残照.10



 
 チリリン…、チリリ・・・・・。

 ベランダから響いてくる風鈴の音を聞きながら、久保田はリビングのソファーに座りながら、パラリと開いていた新聞をめくる。けれど、新聞に印刷されている文字を目で追ってはいても、その内容が頭の中に入っているかどうかは謎だった。
 ぼんやりと…、ただぼんやりと新聞を眺める久保田の瞳は、さっきから目の前の文字ではなく、別の何かを見つめている。そんな久保田の状態は、時任が一人でコンビニに出かけた時から続いていた。
 
 『久保ちゃん、コンビニに行ってくっけど、何か買うもんとかある?』
 『ん〜…、なんか小腹空いたし適当に食べるモノ』
 『わぁった、他には?』
 『ないよ』
 『じゃ、行ってくっから』
 『うん』

 時任と会話を交わしたのは、三十分くらい前…。
 つまり、時任がコンビニに出かける前の事だ。
 それから、すぐに久保田は何かを考えるように、ずっと瞳に映るだけの新聞紙をめくり続けている。だが、ふと何かを見つけたように、わずかに目を見開くと…、新聞に落としていた視線を上へと上げた。

 ・・・・・・・・・・・ニャア。

 風鈴の音に混じり、耳に届いた鳴き声。
 その声は、ベランダから聞こえてきた…。
 けれど、そんな場所から鳴き声が聞こえるはずはない。
 ・・・・・ココは一階ではなく、四階だ。
 しかも、現在、両隣の部屋は空き部屋になっている。
 久保田は持っていた新聞をパタリと畳むと、座っていたソファーから立ち上がった。
 そして、鳴き声のした方向へと向かい、リビングとベランダへを隔てている窓を開ける。すると、昨日、時任とアイスを齧った時のように、生暖かい風が部屋に吹き込んで…、
 ゆっくりと…、久保田の髪と頬を撫でた。

 「お前は幻覚で俺は幻聴…。ホント…、末期症状だぁね」

 リリン…、リリン・・・・・・。
 そんな久保田の呟きに答えるように、ベランダの風鈴が鳴る。
 時任の代わりに久保田が軒先に吊るした風鈴の音は、あの鳴き声を聞いてしまったせいか、涼しさではなく寂しさを感じさせた。
 じっと新聞ではなく、別の何かを見つめていた瞳は、今は夏の青すぎる空を見上げている。けれど、やはり…、ただ瞳に映っているだけだからなのか、空を見上げても久保田の表情は変わらなかった。
 確かに寂しさを感じているはずなのに、久保田の顔には感情らしいものは何も浮かんでいない。瞳も同じように…、何も写してはいない…。
 まるで、感情を押し殺しているのではなく、失くしてしまったようだった。
 
 「・・・・・・・逃げてるワケじゃない」
 
 久保田はそう呟いたが、それは自分の言葉ではなく…、時任の言葉。
 時任の言葉を唇に乗せて、声に出してみただけ…。
 その証拠に久保田の声は、酷く淡々としていた。
 淡々としているだけで、暖かくも冷たくも無い。
 けれど、そんな久保田の表情が再び聞こえた幻聴と共に動き、唇が笑みの形に歪む。そして、両手を胸の辺りまで上げると、じっと自分の手のひらを見つめた。

 「何を今更・・・・・・・」

 何を想い…、そんな言葉を口にしたのか、自分でもわからない…。
 わからずに呟き、視線を手のひらから風鈴へと向ける。
 そして、視線と同じように胸まで上げた手も、ゆっくりと風鈴の方へと伸ばした。
 だが、伸ばした久保田の手は鳴り出した電話の音に止められ、風鈴へと届かず下へと落ちる。鳴り響く音を止めるためにベランダから部屋へと戻り、久保田が電話の受話器を取ると耳に聞きなれた声が響いてきた。
 『ご機嫌…、如何ですか? 久保田君』
 「良いように見える?」
 『さぁ、どうでしょう? 残念ながら、私は千里眼ではないので』
 「鵠さんなら、持ってそうなんだけどなぁ…、千里眼」
 『それは買いかぶりすぎです。私は超能力者でも魔法使いでもない…、ただのしがない雑貨店の店主兼、無免許医ですから…』
 静かなマンションのリビングに、鵠と話す久保田の声が響く。
 だが、未だコンビニに出かけた時任が帰ってくる様子はない。
 久保田が受話器を片手にチラリと壁にかけられた時計を見ると、わずかに笑みを含んだ鵠の声が時任の名前を口にした。

