「・・・・・・・酷い人」



 横から聞こえてきた、そんな言葉に視線ではなく耳だけ傾けながら小さく息を吐く。
 けれど、それは聞こえてきた言葉に対してではなく…、もっと別の原因で吐いた息だった。
 一度は出て行った街を歩きながら、脳裏に蘇るのは過去の記憶と…、
 そして、仕事で呼び出された公園で、偶然に出会ってしまった人の姿。
 誰よりも会いたかったけれど、同じくらい会いたくなかった…、かつて自分の一番近くに居た人の驚いた顔を思い出すと、口元に浮かぶのは微笑み…、胸を刺すのは痛みで…、
 今もポケットの中に入れられたままになっている缶コーヒーの重さを感じると、やはり、この街に帰って来なければ良かったと…、未だ明けない暗い空を見つめる久保田の瞳に後悔が滲んだ。
 「ねぇっ、さっきから私の話、聞いてるの!?」
 「・・・聞いてるよ」
 「ウソ、全然聞いてないクセにっ」
 「・・・・・・・」
 「ねぇ、公園で居たのって誰? もしかして、何か言われたりしたの? 今日の誠人の様子がおかしいのって、やっぱり…」
 「・・・・・・・美里には関係ないって、さっきから言ってるはずだけど?」
 「けど、さっきから上の空で、私の話も少しも聞いてくれないし…っ」
 さっきから耳に響いてくるのは、自分の話を聞いてくれないと嘆く女の声。
 自分の方を向いて欲しいと願う、美里という女の声…。
 しかし、その美里という女に袖を強く引かれた久保田は、反射的に感情の篭らない瞳でちらりと一瞥しただけだった。そして、その後で唐突に投げた久保田の一言に、美里の目は大きく見開かれた。
 「・・・・・・ココらヘンが潮時、かもね」
 「潮時って、何の話よ!?」
 「俺ってサイテイだからって、最初に言ったアレ。ウソだって笑われちゃったけど、ホントだってわかったでしょ? だから、そろそろ潮時…」
 「なっ、何言ってるの? さっきから何の話してるのよ!?」
 「何の話って…、それはね」
 「それは?」
 「何をしたって、いくら傍に居たって、俺がアンタを好きになるコトはないって…、そういう話」

 パァー…ンっ!!!!!
 
 とても酷い事を言った…、そういう自覚はある。
 だが、平手打ちされた頬が少し痛いだけで、胸に痛みは感じなかった。
 あぁ、ホントにサイテイだと自嘲的な笑みが唇に浮かぶだけで、自分を見つめる女の涙に罪悪感すら沸かない。そんな今の自分を見たら、きっと高校時代に同じ執行部に所属していた桂木は同じように平手打ちを食らわせるだろうし、松原は少しズレた説教を…、室田と相浦は怒ったような困ったような顔をするだろうと…、
 脳裏に浮かべていた過去に、今を照らし合わせて叩かれた頬を右手の甲で軽く撫でる。
 けれど・・・・・・、なら相方は、時任はどんな顔をして何を言うだろうと・・・、
 そう考えた瞬間に、さっきは感じなかった痛みを胸に感じて…、
 その最低な痛み方に、久保田は何かに耐えるようにらしくなく眉間に皺を寄せた。

 「絶対にっ、絶対に別れないからっ! 誠人が最低でも私は好きだからっ、絶対に別れてなんてやらないから…っっ!!」

 明け始めた空に叫び声と同時に響く、走り去る足音。
 でも、その足音はなぜか…、別の人の足音を思い出させる。
 ずっと一緒に居るのだと、これからもずっと一緒だと信じてくれていた人を裏切り、走り去り逃げたのは自分のはずなのに…、走り去る女の後ろ姿に学ランを着たしなやかな背中を重ね…、途方に暮れたように立ち尽くす。
 そして、友達になれなかった…、相方ではいられなかった…、
 そんな自分を憎み恨み、自嘲しながら過ごした日々を…、
 恋しくて…、愛しくてたまらない人を想いながら、越えた眠れない夜を数えながら…、
 ポケットの中にある缶コーヒーを渡された時、わずかに触れた指先に軽く唇を落とし、声に出して名前を呼んだ。何度も何度も呼んだ事のある…、けれど、いつしか心の中でしか呼べなくなった名前を呼んで瞳を閉じると…、自分を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がした。

