残照.13




 トゥルルル…、トゥルルルル・・・・・・。

 耳に当てたケータイに着信音は届くけれど…、誰も出ない。
 当ても無く久保田を探しながら、何度かマンションに電話してみたが、やはり帰っていないのか、誰も電話に出なかった。鵠からも連絡は無いし、どこに行ったのか手がかりらしい手がかりは何もない…。
 けれど、時任はマンションには帰らずに、久保田を探し続けていた。
 いつも行くゲーセンとか、たまに買い物に行く場所や…、
 いつかの日に…、二人で歩いた道や…、
 思い出せる限りの場所を走り歩き、久保田の言った言葉を思い出しながら…。
 そうして、わかった事は久保田の居場所ではなく、思ったよりも探す場所が多い事。始めはマンションの周辺だけだったのに、いつの間にか横浜の街の至る場所に久保田と歩いた記憶と痕跡が黒いアスファルトの上ではなく、時任の記憶の中に残っていた。
 薄汚れた暗い路地も、古びた雀荘の看板も…、何もかもが今はどこか懐かしく感じられる。そんな風に感じられるのは久保田が隣に居ないせいなのか、それとも次第に空が暮れていき、黄昏てきつつあるせいなのか…、
 それはわからなかったけれど、すぅ…っと深く深呼吸するように街の空気を肺の中に吸い込むと、ほんの少しだけ気分が落ち着いた。

 「知らない場所は多いけど、知ってる場所も少ないワケじゃなかったんだ…。ま、そりゃそうだよな…、横浜は俺らの住んでる街だもんな…」

 久保田と出会い、そして久保田と暮らす街…、横浜…。
 故郷と呼ぶには、今はまだ暮らした日々は少なすぎるのかもしれない。
 けれど、帰る場所は他にないし、他の場所に帰りたいとは思わない…。
 たとえ・・・・・、失っている記憶を取り戻したとしても…、
 絶対に変わらないと、心の中で呟いて薄暗い路地を見つめた。
 路地の両脇には、いかにもいかがわしそうな店が軒を連ねていて…、でもそんな部分も街の一部に変わりない。発達し近代的に綺麗になった部分も、昔から変わらない古びて薄汚れた部分も、やはり横浜だった。
 「・・・・・僕は生まれた時から、横浜に住んでる。だから、時任君よりも知ってる場所は多いと思うけど、僕はこの街があまり…、好きじゃない」
 街の風景を真っ直ぐな瞳に映しながら言った時任の言葉に対して、少し間を置いて月島がそう言う。顔に浮かべた笑顔を裏切った暗い瞳で…、目の前を横切った野良犬を睨みつけながら…。
 口ではあまり好きじゃないと言いながら、月島の暗い瞳は自分の住む街が嫌いだとはっきり告げていた。
 「お前…、犬飼ってんのに犬嫌いなのか?」
 今度は月島の言葉に対して、時任があまり間を置かずにそう言う。不思議そうな顔をして、街の話とは別の事を聞きながら、わずかに首をかしげた。
 すると、月島は一瞬、表情を笑顔のまま凍りつかせ…、
 けれど、また…、すぐにいつもと同じ様子に戻ると、目の前に迫ってきた十字路の右を指差す。それは、今から時任が行こうとしていた左とは反対の方向だった。
 「当ても無く探すつもりなら、可能性のある場所は少しでも潰して置いた方がいいんじゃないかと思うんだけど」
 「可能性があるって…、そっちに久保ちゃんの行きそうな場所あんのか?」
 「久保田君と僕が通ってた中学校」
 「でも、久保ちゃんは…」
 「行く理由が無くても、全然可能性がないとは言い切れないし」
 「あ…、うん…。まぁ、確かにそうかもだけどさ」
 「だから、行ってみようよ」

