残照.11
本当は、すぐに帰るつもりだった…。
久保田に頼まれた食糧を買って、その他にも色々とカゴに詰め込んで…。
けれど、買い物に出かけたコンビニで、ちょうどバイトを終えた月島と出会ってしまい、それから話し始めて一時間…。月島の話に相槌を打ちながら、ふと時計を見た時任はやべ…っと呟いて、慌てて下に置いていたオレンジ色の買い物カゴを持った。
けれど、まだ中には何も入っていない…。
久保田が待っている事を知っているのに、まだ何も入れていなかった。
・・・・・・もう、小腹どころじゃなくなっちまったかも。
そう思いながら、時任は横に立っている月島の方に視線を向ける。
すると、月島は話しながら眺めていたゲーム雑誌から顔を上げ、どうかしたのかと聞いてきた。だから、時任は手に持っていた空のカゴを月島に見せる。
そして、そろそろ帰らないとダメだからと…、ゴメンとあやまった。
「話の途中だけど、もう帰らねぇとウチで餓死者が出るかもしんねぇからさ…」
「ううん、こっちこそ買い物の邪魔してゴメン。もしかして、久保田君ウチにいるの? バイトは休み?」
「あ…、うん。今日は休みで、ずっとウチにいる」
月島の質問にはそう答えたが、実は久保田がバイトを休み始めて、今日で10日になる。それは時任の希望であり、後ろから襲われ負傷した久保田自身の希望でもあった。
・・・・・・久保ちゃんらしくない。
久保田がマンションに居てくれる事を望んでいたはずなのに、本当にバイトを休んだ久保田の事を、なぜかそんな風に思う。犯人がまだ見つからなくて、こんな状況だというのに…、傍にいる事をうれしいと感じて…、それを不思議に思い…、
夕暮れの時間帯が近づくと、不安ばかりが胸を過ぎる。
なのに、なぜか肩から力を抜いてほっと息をつけるのは、久保田と一緒にいる時間ではなく、コンビニで月島と話している時間だった。
「久保田君がウチにいるなら、きっと心配してるよね。早く帰って来ないから、どうしたんだろうって…」
雑誌コーナーに置かれた麻雀雑誌を見つめる時任の耳に、月島の声が響く。
その声は出会った時と違って、オドオドとしてはいなかった。
この数日の間に、毎日のようにコンビニを利用する時任と顔なじみになり、すっかり打ち解けている。それは時任の方も同じで、初めて会った日に感じた違和感も、今はもう感じてはいない。
今のように一人で、そして時には久保田と二人でコンビニに行き、毎日のように月島に会って話す内に、悪いヤツではないとわかったし、お互いゲーム好きな所で気も合った。
それに時任の気持ちを知っているのか、月島が昔の…、久保田と同じ中学に通っていた頃の話をまったくしないせいで声もかけやすい。でも・・・、だからといって月島といる時間の方が、久保田といる時間よりも楽しいと感じている訳ではなかった。
そもそも、どちらかなんて比べる必要も無いし、比べた事もない。
久保田と他の誰かを比べる天秤は、元から時任の中にはない。
今もこれから先も…、それは変わらない…。
手を伸ばし掴む服の袖が、いつも同じ人の袖であるように…、
・・・・・・絶対に変わる事はない。
なのに、なぜ月島と話しているとほっとするのか…、わからない。
少し前までは姿が見えないだけで、あんなにも不安だったのに…、
どうしてなのか…、わからない…。
時任は久保田をマンションの部屋に残し、月島と話している自分になぜ…と問いかけて空のカゴの柄を強く握りしめた。
「別にコンビニ行くくらいで、心配なんかしねぇよ。ちょっち遅くなったけど、今からすぐ帰るし…、ちゃんと帰るって、久保ちゃんは知ってっから…」
月島の問いかけに、そう言葉を返しながら、右手に感じたわずかな痛みを噛み殺す。そして、自分の立っている位置を確認するように、皮手袋をはめている右手で自分の頬を撫でた。
