「にゃー、にゃーにゃー…」
長いようで短い夜が明け、朝になっても鳴く猫は、カゴの中。
けれど、捕まえた公園や時任の住むマンションに居た時と、今とでは鳴き方が違っている。さっき連れて来られた探偵事務所で飼い主と対面したせいか、ニャーと鳴く声には甘えが混じっていた。
そんな猫の様子を見ると、飼い主が嫌いで逃げ出したのではない事がわかる。おそらく、逃げたのではなく迷ったか、それとも自分の帰る家を忘れるかしたのだろう。
元の暮らしていた家よりも、気に入った家でも見つけて…。
犬と違って気まぐれな猫は居場所を、人ではなく家で選ぶらしい。
探偵事務所の自分の席で猫の鳴き声を聞きながら、所長がそう言っていたのを思い出した時任は、砂糖もミルクも入っていないコーヒーを苦そうな顔をして飲んだ。
『お前ってさ…、猫みたいだよね』
昨日、五年ぶりに公園で会った久保田に、昔、猫じゃないと何度も言われた記憶が時任にはある。だが、何度似てないと言っても久保田は訂正してくれず、事ある毎に時任の事を猫に例えて似ていると言っていた。
人ではなく、家に着く猫に似ていると言って微笑んでいた。
だから、そういう意味ではないとわかってはいても、どうしても二人で暮らしたマンションに居る自分と猫を重ね合わせて見てしまう。けれど、あの部屋に今も住んでいるのは、住み慣れているからという理由だけじゃない…。
それだけで住むには広すぎて…、寒い部屋だった。
始めから一人で暮らしていたら感じなかった、寒さと寂しさが、あの部屋にはあった。
部屋中に詰まった想い出は、置いていかれた家具や食器類と一緒に次第に古びて、やがて色褪せていく。時は望まないのに刻一刻と過ぎて、何もかもを過去へ追いやろうとしていた。
五年前の出来事が、時任の胸に今も深く刻まれていても…、
久保田にとっては、記憶にも残らない日常の出来事でしかないし…、
五年ぶりに公園で会った所で、何かが変わる訳じゃない。
一言二言会話を交わしたとしても、それで過去に戻れる訳もない…。
ただ、久保田の居ない日々が…、いつもと同じ日々が、これからも続いていくだけだった。
「ああ…、もう…、何やってんだ、俺」
そんな事は始めから考えるまでもなく、わかりきっていた。
なのに、また久保田の事を考えて、しめつけられるように胸が苦しくなる。
今は仕事中だという事を、苦しさのあまり忘れてしまいそうになる。
しっかりしろと首を横に振った時任の視線の先で、相変わらずカゴの中の猫は甘えた声で鳴き、飼い主と共に帰るべき場所へと帰って行った。
「・・・・・もう、二度と迷ったり忘れたりすんじゃねぇぞ」
帰っていく猫に、飼い主の背中に向かって、時任がそう小さく声をかける。すると、探し出した時任に代わり、飼い主に猫を渡した所長の神埼忍が、視線を出入り口から時任の方へと移した。
「そういうセリフは、まともな顔になってから言えよ、青少年。目にクマ、目蓋まで腫らせた顔で言われたら、たとえ猫でも素直にうなづきかねるかもしれないだろう? 見た目、どっちが迷子かわからんしな」
寝不足な上に、一晩中泣きはらしたような顔をしている時任は、所長にそう言われてムスッと頬を膨らませる。すると、もうとっくに二十歳を過ぎているというのに、現役の高校生に見えそうなほど、幼い顔つきになった。
「誰が迷子だよ、ちょっち寝つきが悪かっただけだっつーの」
「悩みがあるなら、相談に乗るぞ? 一時間五千円で」
「悩める青年相手に、あこぎな商売してんじゃねぇよ」
「ま、そんな冗談はさておき…、その顔だけは早くどうにかしとけよ。いつまでも迷子の子猫チャンみたいな顔してたんじゃ、仕事に差し支えるからな」
・・・・・・・・迷子の子猫。
所長である神崎に、からかうような口調でそう言われて…、
普段なら、更にムッとして言い返している所だったが、今日はどうしてもそんな気分にはなれない。何をしても何を言われても、思い出すのは昨日会った久保田の事で…、
久保田の事で頭がいっぱいで、他の事は考えられなかった。
一晩中泣きはらしたような顔になっているのは、本当に一晩中泣いたから…。
今も油断すると視界がかすんでしまいそうで、誤魔化すように欠伸をして目頭を押さえた。
