「・・・・・・・・・・・なっ?!」



 時任の見上げたていたランプが、なぜか1階で止まらずに消え…、
 それとほぼ同時に、ドンッと扉の方から大きな音がした。
 けれど、中からでは何が起こったのか確認する事はできず、止まらないエレベーターの中で出来る事といえば、来るかもしれない衝撃に備えて身を縮めることくらい。だが、予想に反してエレベータは激突せずに、そのまま、もう1階分降りた所で止まり…、何事も無く扉が開き…、
 時任は開かれた扉の向こうに広がる薄暗く、広い空間を見つめた。
 マンションの1階の下…、その空間を照らしているのは非常灯の照明だけ。
 なんだ、ここは?
 …と、思った瞬間に、時任のすぐ近くでカチャリと妙な音がした。

 「・・・・・・死にたくなければ、そこから降りて。すぐにケータイの電源を切って」

 妙な音と一緒に聞こえた声に、時任は足を数歩前に踏み出し、エレベーターを降りる。そうしてポケットからケータイを取り出し電源を切ると同時に扉は閉り、エレベーターは再び上昇していった。
 どういった仕組みになっているのかはわからないが、どうやら…、ここはマンションの地下1階らしい。しかし、エレベーターのボタンも、上に付いているランプも1階までしかなかった。
 階段は使用した事がないが、久保田からマンションは1階までしかないと聞いている。
 駐車場は時任の住んでいる所と同じように、地下ではなく裏手にあった。
 だが、時任は1階のボタンを押したはずなのに、今、無いはずの地下1階にいる。
 そして、久保田を追って1階へと降りたはずなのに、地下1階で別の人物が…、薄い暗闇の中からゆっくりと目の前に現われた。

 「なんで…、なんで、アンタがココに?」

 右手に物騒なものを握りしめ、現われてたのは予想もしていなかった人物。その人物をじっと見つめながら、時任はそう呟き…、マンションに来てからと来るまでの出来事を思い出す。
 けれど、それらは全てバラバラで、思い出しても考えても少しも繋がらない。
 何もかもが最初から、奇妙で不自然だった。
 神崎の事務所にあった依頼も、その依頼を受けてマンションの通りの前を見張るように言った神崎も…、そして見張っていた通りで流れていた噂も…。何もかもが繋がるようで繋がらない断片として、時任の頭の中にあった。
 神崎に疑問を持ったのは、エレベーターに乗る前にした会話。
 久保田の彼女が噂通りに消えたと話した時、神崎は頼んでいた見張りを中止して探すのを手伝うように言う。だが、その時、神崎は小さくまさか…と呟き、それは時任の耳に聞こえていた。
 時任が何も言わなかったので、神崎は聞こえていなかったと思っているかもしれないが、それは勘実に時任の耳まで届いていたのだった。

 『久保田君の彼女が本当に行方不明になったのだとしたら、そこから糸口から掴めるかもしれないな…。一旦、見張りは中止して、お前は久保田君と一緒に彼女を探せ』
 『言われなくても、そうするつりだけど…さ…。マジでいいのか?』
 『あぁ、構わない。女子高生の方は、俺が引き続き調査する』
 『・・・・・・わぁった。じゃあ俺は美里さんを探すから、何かわかったら連絡くれ。俺も何かわかった事があったら、そっちに連絡する』
 『絶対に一人で行動するなよ。危険を感じたら、すぐに必ず連絡する事…、いいな?』
 『…って、俺は幼稚園児かよっ』
 『ちゃんとお返事できなかったら、幼稚園児以下だな』
 『くそぉっ、わかったよっ、わっかりましたっ!』
 『じゃ、頼んだぞ』

