残照.18




 「それはまた…、大変な目に遭いましたね」

 冷えた烏龍茶を茶器に注ぎながら、そう言ったのは東湖畔の店主。
 表向きは雑貨店だが、裏では様々な違法な商売を生業としている。しかし、東湖畔での一番の謎は裏の商売ではなく、黒い髪を腰まで伸ばし、中国服を身にまとった店主自身なのかもしれなかった。
 東洋人には間違いなさそうだが、国籍も年齢も不明…。
 鵠という名も本名ではないらしい。
 しかし、そんな事を気にした様子もなく、鵠の茶飲み友達は烏龍茶の入った茶器を白い包帯の巻かれた右手で受け取ると一口飲む。包帯の下にある切り傷はガラス片で出来たもので、先ほど鵠が傷口を塞ぐために麻酔無しで三針縫った。
 けれど、右手だけではなく、腕にも傷があり…、
 それが出来た日の事を鵠に話した茶飲み友達は、鵠の言葉に軽く肩をすくめた。
 「ま、夕焼けは綺麗だったけどね」
 大変な目に遭ったというのに、茶飲み友達の口から出たのはそんな言葉で…、
 鵠は白い包帯の巻かれた手が、渡した茶器の中に入っている烏龍茶の水面をユラユラと揺らすの眺める。すると、その水面の揺れは茶飲み友達の彼が見たという夕焼け色に染まった海のようでもあり…、また彼自身の心の揺れのようにも見えた。
 「夕暮れの海に、何か忘れ物でも?」
 いつもと様子の違う彼に、鵠がそう尋ねてみる。
 けれど、彼はさぁ…?と呟いただけで何も答えなかった。
 何も答えずに烏龍茶を、また一口飲み…、どこか遠くを見るように目を細める。
 一見、いつもと変わらないように見えるが、どことなく彼の雰囲気はいつもとは違うように感じられた。
 「では、少し質問を変えましょう…。貴方は無事に帰ってきた事を喜んでいるのですか? それとも…、後悔しているのですか?」
 何も答えない彼に、鵠がそう質問し直す。すると、彼はわずかに寂しさのような哀しさのような…、そんな感情を滲ませた笑みを口元に浮かべた。
 「後悔はしてないけど…。たぶん、ただ…」
 「ただ?」
 「夕焼けが綺麗だったから…、ちょっとね。でも、ウチのベランダで見る方が…、やっぱり綺麗だけど」
 そう言って遠くを見る…、行き止まりの断崖から生還した彼は…、
 なぜか、今もまるで断崖の上に立っているかのような顔をしていた。
 自分の住むマンションから見る夕焼けが何倍も綺麗だと言いながらも、細めた目に見えてるのはたぶん横浜の街ではなく、海を染める鮮やかな赤。その色に惹かれ魅せられてしまったかのように、鵠の茶飲み友達は・・・・・、


 久保田誠人は、手の中にある水面をユラユラと揺らしていた。


 断崖から帰還して、久保田が最初に向かったのは東湖畔ではなく…、
 いつかの日に、立ち止まった場所。
 いつかの日に小さな頭を撫で…、そして冷たくなった残骸を見つめた場所…。
 その場所で過去と今を重ねた久保田の胸の奥では、様々な想いが交差し…、断崖から飛んだ時の風景が脳裏を過ぎる。自分を抱きしめる暖かな腕と、視界を染める鮮やかな赤と頬を髪を撫でる潮風の匂いが、気を抜くと久保田を断崖へと引き戻そうとした。