マンションでしか外さない、皮手袋の感触…。
現実はいつでも残酷に、皮手袋の中に収まっている。
それを確認すると時任の表情は少し険しくなったが、すぐにそれを緩め、自分の横顔を心配そうに見つめている月島に笑いかけた。
「ま、別に心配はしてねぇと思うけど、腹減って餓死する前に帰ってやんねぇとな」
時任がそう言うと、月島がほっと安心したように笑い返してくる。
けれど、そんな月島の笑顔を見ながら、時任は久保田の事を考えていた。
中学時代の久保田の事ではなく、今の…、久保田の事を…。
すると、嫌な予感が胸を過ぎる。
なぜか…、とても嫌な予感がする…。
コンビニには食糧を買いに来たはずなのに、嫌な予感を感じた時任は空の買い物カゴを持ったまま出口へと向かった。
「じゃ…、悪ぃけど、俺はマンションに帰っからっ」
「えっ、けど、買い物は?」
「後でまた来るっ」
「でも、久保田君が餓死するんじゃ…」
「またな、月島っ」
カゴをあった場所に戻すと、時任はコンビニを出る。
そして、その足で久保田の待つマンションへと走った。
本当は走る必要はないはずなのに、気づくと走り出していた。
「と、時任君…っ!」
後ろから追いかけてくる月島の声聞きながら歩き出し走り出し、コンビニとマンションの間にあるアスファルトの道を渡る。そして、正面玄関のドアを開け、エレベーターに乗り、廊下を駆けて部屋の前へとたどり着いた。
・・・・・・バターン!!!
勢い良く明け放たれたドア…。
玄関に脱ぎ散らかされる…、お気に入りのスニーカー…。
一度、時任は廊下を歩き、寝室の前を通り過ぎたが、リビングとキッチンへ向かった後で再び戻る。そして寝室を覗き、トイレの前に立ち、次にバスルームへ続くドアのある玄関へと戻った。
「まさか…、だよな」
バスルームへと続くドアの前に立つ、時任の口から、そんな呟きが漏れる。
ひょろりとした背の高い後ろ姿を、のほほんとセッタをふかしながら新聞を読む姿を探して…、残った場所はもうここだけ…。けれど、いつも嫌な予感ばかりが良く当たる。
時任はゆっくりと祈るように…、握りしめたドアノブを捻った。
・・・・・ガチャ。
音を立てて開いたドアは、時任の前に開かれ…、
でも、そこに求める人の姿は見当たらない…。
いつの間に消えてしまったのか、部屋の中には誰にも居なかった。
「一時間も待たせちまって、マジで悪かった…。しかも、小腹空いてるとか言ってたのにさ…。でも、だからって何もどっか行っちまうコトねぇだろっ」
・・・・・こんな時にっ。
リビングに書置きは残されていない。
だから、どこに行ったのか、まったくわからない。自分のケータイから久保田のケータイに電話してみたが、着信音ではなく機械的な音声が返ってきただけだった。
久保田のケータイは電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないかのどちらか…。しかし、雀荘でもバイトでも、東湖畔のバイトでも、マナーモードにする事はあっても電源を切る事はなかった。
そう考えると感じていた嫌な予感が、確信に変わり始め…、
時任はギリリと奥歯を噛みしめるとリビングに戻り、ケータイではなく、テレビの近くに置かれている電話の受話器を取り、自分の知っている数少ない番号を押した。
すると、呼び出し音が数回鳴り、聞き覚えのある声がかけた場所を告げる…。
その声は相変わらず穏やかで…、そして外見と同じく謎めいていた。
『貴方が私に電話とは…、珍しいですね。もしかして、久保田君の身に何かありましたか?』
電話越しにそう言ったのは、久保田のバイト先…、東湖畔の店主をしている鵠…。
