「やあ、久しぶりだね」




 そんな言葉と共に久保田の前に現われたのは、神でも悪魔でもなく…、探偵。
 しかも、時任の居る探偵事務所の所長をしてる男で、名は神崎忍という。
 神崎とは通っていた高校に人探しやってきた時に出会ったが、時任と違い久保田との縁は薄い。人探しが終ってからも、時任と一緒に居る時に何度か顔を合わせる機会はあったものの、挨拶程度で特に親しくはならなかった。
 久保田はいつも楽しそうに神崎と話している時任の横で、その様子をタバコをふかしながら眺め。そして、時任に話を振られるたびに、そう、とか、そうだね…と相槌を打つ。
 話しかけられれば答えはするが、当たり障りの無い回答ばかりをしていたような気がした。
 それは職業柄か妙に勘の鋭い神崎に、時任への想いを悟られたくなかったせいかもしれない。あの頃、校内では公認の仲だったが、あれは冗談半分、面白半分で言われ信じられていただけで…、真剣さや真実味には欠けていた。
 そう…、例えば、久保田が真剣な顔をして好きだよと言えば、同じように真剣な顔をして時任が俺も好きだと言って…、
 けれど、次の瞬間に二人で爆笑する、そんな感覚の公認の仲だ。
 だから、誰も久保田の真剣さや真実には気づかなかったし、時任にも他の誰にも気づかせたくなかった。誰もが時任の事が好きで大切なんだろうと感じてはいても、その想いの深さと重さについて考える者はいないし、そんなものは誰一人知る必要がない。
 だが、何事にも例外は存在するらしく、久保田の瞳の色に気づいた人間が過去に三人居た。その三人とは白いハリセンを持った執行部の紅一点と、中学時代から付き合いのある生徒会長と恋人の副会長。しかし、久保田の想いの深さと重さを知るが故に三人とも沈黙を守った。
 特に時任に初めての彼女が出来てからは、久保田の想いを知っていても、真実を告げる事はできない。それに、そんな事をしてしまえば時任の幸せを壊す所か、ずっと一緒に暮らしながらも隠し続けてきた久保田の想いまで踏みにじってしまう事になる。
 卒業式の日、最後まで沈黙と時任の幸せを守ってくれた三人に、久保田は何の…とは告げずに、ただ、ありがとうと礼を言った。

 『会長を強姦紛いで手に入れた僕には、とても貴方のような真似はできません。ですから、貴方相手に何一つ負ける気はしませんが…、想いの純粋さについてだけは負けを認めますよ。負けを認めると同時に、なんて馬鹿な人だろうとも思いますが…』
 
 礼を言って立ち去ろうとした久保田に向かって、そう言ったのは会長の松本ではなく副会長の橘である。一応、恋人である松本と共に久保田と同じ大学に進学したが、お互いに生徒会長でも執行部員でもなくなり、学部も違うとなれば、高校時代のように頻繁に会う事はなかった。
 常に隣に女を連れている久保田を見て、二人が何を思ったかまではわからないが…、
 京都に行った桂木同様、特に連絡を取り合う事もなく、自然に疎遠となった。
 けれど、時任と違って三人とは疎遠になっても、特に何も感じない。
 居ても居なくても構わないし、何の支障も無い。
 そう言えば橘の方は僕もです…と優雅に微笑むかもしれないが、中学時代に執行部でコンビを組んでいた松本と高校時代に同じ執行部の仲間だった桂木は、さすがに眉をしかめるかもしれなかった。
 しかし…、そんな久保田だからこそ、わかった事がある。
 それは昔の事ではなく、今、現在の事…。
 運命なのか呪いなのか、久保田の住む401号室のチャイムを鳴らした探偵の後ろ…、
 背中の影に隠れてはいるが、すぐ気配でそこに時任が居るとわかってしまった。
 
 ・・・・・・・・・・まるで、運命ではなく、呪いのように。

 まるで、すべてを犯すように侵食してくる…、想い…。
 その想いは複雑なようで単純で、単純なようで複雑でもある。時任が居るとわかっていて、横浜に戻って来た事のように単純で複雑で、心はいつも戸惑い迷ってばかりだった。
 らしくなく、迷路に迷い込んだまま出られない。
 もう・・・、相方ではなくなって7年、会わなくなって5年も経ったというのに…、
 今もあの頃も自分の想いを殺し、殺し続けるだけで精一杯だった。
 