 「ベランダで見る夕焼けの方が…、何倍も…」

 立ち止まった場所から東湖畔へと着いても、久保田は手に持った烏龍茶の水面を眺めながら、また…、同じ事を口にする。それに気づいていても呟いてしまうのは、もしかしたら、断崖へ向かおうとする自分自身を無意識に止めようとしているのかもしれなかった。
 そんな自分の横顔に鵠の視線が注がれているのに気づいた久保田は、苦笑しながら烏龍茶をまた一口飲む。すると、良く冷えた烏龍茶が少しだけ、胃だけではなく頭まで冷やしてくれるような気がした。
 「・・・・・相変わらず、鵠さんの入れるお茶はウマいね」
 やっと視線を揺れる水面から外し、久保田がそう言うと、鵠は自分用に入れた烏龍茶を飲む。それから、じっと観察するように久保田を眺めながら、いつものように穏やかに微笑んだ。
 「今日のお茶は良く冷えていて、頭まで冷えそうでしょう?」
 「アレ、もしかして悩んでるように見えた?」
 「いいえ、ただの例えですよ」
 「・・・・・・・」
 「今回の件で、何か悩み事でも?」
 「別に」

 「なら、いいのですが…」

 そう…、別に悩んでいる訳じゃない…。
 迷っている訳でもない…。
 月島の復讐と、気まぐれを起こした真田のゲームに付き合わされたが、今は再び平穏を取り戻している。一緒に断崖から飛び降りた…、時任も無事だ…。
 二人は海に落ちる前に、自殺防止のために張られたネットに引っかかり…、
 九死に一生を得た。
 たぶん真田が久保田を後ろ向きに立たせたのは、ネットを見せないために違いない。その上で久保田が落ちるかどうかを…、二人の選択を真田は見たかったのだろう…。

 二人の関係を、繋がりの強さを確かめるために…。
 
 真田の予想通りだったのか、それとも違ったのか…、
 ネットに引っかかった時任は、ただひたすら久保田を抱きしめ…、
 久保田もただひたすら…、時任を抱きしめる。
 落ちるはずだった深い海は二人の下で押し寄せては引いて行き、夕日はいつの間にか水平線の彼方へ消えかけている。上から響いてくる月島の叫び声を聞きながら、久保田は閉じていた目を開き空ばかりを見ていた。
 落ちる瞬間のまま…、止まった光景を見つめていた…。
 
 「久保ちゃん…、俺ら助かったんだな…」

 やがて聞こえてきた時任の声に、久保田は少し間を置いてから…、うんと頷く。
 そして、月島も無事みてぇだと、安心したように漏れる時任の吐息を聞きながら、久保田は抱きしめていた手を片方だけ離し、自分達を救ってくれたネットを強く握りしめた。
 すると、ガラスで切り裂かれた部分から赤い血が流れ出す。
 流れ出した血は雫となって海へと落ち、手に痛みが走る。
 けれど、その痛みを感じたのは手ではなく、別の部分だった。
 
 「・・・・・そうだね」

 痛みに眉をしかめながら、やっと、それだけを口にする。
 でも、その痛みは上半身を起こし、暗くなりかけた空を照らすように笑う時任の笑顔を見た瞬間に消え去り…。けれど、その代わりに久保田の中には、目蓋の裏に焼きついた夕焼け空が残った。
 目蓋の裏に残る赤い…、燃えるような残照…。
 その中にで感じたのは、今までに感じた事がない満ち足りた幸福感と、もう失う事はないのだという安心感。一歩先へと一歩先へと歩こうとしていた足は、残照を眺めていた間だけは歩みを止めていた。
 
