残照.17
目の前に広がる…、空の赤。
夕焼け空と自分との間には、久保田と真田…、そして断崖。
時任は背後にある殺気を感じながら、視線を久保田へと向ける。
ナイフが背中に突き刺さる寸前、避けるのではなく、地面へとしゃがみ込んだ時任の頬には、上から滴り落ちた血で赤く線が引かれていた。
滴り落ちた血は時任ではなく…、月島の血…。
月島の手を傷つけたガラス片は、握られていたナイフと一緒に地面へと落ちている。そして、ガラス片を投げた久保田の手からも、赤い血が滴り落ちていた。
何もかもが赤く染まっていくような、そんな風景を…、
時任は見つめ、久保田は眺め…、月島は睨む。
それぞれの瞳の中に宿る想いの色は夕暮れと同じ色なのか、それとも、もっと別の色なのか…。久保田のせいで時任の背中にナイフを突き立て損ねた月島は、落ちたナイフを拾わずに、何もせず傍観している真田に視線を向けた。
「冗談のつもりだったのに、ほら…、手がこんなになってしまいましたよ。もしかして、ちゃんと無事に引き渡すと約束してるって、久保田君に言ってくれなかったんですか?」
何もせずに傍観している真田を責めるような口調で、月島がそう問いかけると、真田はアークの頭を撫でる。けれど、自分の飼い犬の頭を撫でるばかりで、月島の問いに答えようとはしなかった。
答えないどころか、一度も月島の方を見ていない。さっきから、口元に笑みを浮かべながら真田が見ているのは月島ではなく…、時任だった。
「これで、ようやく役者と舞台が整った」
興味深そうに時任を眺めながら、真田がそう呟く。
すると、時任が頬についた血を拭いながら立ち上がり、真田を鋭く睨みつけた。
「お前が…、真田か?」
いつもよりも低い声で、時任がそう尋ねると…、真田は問いには答えず口元に嫌な笑みを浮かべる。そして、アークの頭を撫でていた手を横へと伸ばした。
「どうも君とは初対面という気がしなくてね、改めて自己紹介という気分にもなれなかった。だから、私の事を知ってくれていて助かるよ」
「何ふざけたコト抜かしてやがる。俺はてめぇなんか知らねぇし、そんでもって、これからも知る気はねぇ…」
「では、私に聞きたい事は? 色々と耳に入っていると思うが、その件について聞きたいのではないのかね?」
「もし、そうだとしても…、てめぇの口から聞きたい事は何も無い」
「ほう、これはまた随分と嫌われたものだな。初対面の今日くらいは、君の笑顔を見たいと思わないでもないが…。やはり、笑顔よりも怒った顔の方が何十倍もそそる」
「っざけんなよっ!」
ふざけているとしか思えない真田の言葉に、時任がギリリと歯を噛みしめる。だが、さっきから時任の視線は真田の顔ではなく、横へと伸ばされた手に集中していた。
頬から首筋に向かって…、いやらしく撫でる手と…、
そして、その手に撫でられ触れられながらも、その場を微動だに動かない久保田に…。
なぜ、動かないのか…、今の状況を見れば考えなくても想像はつくが、鵠に聞かされた情報が頭を過ぎって嫌な妄想が時任の眉間に皺を作る。自分に向けられた拳銃の銃口よりも、久保田に触れる真田の手が嫌でたまらなかった。
「・・・・・・・さわるな」
さっきよりも低い時任の声を聞くと、口元に浮かぶ真田の笑みが深くなる。
まるで、挑発するような真田の態度に、時任は右手の拳を硬く握りしめ一歩前へ出た。
だが、それと同時に金属音が時任の耳に届く…。
本当は立ち止まらずに走り出し、久保田に触れる真田の手を払い払い退けたかったが、向けられた銃口の先を見てしまうと・・・・、止まらざるを得なかった。
「くくくく…、そんな怖い顔をして、どうかしたのかね?」
立ち止まった時任を見て、真田が楽しそうに声を立てて笑う。その声はざらざらと不快に鼓膜に響いてきて、時任は睨みつける瞳に力を込めた。
届かない手を伸ばすように…、
久保田に触れる真田を、その瞳で射殺すように…。
けれど、それでも走り出せないのは、向けられた銃口が自分を狙っているからではない。自分ではない他の人物を狙っているから、それ以上は前へと足を踏み出す事が出来なかった。
そんな時任の様子を見た真田は、久保田の耳に何かを囁き…、
それから、動かない時任の鼓膜へと、また不快な声を響かせた。
「君はここまで来るまでの間に、何も聞かなかったのかな?」
