・・・・・・・・彼女と幸せに。




 五年ぶりの再会、そして…、久保田に向かって伝えた想い。
 けれど、ちゃんと笑顔で伝えられたのに、本当にそう願っているのに…、
 胸の奥に満ちてくるのは、笑顔の裏側で流れ落ちていく…、涙。
 泣きはらした顔で、それでも笑顔で言えたのに、胸の奥を流れ落ちていく涙が止まらなくて…、
 離れていて届かなかったけれど、同じ言葉を始めて呟いた五年前と同じように…、
 どうしても涙が止まらなくて、とても哀しくてたまらなくて…、
 伝えられない、行き場の無い想いが胸いっぱいで…、苦しくて…、
 なのに、離れれば離れるほど、逆に想いは降り積もり続け…、
 胸が…、心が弾けて壊れてしまいそうだった。


 サクサク・・・・・、サク…。


 公園で再会する前…、時任がまだ自分の気持ちの名前を知らなかった五年前の冬。
 珍しく踏めるほど、久保田の住むマンションへと続く道に白い雪が積もっていた。その白い雪を踏みながら、時任はいつものように部屋に行き、居てくれる事を願ってチャイムを押す。
 けれど、やっぱり不在で何度チャイムを押してもドアが開くことはなく…、
 ケータイに連絡を入れたとしても、きっと無駄に違いない。いつも来る前に連絡を入れてはみるものの、用事があるからとそっけない返事ばかりが帰って来て、気づけば…、もう二ヶ月も会っていなかった。
 一緒に暮らしていなくても、こんな事態はあり得ない。
 二ヶ月も会わないで、平気で居られるなんて信じられなかった。
 けれど、二ヶ月よりも…、もっと前…、
 離れて暮らし始めた頃から、すでに久保田との距離は広がり始めていたのかもしれない。その証拠にいつも会いに行くのは時任の方で、久保田の方からは一度も会いに来てくれなかった。
 だから、どうしてなのかと問い詰めた事があったけれど、そんな事は無いと、忙しいだけだからといつもの調子で返されるだけ…。そうしている内に時任の方も忙しくなり、そんなに頻繁には久保田の所へ行けなくなって…、離れかけていた距離が更に広がって…、
 気づいた時には、取り返しがつかなくなってしまっていた。
 部屋に行くと不在ばかりだからと、大学の方へも行ってみても、久保田は必ず誰かと並んで歩いていて声をかける事すらできない。時任の知らない誰かに微笑みかけている久保田を見ると、浮かべようとしていた笑顔が強張って…、前に踏み出そうとしていた足が動かなくなる…。
 あそこは…、久保田の隣は自分の場所だと思っていたのに…、
 そう信じていたのに違っていた。

 「執行部でも相方でもなくなって…、そしたらバイバイって…。俺らってさ、そんなもんだったのか? そんなに簡単にバイバイって…、さ…」

 ・・・悪い夢を見ているようだった。
 離れて暮らすようになってから、ずっと悪い夢を見続けているようだった。
 けれど、眠って起きても悪い夢は、いつまでたっても覚めなくて泣きたくなった。
 泣きたくて両手で目蓋を押さえて、でも、らしくないと歯を食いしばって絶対に泣かなかった。久保田に何も言わないまま、前に足を踏み出さずに立ち止まったまま泣くなんて絶対にしたくなかった。
 まるで、弱虫みたいで嫌だった。
 泣いてしまったら、何もかもが終ってしまいそうで嫌だった。
 だから、目蓋に当てた手をぎゅっと硬く強く握りしめて、何かなんでも会おうと決めて…、
 会って話して、自分の気持ちを伝えるんだって思っていた。
 久保田の通っている大学に行って、知り合いを探し出して居場所を聞き出して…、
 それから、降り積もった雪の道を歩いて、さっき大学を出てバイトに向かったという久保田の跡を追った。歩き出し、早足になり…、走り出して、久保田に会いに行った。
 けれど、その道を歩いていて目にしたものは、たぶん夢の続き…、
 悪い夢を終らせるために会いに来たのに、そこにあったのもやっぱり悪い夢…。
 バイト先らしい店の入り口で、久保田は彼女らしい女の子とキスをしていた。
 しかも、それは彼女の顎に手をかけ、自分から唇を寄せて…、
 だから、不可抗力や事故でも何でもない。
 なぜかキスしている事よりも、その事がショックで時任は大きく目を見開いた。