 神崎とした会話は、いつもと何も変わりない。
 まさか…という呟きを除けば、当然の判断で指示だった。
 しかし、時任は呟きを聞いてしまった。
 だから、その呟きを気かなかった事にはできなかった。
 それは野生の勘だったのか、探偵としての勘だったのか…、その小さな呟きに何かが潜んでいる気がしてならない。行方不明になった女子高生と噂が関係あると考えている神崎が、同じ通りで噂通りに消えた久保田に対して、まさか…と呟くなんて考えられなかった。
 噂と関係があると本気で思っているのなら、やはり…と呟くはずだ。
 今の状況だけではなく、神崎も依頼も何もかもがどこかおかしい。
 時任はらしくなく眉間に皺を寄せると、目の前に立つ人物に向かって、再び何か言おうと口を開こうとした。だが、それを遮るように右手に握った物騒なもの…、拳銃を左へと軽く振り、自分の前を歩くよう指示してくる。
 武器を何も持たない時任は冷たい銃口を前にして、小さく息を吐くとその指示に従った。
 これほどの至近距離で引き金を引かれれば避けられないし、上へと上がったエレベーターが再び地下一階まで戻って来る可能性は低い。
 出口すらわからない状態で、闇雲に暴れるのは危険だった。
 しかも、この地下に行方不明になった女子高生も来たのだとしたら、人質にされてしまう可能性も捨て切れない。とにかく、すぐに殺される危険がないのなら、このまま、おとなしく従って様子を見るしかなかった。
 けれど、そんな風に考えながら思うのは、高校生の頃はいつも考えるのは久保田が担当する事で、自分はただ暴れているだけで良かったんだよな…とか、そんな事で…、
 こんな状況なのに何考えてんだよと心の中で呟きながらも、脳裏を過ぎていく様々な事件や出来事が、懐かしくて眩しくて目を細める。探偵になって大人になって、冷静に判断が出来るようになったのは進歩したという事で喜ぶべき事なのだけれど、それを寂しく感じてしまうのはやはり久保田が隣に居ないせいかもしれない…。
 あの頃のように…、久保田が隣に居てくれたら…、
 胸の奥に押し隠している想いが届かなくても、せめて傍に居てくれたらと…、
 そう想い願いながらも首を横に振るのは、抱きしめた想いが涙を連れて来るから…、
 この想いに気づいてしまった今は、もう昔のように隣に居る事はできないと時任自身が一番良く知っているせいだった。
 「どんなワケがあるのか知らねぇけど、こんなコトはやめろ」
 「・・・・・・・・・」
 「なんで、こんなコトになってるのか全部隠さずに話してくれるなら、俺がアンタの力になる。絶対に俺が力になってやるから、今すぐ俺に任せてアンタは上へ戻るんだ」
 胸の奥を満たしている涙と切なさに、時任の瞳が哀しい色を浮かべる。
 けれど、後ろから銃口を背中に押し付けている人物には、そんな時任の瞳の色は見えない。
 だからなのか…、上に戻って欲しいと願う時任の言葉に返事はなかった。
 時任の背中に銃口を押し付けたまま、ドアを開けたり右へ左へ曲がる時だけ、その事を短く伝えてくる。言葉も短く顔も見えないため、時任には後ろに居る人物がどんな顔をしているのかわからなかった。
 でも…、それでも無闇に人を傷つけたりするような人間とは思えない。
 少なくとも、もっと明るい場所で顔を見た時、そんな風には思えなかった。
 そして、そんな風には絶対に思いたくなかった…。
 けれど、マンションの地下を抜けて長く続く廊下を歩き、聞こえ始めた耳を塞ぎたくなるような声に…、時任は拳を固く固く握りしめる。
 ここに依頼のあった女子高生が居るかどうかは、まだわからない。
 まさか…と呟いた神崎の思惑はわからない。
 けれど、噂がただの噂ではないと睨んだ神崎の勘は間違ってはいなかった。

 「あの人の周りにはね…、放って置いても女が寄ってくるの。まるで、蟻のように次から次へと寄って来て、ホント、キリがなくってね」

 今から向かう場所について、時任が尋ねる前に後ろから自嘲気味な声が聞こえ始め…、
 その声に耳を塞ぎたくなるような声が重なり、背中の銃口が今までよりも、もっと強く押し付けられる。けれど、押し付けられた銃口も自嘲気味な声も、わずかに震えていた。