「・・・・・・・・」
「そこにいる少年は、久保田君を背後から鉄パイプで殴ったのだよ。だから、私は彼をココへ呼んだんだ…、久保田君のカタキを打つためにね。久保田君もそれを望んでいる」
真田が言った事と同じ事を、黒服の男にも聞いた…。
そして、目の前にいる久保田は、その言葉を肯定も否定もせず…、
月島も銃口を向けられて沈黙したまま、何も答えない。
きっと、第三者がこの状況を見れば、久保田は真田の仲間か部下か…、もしかしたら、もっと深い仲に…。それから、時任は怪我をした友人を庇っているように見えるだろう。
けれど、それは実際の状況とは違うと、そうじゃないと時任は信じていた。
無理やり思い込み、信じ込むのではなく…、
二人で過ごす日々の温かさを、そっと胸に抱くように…、
そっと、伸ばした手で握りしめるように…、
そっと、伸ばされた手を握りしめる時と同じように自然に…、
疑う事よりも、信じる事の方が当たり前で自然だったから…、
過去に何があろうとも、今、どんな事が起ころうとも…、
ただ信じて・・・・、信じ抜くだけだ。
時任は真田を鋭く睨みつけていた瞳を一度閉じると、すぐに再び目を開いて久保田を見つめる。すると、見つめ返してきた久保田の視線と、その視線が絡み合った。
こんなに近くにいるのに、真田の用意した舞台で…、
断崖の上で絡み合うのは、視線と心だけ…。
言葉は何も交わさずに見つめ合う二人を眺め、わずかに目を細めた真田は、軽く手を上げて部下にあらかじめ用意されていた鉄パイプを投げるように命じる。すると、投げられた鉄パイプは時任の足元で、乾いた音を立てて転がった。
「それで、久保田君の復讐を遂げたまえ。そうする為に、君は久保田君を傷つけた人間を探していたのだろう?」
「・・・・・・っ」
「そう、これは彼のした事に対する報復…、当然の報いだ。だから、君は迷う必要も躊躇する必要はない。いや…、しないはずだ」
「なに、勝手に決めつけてやがんだ。誰がてめぇの口車なんかに乗るかよ、俺のコトは俺が決める」
「まるで、時を稼ぐように私の言葉を拒絶するのは、久保田君の為でも自分の手を汚したくないからかね? 久保田君は、君のためなら自分の手を汚す事もいとわないというのに…。この手の傷も、腕に出来た傷も君のために作ったものだよ」
「・・・・・・・」
「くくく…、手を汚す久保田君と汚さない君の差は何かな?」
「うるさい」
「理性、常識…、罪の意識…。それとも、愛情の差かね?」
「うるせぇっ!!黙れっつってんだろっ!!!」
時任を追い詰めるように、真田の口から紡がれる言葉。
時任の視線は、傷ついた久保田の右手に注がれている。
守るつもりだったのに…、守りたいと思っていたのに…、
後ろから襲われ肩を負傷したから、また久保田の身体に傷が増えていた。
自分の知らない時に知らない場所で…、知らない誰かに傷つけられ…、
けれど、なぜか今感じるのは怒りよりも、哀しみの方が深く…、
遠く遠く…、遥か彼方から押し寄せてくるような波の音が、その哀しみをより深くしているような気がして…。遠く遠く彼方へと繋がっていく空を染める夕焼けの色が、憎しみも嫉妬も何もかもを赤く赤く塗りつぶしていくような気がしてならなかった。
「久保田君のために君が何もしないと言うのなら、私がこの手で報復してみせよう。君よりも私の方が、主に相応しい事を証明するために…」
真田は口元に笑みを浮かべたまま、そう言うと懐から拳銃を取り出す。
そして、銃口を月島に向けた。
「ただの忠犬ならば、或いは平穏な日々の中でも生きられたかもしれないが、血に飢えた狂犬は暗闇の中でしか生きる術はない。私の知る…、そして君の知らない世界でしか生きられないのだよ…」
時任を守ろうとする久保田は、忠犬ではなく狂犬だと…、
真っ直ぐで綺麗な時任の瞳を眺めながら、真田が笑う。
すると、時任ではなく月島が、真田に向かって叫んだ。
「じょ、冗談ですよね!? ヤクザってのもウソで、今のも演技で…。 だって、貴方は僕の味方でしょう?」
状況を…、何もわかっていないのは時任のはずだった。
だが、今何もわかっていないのは、明らかに時任ではなく月島…。
どんな事情があって真田と知り合ったのか、時任は知らないが、どうやら本当に何も知らされていないらしい。過去、久保田が出雲会に所属していたという事以外…、もしかしたらそれも時任を陥れるための嘘だと教えられていた可能性もある。
