残照.12
「・・・・で、ご用件は?」
マンションから少し離れた場所で黒塗りの車に乗り込んだ久保田は、車内にいた男にいつもと変わらない口調でそう言う。すると、男は口元に薄い笑みを浮かべた。
こうしていると…、まるであの頃に戻ったようだと…。
確かに男の言う通り、久保田の口調も男の笑みも、あの頃と何も変わらない。
だが、本当に何も変わらないのは男の方だけで、ケータイの呼び出しに応じて車に乗り込んだ久保田の方は、同じとは言い難かった。
ご用件はと聞きながらも、心ここにあらず…、
隣に座っているのが真田だろうと、他の誰だろうと別に興味はない。
ただ、今もコンビニにいるかもしれない人物の安否だけが気がかりだった。
「あー…、スイマセン。昔話するほど、記憶ないんで」
昔の話をする真田に、久保田はそう言いながらポリポリと人差し指で顎を掻く。すると、真田は自分の足元にうずくまる黒い犬の頭を撫でながら、口元に浮かべた笑みを深くした。
「では、この子の事はどうかね? ずいぶんと君に懐いていたから、この子の方は君の事を今も良く覚えているようだが…」
「・・・・アーク、でしたっけ?」
「そう、アークロイヤルだ」
あの頃より、少しだけ年を重ねたアークが久保田を見てクゥーンと鳴く。会った回数は真田よりも少ないはずなのに、久保田の目はアークを見る時だけ、懐かしそうに細められた。
「このコ…、いくつ?」
「さて、何歳だったかな。忘れてしまったが、君よりも年上なのは確かだ」
「・・・・・・・そう」
「やがて君だけではなく、私の年をも追い越し先に逝ってしまう運命にある。もっとも、それもこれから先、私の身に何も起こらなければの話だがね。犬でも猫でも…、たとえ人間でも命というのは儚いものだ」
「・・・・・・・」
「・・・・儚い灯火のようなものだよ」
真田はそう言うと、ポケットから取り出したライターの蓋を開け火をつける。
すると、その火は…、車内のエアコンの風に揺らされてユラユラと揺れた。
そして、火はひとしきり揺れた後、つけた真田の手によって消され…、
落ちたはずの沈黙は、さっきから繋がったままになっている車に取り付けられている無線から聞こえてくる、聞き覚えのある声が打ち消した。
『久保・・・・・は・・・・、行けな・・・・・。だから、俺が…なきゃ…、だよな』
真田のケータイと繋がっているのは、時任のケータイではない。そのせいか、聞こえてくる声は雑音交じりな上に、途切れ途切れで良く聞こえなかった。
だが、それでも・・・・・、久保田には時任の声だとわかる。
コンビニの前で耳に当てたケータイから、同じ声が聞こえてきた時からわかっていた。
だからこそ、その通話が一方的に切られた後で、まるでタイミングを計ったかのように、かかってきた真田からの呼び出しに応じ…、今、ここに居る。
道路を挟んだ向こう側に時任は居たのに、道を渡り近づく事もできず…、
指示された通りにケータイの電源を切り、現れた見覚えのある車に乗り込み…、
無線から聞こえてくる声に耳を澄ませていた…。
「ずいぶんと懐いているようだな、君の飼い猫は…。マンションで待つ事もなく、当ても無く探し回るとは…、よほど君が恋しいと見える」
そんな真田の声も、邪魔な雑音にしか聞こえない。
できる事なら、銃口を突きつけて雑音を消してしまいたかったが、久保田のポケットに入っているのはマンションの鍵とケータイのみ。すぐに部屋に戻る気でいたから、何も持たずに来てしまった…。
東湖畔で買った拳銃も、弾丸も部屋の引き出しの中…、
そして、時任は離れた場所にいる…。
時任は久保田を探し、久保田は時任の声を聞きながら…、こんな時だというのにコンビニのウィンドウ越しに見た光景を思い出していた。
もしも、俺がお前よりも先を歩くなら…。
声には出さず、心の中で再び繰り返した言葉が…、
ゆっくりと…、けれど確実にすべてを凍りつかせていく…。
今、この瞬間…、果たして一体どちらが先を歩いてるんだろうと、そんなわかりもしない事を考え始めると、またどこかで猫が鳴いた気がした。だが、たぶんそれは本当の幻聴で、鳴いているのは猫ではなく…、目の前の黒い犬…。
真田も黒い犬を飼っているが、久保田の知るもう一人の人物も黒い犬を飼っている。
久保田はじっと黒い犬の瞳を見つめた後、視線を車窓へと移した。
「用が無いなら、そろそろ降ろしてもらえません? バイトは休みでも、のんびりドライブするほど、ヒマじゃないんで…」