 「久保ちゃん・・・・、なんで・・・」

 そう呟いた声は、みっともなく擦れてしまっていて…、
 思わず喉を押さえると、なぜか喉じゃなくて目蓋が熱く痛くなって…、
 大きく見開かれた瞳から、涙がぽつりぽつりと落ちて頬を伝う。
 信じられなかった…、信じたくなかった。
 けれど、なぜ、そう思うのか自分でも良くわからない。
 久保田に彼女が居る事なんて、とっくの昔に知っていた。
 自分にだって彼女は居る。
 でも、それでも心のどこかで思っていた。
 ずっと一緒に居た頃のように、いつも隣に居た頃のように…、
 久保田が自分から手を伸ばして触れるのは、自分だけだとそう信じていた。
 だから、久保田に想いを寄せていた保健医の五十嵐や後輩で補欠の藤原に向かって近寄るなと牽制しながらも、どこか心に余裕があって…、笑っていられた…。
 けれど、今は涙だけがとめどなく、あふれてきて止まらない。
 苦しくて哀しくて…、胸が張り裂けそうだった。

 「俺は・・・・、俺は久保ちゃんのコトが…」

 そこから先に続く言葉を震える唇が刻んでも、その言葉は彼女に微笑みかけている久保田には届かない。こんなに苦しくて哀しくて胸が張り裂けそうなのに、何も伝える事もできずに終っていく想いは…、たぶんきっと気づかなかっただけで、ずっと胸の中にあった…。
 認めようとしなかっただけで、ずっとずっと胸の奥にあったから…、
 あふれ流れ出した涙は、喉を押さえても胸を押さえても止まらない。
 けれど、それでも時任はぎゅっと…、強く強く手を握りしめて…、
 一瞬だけ微笑んで、久保田にまるでサヨナラを言うように幸せに…と呟いた。

 「彼女と幸せに…なれよ…、久保ちゃん」

 好きだった…、とてもとても好きだった。
 だから、あんなにも傍に居て…、いつも傍に居て…、
 ・・・・・・・・けれど、傍に居すぎたから気づかなかった。
 無意識に相方だなんて、言い訳じみたセリフを何度も何度も言って…、
 それで、一緒に居る事に安心して考えようともしなかった。
 自分がどんな意味で、久保田を好きだったのか…、
 どんなに久保田を好きだったかを考えもせず、気づきもせずに時は過ぎて…、
 何も伝えられないままに、二人の道は別れてしまった。
 雪の上に二人分の足跡を刻む、久保田と彼女に背を向け走り出しながら、時任は一人分の足跡を刻む。そして、誰も待たないマンションに帰り着くと、真っ暗なリビングに倒れるように膝を突いた。
 
  「俺ら男同士なのに、そんなの最初からわかりきってんのに…、なんで…、どうして…。俺は久保ちゃんのコト…、好きになったりしたんだろう…」

 泣いても…、泣いても泣いても過ぎてしまった時は戻らない。
 けれど、戻った所で何も変わらない。
 時任も久保田も男で、それは何をしたって変わらない。
 好きだと叫んだとしても、久保田との間にあるのは相方としての繋がりと想いがあるだけ。
 その繋がりは想いは、時任にとって何よりも大切で、そして…、今は何よりも切ない…。
 切なさも哀しさも久保田への想いが深ければ深いほど、より深い場所から涙と一緒にとめどなくあふれてくる。時任の泣き声だけが誰もいない一人きりの部屋に響き、懐かしい日々の記憶を…、その中の二人の笑顔を雨のように濡らした。


 「・・・・・・・・・っ」


 伸ばした手は…、一人きりの部屋に残された久保田が居た痕跡へと伸び…、
 けれど、伸ばして掴んだはずの手が空を切り…、時任は閉じていた目を開いた。
 そして、何も掴めなかった手で、寝ているソファーを撫でる。
 すると、そこには置いてあるはずの…、忘れ物のシャツはなかった。
 しかも、見上げた天井までいつもと違う。
 その事に気づいた時任は驚いて、一瞬息を詰めた。
 
 「・・・・・・・・ココは?」

 そう…、小さく呟いて辺りを見回す。
 すると、窓辺に見った人物の姿を見つけて、今度は心臓が止まりそうになる。だが、すぐに自分が置かれている今の状況を思い出して、ふーっと細く長く息をついた。
 さっきまで、時任が見ていたのは夢…。
 雪の上に一人きりの足跡を刻んだのは今ではなく、五年前の事だった。なのに、未だにその日の夢ばかり見ては、頬を涙が伝っていくのを感じながら目を覚ます。
 もしかしたら、気づかれてしまったかもしれないと少し焦ったが、久保田は窓の方を見ていて、時任の頬を流れ落ちる涙に気づいた様子はなかった。
 ここは聞くまでもなく、久保田の部屋。
 神崎の指示で不審な動きをする人物がマンションの前の通りに居れば、望遠付きのカメラのシャッターを切る。仕事の期間は一週間で、すでに見張りは三日目に入ろうとしていた。