 「・・・・・・鵠さん」
 
 久保田がぼんやりと呼びかけると、鵠は烏龍茶の入った容器を手に取る。
 そして、久保田の手の中にある茶器に、冷たい烏龍茶を注ぎ足した。
 「今回の医療費は、時任君へ誤情報を伝えてしまったお詫びに無料にしますよ。それと、貴方には余計な情報まで、伝えてしまった件についてもお侘びしなくてはなりません…」
 「それなら、謝られる覚えないけど?」
 「それは、どうしてです?」
 「誤情報も余計な情報も、時任をウチに帰そうとしてくれただけだし? それに、誤情報もすべて間違ってたワケじゃないしね」
 鵠の言葉にいくらか断崖から引き戻された久保田は、いつもと変わらない調子でそう答えながら微笑む。すると、鵠は知っているクセに少しからかうような口調で、「私が本当に時任君を帰そうとしていたかどうかは別として…、ですが。実際、どこからどこまで本当なんです?」と聞いてきた。
 「貴方が出雲会代行と、そういう仲だという話は聞きませんが、実際はどうなのか私も情報屋として興味がありますし…」
 「情報屋さんって、それを調べるのが仕事じゃなかったっけ?」
 「ふふふ…、そういえばそうですね。では、別の事をお尋ねしますが、色々と情報を聞いた時任君にはどんないい訳を?」
 「ん〜…、いいワケね。そういうのはしてないっていうか、する必要ないし。ホントの事を話して、信じるか信じないかはアイツ次第…って思ってたんだけど、何も聞かれなかった。話したくなった時に、聞かせてくれればいいって言われただけで・・・」
 「そうですか…」
 「うん」
 断崖から生還してから、どこかぼんやりしている久保田に時任は話したくなかった時でいいからと言ってくれた。まるで、明日の…、これから先の約束をするみたいに笑顔でそう言って、ぼんやりしている久保田の代わりに晩御飯の準備をし始めた。
 二人分の食事を作り続けている内に、いつの間にか上手くなった…、とても慣れた手付きで…。
 なのに、久保田はどこかぼんやりしたまま、ベランダを見つめる…。
 すると、ベランダにつるされた風鈴の音に混じって、また猫の鳴き声が聞こえた。
 
 「ねぇ、鵠さん…」

 注ぎ足された烏龍茶に口をつけずに、その時の事を思い出しながら、久保田がまた鵠に呼びかける。けれど、その呼びかけは近くに居たからしただけで、本当はひとり言のようなものだったのかもしれない。
 冷たい茶器を握りしめた手はわずかに…、胸の奥に渦巻く想いに震えていた。

 「・・・・・永遠って、どこにあるんだろうね?」

 久保田らしくない言葉に、鵠が驚き思わず目を見張る。断崖の下の深い海の中に沈み込むように、自分の想いの中に沈み込み…、哀しみだけを写した久保田の瞳は見ているだけで、なぜか苦しくて胸が詰まった…。
 鵠は何か言おうと口を開きかけたが、結局、何も言葉が見つからず…、
 悪いタイミングで訪れた客に、らしくない…、少し動揺の滲んだ声でいらっしゃいませと声をかける。そして、久保田から珍しく東湖畔を訪れた客に視線を移すと、見覚えのある小さな木箱が鵠の目に映った。
 「貴方はもしかして・・・・・・」
 「えぇ、前にこれをこちらで注文させて頂いた榊の…、妻です」
 前に東湖畔を訪れて珍品を注文した客の妻だと名乗った女性は、先に来ていた久保田に軽く会釈をすると店のカウンターまで歩き、持ってきた木箱をその上に乗せる。そして、木箱の蓋を開けて…、中身を鵠に見せた…。
 すると、鵠は木箱の中に入っていた品物を手に取る。
 けれど、じっと品物を見つめた後で、わずかに首をかしげた。
 「箱は間違いなく本物ですが、中身が違っているようですね」
 「まさか…、そんな…。私は窓辺に吊るされていたものを、そのまま持ってきただけなのに…、なぜ?」
 「どうやら、これは何かの景品かおまけのようです。短冊の部分に、ペットボトルのお茶を売っているメーカーの社名が入っていますから…」

 「なら…、なぜあの人は・・・・・・」
 
 鵠と女性客の話が、近くにいる久保田の耳にも聞こえてくる。
 前に鵠が売った品物の話だという事はわかるが、その品物について久保田は何も知らないし、わからない。それに、今は怪我の治療に来ているだけで、バイトで店番をしている訳じゃないから、聞いていなくてもわからなくても問題はなかった。
 久保田は烏龍茶を一気に飲むと、手の中にあった茶器をテーブルへ置く。
 そして、接客をしている鵠に目だけで軽く挨拶をして、東湖畔を出ようとした…。
 でも、その瞬間に聞き覚えのある音が耳を打ち、久保田は鵠ではなく…、鵠の持っている品物を見つめる。鵠の人差し指に糸を絡ませ、ユラユラと揺れている物は榊という女性の窓辺に吊るされていたらしいけれど…、
 それに良く似た物が…、久保田の住むマンションのベランダでも揺れていた。