 「離れたら、離れてさえいたら、忘れられるはずだった…。忘れたつもりだったのに、その結果が前よりも好きになってるのに、気づいただけなんて…、ね」

 そう呟きながら思い出すのは、家出人を探すために執行部に協力を依頼してきた探偵と、その件が片付いた後、時任が探偵になりたいと言い出した時の光景。
 同じ日々がこれからも続くと、そんな気がしていた時に落とされた現実。
 先を見つめる真っ直ぐな…、綺麗な瞳に惹かれながら…、
 その瞳の中に映る未来の中で、大切な人の幸せを祈れない自分自身に気づいた。
 だから、どんなに想っていても…、ここから先に道はない。
 時任の隣を歩ける時間は、もうきっと…、残り少ないと気づいた瞬間だった。
 けれど、本当は気づいていたのに、気づかないフリをしてきただけだったのかもしれない。
 とっくの昔に…、もしかしたら最初から相方ではなかったかもしれない自分に気づいていたから…。冗談交じりに抱きしめた肩に、いくら近づけても決して触れる事のない唇に届かない想いを込めていた…、

 そんな自分自身を知っていたから…、明日を見ずに今だけを見てきた。

 けれど、時任によって目をそらし続けてきた明日と現実を、目の前に突きつけられ…、
 久保田はまるで背を向けるように時任に頑張ってね…と言葉だけのエールを送り、自分は大学を受験した。合格して引っ越す時も、会おうと思えばすぐに会える距離だからと言葉だけの絆を残し、自分からは一度も会いに行かなかった。
 そして、仕事の合間に会いに来る時任の口から女の名前が出る度に…、大丈夫、上手くいくよと心にも無い言葉を言った。
 でも、それでも・・・、時任の不幸を願っていた訳じゃない。
 だから、幸せは祈れないけれど、幸せになれるようにとサヨナラを告げた。
 いつでも会える距離に居るよと言いながら、出来るだけ自然に距離を作って…、いつしか離れて…、一緒に過ごした日々が哀しみではなく、優しいセピア色になるように…、
 握りしめ過ぎていた手をゆっくりと離し遠ざかりながら、それだけを祈っていた。
 時任がいつも笑顔でいられるようにと、それだけを祈りながら…、
 その笑顔を自分の手で壊す事がないように、時任を想ってばかりいる心を切り捨てて…、
 時任を抱きしめたがっている腕で…、欲望を埋めるだけの身体を抱いた。
 けれど、そんな腕で手で握りしめたまま、離せないのは冷たい缶コーヒーだけ。
 ぬくもりも何も伝えてくれないのに、握りしめていると愛しさと恋しさが募っていく…。
 久しぶりに会った時任は、前よりも少し大人びていた。でも、真っ直ぐに見つめてくる瞳は変わってなくて、裾を掴んで慌ててる様子がとても可愛かった。
 