 「アンタ…、住んでる場所を知らないってのは嘘だったんだな」

 時任がそう言うと、後ろから聞こえてくる声が震え笑う。
 そして、肯定も否定もせずに、別の事を震える声で時任に話した。
 「私って、あの人の彼女なのよね。だから、たくさんキスもしたし、たくさん抱いてもらった。私が望むままに、望むだけ…」
 「・・・・・・」
 「そういうのって、同じベッドで寝たとしても貴方じゃ無理な事だもの。男相手にそういう事、私を抱いてるのに出来るはずないわ…、そうでしょう?」
 「・・・・・・っ」

 「第一、男同士なんて気持ち悪い」

 なぜ、そんな話を時任に向かってするのかわからないし、そんな話をされる覚えもない。
 けれど、震え吐き出される言葉に、叶わない想いを抱く胸が切り裂かれていく。言われるまでも無く、わかっている事だったけれど、それでも現実を見るのも聞くのも辛かった。
 自分は男として生まれてきて、女になりたいなんて少しも思わなくても…、
 女を抱いている久保田を想うと、胸が張り裂けそうで苦しくてたまらなかった。
 こんな想いを抱いてしまうのに、どうして自分は女じゃないのか…、
 どうして男として生まれたのに、こんな想いを抱いてしまったのか…、
 考えても考えても回り続けるだけで、答えの出ない問いかけばかりを痛む胸の奥で繰り返し、握りしめた拳で胸を押さえる。すると、なぜか遠くから…、とても遠くから自分を呼ぶ久保田の声が聞こえたような気がした。

 『・・・・・・・・・時任』

 自分を呼ぶ…、大好きな人の声…。
 その声に名前を呼ばれるのが、その声に返事をするのが大好きだった。
 でも、今は名前を呼ばれても、昔のように晴れやかに想いのままに返事と一緒に笑い返すことは出来ない。時任は痛む胸をぎゅっと押さえたまま、想いを押し殺し、冷静になるよう努めながら、背後の人物の気配を探るために神経を集中した。
 「・・・・・何の話してんのかわかんねぇけど、俺はそんな事を聞いてんじゃない。この地下とさっきから聞こえてきてる声について…、彼女達について聞いてるんだ」
 そう時任が言ったが、背後の気配に揺れはない。
 この地下で起こっている事に、背後の人物がどれくらい関与しているのかはわからないが、それを探っていた時任をすぐに殺さない所をみると、何か考えがあるのかもしれなかった。
 地下にこんな場所のあるマンションに探偵がウロウロしていれば、バレない内に始末してしまおうという気は起こすかもしれない。けれど、時任に銃口を押し付けている人物は、何か別の事に気を取られている様子で、さっきから時任を連行しつつ別の話ばかりをしていた。
 背後の人物と時任を…、何の関わりもない二人を唯一繋ぐ…、
 その人物を真ん中にして、二人は再び向かい合っていた。
 「始めは何とも思わなかった。調べてみたら高校時代の同級生だってわかったし、だから、部屋に泊める事くらいあるかもしれないって…。でもね、私見たの。あの人がスーパーに行って買い物なんかして…、楽しそうに…」
 「買い物くらい誰でもするし、楽しそうでも俺には関係なんか…っ」
 「・・・・・カレーはおいしかった?」
 そう聞かれた時任は401号室に残してきた食べるはずだったカレーを思い出し、ピクリと肩が揺らす。すると、当てられた銃口が背中を突き、そこから痛みが走った。
 「私は料理が出来るなんて知らなかったし、あんなに楽しそうな顔も見た事がない。何度も何度もキスして、何度も何度も抱かれたのに…、どうして?! どうしてなの?!!」
 背後から、そんな叫び声が聞こえてくる。
 今、一番近くにいるのは…、時任ではなかった。
 七年もの間…、七年の年月をかけて遠く遠く離れて…、
 もう二度と近くに居る事すら叶わないのに、背中には冷たい銃口が押し付けられている。
 身に覚えのない嫉妬を銃口と一緒に押し付けられ、時任は力無く首を横に振った。