 チリリン・・・・、リリン・・・・・・・・・。


 小さく涼しげな…、風鈴の音…。
 まるで、その音に呪いをかけられてしまったかのように、久保田は動かない。
 動かずに鵠と榊という女性の話に耳を澄ます…。
 すると、また…、風もないのに風鈴が鳴った。
 「私は確かに本物をお渡ししました。ですから、たぶん貴方のご主人が、中身を入れ替えたのでしょう…」
 「でも、どうしてそんな事を…」
 「この風鈴は持ち主を選ぶ…と、必要としている人の元へ自らの意思で向かうと言われています。そして、その言い伝え通りに私を通じて貴方のご主人の元へ、あの風鈴は来たのですが…。おそらく、役目を終えたので別の場所へ・・・」
 「・・・・・・・・・」
 「私の元にこれを持って来たという事は、これがどんな風鈴なのか、貴方もご存知なのでしょう?」
 鵠がそこまで言うと、榊という女性は唇を噛んで俯く。
 そして、かすれた声で震える唇で、哀しい事実を告げた。
 「風鈴で本当に、今はもう居ない人に会えたのかどうか私にはわかりません。けれど、主人は・・・・、夕焼けの綺麗な日にビルから飛び降りました」
 「夕焼けの綺麗な日に・・・・・・」
 「こんな風鈴を手に入れてまで会いたい人が居たなんて、私は日記を読むまで少しも知らなかったんです。何も言わずに告げずに生きている私よりも、もう二度と帰らない人の元へ逝ってしまうなんて…」
 「・・・・・・・・・・」

 「文句の一つも何も聞いてくれないなんて…、あまりにも酷いじゃありませんか…」

 涙混じりの声が、嗚咽に変わった瞬間…、久保田は動き出し走り出す。
 ただ、鵠と榊という女性の話を聞いただけで、何の確信も確証もない…。
 こんな話はただの迷信で、とても信じられる話じゃなくて…、
 なのに、酷い胸騒ぎがして走り出さずにはいられなかった。
 また…、一歩だけでも一歩でも、時任よりも前へと進むように走り…、
 そして、張り裂けそうな胸の奥から響いてくる鼓動を、自分自身の叫び声を聞きながら、なぜ…、どうして、こんなにもただ一人だけを好きになってしまったんだろうと心の中で呟き…、途方に暮れながら断崖の夕焼け空を想う…。
 好きだと気づく前からたぶん…、失う事がとても怖かった。
 目の前から消えてしまわないかと、本当はいつも不安だった。
 それが時任の意志ならばと、うそぶきながら…、怯えていた。
 自分でも気づかないほどに…、とても好きだったから…、
 ただ…、ずっと離れないで居たかった…。

 ずっと・・・・、一緒に居たかった・・・・・・。

 なのに、出会った時から、時任の右手は薬に蝕まれていて…、
 右手の痛みに耐える時任を見るたびに、それが時を縮めていくのを感じていた。
 いつか必ず失う日が来るのだと…、そう感じるたびに・・・・・、
 なぜか、時任の笑顔がとても綺麗に見えて…、とても哀しかった。

 「お前の笑顔が、ホントはすごく好きなはずなのに…。見るたびに、いつも苦しくなるのは…、苦しさが増してくのはなぜだろう…、ね…」
 
 そんな呟きの先にあるのは、走り向かう先にあるのは…、
 時任の待つマンションと、また…、あの日のように暮れ始めた空…。
 そんな空を見上げながら、久保田は目蓋の裏に焼きついている赤く鮮やかな残照を見つめていた。




                  前   へ             次    へ