 「・・・・・・・うん」

 行きたくない…と思った。
 でも、月島が言うように、可能性がないとは言い切れないとも思った。
 住んでいる横浜の街と同じように、一緒に暮らす久保田も知っているけれど、すべてを知っている訳じゃない。だから、中学の頃の久保田を知っている月島の言葉に、首を横に振る事ができない…。
 そんな時任の心情を見抜いているのか、月島は手招きしてから十字路を右へと曲がった。
 「中学に行くのは久しぶりだけど…、何も変わってない。少し古びたような気はしても、嫌になるほど何も変わって無い…」
 聞こえてきた月島の呟きは時任に向かって言ったようでもあり、また独り言のようでもある。歩調に合わせて流れていく街並みは、月島の目にどう映っているのかはわからないが、時任にとっては始めてみるものばかりだった。
 ただ、十字路を左に曲がる予定を右に変えただけなのに、街並みも風景もガラリと変わり、月島に従って歩いていく内に見えてきた白い大きな建物に違和感を覚える。今日は休みなのか校門は閉っていたが、月島はポケットから取り出した鍵で簡単に開けてしまった。
 「おい、ココって学校だろ? 勝手に中に入ったりしていいのか…っていうより、そのカギどうしたんだよ?」
 「このカギは…、ちょっと…」
 「ちょっと?」
 「いいから、早く入ろうよ。誰かに見られたら、大変だし…」
 「ま、待てよっ。カギがかかってたんなら、久保ちゃんは居ねぇだろ?」
 「カギなくても、久保田君なら入れそうだと思わない?」
 「うう…、確かに思わなくもねぇけど…」
 「だったら、入ろうよ」
 「・・・・・・・・」
 月島がいつもよりも強引で強気なせいか、十字路の辺りから…、どうも調子が狂う。
 中学校には久保田を探すために来たはずだが、スタスタとグラウンドを突き進み、校門と同じように玄関の鍵を開けて校舎内に入る月島を見ていると…、
 何か違う目的で、ここに来たように見えて仕方が無かった。
 グラウンドにも校舎内にも人気はなく、久保田の姿もどこにも見えない。
 やはり、ここには居ないのだと…、時任は月島に言って校舎を出ようと思った。
 ここに居ないのなら、早く別の場所へ探しにいかなくてはならない。
 けれど、開いていたドアの隙間から見えた机やイスの沢山並ぶ教室が珍しくて、開きかけた口を閉じ立ち止まる。すると、月島も立ち止まり、誰も居ない教室を眺めた。
 「ここ…、久保田君と僕が同じクラスだった時の教室なんだ」
 「え? マジで?」
 「間違いないよ、ドアの上、3年3組って書いてある…」
 月島に言われてドアの上を見上げると、確かに3年3組という木製の札がかけられている。けれど、久保田から中学時代の話は何も聞いていないので、今、初めてこの教室に通っていた事があったのだと知った。
 この教室で学生服を着た久保田が…と、想像しかけた時任は、思わず学ランとか似合わねぇと呟く。すると、それを月島が軽く首を振って否定した。
 「意外かもしれないけど、学ラン似合ってたよ。良く告白されてて女の子にもモテてたし…、カッコ良かった」
 「・・・・ふーん」
 「けど、いつも一人で居たよ。なんとなく…、俺らとは住む世界が違うっていうか、どこか近寄りがたい感じだったし…。だから、ガラの悪い連中にからまれてた僕を助けてくれた時は、すごく驚いた…」
 「それで、久保ちゃんと仲良いのか?」
 「ううん、助けてもらったからって、別に仲良いって訳じゃないよ。その証拠に…、久保田君が僕を助けてくれたのは、仲良いからじゃなくて屋上でタバコ吸ってたの見逃したから…」
 「そん時のお礼ってヤツ?」
 時任はそう言ったが、月島は何も答えずに窓際に視線を向ける。
 そして、どこか遠い目をして窓際の一番後ろにある席を眺めてから…、
 何を思ったのか、いきなり時任に向かって腕を伸ばし、ぎゅっと強く抱きしめた。
 「なっ、なにっ、どうかしたのか!?」
 いきなりの月島の行動に、時任は戸惑い思わず叫ぶ。
 けれど、月島は時任を強く抱きしめたまま放さない。
 そんな、いつもと様子の違う月島を、時任は強引に突き放す事もできず、その場に立ち尽くす。すると、月島は時任の肩に押し付けていた顔を上げ、そっと耳元におまじないではなく…、呪いの言葉を囁いた。
 「・・・・・・気まぐれだよ。助けてくれた時、借りを返したかっただけだって、そう言ってたけど、結局はただの気まぐれ。次にからまれてた僕を見かけた時、久保田君はそのまま通り過ぎ僕を見捨てた…」
 「・・・・・っ」
 「だから、きっと君と一緒に暮らしてるのも気まぐれ…。僕が見捨てられたように、君も久保田君に見捨てられる。いずれ飽きて捨てられて、それで終わりだよ」
 「な…っ」
 