 「・・・・・・・皆川美里さん」

 一度だけ聞いた…、久保田が好きだと言った彼女の名前を口にしたが、背後に居る人物からの返事はない。けれど、時任はそれを気にせず話を続ける…。
 懐かしい相方だった頃ではなく、今の二人の距離を想い話し…、背中に突きつけられた銃口と嫉妬を下げさせようとした。
 でも、その言葉の端々に自分の想いが滲み出していくのを…、
 長く深い想いが切なさとなって、胸を震わせるのを止められなかった。
 「久保ちゃんの彼女は、誰が何と言おうとアンタだろ? 久保ちゃんに聞いたら、アンタのコト好きだって言ってたし…、アンタが好きで久保ちゃんも好きだから、その…、そういう関係なのに決まってんじゃんか…」
 「・・・・・・」
 「それに俺は男だし…、男だから、そんなんじゃない。部屋に居たのだって仕事で、たった一週間だけだったんだ。一緒に居られるのはホントに一週間だけで…、だから…」
 「・・・・・・君、まさか」

 「・・・・・・・・・一週間だけでも一緒に、それだけで俺はっ」

 久保田の前では、ちゃんと隠し通してきたのに…、
 嫉妬を押し付けられ、胸を切りつけられ…、あふれ出した想いと言葉が止まらない。馬鹿な事をしていると、馬鹿な事を言っているという自覚はあったけれど、どうしても止める事はできなかった。
 昔よりも大人になって、冷静な判断も出来るようになって…、
 けれど、この想いだけは変わらずに、ずっと…、ずっと胸の奥にあって…、
 だから、久保田を想い…、頬をゆっくりと伝い落ちていく涙を止められなかった。
 「・・・・・アンタが嫉妬しなきゃならないコトなんて、どこにもない。だから、こんなマネは止めて彼女達を助けるのを手伝ってくれ…」
 「・・・・・・・」
 「アンタはホントは、こんなコトをするようなヤツじゃないはずだろ?」
 久保田を想っていた…、ずっと想っていた。
 だからこそ、久保田の彼女にこんな真似をして欲しくなくて、そう問いかける。
 それは、時任の身勝手な想いかもしれないけれど、久保田を哀しませたくなかった。
 けれど、時任は美里が自分と同じように首を横に振ったのを気配を感じ取り、大きく目を見開く。そして、信じられない事を時任の耳元で囁いた。


 「本当に君には感謝してるわ。君のおかげで私は、誠人にサヨナラ言われたんだから…」
 
 その言葉に思わず振り返ると涙で霞む視界の中、皆川美里が歪んだ顔で微笑む。
 そんな美里の微笑みを見つめながら誤解だと言いかけたが、美里に気を取られている隙に近づいてきた何者かに後ろから撲られ、時任は床に倒れた。

 「俺はいい…、だから、彼女達だけは…っ」
 
 後頭部を撲られて倒れた時任はそう呟いたが、その声が美里に届いたかどうかはわからない。そして、時任は遠く遠くなっていく意識の中で銃を構えた美里ではなく、懐かしい景色を見ていた。
 久保田が居て、自分が居て…、執行部の皆が居て…、
 そんな明るい光と笑顔に満ちていた日々の景色を、頬に涙の跡を残したまま見ていた。
 
 ・・・・・・・・いっそ、このまま

 そんな景色を見つめなから、そう呟いたのは時任自身だったのか…、
 それとも…、別の誰かがそう言ったのを聞いていたのか時任にもわからない。
 けれど、すべてをあきらめたみたいに、こんな事を呟いたと知れたら…、きっと桂木にハリセンで撲られるだろうなと…、時任が思った瞬間に銃声が鳴り響き…、
 耳を塞ぎたくなるような声も嫉妬に満ちた声も止まり、辺りは沈黙に包まれた。
 
 
 
                                                        2009.4.20
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