だが、時任はまだ名を告げただけで何も言っていないし、聞いてもいない。それに電話したのは何かあったと思ったからではなく…、ただ久保田がバイトに行ったかどうか、何か用があって東湖畔に行っていないかどうか確認するためだった。
「なんで…、久保ちゃんの身に何かあったとは思うんだよ?」
鵠の言葉に対して、そう問い返した時任の声はいつもよりも重く低い。そんな時任の声に滲む想いを感じ取ったのか、鵠はすぐにすいません…と謝った。
『最近、襲われたり…、色々とあったと聞いていますので、つい先走って妙な事を言ってしまいましたね』
「あ…、いや、俺の方こそ悪りぃ…。そうだよな、まだ犯人もわかってねぇし…」
『ですが、その様子だと久保田君はマンションには?』
「・・・・・居ない。そっちには行ってねぇか?」
『いいえ、バイトは休みですし、こちらに来る用事があるとも聞いてません』
「・・・・・・・」
『貴方の方に、何か心当たりはありませんか?』
「無い…。あれば電話なんかしてねぇよ」
『・・・・・・それもそうですね』
久保田はマンションにも、東湖畔にも居ない…。
だとしたら、他に考えられるのは雀荘くらいだ。
鵠との電話を切った後で、知っている雀荘にかけてみようかと思ったが…、
そんな時任の思考を読んだかのように、鵠が雀荘の可能性を否定した。
『実は少し前に、久保田君と電話で話したのですが…。その時の様子を思い出すと貴方を置いて、どこかに行くとは考え難いですね』
「その時の様子? 久保ちゃん…、どうかしたのか?」
『いいえ、どうもしません。ただ、出かけている貴方の事を、とても心配していただけです。きっと、貴方が帰ってくるのを首を長くして待っていたと…、私は思いますよ」
久保田が…、心配していた…。
月島と同じ事を言った鵠に、コンビニに行っただけじゃんと小さく呟きながらも、さっきよりも深く後悔する。もっと早く帰って来ていたら…と思うと、誰もいないリビングの静けさが身に染みてきた…。
こんな時なのにと…、心の中で呟いたけれど…、
それは久保田ではなく、自分に向けなくてはいけない言葉で…、
さっきまでコンビニでのん気に立ち話をしていた事実が、小さな痛みとなって胸の奥に突き刺さる。マンションにいたとしても絶対に安全だとは限らないのに、そばを離れ…、ほっと息をついていたなんて、自分で自分が信じられなかった。
なんで、こんなコトになってんだよ…っ。
そう心の中で叫んでみても久保田の行方はわからないし、何も始まらない。時任は何か連絡があったら教えて欲しいと頼んでから、鵠との通話を切ると久保田の叔父である葛西に電話して、何も連絡がない事を確認してから再び玄関に向かった。
久保田に宛てた伝言を…、メモを机の上に残して…。
もしかしたら、こうしている間にマンションに帰ってくるかもしれないけれど、何もせずにじっと待ってはいられない。一緒に居たいのに守りたいのに、自分から離れて久保田がいなくなって…、そんな後悔は一度きりで十分だから…、
二度と後悔しないように、脱ぎ散らかしたスニーカーを再び履いて玄関を飛び出した。
「後悔してる時間なんか…、ねぇのに…」
握りしめた右手の…、黒い皮手袋の感触を感じながら漏れた呟きは、誰の耳にも…、呟いた時任の耳にすら届かない。なのに、スニーカーを履いた足と久保田に会いたい気持ちが前へ前へと、まるで生き急ぐように走り始め…、
けれど、そうしてから…、探す当てなど無い事に気づいて軽く唇を噛んだ。
東湖畔にも雀荘にも居ないとしたら、一体、どこを探せばいいのかわからない。
久保田はゲーセンには一人では行かないし、タバコを買うならコンビニに行く。
でも、探す当ては無くても、会いたいなら探すしかなかった…。
自分の足で探して、見つけるしかない。