 『そんなに気になりますか? 時任君の事が…』

 鵠はさっき、自分は千里眼ではないと言ったばかり…。
 なのに、まるで近くで久保田を見ているかのようにそう言う。
 すると、久保田は軽く肩をすくめて、さっきまで居たベランダに視線を向けた。
 「・・・・・それも気になるけど、実は別のコトも気になってるんだけどね」
 『別の事?』
 「頼んでた例の件、報告聞かせてくれない? その件で電話してきてくれたんでしょ?」
 気になる事があると言いながら、何が気になるかを話さず、久保田は頼んでいた件の報告を鵠に求める。実は東湖畔での診察を受けてから一週間後に、ある人物についての調査の依頼を情報屋としての鵠にしていた。
 その人物は…、WAを狙っている出雲会でも東条組でもない。
 そんな物騒な組織には、一切係わり合いのなさそうな人間…。
 中学時代、同じ学校に通っていた久保田より、出会ったばかりの時任と友達のように仲良くなった、月島…。こんな状況だからと、肩を抱くように、まだ治り切っていない打ち身のケガを押さえ自嘲しながら、月島の身辺調査を依頼した。
 だが、調査の結果は黒でも灰色でもなく、白。
 月島の住んでいる家は、久保田と時任の住んでいるマンションから、思ったよりも近い場所にある。つまり、マンションの前のコンビニでバイトをしても、おかしくない距離だという事だ。  住んでいる家は一戸建てで父親と母親と三人で暮らしていて、黒い犬も飼っている。コンビニのバイトも本人が言っていたように、あの日が初日だったらしい…。
 調査した結果、月島に不審な点は見つからなかった。
 『今回ばかりは、さすがの貴方も見当違いだったようですね』
 調査結果を報告し終えると、鵠がそう言う。
 だが、久保田は月島の件を、そこで終わりにしなかった。
 終わりにせず、後ろから襲われた件と月島について考え続ける。
 まるで、その二つは関係があると、こじつけようとしているかのように…、
 無理やり月島を犯人にしたがっているかのように、今までに起こった事を思い出しながら考えをめぐらせる。
 そんな自分にふと気づいた久保田は、また唇を笑みの形に歪めた。

 ・・・・・・・・・・・罪人のクセに。

 頭の中なのか胸の奥なのか、どこからか響く声が久保田を、自分自身を嘲笑う。
 けれど、そんな事は今更で、言われるまでもなかった。
 そう、何もかもが今更だ。
 何もかもが、取り返しがつかない。

 つく…、と思った事もない…。

 久保田は右の耳に当てていた受話器を、左に持ち返ると、見当違いだと言った鵠に質問をする。月島がコンビニでバイトの面接を受けたのは、いつなのかと…。
 すると、鵠はクスリと小さく笑ってから、久保田の質問に答えた。
 『貴方がケガを負った日、それが面接の日だったそうです。きっと、ただの偶然だと思いますが…、無視できませんか?』
 「さぁ、どうかな」
 『ずいぶんと曖昧な答えですね』
 「それは偶然かどうか、まだわからないからだと思うけど?」
 『確かに』
 「…で、鵠さんのご意見は?」
 『この件に関して、私に意見はありませんよ。情報屋の仕事は正確な情報を得て、それを売りさばく事…。情報屋はあくまで情報屋、探偵ではありません』
 「それは、ごもっとも」
 そんな久保田の一言で、月島の身辺調査をした鵠との会話は途切れ…、
 後は、じゃあまた…と、いつものように告げて通話を切るだけだった。
 けれど、久保だがそう告げる前に、鵠が口を開く…。そして、鵠から口から漏れた言葉は、水面に落ちた雫が斑紋を描くように、わずかにゆっくりと久保田の心を波打たせた。
 『鳥は鳥篭に閉じ込め…、犬は犬小屋に鎖で繋ぐのだとしたら…。自由で気ままな猫は、一体、どこに閉じ込め何に繋げばいいのでしょうね』
 「・・・・・・・・ソレ、どういう意味?」
 『気にしないでください、ただの独り言ですから…』
 「・・・・・・・・」
 奇妙な独り言を残し、では…と久保田よりも先に鵠が通話を切る。
 すると、その後には奇妙な静けさと、沈黙だけが残った。
 沈黙と静けさと…、冷笑…。
 久保田は持っていたケータイをポケットに仕舞い込むと立ち上がり、そのままリビングを出る。そして、廊下を歩き玄関を出ると、ドアに鍵をかけずにマンションの外へと出た。
 マンションの前にある、時任の出かけたコンビニの見える場所へと…、
 けれど、いつまでも戻って来ない時任を迎えに来た訳ではない。
 その証拠に久保田は、コンビニのある方向を眺めながらも、コンビニとマンションの間に流れるアスファルトの道を渡ろうとはしなかった。

 「どこに閉じ込め…、何に繋げばいいのか…」

 そう呟いた久保田の視線の先には、コンビニに出かけた時任がいる。
 そして、久保田の見つめる時任の視線の先には、バイトを終えたらしい月島がいる。
 中学時代からの友人のように仲良く話す時任と月島は、まるで久保田とは別の世界にいるように見えた。
 けれど、今も時任の右手は獣化しているし、状況は何も変わってはいない。
 出雲会と東条組がWAを求め続けている限り、時任の身には危険が付きまとう。
 久保田は目を閉じる代わりに二人に背を向けると、ポケットからセッタを取り出し口にくわえライターで火をつけた。

 「もしも、俺がお前よりも先を歩くなら…、どこにも閉じ込めたりしないから…。だから、ねぇ・・・、時任・・・・」

 口にした言葉の続きは、どこに届く宛てもなく…、
 吐き出した煙と一緒に空気に混じり…、消える…。
 そして、久保田はそれ以上は何も言わずに、セッタをふかしながら一人でマンションに戻るつもりだった。けれど、そんな久保田を呼び止めるように、ケータイの着信音が鳴る。
 まるで、久保田を見ていたかのような…、絶妙なタイミングで…。
 その音はいつもと同じ音なのに、なぜか…、どこか不吉な感じがした。




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