久保ちゃん…、元気そうだった…。
だから・・・・、それでいいじゃねぇか・・・・。
たとえ、会えなくても元気で居てくれるなら、それでいい。
そう思い…、そう思う事で過去を振り切って、目頭を抑えていた指を離し、俯いていた顔をあげる。すると、いつの間にか近くに来ていた神崎が小さく息を吐き、らしくなく、暗い表情をした時任の頭を少し乱暴に撫でた。
「迷子の子猫…というより、まるで、好きな男にフられた女の子…」
「え? 今、なんて?」
「いや、なんでもない」
乱暴に頭を撫でられていたせいで、神崎の言った言葉は所々しか時任の耳には届いていない。けれど、神崎は言い直したりはせず、時任の頭から手を放すと軽く肩をポンポンと叩いた。
「今日は新しく入った仕事をお前に手伝ってもらう予定だから、目を覚ますために顔でも洗って来い。目の腫れが今よりマシになったら、車で出るぞ」
「…って、まさかまた猫とか犬探し? でなければ、浮気調査とか?」
「行きたいなら、そっちでも構わないが、お前が手伝うのは人探し。ターゲットは、一ヶ月前から行方不明になってる女子高生だ」
「マジで?」
「長期戦になりそうだが、やる気はあるか?」
「そ、そんなのあるに決まってんだろっ!」
少し元気を取り戻した時任の返事に、神埼がニヤリと笑う。高校時代に始めて会った時もそうだったが、神崎は爽やかな笑顔というものには縁がなさそうな人物だった。
顔は人並み以上に良いが見るからに一癖も二癖もありそうで、なんとなく、高校に在学していた当時の生徒会トップ二人と同類の匂いがする。時任の知る探偵としての神崎は、同じように一癖も二癖もある久保田も認めるほどに優秀だ。
いつも誰もが気づかなかった小さな手がかりから、ありとあらゆる可能性を考え模索し、その可能性を一つずつ確実に潰し。そうして、目の前に残った真実を掴む様は、仕事を越えた執念のようなものを感じさせた。
だが、そんな神崎と出会った時任が探偵になりたいと言った時、神崎は眉間に皺を寄せ。そして、青い執行部の腕章を着けた時任の顔をじーっと眺めた後、真っ直ぐに向けられた視線を切り捨て、拒絶するように背を向けた。
『探偵は正義の味方でも、真実の探求者でもない。単なる職業で商売だ。主な仕事は人探しや浮気調査、逃げたペットなんてのを探す事もある。つまり漫画や小説を読んでなりたいと思ってるなら、お門違いってヤツだ。本気で犯罪捜査をしたいと思うなら、警察にでも入るんだな』
確かに神崎の言う通りだった。
普通、探偵は漫画や小説のように、犯罪捜査をしたりしない。けれど、居なくなった子供を心配する母親に対する警察の対応を見て、目の前に差し出された警察手帳を見て違うと感じた。
確かに警察に入れば、大きな事件や捜査に関わる可能性もあるだろう。
しかし…、別にそんなものに関わりたいとは思っていない。パズルのように事件を解きたいから、謎を解き明かしたいから探偵や刑事になりたいとは微塵も思わない。
事件も謎も解くためにあるのではなく、人の憎しみが悲しみがあるから、そこに存在する。
だから、それにどんな形でも関わるというのなら、必死さが必要だと…、
それが哀しみに憎しみに打ち震え、涙を流さない人間の…、
人の憎しみと悲しみに関わる事へのせめてもの条件だと、冷たい黒い手帳を見て感じた。
『俺が守りたいのは世間の正義や誰かの正義じゃない、俺自身の正義だ。だから、犬探ししてようと何をしていようと、俺がやるなら探偵は正義の味方に決まってんだろっ。それに事件は警察で起きてんじゃねぇっ、ご近所で日本中で、世界中で起きてんだっ!』
警察手帳なんざなくても犬の失踪事件だろうが殺人事件だろうが、俺様の視界に入った時点でジ・エンドだと言いながら、時任が神崎の背に向かって胸を張る。すると、右手でこめかみを押さえながら、呆れ顔で振り返った神埼は、次の瞬間に噴出して爆笑し、時任の事務所入りを許可した。
けれど、その結果…、進学する久保田と離れ離れに暮らす事になり…、
やがて…、隣にも居られなくなった。
でも、それでも探偵になった事を後悔はしていない。
久保田と離れても選んだ道だからこそ、何があっても絶対に後悔はしない。