 「きっと、終るよ…」

 久保田と暮らす日々が、やがて思わぬ形で終る事を宣言する月島の声…。しかし、そう言った月島がどんな顔をしていたのか、時任の位置からは見えない。
 そして、同じように月島の位置からは、時任の顔は見えない。
 なのに、時任が何かに耐えるように歯を食いしばり、傷ついたような表情をした瞬間、月島は満足そうな笑みを頬に浮かべる。けれど、そんな月島の笑みを打ち壊す時任の声が、静かな教室に響き渡った。
 「捨てるとか見捨てるとか、ナニわけのわかんねぇコト言ってんだよ…。俺のコトも久保ちゃんのコトも、何も知らねぇクセに…」
 「時任・・・、くん?」
 「俺らが、終るワケねぇだろ」
 「・・・・・・・」
 
 「たとえ終る日が来ても、俺が終らせねぇよっ! 終らせるもんかよっっ!!」

 叫んだ言葉は教室だけじゃなく…、自分の胸にまで響いてきて…、
 最後の辺りは、声がかすれてしまっていた。
 けれど、時任は俯かず顔を上げ、自分を抱きしめている月島の腕を引き剥がす。
 そして、少し距離を置いて、月島と正面から向かい合った。
 「・・・・・・・何のために、俺をこんなトコに連れて来たんだ? ホントは久保ちゃんを探すためじゃなくて、なんか目的あったんだろ?」
 そう問い詰める口調で言うと、月島は戸惑ったような表情を浮かべ俯く。
 そんな月島の表情を見ていると、さっきまでの強引な態度や様子が嘘のように思えてくるが…、コンビニと今とどちらが本当で嘘なのかわからない。けれど、コンビニで楽しそうに話していた月島の姿が偽りだとは思えなかったし、思いたくなかった。
 でも…、きっと、あの十字路で教室で見せた月島の顔も偽りじゃない…。
 本能的にそう感じた時任は警戒するように、右手の拳を軽く握りしめた。
 けれど、月島は握りしめられた時任の拳に視線を向けながらも、恐れずに一歩足を前に踏み出す。そして、潤んだ哀しそうな瞳で、時任の顔を覗き込むようにして見つめた。
 「可哀想な…、時任君…」
 「カワイソウって、俺のドコがカワイソウなんだよっ!」
 「何も知らないのは、僕じゃなくて君の方だ。君は久保田君の事を、久保田君の過去を何も知らない・・・」
 「だから、それがどうしたって…っ!」
 「久保田君は、暴力団に入ってた事がある」
 「・・・・・暴力団?」
 「そう…、久保田君は出雲会っていう所に居た事があるんだよ。出雲会で年少組のリーダーをしていた…」

