残照.16




 「今日の晩メシ…、何かな」

 横浜ではない場所で見る、夕暮れ。
 水平線に落ちかけた太陽が空を染め、水面を輝かせている。
 高い崖の上から、それを眺めた久保田は、夕暮れとは関係のない事をのほほんと口にして軽く伸びをした。
 けれど、そんな久保田のいる崖の下は、白く高い波が幾重にも押し寄せていて、潮の流れも早い…。今いる場所は神奈川ではなく、静岡にある有名な観光地であるはずなのに、辺りは閑散として人影がなかった。
 おそらく、真田はそういう場所を選んで、久保田をここへと連れて来たのだろう。
 一歩間違えば、海の底へと転がり落ちてしまいそうな…、この場所に…。
 久保田はゆっくりと真田が後ろから近づいてくる足音を聞きながらも、沈んでいく夕日を眺めたまま振り返らなかった。
 「今は減ったようだが、昔はここから飛び降りる人間が後を絶たなかったらしくてね。そう…、なぜかな。一度、君をここへ連れて来たいと思っていた」
 そこまで言うと真田は、少し距離を置いて久保田の横に並ぶ。
 すると、従者のように付き従うアークが、真田の一歩後ろに座った。
 「君はまったく、不思議な男だよ。生に対する執着は無いが、死にたがっている風でもない…」
 「だから、試しにココに?」
 「いや、ココではなく別の…、本物の断崖に立たせてみたくてね、君を」
 「そして、自分の手で突き落として、自分の手で助けるつもり?」
 「ふ…っ、まるで鬼畜だな」
 「あれ、真田サンって元から鬼畜デショ?」
 軽く肩をすくめて久保田がそう言うと、真田が低く笑う。
 そんな会話の中で、久保田の耳に届くのは、押し寄せる波の音と真田の声…。
 そして、一番聞きたい声だけが聞こえない。
 ホテルの駐車場を出て、やっと聞こえるようになったのに、この場所に向かってしまったために、すぐに聞こえなくなった。同じ場所に時任も向かっていると真田が言ったが、そんな事は言われるまでもなく…、訳も無く意味も無く確信していた。
 時任は必ず来る。
 でも、それでも夕日を眺めていると恋しさと不安が募っていく。
 この崖から見る夕日は、とても綺麗だったが…、マンションのベランダで時任と二人で見た夕日の方が、何倍も綺麗だった。
 何倍も何倍も・・・・、綺麗だった…。
 夕日も時任の横顔も…。
 胸の奥に焼きついているのは夕日の赤と、その時に感じた愛しさ。
 そこは暗闇ではなく、光に満ちていたけれど…、とても居心地が良かった。
 自分には不似合いな場所だと、わかってはいても…、
 夕焼けの赤い色に、別の…、もっと鮮やかな色を思い出し両手を眺めても…、
 それでも、時任と並んで夕日を眺める事をやめられなかった。
 
 どんなに見つめても…、やがて日は沈むというのに…。

 久保田はじっと夕日を見つめながら、断崖の上で時任を待ち…、
 その久保田の横で真田がアークの頭を撫でながら…、断崖に立つ久保田が自分の元へと落ちてくるのを待っている。けれど、久保田も夕日も未だ落ちず、断崖の上に落ちたのは沈黙だけ…。
 そして、それを破るように再び口を開いたのは、久保田ではなく真田だった。
 「この場所に現れた猫が私と一緒にいる君を…、そして君と一緒に居る私をどんな目で見るのか、非常に楽しみだ。憎しみに満ちているのか、嫉妬に満ちているのか…、それとも愛情に満ちているのか…」
 真田はそう言うと、落ちていた石を崖の下へと軽く投げ落とす。
 だが、その石が激しく波打つ海へと落ちる音は聞こえては来なかった。