「今だって、あの頃だって後悔はしねぇけど…、信じてたんだ…。俺が探偵になろうと刑事になろうと、何になろうと何が起ろうと俺らは一緒だって…、さ…」
目の腫れを引かせるために、好きな人にフラられた男の顔ではなく探偵の顔に戻るために、時任は事務所の簡易キッチンに行くと顔を洗い。気合いを入れるために、両手で頬をパンと叩く。
そして、自分の席に戻り、経理や事務所のありとあらゆる雑務を担当している神崎と幼馴染だという女性、三島加奈子に差し出されたアイスノンを礼を言い受け取ると片手で目蓋を冷やしながら、仕事に出かけるためにイスにかけていたコートを着た。
「準備オッケー、顔は着くまでになんとかする」
さっきまでの暗さを感じさせない調子で時任がそう言うと、神崎もロッカーの中から自分のコートを取り出し羽織る。そして、ヒラヒラと軽く手を振る加奈子の頭を、出かける挨拶代わりに軽く叩いた。
「よし、それじゃあ行こうか」
「おうっ」
「最近、物騒だから、二人とも気をつけて、お仕事頑張ってね」
「加奈さんも一人留守番だし気をつけろよ」
「あら、ありがとう。相変わらず時任クンは優しいわよねぇ、忍と違ってっ」
「・・・・・今、何か言ったか?」
「いーえ、何にもっ」
仲が良いのか悪いのか、神崎と加奈子はいつもこんな調子だ。
そして、そんな二人の様子を見ていると、時任はいつも高校時代の執行部の面々の顔を思い出す。相浦とは今も付き合いがあるが、松原と室田…、そして桂木とはもう一年近く会っていなかった。
お互いに仕事や日々の生活に忙しく、自然に疎遠になりつつある。
でも、それでも久保田と違って、他の部員達との仲間のような友人のような関係は、これからも変わらずにあるのだろうと信じられた。
「相変わらず、仲良いよな」
桂木達の顔を思い出しながら、時任が二人の事をそう言うと神崎に軽く睨まれる。
でも、それは本気で睨んでいる訳ではなく、ただの照れ隠しだ。
いつも大人の顔をしている癖に、神崎は加奈子の事になると子供みたいに意地を張って素直になれないらしい。でも、それは加奈子の方も同じらしく、怒るとわかっていながら、いつも神崎をからかってばかりいた。
「たまには素直になんねぇと、今に取られちまうぞ…」
神崎の運転する車に乗り込み、相変わらず目蓋を冷やしながら時任がそう呟く。
かけられたエンジン音に混じるように、ぼそぼそと聞こえるか聞こえないかの声で…。
けれど、そんな声でも神崎の地獄耳には届いていたらしく、限りなく素直だから、こうなんだろうと苦笑しながら、車のアクセルを勢い良く踏んだ。
見ていてわかるように神崎は加奈子が好きで、加奈子も神崎を好きだ。
そして、神崎は男で加奈子は女だから、並べば誰の目から見ても仲の良いカップルに見えるだろう。好きだと告げれば良いだけで、何の障害もなかった。
『あの…、私、時任君の事がずっと好きで…。だから、高校を卒業しても、これからもずっと一緒に居てもいい?』
かつて、時任も卒業間近の荒磯高校の校内で、そう告白されて何の障害もない相手と付き合っていた事がある。それから、その彼女と2年半付き合った。
別れたのは時任が原因で、彼女は何も悪くなかった。
彼女はずっと…、時任の事を好きでいてくれた…。
なのに、時任の方は久保田が離れていくのを感じ始めてから、彼女と一緒にいても久保田の事ばかりを考えるようになり…、やがて久保田の事だけで頭が一杯になって…、
どうしてどうしてと泣く彼女に、ゴメン…と何度も何度も謝る事しかできなかった。
『ねぇ、どうして久保田君なの? 高校の時の噂だって、自分達はそんな関係じゃないって言ってたのに…、どうして今更…っ』
『・・・・・ゴメン』
『あの頃の方が今の何倍も一緒に居たのに、今頃になって久保田君なんて…っ。もしも、もっと他の別の誰かだったら、まだ救われたのに…、どうしてなの?』
『・・・・・・・・』
『今は私の方が、ずっとずっと…、近くに居るのに…っ』
ずっとずっと近くに居た…、ずっとずっと傍にいた…。
七年前までは、いつも手の届く場所に居て…、
手を伸ばせば手を握る事もできるし、腕を伸ばせば抱きしめる事もできた。
教室でうたた寝している久保田の唇に、冗談で寄せた唇も…、あと数センチ近づければキスする事だってできた。けれど、時任が抱きしめたいとキスしたいと思った時には、手に触れるどころか…、隣に居る事すら出来なくなっていた。