 ・・・・・・・出雲会。

 月島の口から出た聞き覚えのある名前に、時任の肩が反応しビクッと揺れる。
 出雲会は東条組と並ぶ、横浜にある暴力団の二大勢力の内の一つ…。
 そして、WAという薬をめぐって、度々、浮上してくる名前だった。
 東条組も出雲会も…、WAを狙っている…。
 けれど、過去にそういう事があったとしても、久保田は時任を出雲会に差し出したりするような真似をしていない。そんな事を絶対に久保田がするはずはない…。
 時任は軽く頭を左右に振ると、月島に向かって関係ねぇと肩をすくめてみせた。
 「出雲会って…、それは昔の話だろ? 確かに出雲会に居たって話は聞いてねぇけど、今は関係ねぇに決まってんじゃん」
 そんな事は、考えるまでも無い…。
 時任はそう思っていたが、今度は月島が真剣な表情で頭を左右に振った。
 「でも、今も関係が続いてないって保障はどこにもないよ…。そう、例えば居なくなった今だって、君に隠れて出雲会に行っているかもしれない…」
 「んなワケあるかよ」
 月島の言った事を、時任は速攻で否定する。けれど、隠れて会っている可能性はゼロでも、久保田を襲った相手が出雲会である可能性はゼロじゃない事を考えて、もしかして何かあったのかもしれないと不安が胸を過ぎた。
 もしも…、久保田が居なくなったらと、そう思うだけで胸が痛くて苦しい。
 でも、そんな時任の想いを嘲笑うかのようにケータイの着信音が鳴る。
 時任のケータイに電話してきたのは、行方がわからなくなっている久保田ではなく、何か連絡があったらと頼んでいた東湖畔の鵠からだった。
 「もしもしっ、なんか連絡あったのかっ!!」
 通話を押した瞬間、時任がケータイに向かって、そう叫ぶ。すると、時任の叫び声を聞いてしまった鵠は、連絡を聞く前に鼓膜が破れそうですよと苦笑交じりに言った。
 「あ…、わりぃ、叫ぶつもりはなかったんだけどさ。けど、連絡を聞く前にってコトは、そっちに久保ちゃんから連絡は何も来てないってコトだよな?」
 『えぇ、来てません。ですが、久保田君に関する情報が入ってきたので、貴方にも連絡して置いた方がいいだろうと思ったので…』
 「もしかして、居場所がわかったのか?」
 『・・・・・・』
 「おい、何黙ってんだよ」
 『・・・・・マンションの近くで、黒塗りの車に乗り込む久保田君の姿を目撃したという情報があります。時間は…、貴方が私に電話してくる少し前のようですね』
 「…っ! じゃあ、久保ちゃんはその黒塗りの車のヤツに拉致られたってのかっ!?」
 『いいえ、情報によると久保田君は自分から車に乗り込んだそうです』
 「自分から? その車に乗ってたのは、一体誰なんだ?」
 『車の所有者は、出雲会』
 「出雲…、会…」
 
 『乗っていたのは、組長代行の真田だったそうです』

 出雲会…、代行の真田…。
 黒塗りの車に、自ら乗り込んだ久保田…。
 久保田が居ない時に限って、しかもこんな時に嫌な符号ばかりが時任の前に並ぶ。
 まるで…、月島の言葉が本当だと実証するような符号は、今度は時任の肩ではなく心をわずかに揺らした。今も瞳は前を真っ直ぐに見つめ続けているのに、ここには居ない久保田のを見つめ続けているのに…、想う気持ちが深ければ深いほど、その想いの深さが心を揺らす…。
 でも、それでも…、時任はケータイを耳から離さない。久保田の口から聞くまでは、どんな符号や事実が目の前に並んだとしても、何も信じないと心の中で叫びながら…、
 耳元で囁かれた…、おまじないの言葉を繰り返し思い出していた。
 
  お前を置いて、どこにも行ったりしないよ…。一人でどこかに行こうとしても、きっとどこにも行けないだろうしね…。

 ・・・・・・ウチに帰りたい。
 探して会って、今日の晩メシの相談でもしながら笑って二人でマンションに帰りたい。
 おまじないの言葉を繰り返す内に、ぽつりと…、そんな言葉が胸の奥に落ちて…、
 その場所から、久保田の居ない寂しさが込み上げてくる。
 時任は込み上げてくる想いに突き動かされるように、鵠に久保田の居場所を尋ねた。
 「久保ちゃんの居場所を教えてくれ…。アンタのコトだから、それくらいの情報は掴んでんだろ?」
 『・・・・・・・・・』
 鵠なら…、きっと久保田の居場所を知っていると思った。車に乗った情報を掴んでいるのなら、行き先も掴んでいるはずだと連絡をしてきた鵠の口調から感じた。
 けれど、鵠は時任の質問にすぐには答えない。答えずにらしくなく小さく息を吐き、まるで子供を諭すような口調でマンションへ帰った方がいいと言った。
 『マンションで待っていれば、きっと久保田君は帰って来ますよ。ですから、もう探すのはやめて、貴方はマンションへ帰った方がいいでしょう』
 「はぁ? 何言ってんだよ? 俺が聞きたいのはそんなコトじゃなくて、久保ちゃんの居場所!」
 『そんな事は、言われなくても一度聞けはわかりますよ。わかるから、帰った方がいいと言っているだけです…』
 情報料でも請求したいのかと思ったが、そういう訳ではないらしく、鵠はそう言うとまた小さく息を吐く。どうやら、居場所は知っているが…、何か時任には知らせたくない事情がある様子だった…。
 けれど、時任にはそれが何なのかわからないし、想像が付かない。
 だから、教えろと…、教えなきゃ東湖畔に押しかけるとまで言った。
 すると、鵠は今度は大きく息を吐き、知った所で会いに行ける場所じゃありませんよ…と前置きした後で、時任に久保田の居る場所を告げた。
 『久保田君はホテルに居ます』
 「ほ、ホテルって…」
 『普通は男女が、ある行動をする目的の為だけに行く場所です。いくら鈍い貴方でも、これだけ言えばわかるでしょう?』
 「なんで…、久保ちゃんがそんな場所に…」
 『理由は知りませんが、異性だろうと同性だろうと、ホテルでする事は同じですよ、時任君。もっとも中に入れないので、実際、二人が何をしているのかはわかりませんが…』