 「・・・・で、今日は何の用で?」

 想いを感情を押し殺し、押し殺した事さえ気づかせないように、いつもの調子を保ち用件を尋ねる。顔に浮かべたホーカーフェイスは完全とは言い難いのかもしれないが…、表面上、神崎は久保田の感情の揺れに気づいた様子はなかった。
 未だ時任が姿を現さない事が気にはなっているが、何かの調査で聞きたい事があるなら、知っている事を話せば済む。だが、なぜか神崎はすぐに用件を話そうとはしなかった。
 話さずに久保田と同じように、自分の後ろに居る時任を気にしている。
 昨日、会った時は元気そうだったが、もしかして何かあったのだろうか?
 久保田がそう思っていると、神崎が口を開くよりも早く、時任がやっと久保田の前に姿を現した。

 「よっ、久しぶりっつっても、昨日も会ったけどさ。実は用があんのは神崎じゃなくて、俺」
 
 驚かせるために隠れてましたと言わんばかりに、時任はニカっと笑いつつ、そう言う。
 だが、一見爽やかに笑っているように見える時任の目蓋は腫れているし、目元は擦ったのか少し赤くなっていた。
 まるで、泣きはらした後のような時任の顔に、久保田の目がわずかに見開かれ…、
 鋭い視線が思わず、時任の隣に立つ神崎に向けられる。
 しかし、もしも本当に時任が泣いていたのだとしても、原因が神崎とは限らない。
 それどころか一緒に居る所を見ると、たぶん…、その可能性は極めて低いだろう。すぐにそんな考えに思い至り、のほほんとしたいつもの細い目に戻ると、久保田は軽く肩をすくめた。
 「もしかして、ここらヘンで事件デスカ? 金田一サン?」
 「…って、誰が金田一だよ。金田一じゃなくて、俺は名探偵時任様だっ。ちなみに事件の方は起こっているかどうか…、ふ、不明だったりするけどな」
 「不明って?」
 「つまり俺は事件を追ってきたとかじゃなくて、事件の匂いがする噂の調査をしに来たんだ」

 ・・・・・・・噂の調査?

 時任の口から聞いた美人が消える噂は、確かに久保田も聞いた事があった。
 しかし、消える現場を目撃した訳ではないし、あくまで噂は噂、特に気にした事が無い。
 噂が真実だったとしても別に興味はないし、構わないが…、
 この噂が神崎の事務所に来た依頼と、何か関わりがある様子だった。
 「で、聞きたいコトは何? 噂は確かに知ってるけど、聞いた事があるってだけだし。どうせ聞き込みするなら、まだココに来て日の浅い俺より、古くから居る住人に聞いた方が良くない?」
 てっきり噂について聞きに来たのだと思い、久保田がそう言う。そして、泣きはらしたような顔をした時任ではなく、じっと観察するように自分を見つめている神崎に視線を向けながら、それくらい知ってるデショ?と目で言った。
 だが、神崎はそんな久保田の視線には答えず手を伸ばし、時任の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。そして、撫でた頭をぐいっと引いて下げさせた。
 「確かに君の言う通りだ。だから、噂の聞き込みではなく、調査に来たんだよ」
 「それって、どういうイミ?」
 「つまり君の部屋は眺めがいいから、調査にはうってつけだって事さ。コイツに張らせるから、一週間くらい部屋に居候させてやってくれないか?」
 「・・・・・・・・・」
 「出来る範囲内だが、礼金は弾ませてもらうよ」
 そう言った神崎の隣では、強引に頭を下げさせられた時任が頭に乗っている手を払いながら、首が痛いと文句を言っている。けれど、文句があるのは首が痛い件だけで、居候の件については事前に聞いているらしく、特に問題を感じている様子は無かった。
 泣きはらしたような顔をしていても、昔と変わらない様子で時任は久保田の前に立っている。
 だが、それは当たり前の事なのかもしれない。
 疎遠になって会わなくなって五年以上も月日が流れてしまったけれど…、別にケンカをしてそうなった訳ではないのだから、気まずいと感じる方がどうかしている。
 たとえ、時任を遠ざける目的のために、常に隣に女を置いていたのだとしても…、
 それは久保田の事情で、その事情に潜んでいる想いなど、時任は知るはずもないし関係の無い事だ。

