよ。ホント、予想より暗いし狭いし、降りる前にあがっちゃったら、どうしようかってね。実は思ってたからさ」
そんな事など露ほども思ってなさそうな、のほほんとした表情で久保田がそう言う。
だが、背後を取られている男からは、久保田の表情も姿も見えていなかった。
それにも関わらず、男は小さく久保田の名を呟く。
話した事はなかったが、久保田は男と何度か顔を合わせた事があった。
「・・・・・・・・なぜ、こんな所へ?」
ここに居る以上、何も知らない訳が無い。だが、男は自分の意志なのか、それとも命令なのか、あえて久保田に向かってそう聞いてくる。
どうして、なぜ…、こんな所へ来たのかと…。
けれど、久保田はすぐには答えずに、背中にライターを押し付ける手に力を込め押して、男と共にエレベータから降りた。すると、制御盤を誰かが操作しているのか、それともそういう設定がされているのか、エレベータはすぐにまた1階へと昇っていった。
丸腰であるため、待ち伏せなどされていたら一溜まりもないが…、
何もない地下の広い空間には、久保田と男以外に誰かが居る気配はない。まるで、久保田を誘い込もうとするかのように、ただ静かな薄暗い空間が広がっているだけだった。
この空間が何に使われているのか、それとも今から、そういう予定なのかはわからないし、興味もない。だが、今はここに来るしかなかった。
久保田は男に前を歩かせながら、薄暗い空間に足音を響かせる。
そして、横目で非常灯を眺め、口元に笑みを浮かべ…、
そうしてから、やっと…、なぜこんな所へ来たのかという男の問いに答えた。
「ウチの子…、どこにいるか知らない? ココに迷い込んだらしいんだけど?」
男の問いに、ウチの子を探しに来たと久保田は答える。
しかし、男にはわからない。
答えを聞いたのが時任なら、すぐにわかるのに…、
美里が聞いたのなら、きっと…、すぐにわかるのに…、
絡み合った感情の糸を見る事のできない男には、久保田の答えであるウチの子が誰なのかがわからない。けれど、それは何も知らない男には無理もない事だった。
「ウチの子とは…、皆川美里の事か?」
「・・・・・・」
「それなら、彼女はこんな所には…っ」
「居るデショ。さっき、カオに書いてあったし」
「・・・っ!」
「なーんてのジョウダンだけど、おとなしく案内するなら、ココの事は口外しないでいてあげるよ。…とは言っても、ソレを信じるか信じないかは、オタクの勝手だけどね」
静かにそう言った久保田は、男の言葉を否定しなかった。
はっきりと肯定はしなかったけれど、広いマンションの地下を抜けて続く通路を歩きながら、想う人の姿を脳裏に想い描きながらも…、その名を口にはしなかった。
名も本心も口にせずに偽りだけを口にして、自分を待つ人の元へと向かう。
そして、それは今が始めてではなく、久保田がいつもして来た事だった。
思い返すまでもなく、考えるまでも無く最低で最悪な行動と行為。
なのに、なぜか…、その報いは久保田自身には降りかからなかった。
「・・・・・・俺はもしかしたら、お前を不幸にするために存在してるのかもしれない。だから、好きになったり…、したのかもしれない…」
好きになった瞬間、始まったのは恋と裏切り。
それは、久保田にとっても時任にとっても不幸な出来事だった。
好きになればなるほど、恋しく愛しく想えば想うほど、裏切り、罪を重ねた。
そうして、その結果が、今、目の前にある。
久保田は通路に響き始めた耳を覆いたくなるような女の声を聞きながら、ただ…、ひたすら信じてもいない神様に無事を祈った。
今までもこれからも、他には何も祈らない…。
だから、これだけは叶えて欲しいと願い祈った。
どうか無事でいて・・・・・・、
どうか・・・、幸せでいてと…、
そうして、たどり着いた場所で久保田が見たのは、マンションのすぐ近くにあるヘルスの地下にある小部屋に監禁されている少女達と…、ウチの子。
目の前で行われている茶番に目を細めた後、久保田は男の背中に押し付けていたライターをポケットの中に収める。それから、ここまで自分を案内した男の右頬を、ウチの子に付けられた青い痣と同じ場所を感情のままに撲りつけた。
「キャアァァーッ!!」
広くない室内に響いたのは、少女達の悲鳴と男の叫び声。
久保田に殴り飛ばされ、壁に背中を打ちつけた男は気絶したのか動かなくなる。そして、ようやく静かになった室内を見回し、久保田は自分をじっと見つめているウチの子の方を見た。
すると、やはり…、何か様子がおかしい。
何か言いたそうな瞳をしているのに、唇を引き結んだまま何も喋らない。
そんなウチの子の様子に久保田は、自分の予想が外れていなかった事を確信した。
美人が消えるという噂が流れ、実際、本当に消えているのだとしても…、
そして、それがこの地下に関係しているのだとしても、時任や美里が消えた事とは関係がない。その証拠に久保田が侵入したというのに、未だ誰も部屋に来る様子はなく…、
ドアが開いたというのに、少女達は誰一人として逃げようとはしなかった。
それらを確認した久保田はゆっくりと腕を伸ばし…、できる限り優しく自分を切ない瞳でじっと見つめている人の柔らかな身体を抱きしめる。優しく抱きしめて、優しく髪を撫でて、無事で良かったと微笑みを浮かべた。
「居なくなったって聞いて、だから迎えに来たよ、美里…。ケンカしてたから、仲直りもしたかったし…」
「誠人…、私…」
「仲直りしてくれる? それとも、もう最低な俺のコトなんて、嫌いになっちゃった?」
「違う…っ、嫌いになったのは私じゃなくて誠人が…っ!」
「好きだよ、美里」
・・・・・・好きだよ。
本当にそう告げたかった、伝えたかった人は…、すぐ近くにいて…、
けれど、その言葉を別の人の耳に囁いた久保田は、また重ねていく罪に、広がっていく暗闇に目を閉じる。すると、私も好きなの、大好きなのと言う美里の涙声と、何を言っているのかわからないくらい小さな何かに耐えるような…、とても哀しそうな声が聞こえた。
その声は離れていた間も、一度も忘れた事の無い人の声で…、
けれど、どうしたの?何がそんなに哀しいの?…と問いかけて、泣かないでと抱きしめたい気持ちに駆られても、久保田にはそうする事が出来ない。泣きながら自分のポケットの中へと移動した美里の手に何が握られていたのかを知っていたからではなく、そうする資格が無い事を知っていたから出来なかった。
いくら脳裏に想い描いても、過去は帰らない。
いくら殺し続けても…、胸の想いは消えてはくれない…。
ただ傍にいたいだけなのに…、ただそれだけしか望んでいなかったのに…、
好きだと思う気持ちが、恋しいと愛しい想う心が邪魔をして、たった一つの望みすら叶わなくなった。いつも隣にあった人の姿が消えても、他の誰も愛せないのに…、
どんなに月日が流れても、遠く遠く離れても…、たった一人しか愛していないのに…、
そのたった一人だけは…、どうしても抱きしめる事ができない。
ただ、離れていく事しかできなくて、一緒に居た日々の思い出ばかりが…、
まるで、目を開けば覚めてしまう夢のように・・・、
とても美しく綺麗で…、そして温かく優しかった。
|