 「ウソ…、だろ?」

 ウソだと思いたかった…。
 けれど、鵠の声は真剣でウソをついている感じはしない。
 それに、鵠がウソをついて得をする事は何もない。
 ホテルにいる久保田を想うと、胸が焼けるように熱くなって…、
 苦しくて哀しくて…、叫びたくてたまらなくなった。
 
 ・・・・・・・嫌だっっ!!!!!!!

 久保田の命が狙われた時は、居なくなる事が一緒に居られなくなる事が怖かった。
 ずっと、ずっと…、一緒に居たくて袖を強く握りしめた…。
 でも、今は誰にも久保田を渡したくない…、そんな想いで胸がいっぱいになって…、
 真田への嫉妬と久保田への独占欲に、心が犯されていくのを感じた。
 『時任君? 大丈夫ですか…、時任君?』
 どこか遠くから、自分を心配する鵠の声がする。
 けれど、時任はその声には答えず、事実を確かめるために鵠に一つだけ質問をした。
 「・・・・・久保ちゃんが出雲会に居たってのは、ホントなのか?」
 『ええ、本当です。居た期間は短かったようですが…』
 「そっか…」
 『久保田君から、何も聞いてなかったんですか?』
 「・・・・・・・・・」
 『時任君?』

 「・・・・・・・・・じゃあな」

 何か偽りで、何が本当なのか…。
 考えようとしても、久保田と自分以外の他の誰かが抱き合っている…、
 そんな妄想が久保田に対する想いを、思考をぐちゃぐちゃにする。
 何もかもがぐちゃぐちゃに混じって、なぜかほんの少しだけ涙が出そうになった。
 
 「バカ・・・・、なんでだよ…」

 口を開いたら、そんな言葉しか出てこなくて…、
 溢れてくる想いが喉の奥で詰まって、呼吸まで苦しくなってくる。
 すると、月島の手が伸びてきて、そっと労わるように時任の頬を撫でた。
 「僕だったら…、君にそんな顔はさせないのに…」
 「は、離せっ、俺に触るなっ!」
 反射的に伸びてきた手を時任が振り払うと、月島は哀しそうに顔を曇らせる。
 そして、再び今度は素早く手を伸ばし右手ではなく左手を掴むと、それに気を取られた隙をついて足を引っ掛けて時任を床に転ばせた。
 「…っ! い、いきなり何すんだっ、てめぇっ!」
 床に尻餅を付く格好で転ばされた時任は、痛みと怒りで間近にある月島の顔を睨みつけながら表情を険しくする。すぐに掴まれた左手を取り返して立ち上がろうとしたが、月島の力は予想外に強く…、手を取り返せないばかりか、上からのしかかるように足を押さえられて立ち上がれなかった。
 「殴りたければ…、殴ってもいいよ…」
 月島はそう言ったが、時任は振り上げた黒い皮手袋のはまった右手を振り下ろせない。自分の右手が簡単に物だけではなく、人間も壊してしまう事を知っているから…、振り下ろす事ができなかった…。
 
 「好きだよ…、久保田君なんかよりも、ずっと僕は君を想ってる…。だから、僕の所へ来てよ…」


 ・・・・・・・あの日の猫みたいに。


 そんな言葉と一緒に、月島の顔と唇が時任に近づいてくる。
 けれど、コンビニで話していた時の楽しそうな様子が脳裏に浮かんで…、時任は右手の拳を握りしめたまま動かす事ができなかった。




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