月島は引きつった笑みを浮かべながら、助けを求める相手を探して視線を彷徨わせていた。
「私は君の味方だが、出雲会に所属している」
その真田の一言に、彷徨っていた月島の視線が真田へと止まる。
すると、真田は月島に向けた拳銃の引き金に指をかけた。
「・・・とでも言えば、君は私の背中に隠れるのかね? 君の言う所のヤクザで、犯罪者の背中に…」
「僕はヤクザでも、貴方ならっ」
「・・・・・なるほど、君は犬ではないな。そして、猫でもなく正真正銘の人間だ」
「え?」
「簡単に言えば…、私にとって君の価値はゼロに等しいという事だよ」
笑みを含んだ真田の声が、そう告げた瞬間、月島の目が見開かれ…、
殺されるかもしれない恐怖に震え、逃げる事もできずに力無く地面へと崩れ落ちる。そして、すべては演技でも冗談でもなく、現実なのだと悟った時、月島は救いを求めて近くにいた時任の足に縋り付いた。
「た、助けて…っ、時任君っ! 僕らは友達だろっ! だから、助けてよっっ!!」
死にたくないと泣き叫び、我を忘れて時任に縋り付く。
そんな月島を振り払わずに…、時任は静かに見つめていた。
すると、真田は月島に向けていた銃口を降ろし、今度は月島ではなく久保田に銃口を向ける。そして、久保田に後ろ向きのまま下がらせ、崖へと落ちる寸前…、一歩手前で止まらせた。
「招待に応じて、ここまで来てくれた君に選ばせてあげよう。足元に這いつくばっている人間を助けるのか、それとも断崖に立つ狂犬を助けるのか…。君の選択が片方を殺し、もう片方を生かす…、想像するだけで愉快でたまらないだろう?」
真田の言葉と海からの風が、強く激しく時任へと吹きつけ…、
手触りの良い柔らかな髪を乱し、心までも掻き乱し吹き抜けていく。
この選択はおそらく…、久保田なら迷わないだろう…。
迷わず引き金を引き、顔色一つ変えないかもしれない。
けれど・・・・、時任は風に吹かれたまま、月島を見つめて動かなかった。
「お願いだから、僕を助けて…っ。助けてくれたら何でもするからっ、頼むよっ」
聞こえてくるのは必死に助けを乞う、月島の声…。
久保田の声は、ここに到着してから一度も聞いていない。何も言わずに崖から落ちるギリギリの位置に立って、時任が吹かれているのと同じ風に吹かれている。
赤い赤い夕焼けを背に立って…、目を閉じていた。
時任は月島に向けていた視線を久保田へ向けると、地面に落ちていた鉄パイプを拾い握りしめる。そして、月島にある質問をした…。
「久保ちゃんを鉄パイプで殴ったのは・・・・、本当にお前なのか? 月島」
その質問を聞いた瞬間、足に縋り付いていた月島がビクっと身を震わせる。
すると、時任は信じられないセリフを月島に言った。
「正直に答えろ。そうしたら、俺はお前を選ぶ…」
「ほ、本当に? 本当に正直に答えたら…、僕を?」
「本当だ。だから、答えろ…。久保ちゃんを襲ったのは、お前なんだな?」
「・・・・・・・・・」
時任は鉄パイプを握っている…。
だが、瞳と同じように真っ直ぐな時任の性格を月島は知っていた。そして、久保田と自分を天秤にかけても、すぐに答えを出さなかった現実が目の前にある。
月島は涙ぐみ哀れみを誘うような表情を時任に向けながら、時任の質問に答えた。
「学校でも言ったみたいに、僕は久保田君に恨みがあった。だから、その恨みを晴らしたくて…、久保田君を…。でも、今は後悔してるんだ…、本当なんだ…っ」
「・・・・・・・・そうか。なら、歯を食いしばれ」
「え?」
時任はそう言うと左手の拳で、質問に答えた月島の頬を殴りつける。
すると、辺りにその音と月島の呻き声が響き…。けれど、次に時任の口から出た言葉は、殴られると同時に月島の予感したものとは違っていた…。
「・・・・・・・コイツを助けてやってくれ」
そう言って時任が指差したのは、久保田ではなく月島。
すると、月島は引きつった顔に笑みを浮かべ、足に縋り付いていた手に力を込める。そして、久保田に恨みを抱いた日と似た状況の中…、殴られた頬の痛みに耐えながら興奮した声で、あんな奴は死んだ方が人類のためだと叫んだ。
自分から金を奪おうとし、久保田にやられた連中と廊下ですれ違う瞬間、目の端に久保田がこちらに向かって歩いてくるのを捕らえ…、