 「猫の尾を…、放す気になったかね?」

 石が海へと落ちる音の代わりに、波音と一緒に真田の問いかけが響く。
 けれど、波音も真田の声も、久保田の心を揺らす事はない。
 それは、離す気になって離せるものなら、とっくに離していたからだ。
 たとえ自分の背中にも、時任の背中にも銃口が向けられていたとしても…、
 惹かれた心が、時任から離れたがらなくて…、
 もう、手遅れでどうにもならない…。 
 時任が何を感じ、どう思っていようとも…、変わりはしない。
 やがて、崖に近づいて来た車のエンジン音を聞いた久保田は、真田の質問には答えず、全身に夕焼けの赤を浴びながら口元に微笑を浮かべ、逆に質問をし返した。
 「そろそろマジメに帰りたいんですけど、俺をあきらめる気になりません?」
 「残念ながら、ならないな」
 「じゃ、俺がアンタに落ちない理由言ったら、あきらめてくれます?」
 「あきらめるかどうかはわからないが、それは興味深いな」
 微笑を浮かべた久保田を横目で眺めながら、真田も口元に微笑を刻む。
 その光景は、何も知らない第三者が見れば、美しい夕焼けを眺めながら仲の良い二人が話しているように見えるが、二人の間を流れる空気がそれを否定していた。
 久保田は真田を憎んではいない。
 だが、憎んでいないだけではなく、何の感情も抱いてはいない。この場所に来てから初めて真田に向けられた久保田の瞳は、ただ夕日の赤を写すばかりで、何の感情も浮かべてはいなかった。
 「アンタと話すコトは何もないし、話したいと思ったコトって、実は一度もないんだよね。ホントに、ただの一度もね」
 「・・・・・・・・・」
 「けど、時任と話したいコトなら、山のようにある。今日の晩メシの話とか天気の話とか、昨日見たテレビの話とか色々…」
 「・・・・・くだらないな」
 久保田から自分がフラれた理由を聞いた真田は、そう言って声を立てて短く笑う。
 けれど、久保田はそれを気にした様子もなく、視線を真田から夕日に戻すと…、何かを思い出したかのように小さく笑い、そして穏やかに微笑んだ。
 「クダラナイ? どれもとても大切なのに?」
 「大切とは…、天気やテレビの話がかね?」
 「いんや、話してるのが、どんな話題かなんて関係ないんだけど」
 「では…、何が?」

 「・・・・・・・・話してる時間が」

 何もかもが大切だった…。
 時任も…、時任と話す時間も眠る時間も…、
 一緒に笑い合う時も、そして痛みに顔を歪ませ苦しむ時も…。
 何もかも、大切で抱きしめて離したくない。
 けれど、大切すぎて一歩先へ一歩先へと願うあまりに、時は早く生き過ぎていくようで…、その度に時任の笑顔が綺麗になっていくような気がして怖かった。
 久保田は振り返り、夕暮れの赤い色だけを写した瞳に、ようやく到着した時任の姿を写す。すると、何の感情も写さなかった久保田の瞳が、時任の姿を写したまま…、わずかに揺れた。

 「どんなに手を握りしめても、どんなにも抱きしめても…、どんなに口付けてもカラダを繋いだとしても足りない…。もしも生まれた時から、生まれる前から出会っていたとしても…、たとえ、それが永遠に近い時間だったとしても、決して満たされないくらいに…」

 決して満たされない飢餓感…。
 それを与えるのも満たすのも…、時任、ただ一人だけ。
 けれど、右手も時も何もかもが、抱きしめていたはずの久保田の腕の中から時任を奪おうとする。乗って来た車を降り、時任の後ろを歩く月島を視界に捉えた久保田は・・・、服の中に隠し持っていたガラス片を傷ついた右手で握りしめた。
 「ほう…、飼い猫を捨てて、野良猫の復讐でもするつもりかね?」
 ガラス片には気づいていないが、さっきよりも鋭くなった久保田の気配を感じた真田が笑みを含んだ声でそう言う。だが、その声に久保田は鋭くなった気配とは裏腹に、いつもの調子でのほほんと答えた。
 「復讐って何の? それに復讐って言うなら、俺じゃなくてあちらでしょ?」
 あちら・・・というのは、真田ではなく月島…。
 久保田の視線を受けた月島は、恐怖に怯え震えた仮面を剥がすように鮮やかに表情を変えニヤリと笑うと…、目の前を歩く時任の背中に、隠し持っていたナイフを振り下ろした。

 「あの時、僕を助けていれば…、こんな事にならなかったのに」

 海からの風が、まるで死者の呻き声のような音を辺りに響かせ…、
 その哀しみと苦しみが…、すべての人々を断崖の下へ海へと誘う。
 けれど、そんな時でも夕焼けだけは変わらず、赤く美しく空を染めていた。

 深く沈む海の色を写す事を…、拒むように…。




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