でも・・・、それで良かったのかもしれないと、車に置かれていた行方不明の女子高生の資料を見ながら、時任はアイスノンを目蓋に軽く擦りつけ口元に笑みを浮かべる。
昨日、会った時も彼女が居る様子だったから、いずれ久保田も結婚したりするのだろう。想像なんてしたくもないけれど、温かな家族とか家庭とか縁がなさそうだったから…、そんな久保田を知っているからこそ、心から幸せになって欲しいと願っている。
でも、きっと近くに居たら、久保田の幸せを願えない。
自分じゃない他の誰かに、好きだと囁く久保田なんて見たくない…。
だから、これで良いのだと一人納得して、時任は細く長く息を吐いた。
どんなに離れても一緒に居られなくても…、久保田が幸せで居てくれるなら…、
もしかしたら・・・、毛布や枕に染みこんだ涙も報われるかもしれない。
そう思いながら、時任は女子高生の資料に書かれた私立荒磯高等学校という懐かしい文字を指で撫でる。行方不明になっている女子高生は、荒磯高校に通っている三年の生徒だった。
つまり、同じ高校に在学していた時任の後輩に当たる。
名前は永沢薫、年齢は17歳…、日本人。
身長は160センチで体重は48キロ…。
髪の長さは肩より少し眺め辺りで色は、瞳と同じ黒。
一ヶ月前、友人の所に遊びに行くと告げて家を出たまま消息を絶ち、その日の夜になっても帰らないのを心配した両親が警察に捜索願いを出したらしい。
だが、未だ足取りは何も掴めず、身代金の要求もない。
そして、彼女と交友関係を持つ人間の中で、遊ぶ約束をした人物もいなかった。
「・・・・・確か、ニュースにもなってなかったか?」
聞き覚えのある名前と資料に添付されていた見覚えのある写真の顔に、時任がそう尋ねてみる。すると、神崎はそうだ…と時任の問いかけに答えながら、運転しているワゴンのハンドルを右に切った。
「だから、警察にはバレないように捜索する」
「バレないようにって、どうすんだよ? 家は警察が調べて必要な物は鑑定に回してるだろうし、聞き込みするとしても鉢合わせしたらマズいだろ?」
「今から行く場所は、まだ捜査の手が届いていない。だから、バレないし鉢合わせもしない」
「もしかして、警察の掴んでない手がかりとか掴んでんのか?」
「あー…、まぁ、掴んでるような掴んでいないような…」
「って、何で曖昧なんだよっ」
手がかりを掴んだのか掴んでいないのかハッキリしない神崎に、すかさず時任がツッコミを入れる。すると、神崎は今走っている派手な看板の多い店の建ち並ぶ通りの一角に、乗っている車を停車させた。
だが、資料を見る限り、この通りに何か手ががりがあるとは思えない。女子高生の自宅は、もっと離れた場所にあるし、最後に目撃された場所からも離れていた。
何も聞かされていない時任には、ここに何があるのか想像もつかない。それで、時任が思い切り不審そうな顔で神崎を見ると、神崎は今居る通りを指し示し噂があると言った。
「この通りを歩くと、美人は神隠しに合う」
「神隠しって、それってまさかっ」
「最近、急に広まってきた噂話だ。だが、単なる噂話に過ぎないから張り込んだはいいが、そんな事実はまったく無く、関係ないかもしれない」
「…って、おいオッサンっ!」
どうやら、神崎は神隠しの噂話の調査を、本気で時任にさせるつもりらしい。神崎は騒ぐ時任を横目に平然とした顔で、最近、通りに建ったというマンションを指差した。
「この通りの一番高い建物。ほら、あそこに見える最近建ったマンションの住人に、今からちょっと部屋貸してくれって頼みに行くから、双眼鏡持って一週間ぐらい見張って来い」
「うっそ、マジかよっ。ソレって単なる噂だろっ」
「何も手がかりが無いのなら、藁とは言わないが噂話に飛びついたりはするさ」
「んでもってっ、自分じゃなくて俺に飛びつかせるって、どういうワケだよっ。しかも、いきなり部屋を貸してくれって、そんなの無理に決まってんじゃんっ」
「あぁ、それは問題ない。お前が一緒に行けば、まず大丈夫だな」
「はぁ? 俺が行けばって、どういう意味だよ?!」
「行けばわかる。問題はソコじゃなくて、今、部屋に居るかどうかだ」