わざと挑発してケンカを売るような真似をして、殴られた日の事を恨み…、
それから続いた暴力と痛みに苛まれた日々に募らせた憎しみをぶつける様に、殺意を込めて久保田を睨みつけた。
「あんな犯罪者なんか、僕を見捨てたヤツなんか死ねばいいんだっ!アイツが僕を見捨てたせいで、あの後、僕がどんな目にあったか…っ!」
「・・・・・・・・」
「誰からも好かれて大切にされて…っ、いつも笑顔でいて苦しい事なんか何一つ知らない君には、この気持ちはわからないだろうけど…」
「・・・・・・・」
「やっぱり、君なら僕を選んでくれると、助けてくれると信じていたよ。僕が君を好きなように、君も僕を好きになってくれると…、そう思っていたよ…」
月島はまるでうわ言のように歪んだ唇で、久保田への恨みと自分を選んでくれた時任への愛を告げる。だが、時任の瞳は久保田と沈みかけた夕日しか映さない。
時任は鉄パイプを片手に、久保田と向かい合っていた。
「・・・・・・綺麗な夕日だな」
聞きたい事はたくさんあった。
知りたい事も…、たぶん同じくらいあった。
けれど、最初に口から出たのは、そんな言葉で…、
なぜか、こんな状況だというのに口元が自然に笑う。
吹いてくる風も、寄せては引いていく波の音も、とても心地良く優しく髪を撫で耳に響いていて…、さっきまでの荒さはなかった。
「うん、けど…、ウチで見る夕日の方が何倍も綺麗だから…」
相変わらず目を閉じたままで、時任の言葉に久保田がそう答える。
すると、時任は握りしめた鉄パイプを肩に担ぎ、同じように目を閉じた。
「あぁ、そうだな…」
穏やかに静かに頷いた時任の目蓋の裏に映る夕日は、目の前で沈みかけている夕日よりも赤く空を染め…、その中で見た幻まで映し出す。
薄暗いリビングと、床に転がった無数のビールの空き缶。
そして、どこを見ているのか、何を見ているのかわからない瞳をした無表情な…、
けれど、深い哀しみに沈む久保田の横顔を…。
初めて見た時も、二度目に見た時も、何か悪い事が起こる前兆のような気がして…、久保田がいなくなる気がして怖くてたまらなくて…、
だから、今まで気づかなかった…。
抱きしめたいとそう思う事はあっても、そんな風に思う理由がわからなかった。
でも…、赤く燃える空を背負い断崖の上に立つ久保田を…、
じっと目を閉じて、静かに行き止まりの場所に立つ久保田の姿を見た時任は、その理由を…、ガラスの中に映し出された光景の中に足りなかったものを知り…、
拳を握りしめ歯を食いしばり…、そして頬に一筋だけ涙を伝わせた…。
「自分の選択を後悔しているのかね?」
時任の頬に伝う涙を興味深そうに眺めながら、真田がそう言う。
けれど、時任は首を横に振った。
「後悔はしない…、絶対に…」
そう言った時任の声は真田の質問に答えたようにも、ただひとり言を言ったようにも聞こえる。どこか遠くを見るような時任の瞳は、とても綺麗に澄んでいて…、
そして・・・・、どこまでも真っ直ぐだった…。
時任の瞳は真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに赤く染まり、消えゆく光景を眺め…、
その中にいる久保田を想い…、声には出さず唇だけで名を呼ぶ。
すると、目を閉じているはずの久保田が微笑んだ。
けれど、そんな二人の繋ぐ糸を切るように、真田の声が穏やかな空気を切り裂く。
真田の構えた拳銃の銃口は下を向いていたが、部下達の銃口は時任の選択で、標的を月島から久保田に変えていた。
「そのセリフを、君はいつまで言えるかな? 君が見捨てたせいで、この弾丸が君の主の…、いや、飼い犬の左肩に撃ち込まれても、右肩に撃ち込まれても…、心臓に撃ち込まれても同じセリフが言えたら、君を出雲会の幹部に迎えてあげよう」
冗談なのか本気なのか…、真田はそう言うと部下達に合図を送るために軽く右手を上げる。まるで、ゲームでもしているかのように楽しそうに…。
まるで…、時任が泣き叫んで自ら、自分の足元に膝間づくのを待つように…。
けれど、時任は握りしめた鉄パイプを真田にではなく月島に向かって投げ、そして次に目の前に突き刺さった鉄パイプを見て驚く月島に、一度だけ視線を投げた。