そして、もしも探している間に、久保田がマンションに戻っていたら、どこ行ってたんだよって笑えばいい…。それから、素直には言えないかもしれないけど、久保田がしてくれていたように…、すごく心配したと軽く頭を叩いて…、
小腹空いてたのに、待たせてゴメン…と謝りたかった。
「いつかたぶん…、笑い話になるんだよな。こーいうのって…」
夕暮れに見た幻も、今、こうして走ってる事も…、
過ぎてしまえば思い出になって、いつかこんな事もあったよな…って…、
久保田と笑って話すような気がして、時任がそう言う。
すると、時任を追いかけて走ってきた月島が、何の話かと尋ねてきた。
「お前、帰ったんじゃなかったのかよ? 確か話してる時にケータイに電話かかってきて、今日は家に犬が来るとかどうとか言ってなかったっけ?」
された質問には答えず、時任がそう問い返すと、月島は悩むように小さく唸る。
けれど、すぐに唸るのを止めると、苦しそうに息を切らせながら走る時任の横に並んだ。
「犬は…、い、家で飼ってる犬の父親で…、会いに来るのは俺じゃなくて犬だから居なくても問題ないよ…。それに、そんな事よりも時任君が走ってる事の方が気になるし…」
「けど、だからって何も一緒に走る事はねぇだろ?」
「走ってる理由を教えてくれたら…、やめるかもしれない」
「・・・・・・・・月島には関係ねぇ事だから、俺が走ってても気にすんな」
「そ、そんなの無理だよ」
「それでも、気にすんな…」
・・・・・・これは俺らの問題だから。
続く言葉は、声に出しては言わない。それはたぶん月島ではなく、ここには居ない久保田に向かって…、そう言っていたせいかもしれなかった…。
久保田の問題は自分の問題だから、足跡も残さず居なくなる事だけは…、
一人だけで抱え込んで、傷つくような事だけはして欲しくないし…、
肩の傷を隠したように…、綺麗な所だけを見せて微笑む姿なんて見たくない。
傷を負ったのなら、消毒をして薬を塗って包帯を巻いて…、
それから…、もう二度と傷なんて負わせるような真似なんて誰にもさせない。
改めて久保田を後ろから襲った犯人の事を考えながら、時任は嫌な予感を押さえ込もうとするかのように鋭い視線を、まだ赤く染まっていない…、青いままの空へと向けた。
すると、なぜか…、肩に傷を負った久保田ではなく…、
ベランダで見た幻が…、その時に見た久保田の姿が脳裏に浮かぶ…。
散らかった室内…、転がった缶ビール…。
哀しそうでも、寂しそうでもない…、無表情な横顔…。
そんな久保田の姿を思い出すと、やっぱり胸が痛くて苦しくて…、
なぜか・・・・、とても怖い…。
けれど、抱きしめたいと…、そう思ったのは初めてだった。
「久保ちゃんは俺を置いてドコにも行ったりしない…、どこにも行けない…。だから、俺が探さなきゃ…、だよな」
耳元に囁かれた…、おまじない…。
今はそれだけがもしかしたら…、久保田を探す手がかりなのかもしれない。
時任は闇雲に探すのをやめ、どこへ向かって走るべきなのかを考え始めた。
すると、今も立ち止まらずに横を走り続けている月島は、時任の言葉を聞きながら横顔を見ている。何も言わずに、じっと時任の横顔を見ている月島の表情は…、なぜか無表情だった…。
恐ろしいくらいに無表情で、顔だけではなく瞳にすら何も浮かんではいない。
けれど、奇妙な視線に気づいて時任が横を向いた時には、月島は心配そうな表情を浮かべていた。
「・・・・・・・見つかるといいね、久保田君」
心配そうな顔をした、月島の言葉…。
なのに、何かが心のどこかに引っかかった気がして、時任がわずかに眉をしかめる。けれど、心に引っかかったものが何なのか、未だに月島の事を何も…、久保田の中学時代の同級生だという事しか知らない時任にはわからなかった。
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