 「・・・・・・・・・ゴメンね」

 時任の顔を思い浮かべながら、虚空に向かい口ずさむのは謝罪の言葉。
 あの頃も今も…、好きだと想うたびに、なぜか無意識に謝罪の言葉を唇に刻む。
 変わらない想いを告げるように、ゴメンとそればかりを口にして…、
 明け始めた空の下、一人暮らすマンションを目指す。
 待つ人の居ない…、眠るだけの場所へと足を踏み出し…、
 そのタイミングを計ったかのように、振動し始めたケータイをポケットから取り出し耳に当てた。
 すると、久保田を女を通じて仕事で呼び出した男の声が聞こえてくる。男が久保田に頼んだ仕事は、男の所属する組と対立する組…、所謂ヤクザ同士でちょっとしたいざこざがあり、それを平和的に解決するための勝負に代役として出る事だった。
 両者が合意し、行った勝負の方法は麻雀。
 久保田は大学卒業後、真っ当な仕事には就かず、学生時代から続けていた麻雀の代打ちを続け、日々の糧にしていた。
 『そろそろ帰り着く頃かと思ったが、まだ外にいるのか?』
 そう言った男の声は、久保田が無事に代打ちの仕事を果たし、自分の組が勝利したにも関わらず機嫌が悪い。けれど、男の機嫌が悪い理由に心当たりがある久保田は動じず、染まり始めた空の色に目を細めながら、軽く肩をすくめた。
 「ちょっち反省会中なもんで…」
 『自覚があるなら、まぁいい。だが、次にあんな打ち方しやがったら、指一本くらいじゃ済まないと思えよ。相手も気づいていたようだが、あれは先を読んでいた訳でも何か裏があった訳でもない。つまり、今日のはただのマグレ勝ちだった…、そうだろう?』
 「否定はしませんよ」
 『運も今日ので一生分使い果たとしたら、次はないだろうな』
 「じゃ、次は実力で」
 『ぜひ、そうしてくれ。じゃあな』
 男との通話を切った久保田は、今日の自分の打った牌を順番に思い出そうとしたが、いつもと違って全て思い出す事ができない。ぼんやりとしていて、いくつか欠落している。
 勝てる勝負の流れを崩すきっかけになったのは、捨ててはいけない牌を誤って捨てた。
 まるで、始めて牌を打つ素人のような凡ミスだった。
 テン張った状態で自分の捨てたチーピン…、ピンズの七を見て始めて、自分が勝負の最中に別の事を想い考えていた事に気づき…、
 表面上は辛うじて平静を保っていたが、内心ではらしくなく嫌な汗を掻いていた。
 勝負に動く牌に神経を集中しようとしても、チラつく恋しい人の姿に手元と心が乱れ狂い。
 それでも奇跡的にツキが回り勝ちを拾った時、久保田は高校時代、同じ執行部に所属していた紅一点の桂木に言われていた自分の弱点に思い至り…、勝利したにも関わらず敗北感を感じた。
 
 『そんなに好きなクセに、どうして告白しないのよ。時任だって少なからず、久保田君の事を想ってるって、誰の目から見てもわかるっていうのに…』
 
 いつだったか…、卒業間近の生徒会室で桂木がそう言った。窓の下で同じクラスの女子生徒に告白を受けている時任を、上から二人眺めながら…、そう言って久保田の背中を叩いた。
 けれど、久保田はその場から動かず、ただ告白に頷く時任を眺めていただけだった。
 それくらい…、照れたように笑う二人はとても良く似合っていた。
 女の子の方は極めて美人という訳ではないが、可愛いタイプで気立ても良さそうで…、
 久保田が受験という名目で少しずつ時任との間に作った距離に入り込んできたのも、狙っていた訳ではなく、ごく自然にといった感じだった。
 始めはバカップルと呼ばれていた久保田と時任が別れたと騒ぎになったが、そんな事実はどこにもありはしない。やがて周囲も久保田でない人間が時任の傍にいても、無駄に騒いだりしなくなり…、それが自然になった。
 それくらい二人で居る姿は無理なく自然で、この二人なら幸せになれるだろうと…、
 ・・・・・・・・見る者に、そう感じさせる二人だった。
 だから、この告白は遅いくらいで、別に驚くような事じゃない…。
 そんな二人から目をそらした久保田は、じっと空に浮かぶ雲を眺める。
 すると、流れてきた白く大きな雲が校舎を、久保田を明るく照らし出していた太陽を隠した。
 『ねぇ、桂木ちゃん…』
 『何よ?』
 『俺と付き合ってくんない?』
 日の当たらない場所で、唐突に、まるで今日の天気でも話すような口調で久保田がそう言う。だが、桂木は驚きもせず少しも表情も変えず、まるで校内で有名なバカップルをハリセンでスパーンと叩く時のように久保田をフッた。
 『嫌よ、絶対に』
 『即答?』
 『当たり前でしょ。いくら今は彼氏が居ないっていっても、自分の事を好きでもない相手と付き合うほど、ヒマじゃないし、自分から不幸になるためにゴミに足を突っ込むほど、バカじゃないわ』
 『…って、俺ってゴミ?』
 『少なくとも、私に付き合ってなんて言ったアンタはね』
 『・・・・・・・ゴメンね』
 『わかればいいのよ』
 その時、桂木はゴミになりかけた久保田を、軽く肩をすくめただけで許してくれた。
 だが、結局…、それから少ししてゴミになってしまった。
 時任から離れて行きながら、離れていく事に耐え切れず…、
 捨てられない想いだけを大切に抱きしめながら、ゴミに成り果てて…。
 そして、気づけばいつの間にか出会ってから一緒に暮らした時間より、離れて別れて暮らし始めてからの時間の方が長くなってしまっていた。