 「良いですよ、別に…。気ままな一人暮らしってヤツだし、礼金貰えるなら喜んで」

 関係が無いのなら、この部屋に一週間くらい居ても問題はない。
 それくらいでは何も変わらないし、変えたいとも思わない。
 そう考えて、久保田は居候の話を受ける事にした。
 けれど、たった一週間とはいえ、昔のように四六時中、一緒に居るつもりはない。
 久保田にとって同じ部屋で二人きりで居るのは苦痛でしかなかった。
 関係が無いからこそ今があり、久保田自身がそれを望んだからこそ、セピア色に染まった光景の中の時任は笑顔のまま…、年を追うごとに想い出は美しくなっていく…。けれど、想い出が美しくなるたびに、過去が澱のように降り積もり、殺し続けた想いの残骸が胸を重く苦しくさせた。
 だから、時任にとっては何でもない事でも、久保田にとってはそうじゃない。
 なのに、話を受けるなんて、本当にどうかしている。
 でも、そんな風に思っていても、前言を撤回したりはしなかった。

 「ま、仕事でほとんど居ないと思うけど、気にしないで自由にしてくれて構わないから…」

 時任を部屋に入れる代わりに、部屋の主である久保田は部屋に帰らない。
 前言を撤回しない代わりの…、条件にならない条件。
 これもまた久保田の事情で、時任には関係のない事情で条件だった。
 それを久保田が言うと、笑顔を浮かべていた時任の表情が曇る。すると、泣きはらしたような顔をしているせいか…、一瞬だけ泣いているように見えた。
 昔、仲が良かったから、少しガッカリしただけに違いないのに…、
 なぜか…、時任が泣いていると感じた。
 そう感じた瞬間、鼓動が大きく跳ね、跳ねた鼓動の痛みが鋭く胸に突き刺さり…、何とか持ちこたえるために視線を逸らし落とすと、そこには久保田の住む部屋と外との境界線があった。
 それはどこにでもある、珍しくない境界線…。
 けれど、その線を見つめる久保田の瞳に滲むのは痛み。
 今、目の前にあるものだけではなく、境界線はありとあらゆる所に存在し…、
 だけど、どんな境界線にも、こんな痛みを感じる訳じゃない。
 痛みを感じる境界線は、いつも近いようで遠く…、とても遠く…、

 そんな境界線の向こう側には…、いつも時任が立っていた…。

 「そう言えば言い忘れていたが、俺はこことは別の調べものがある。だから、すまないが頼まれついでに、食糧の買出しと寝ている間の見張りを引き受けて欲しいんだが…」
 境界線を見つめる久保田に、そう言ったのは時任ではなく神崎で…、
 その言葉を聞いて、先に神崎に視線を向けたのは久保田ではなく時任。
 神崎を見た時任は複雑な感情が混じり込んだような、一緒に暮らしていた頃には見た事が無い不可解な表情をしている。泣きはらしたような顔といい、何か様子がおかしい。
 だが、久保田はそんな時任の様子と、自分を結びつけて考えたりはしなかった。やがて、どこかの女と結婚して幸せになる時任と自分を結びつけて考えるなんて、自傷にも似た行為でしかない。
 けれど、今の状況で神崎の依頼を断るのは、かつての自分と時任の関係を考えると不自然のようにも思えて…、結局、久保田は自虐的に首を縦に振った。
 「彼女にフられた傷心を慰めるのは無理だけど、ね。買出しと見張りなら出来るし…、ま、一週間限定ってコトで引き受けますよ」
 「いきなり来た上に色々と悪いね、久保田君」
 「その分、礼金期待してますから」
 「あー…、まぁ、期待もほどほどにしておいてくれると助かる」
 「了解デス」
 彼女にフられたと言った時、時任がどんな顔をしていたのかは知らない。久保田は泣きはらしたような顔をしている理由を、そう決め付け、あえて見ようとはしなかった。
 自虐的にはなっても、これ以上の痛みを感じたくない。
 時任と会ってからも会う前も、ずっと痛いのは嫌いだった。
 なのに、殺し続けながらも捨てられない想いの残骸が、伝えたい人に向かって夕暮れ時の影のように長く長く伸びて…、心を引き千切ろうとする。たとえ、長く伸びた影が想いを伝えたとしても、その次に待っているのは暗闇だけだというのに…、
 一体、何を求めて残骸を抱きしめているのか、久保田自身にもわからなかった。