 「もしかして、もう起きた? まだ交代の時間には、少し早いけど?」

 明け方の薄い闇の中、時任がぼんやりとしばらく天井を見上げていると、起きた事に気づいたのか久保田が話しかけてくる。けれど、見た夢の内容を話す事は出来ないし、頬を伝う涙を見せる訳にはいかない…。
 時任は右腕で両目を覆い隠すと、涙を誤魔化すように大きな欠伸をした。
 でも、それでも…、さっきまで見ていた夢から、まだ完全には抜け出す事ができなくて、上手く笑う事も微笑む事もできない。だから、両目を覆い隠したままで気持ちを落ち着かせるために、吐き出した息を今度はゆっくりと吸い込む。
 すると、懐かしい…、久保田の吸うタバコの匂いが強くした。

 「・・・・ホント、相変わらずヘビースモーカーだよな」

 やっと、それだけ時任が言うと、久保田はふーっと口から煙を吐き出す。
 それから、通りに不審人物でも見つけたのか、パシャリとシャッターを切った。
 「コレって、俺の酸素だしね。無かったら生存問題」
 「あっても生存問題だろ? このままだと、ぜってぇガンになるぞ」
 「うん、まぁ、それもいいかなって」
 「いいワケあるかよ、彼女が泣くぞ」
 束の間の同居が始まってから、こんな調子でいつも話して…、
 まるで、昔に戻ったかのように二人で同じ部屋にいる。
 話が出来るのは、久保田がバイトから帰ってから時任が寝るまでの間と、時任が起きてから久保田が寝るまでの間…。それほど、長い時間ではなかったけれど、少しでも久保田と話せる事がうれしくて…、なのに、話しているとなぜか切なくて苦しくなる…。
 昨日も昔みたいに久保田がカレーを作ってくれて、泣きたくなった。
 うれしくて、おいしくて…、なのに、なぜか涙が出そうになった。
 いつまでも続くと信じていた日々が終わりを告げたように、この同居にも一週間という期限があって、そのせいなのか気を抜くと泣いてしまいそうで…、一緒に居ても昔のように近づく事ができない。束の間の同居人になると、そう決めたのは自分自身のはずなのに…、
 ただ、久保田の幸せだけを祈っていようと、そう思っていたはずなのに…、
 久保田の傍に居ると今も好きだと、前よりももっと好きだと…、
 泣きたいくらい好きだと、繰り返し気づき想うだけだった。

 「・・・・・・悪ぃ、ちょっと気分転換にコンビニ行ってくる」

 寝ていたソファーから起き上がると、そう久保田に告げて401号室を出る。
 夢で流した涙が消えるまで、懐かしい匂いのする部屋には居られなかったから、久保田の傍を離れ、見張りをしている通りにあるコンビニへと向かった。
 そうして、少し気持ちを落ち着かせてから、見張りを交代しようと思っていた。
 けれど、マンションから五分くらい歩いた位置にあるコンビニにたどり着くと、見覚えのある人物に声をかけられる。時任も声をかけた人物もお互いの名前すら知らなかったが、二人には共通点が一つだけあった。
 「アンタは…、確か久保ちゃんの…」
 「久保ちゃんって、誠人のこと? この前、公園で一緒に居るの見かけたから声をかけてみたけど、そんな風に呼ぶ所をみると仲良いんだ?」
 「・・・・・あ、まぁ、仲が良いっていうか、高校ん時の同級生っていうか、さ」
 「学生服着てる誠人って、何か想像つかないなぁ」
 「そっか? そうでもねぇと思うけど」
 そんな会話をしばらく続けた後、二人の共通点…、ここには居ない久保田を挟んで向かい合った二人は自分の名前を名乗った。お互い何か聞きたそうな顔をして、少し哀しそうな顔をして…、鏡を見るようにお互いを見つめた。
 そして、次に口を開いたのは時任ではなく、皆川美里と名乗った彼女。
 美里は久保田とケンカをしたのだと、仲直りをしたいから、ここまで来たのだと言う。
 けれど、住んでる場所を知らなくて、ここまで跡をつけてきて見失った。
 だから、久保田が通りかかるのを待っているのだと哀しそうに瞳を揺らす。
 そんな彼女を見た時任は久保田の言葉を思い出し、少し考え込むように首を傾げた。
 