 『もしも、今好きだって言ったら…、時任は優しいから考えて悩んでくれるだろうし…。もしかしたら、その末にためらいながらも、一緒に居られるならって俺を受け入れてくれるかもしれない。けど…、それは間違いだから…』
 『間違いって、そんなの言ってみなきゃ…っ』
 『わからないって思う? どうやったって俺も時任も、女にはなれないのに?』
 『・・・・・・』
 『始めから間違いでしかないのに、泥沼に足を突っ込ませるなんてね。そんな勇気も覚悟も、弱虫の俺にはないし…』
 『久保田君』

 『けどね…、もしも離れてたら…。幸せだけは祈れる、そんな気がするから…』

 まだ、荒磯の制服に身を包んだ桂木に向かって、久保田はそう言った。
 そして、それからずっと…、どうか笑顔でと、それだけを祈り続けてきた。
 離れていても…、離れているからこそ祈り続けてきた。
 好きだった笑顔を泣き顔を、拗ねた顔をうれしそうな顔を思い浮かべながら、好きだという気持ちを想いをゴミ溜めの中で殺し続けてきた。
 七年も…、七年よりも前から殺して殺して、殺し続けて…。
 だから、もう…、殺すものなど何もないだろうと思い…、
 きっと、もうすべてがセピア色に変わってしまっただろうと思い込んで、横浜に舞い戻り…。
 そうして、再び出会った殺しても殺しても消えなかった鮮やかな色は、今の久保田には明るく眩しすぎて…、あの頃のように名前を呼ぶ事さえできなかった。

 「・・・・・ただいま」

 ようやく、帰り着いたマンションのドアを開け…、
 誰も居ない部屋に向かって、無意識に口癖になっている言葉を投げかける。すると、薄っすらと明かりの差す窓の明かりに照らされて、ベッドサイドに置かれている写真が目に入った。
 それは高校三年になったばかりの頃、まだ別れの日が来る事など思いもせずに…、
 こんな日が永遠に続くような…、そんな気がしていた頃に撮った集合写真で…、
 その写真の中には、楽しそうに笑う時任の横で…、穏やかに微笑む久保田も居る。
 学ランを着て、右手には青い執行部の腕章をつけた久保田は…、
 同じ格好をした時任の肩を抱いて…、幸せそうに微笑んでいた…。

 「始めから間違わなければ、相方のままで居られたら…、ずっと、傍に居られたのに…。どうしてなんだろうね?」

 着ていたコートと上着を脱ぎ、床に落とした久保田は、ポケットの中から冷たくなった缶コーヒーを取り出す。そして、缶コーヒーを強く握りしめながら反対側の手で拳銃の形を作り、それで写真の中で幸せそうに微笑む自分を撃った。
 最初はためらい…、それでも想い続けた勘違いの恋を殺すように…、
 過去の自分に憎しみを込めて弾丸を放ち、ベッドに倒れて片手で目蓋を覆いながら…、
 それでも、缶コーヒーは強く握りしめたまま…、離さずに…、

 ・・・・・・・死んだように眠った。
 
                                                        2009.2.8

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