「アポイントすら取ってねぇのかってっ、ちょ…っ、ちょっと待てってっ!」
何を言っても行けばわかるというだけで、神崎は車を降りるとマンションに向かう。
そして、スタスタと中に入りエレベーターに乗ると4階を押す。
時任も慌てて後を追いエレベーターに乗ったが、そのために玄関脇に設置されている郵便受けの名前を見る余裕すらなかった。
「もしかして、俺の知り合い?」
エレベーターの中でそう尋ねると、神崎は少し首をかしげる。
けれど、そうか知らないのかと呟いただけで、何も教えてはくれなかった。
神崎が時任を驚かそうとして黙っているのだという事はわかるが…、段々と4階に近づくにつれて嫌な予感がしてくる。なぜなら、時任の交友関係はあまり広くないし、その中で神崎も知っている人物ともなると本当に極僅かで限られるからだ。
・・・・・相浦は、このマンションには住んでいない。
桂木は大学卒業後も居ついている京都から、こっちに帰ってきたという話は聞かない。
松原と室田も横浜に戻ってきたのなら、時任に連絡をくれるはずだ。
他の知り合いと言えば別れた彼女…とも確か面識があったはずだが、別れた事を知っているのに、行けば大丈夫などと悪趣味な冗談を神崎が言うとは思えない。
…とすると、残る可能性はたった一つだけ。
嫌な予感に手のひらに汗を滲ませながら、神崎に連れられて訪れたマンションの401号室。
何の偶然なのか、何の呪いなのか…、時任が住んでいる部屋と同じ番号の部屋の表札には、何があっても何が起こっても忘れられない名前が書かれている。その名前を見て表情を凍らせた時任は、慌てて自分の手を伸ばし、チャイムを押そうとしている神崎の手を止めようとした。
しかし、延ばした手は寸での所で届かず、401号室にチャイムが鳴り響く。
そして、留守にしててくれと心の中で叫んだ時任の願いも虚しく、部屋の住人がゆっくりとドアを開けて二人の前に姿を現した。
「あれ、もしかして神崎サン?」
「やあ、久しぶりだね」
自分よりも背の高い神崎の後ろに立っているせいで、時任の姿は久保田の位置からは見えない。久保田はいきなり現われた奇妙な来訪者…、神崎とぼんやりとした口調でどーも…と軽く挨拶すると眠そうに欠伸を一つする。
そんな久保田の様子は、昨日の公園での出来事を思い出させた。
5年ぶりに会って話した時も今も、久保田はあの頃と変わらない。
あんなに離れていたのに、あの頃と何も変わらない。
久保田のシャツを抱きしめて眠っていた自分と違って、もしかしたら…、公園で出会うまで時任のことなど、忘れていたのかもしれない。そう思うとまた視界が揺れてしまいそうで、時任はゴシゴシと軽く目をこすった。
こんな辛い…、こんなに痛い思いさせてゴメン…。
ゴメン・・・、ゴメンな…っ。
届かない想いは、とても切なくて苦しい…。
叶わない想いは…、とても切なくて痛い…。
そんな想いをさせてしまった、かつての彼女に謝りながら、時任は…、
こんなにも好きで大好きでたまらないんだと震え、教えてくれる手を硬く握りしめて…、
その手のひらの中に想いを閉じ込め握りつぶし、泣く代わりに微笑む。
そして、覚悟を決めてたった一週間だけの…つかの間の同居人となるべく、隠れていた陰から出て久保田の前に立った。
久保田の相方で居た頃の自分らしく…、潔く前に出た。
けれど・・・、もう二度とあの頃のように、手を伸ばし触れる事はできない。
久保田を相方だと思っていた頃のように、簡単に触れる事なんてできない。
そう思うと震えてくる手が、触れてはダメだと教えてくれる。
でも、それでも…、好きだから触れたい。
だけど、好きだから触れない…。
この想いが消えない限り…、触れられない…。
どうして…、なぜ、あの頃のままで居られなかったのか…。
ずっと、ずっと…、一緒だと信じられた頃のように、笑い合っていられなかったのかと…、
そんな問いを何度も何度も繰り返し考えても…、痛む胸はただ…、
相方だと思ってくれていた久保田を…、相方だと思っていた頃の自分自身を…、
・・・・・・・・裏切り続けるだけだった。
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