 『まぁね。好きじゃなきゃ付き合ってないっしょ?』

 確かに久保田はそう言った。
 なのに、彼女はどこに住んでいるのかさえ知らないと言う。
 でも…、もしかしたら、好きだからなのかもしれないと思った。
 好きだから…、これ以上は近づけない…。
 出会った頃の久保田は愛想は悪くなかったが、常に自分と他人との間に一線を引いていた。線を引いて、それ以上は踏み込ませないし、近づけさせない。
 時任がその線を飛び越え隣に居る事が自然になった…、そのきっかけは何だったのか、久保田ではないから良くわからないけれど…、
 今、久保田の隣に居るのは、間違いなく彼女だった。
 まだ、その線を越えていなかったとしても、いずれ飛び越える。
 彼女は久保田を好きで…、久保田も彼女を好きなのだから…、

 きっと・・・・・、必ず・・・・。

 そう想い…、願う事は、時任にとっては哀しく辛い事でしかない。
 久保田への想いで胸が張り裂けそうで…、涙がとめどなくあふれてきて…、
 昔に帰りたいと、あの頃のように一緒に居て欲しいと…、
 想いなんて届かなくてもいいから、あの頃のようにと願ってしまいそうになる。
 けれど、今、一番願いたいのは、もっと別のこと…。
 だから、本音なんて包み隠して、後で何か言われるのを覚悟の上で、きっと大丈夫だと彼女に久保田の住むマンションを教えた。
 「久保ちゃんに会ったらさ、今から交代するけど、俺はしばらく下で仕事するからって…。戻らないけど、寝てくれて良いって伝えといてくれよ。戻る時には、ケータイに連絡入れるからって…」
 「ありがとう…、本当にすごく感謝してる。今度、絶対に何か奢るからっ」
 「別に大したコトじゃねぇし、そんなのいいって…。それよか、仲直りしに行くんだろ?早く行けよ」
 「うん」
 久保田の居るマンションに向かって走っていく美里の背中を見送りながら、時任は戻るためではなく、仕事をするために歩き出す。そして、マンションの見える位置まで来ると、自動販売機でタバコを買い一本取り出すとライターで火をつけた。
 ライターを持っているのは、職業上、何かあった時に便利だからという理由でタバコを吸うためじゃない。けれど、久保田と離れてから仕事を終えて部屋に帰ると、匂いが恋しくて火をつけるクセがついていた。

 「・・・・・・ホントはさ、ガンになんのは久保ちゃんじゃなくて、俺の方なんだけどな」

 くわえて吸う主流煙よりも、立ち昇る煙を吸う副流煙の方が有害物質が多く含まれていると何かで読んだ事がある。だから、いつも火をつけたタバコを灰皿の上に置いて、赤く灯る火を眺めている時任の方が…、もしかしたら本当にガンになってしまうかもしれない…。
 けれど、そう思ってもやめられなくて目立たない場所に移動しながら、吸わないタバコとカメラ付きのケータイを手に仕事に戻った。
 できるだけ、マンションの部屋に二人きりでいる、久保田と彼女の事は考えないようにしながら…。そして、二人の事を考えない代わりに周囲の様子と美里が入って行ったマンションと眺め、それにしてもこんな場所にマンションを建てるなんて変わってると探偵らしい事を考えてみる。それから、妙な噂が立つ事からもわかるように、あまり治安の良くない場所に建てられた理由をいくつか思い浮かべてみた。
 けれど、マンションが建てられたのも最近…、噂が流れ始めたのも最近…、
 その事がどうも妙に胸に引っかかって、時任は眉間に皺を寄せる。
 すると、まだ一時間も経っていないのに、着信を受けたケータイが振動した。
 束の間の同居をする事になった時に登録した番号…。
 ケータイのディスプレイを見ると、久保田と表示されている。時任が慌てて通話ボタンを押してケータイを耳に当てると、いつもと変わらないのほほんとした声が耳に届いた。
 「気分転換にコンビニまでってのは聞いたけど、遅いから…なんとなくね」
 「…って、美里さんは? 美里さんから何も聞いてねぇの?」
 「…って、なんで美里?」
 「少し前、美里さんが部屋に来ただろ? そんでもって、今も居るんじゃ…?」
 「いんや、誰も来てないけど?」
 「うそだろっ、だってさっき確かに会って…、それで…っ」

 ・・・・・・この通りを歩くと、美人は神隠しに合う。

 頭を過ぎるのは、神崎から聞いた噂。
 脳裏に浮かぶのは、美人の部類に入る美里の顔。
 時任はケータイを強く握りしめながら、久保田の住むマンションに向かって走り出した。
 
 
                                                        2009.3.14

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