「ドライブではなく、デートのつもりなのだがね」
「脅迫…の間違いデショ?」
「相変わらず、つれないな君は…」
真田はそう言うと、手を伸ばし久保田の顎を掴む。
そして、いつかの日のように…、久保田の顔に自分の顔を近づけた。
けれど、口の中にはガムはなく、香るのはアークロイヤルの香りだけ…。真田は顔を近づけ開いたまま閉じられない久保田の瞳を間近で覗き込むと…、ゆっくりと唇を寄せた。
触れるために奪うために…。
しかし、触れる直前で真田の唇は、予想外のものによって阻まれた。
「クゥーン…」
真田の唇が触れているのは、久保田の唇ではなく…、アークの足。
犬の硬い肉球が、真田の唇を止めている。だが、それはもちろんアークの意思ではなく、アークの前足を掴んでいる久保田の仕業…。
思わぬものに口付けてしまった真田は、わずかに顔をしかめる。
だが、すぐに立ち直り、アークの足を掴む久保田の手に自分の手を重ねた。
「キス一つも満足にできなくなるほど、身持ちが硬くなったのは飼い猫の影響かね?」
「さぁ? ただの気分だと思いますけど?」
「ならば、このままデートに付き合いたまえ。その気にさせる自信はある」
「その自信…、一体どこから来るのかなぁ」
「それは君が私の所まで、落ちてくる運命にあるからだよ…」
「運命なんて、信じない性質なんで」
「そうかね。だが、いずれ君は必ず私の手に落ちる…。君の暗闇を知るのは、君と同じ場所に立てるのは私だけだ…」
「・・・・・・」
「本当は、もうわかっているのではないかね? どんなに手を伸ばした所で、あの猫が暗闇の底まで、共に沈むことなど無い事を…」
重ねた手を撫でながら…、真田がそう耳元で不吉な予言を囁く…。
すると、その予言を証明するかのように、仄かに久保田の瞳に暗闇が宿った…。
「相変わらず、いい目だ…。飼い猫と暮らしながらも、今も君は暗闇しか知らない…、そんな目をしている」
「・・・・・・・・・」
「やはり、君は陽だまりで猫とジャレているより、暗闇の中で私と戯れている方が似合っているよ」
久保田の瞳に宿るのは、暗闇…。
その暗闇を眺める真田に宿るのは…、欲望…。
そして・・・・・、久保田を探す猫の瞳に宿るのは光…。
真田は久保田の手をいやらしく撫でながら、自分の手中に時任がある事をチラつかせながら、自分のいる暗闇の底へと久保田を誘う。けれど、久保田は暗闇を瞳に宿しながらも、誘う真田の手をスルリと外した。
「別に一緒に沈みたいワケじゃない…。ただ、そう…、たぶん一歩前を歩いていたいだけ…」
久保田の口から漏れた呟きは、真田に向けたものではない。
今は隣にいない人に、時任に向けた言葉…。
でも…、その言葉はたとえいつものように隣に居たとしても、きっと届かない。
届けるつもりもないから、絶対に届かない。
けれど、そんな言葉を久保田は、何度もまるで祈るように心の中で呟き…、
右手の痛みに耐える姿を見るたび…、自分を守ろうとする背中を見るたび…、
明るい日差しの中で、時任の無邪気な笑顔を見つめるたびに…、
想い願い…、そして・・・・・、いつも怯えていた。
「本当にそう思うのなら、猫の尾を握りしめた手を離し落ちてくるといい…。そうすれば、君の未来も飼い猫の安全も私が保証しよう。悪い取り引きではないと思うが、どうかね?」
自信に満ちた真田の声が、無線から聞こえてくる時任の声を遮り…、
一歩先を歩こうとして、足元ばかりを見つめる久保田の耳を打つ。
久保田は真田の誘いに首を縦に振らなかったが、横にも振らなかった。
「飼い猫が飼い主を見つけるのが早いか、私が君を落とすのが早いか…。いずれにせよ、君達の運命は私の手ひらの上にあるという事を忘れない方がいい」
時任の近くにある無線が届く範囲内に、久保田はいる。しかし、連絡に使うケータイは奪われ、助手席に座る男の銃口が久保田の心臓を狙っている。
そして時任の近くにも…、真田の息のかかった人間がいた。
身動きの取れない状態で、再び真田の手が久保田に向かって伸ばされると…、
その様子をアークが耳をピンと立てながら、じっと見つめる。
無線から流れてくる時任の声は、久保田を呼んでいたが…、
今の久保田には…、その声にも想いにも答える術がなかった…。
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