 「ま、そういうワケだから、一週間ヨロシク」

 逸らしていた視線をようやく時任に向けて久保田がそう言うと、時任はホッとしたような表情でヨロシクな…と微笑む。だから、久保田もあの頃のように、優しく微笑み返した。
 そう、きっと…、これでいい…。
 高校で過ごした時のように、一週間だけ一緒に居て…、
 そうして、またサヨナラする。
 二度目のサヨナラはたった一週間で来てしまうけれど、それでも一緒にいられると思うと想いの残骸ばかりが降り積もった胸の奥に湧き上がる、ほのかな温かさがあった。
 ほのかに温かく、ほのかに切なく…、そして哀しい。
 すぐにサヨナラなのに、それでも嬉しいと思っているのだろうかと…、
 まるで、他人事のように自分の事を思う。
 時任の居る目の前の光景は、確かに現実で今で…、
 けれど、目を閉じて再び開くと消えてしまう、そんな夢の中にいるようだった。
 用事を済ませた神崎が帰り、部屋へと招き入れた時任に軽く案内をしながら、久保田はまるで夢の中を彷徨っているような錯覚に捕らわれ目眩を覚える。でも、それを時任に気づかれる訳にはいかなくて、戻るはずのない過去を追い求めるかのように…、
 写真に写る自分に似た表情を、偽りを顔に貼り付けた。
 「冷蔵庫に入っているモノは、勝手に飲んで食べてくれていいよ。ココの間取りは、お前の住んでるトコとあまり変わりないけど、トイレと風呂は逆だから…」
 「あ…、ホントだ。なんかヘンなの」
 「風呂にあるモノも冷蔵庫とオナジで、ご自由にどうぞ」
 「サンキュー」

 「…で、お次は寝室なんだけど」

 段取り良く説明して行って、狭いパイプベッドが一つしかない寝室のドアを開ける。神崎の依頼だと時任が眠っている間、久保田が見張りを変わらなくてはならないから、ソファーとベッドを賭けてジャンケンする必要も無かった。
 けれど、時任は寝室の前で立ち止まり、中に入ろうとしない。足を一歩だけ寝室に踏み入れた久保田は、どうしたのかと不思議に思い時任の方を見る。
 しかし、時任はすでにリビングの方に歩き出していて、背中しか見る事が出来なかった。
 「寝室は…さ、彼女とか来るだろ? 何か悪ぃし、いいってソファーで」
 「いいよ、別に。そーいうのココに来ないし」
 「けど、昨日のって彼女なんだろ?」
 「・・・・・・・」
 時任の言う彼女は、美里の事だろう。
 美里は別れないと言っていたが、久保田の方はもう美里と会うつもりはなかった。
 久保田は一度も美里に好きだとか、そういった類の事を冗談でも言った事がない。そして、時任が越えた境界の中に、この部屋の中に入れた事もなかった。
 けれど・・・・、久保田は笑みを浮かべたままでうん…とうなづく。
 そして、美里と付き合っていると返事をしながら、時任の背中を見つめていた。
 「そっか…、美人だったし、やっぱな」
 「うん」
 「久保ちゃん、あの子のコト好きなんだ?」
 「まぁね。好きじゃなきゃ付き合ってないっしょ?」


 ・・・・・・・・・・・ウソツキ。

 
 聞こえた幻聴は美里の声なのか、それとも自分自身の声なのか…、
 それさえもわからず、ただ…、ただ時任の背中を見つめて…、
 そう言えば、相方だった頃から、時任にはウソばかりをついてきたと思い右手で右目を覆う。すると、狭くなった視界の中で時任が後ろを歩く久保田を振り返った。

 「彼女とさ、幸せになれよ…、久保ちゃん」

 彼女と…、幸せに…。
 綺麗な笑顔を浮かべながら、そんな言葉で時任が久保田の胸を切り裂く。
 けれど、胸の痛みは時任のせいではなく、自分自身のせいだった。
 嘘ばかりをついてきたから、その嘘に胸を切り裂かれるハメになる。
 でも、それでもついてきた嘘に後悔はない。
 彼女と幸せに…と笑顔と一緒に贈られた言葉と同じ言葉を、時任に贈りたかったから…。
 たとえ、想いを殺し続けるために嘘を突き続けて、真実が1%しかなくなっても…、あと残りの99%の嘘に塗れても後悔はしない。

 99%の嘘と1%の真実、どちらが重い?

 もしも、そう聞かれたら、きっと嘘で塗り込め殺し続けた99%の方が重く…、他の何よりもきっと重い。だから、どうか幸せでいて、どうか笑顔でいて…と願い続けた99%の嘘に殺され、残りの1%を抱きしめてゴミに成り果てた。
 そんな久保田を汚れを知らない綺麗な瞳で見つめ、綺麗な笑顔を向けた時任は再び背を向けて歩き出す。けれど、久保田は立ち止まったまま、目の前にある時任が居るという懐かしい光景を、そんな懐かしい背中を変わらず見つめ続け…、

 あぁ、なんて遠くて…、なんて抱きしめたい背中なんだろう…と…、

 そう思いながら、どんなに近くに居ても決して届かない手を伸ばす代わりに…、
 右目だけを覆っていた手で…、両目を塞いだ。

 
                                                        2009.3.5


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