「後は自分で何とかしろ。お前を助けられんのは、今のお前を救えるのは…、お前自身だけだ…。自分の足で立って走れ、そうしなきゃ運良く助かった所で同じコト繰り返すだけで、絶対に前には進めねぇからな」
「・・・・・・・・」
「俺が友達として最後に言えんのは、ソレだけだ」
「時任…、くん?」
「短い間だったけど、友達みたいに話せて楽しかったぜ、月島…。マジでありがとな」
久保田を襲い…、自分を裏切り…、
けれど、時任は笑顔で月島にありがとう…と言う。しかも、その笑顔は決して偽りではなく、沈みかけた夕日の柔らかな色に染まり、とても穏やかで綺麗だった。
そんな笑顔に月島は目を奪われ…、走り出す時任の背中を眺める…。
真田の部下の拳銃は久保田を狙っていたが、銃口が火を吹く前に…、
まるで飛ぶ鳥がさらって行くように、時任は久保田の身体を強く抱きしめ断崖から海へと飛んだ。
「俺らの生も死も、絶対にてめぇにも他の誰の自由にもさせねぇ。たとえ進む先が行き止まりでも、崖の上に立ってても…、その先を選ぶのは俺ら自身だっ!!!」
断崖の先にあるのは、自殺の名所として知られる深い海…。けれど、自分を抱きしめる時任の身体を抱きしめた久保田は、相変わらず目を閉じたまま微笑んでいた。
落ちたのは一瞬で…、
けれど、その光景はスローモーションのように残された月島の目に映る。
月島を連れて校舎の窓から飛ぶ事を迷った鳥は、久保田と一緒にもっと高い場所から迷わずに飛び立ち…、その残像が夕焼けと一緒に月島の脳裏に焼きついた。
「撃ち殺されるよりも、飛んで燃え尽きることを選んだか・・・・」
呆然と二人の飛び降りた海を見つめる月島の鼓膜に、タバコに火をつける音と真田の声が響く。真田は火をつけたアークロイヤルを燻らせながら月島に近づくと、握りしめた拳銃の銃口を月島のこめかみに向けた。
「な…、なぜ? 時任君は僕を選んだのに…」
「いや、君は選ばれてはいない。選ばれなかったから、ここに一人残されている」
「・・・・・・っ!!」
「違うかね?」
時任と久保田は断崖から飛び去り…、もう居ない。
だが、月島は時任が投げ渡した鉄パイプを握ろうとはしない。
こんな事になったのも久保田のせいだと、うわ言のように呟くだけで、時任が言った言葉も沈む夕日に溶けて消えゆくように…、もう月島の中にはなかった。
正気を失っているように見える月島を眺めた真田は目を細め、引き金に指をかける。すると、なぜか真田のスーツの袖をアークが軽く噛んだ。
「義理堅いな…、アーク」
「・・・・クゥン」
主従の間で、そんな会話が交わされ、押し付けられていた銃口が月島のこめかみから離れる。月島が信じられない気持ちでアークを見つめると、同じようにアークの黒い瞳も自分を見つめる月島の姿を写した。
自分の飼っている犬と兄弟の…、良く似た瞳と姿…。
けれど・・・・、じっと見つめてくる黒い瞳に違和感を覚える。
この瞳はなぜか…、知っているような気がした。
自分の飼っている犬と良く似ているせいではなく…、何かがひっかかる…。
でも、それが何かわからない内に、真田がアークの頭を軽く撫で…、
そして、アークを伴って、少し離れた場所に停めてある車に向かって歩き出した。
「せっかく、アークに救われた命、これからは身の程を弁えて生きる事だ。そうすれば、今よりも長生きはできるだろうが、それも人の生…、瞬く間だがね」
そんな言葉を残して真田が、真田と共にアークが振り返らずに去っていく。
沈みゆく夕日を背に受け、黒い影を地面に長く長く伸ばしながら…、
その影をアークの影に視線を落とした月島は、長い間…、ずっと気づかなかった事実に気づいてアークを呼ぶ…。けれど、月島の呼んだ名前は真田の名づけたアークと言う名ではなく…、違う別の名だった…。
「あぁあああぁぁーーーっ!!!!!!」
影が振り返らずに遠ざかっていくに従って…、
名を呼ぶ声が、次第にただの叫び声に変わり…、
やがて、それは泣き声になり…、すすり泣きに変わる…。
けれど、奪われたものの大きさに気づき泣いているのか、気づかなかった自分の愚かさを嘆いているのか…、
それとも、訳もわからずに、ただ、ただ泣いているのか…。
泣いている月島自身にも、わかっていないのかもしれなかった。
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