残照.9
「あ、あの…、こんにちは」
東湖畔からマンションへの帰り道、そう言って時任と久保田の前に見知らぬ何者かが立ちふさがる。すると、時任はその何者かを睨みつけながら警戒して身構えたが、相手は自分よりも小柄で背も低く、怯えたような目をしていた。
マンションへの帰り道を塞いでいるのは、高校生くらいの少年。
時任や久保田と、おそらく年もほとんど違わないだろう。
いきなり前に立ちふさがったので思わず身構えてしまったが、怯えた目をした少年は久保田を襲った犯人には見えないし、犯人と何か関係があるようにも見えなかった。
けれど、それでも必要以上に警戒してしまったのは…、たぶん夕暮れのベランダで見た幻が原因…。あの幻が、ずっと時任の調子を狂わせ続けている。
銃声の事といい、今の事といい、幻のせいで妙に神経が張り詰めすぎていて調子が狂う。時任は身体から力を抜き警戒を解くと…、小さく息を吐いた。
すると、そんな時任の横で少年と久保田が会話を始める。久保田の方はどうかは知らないが、どうやら少年の方は久保田を知っているようだった。
「もしかしなくても、久保田…、誠人君だよね?」
「うん、そうだけど、オタクはどちら様?」
「僕は月島…。中学の頃、久保田君と同じ学校に通ってて、同じクラスになった事もあったんだけど…」
「中学の頃…、ね」
「べ、別に覚えてないなら、いいんだ。きっと、そうだろうって思ってたから…」
そんな少年の…、月島の言葉に、久保田はのほほんとした表情のまま人差し指で軽くこめかみを掻く。けれど、そうしている内に何かを思い出したらしく、ポケットから取り出したセッタを月島の前で軽く振った。
「確か見逃してくれたコト、あったよね?」
「うん、学校の屋上で…」
「そんで、クラスは三年の時に一緒だった?」
「うん…、そうだよ…。良かった…、ちゃんと覚えててくれたんだ」
久しぶりに会った…、同じ学校に通っていたクラスメイトの何気ない会話。
けれど、久保田を見つめる月島を見ていると、二人の会話を聞いていると…、居心地が悪くなる。同じ学校に通っていないのだから、二人の会話に入れないのは当たり前なのに、その居心地の悪さが…、なぜか握りしめた右手の中で寂しさに変わった。
久保田と一緒に暮らしていて、今もずっと一緒にいるのに…、
左手で触れた右手にはめている手袋の感触が、なぜかとても…、時任を不安にさせる。隣に久保田がいるのに不安で寂しくて…、たまらない…。
そんな感情に押されるように、時任は右手を久保田の袖へと伸ばしかけたが…、
すぐにやめて手を下へと降ろし、月島と話している久保田に声をかけた。
「あのさ、久保ちゃん…」
「ん?」
「話してるトコ悪りぃけど、なんか暑いしダルいし、俺は先帰ってっから」
「だったら、俺も…」
「久保ちゃんは話終って、コンビニでアイス買ってから帰って来い。もちろん、久保ちゃんのと俺のと二人分」
「・・・・・・了解」
「じゃあな」
最後の一言は、久保田ではなく月島に向けた言葉。
時任が軽く手を振ると、月島もじゃあと遠慮がちに手を振り返してくる。それを見て浮かべた時任の笑顔は明るく、不安も寂しさも感じられなかった。
晴れやかな空の下で浮かべた、明るい笑顔…。
そんな笑顔を浮かべたまま、そう言えば…と思い出して歩き出した足を止めて振り返った時任は、久保田に持ちかけられていた勝負の勝利をマンションに着く前に宣言した。
「今日の勝負は俺様の逆転勝ちっ、今日の晩メシ当番は久保ちゃんだかんなっ」
どちらが先にマンションに着くか…、二人は晩メシ当番をかけて勝負をしていた。
けれど、時任の宣言を聞いた久保田は、あー…と間抜けな声を出す。
そして、ぼんやりした顔でこめかみを軽く右手の人差し指で掻いた。
「・・・・・・・・忘れてた」
「つーか、自分で言っといて忘れてんなよ」
「コンビニで買いモノ頼んどいて、ソレはないんでない?」
「頼んだもん勝ちっ」
「えー」
久保田の不満そうな声を聞きながら、足を前へと踏み出して、時任は久保田と暮らすマンションへと向かおうとする。けれど、そんな時任の足を止めようとして声をかけたのは、なぜか勝負をしている久保田ではなく、たった今、出会ったまばかりの月島だった。
月島はためらいがちに時任を呼び止めると、ちょっと待っててと言って走り出す。
そして、久保田がアイスを買う予定の、マンションの前にあるコンビニに入った。
「アイツ…、どうかしたのか?」
「さぁ?」
いきなりの月島の行動に時任が首をかしげ、次に久保田が首をかしげる。
待てと言われれば、待つしかないが…、理由がさっぱりわからなかった。
時任が首をかしげながら、うーんと唸ると、今度は久保田がん〜と唸る。
すると、時任はマネをするなと久保田の頭を叩こうとしたが、そのタイミングを待っていたかのように、コンビニ袋を持った月島が二人の元へと戻って来た。
「これ、二人で食べて…っ」
「って、久保ちゃんじゃなくて、俺に言われてもさ…。なんつーか…」
「あの、それはその…、実は僕は今日から、あのコンビニでバイトするんだ。だから、お近づきのしるしにって意味で、迷惑じゃなかったら受け取ってくれるとうれしい…んだけど?」
なぜか久保田ではなく時任に向かって、そう言いながら恐る恐る差し出されたコンビニ袋。思わず久保田の方を見たが、久保田は見つめ返しては来るものの何も言わない。
時任は少しだけ考えた後、差し出されたコンビニ袋を笑顔で受け取った。
「コレからコンビニで世話になるのは、買い物に行く俺らの方だと思うけど、コレはありがたく貰っとく。アイス、ありがとな」
「うん、こっちこそありがとう。じゃあ、また…、今度はコンビニで…」
「あぁ、またな」
さっきとは違い元気良く、時任と久保田に手を振る月島は悪いヤツには見えない。前に立ちふさがった時は、思わず警戒してしまったが…、月島はWAとは何の関わりもない普通の少年だ。
疑ったりして悪かったな…と、時任がポツリと呟くと、そんな時任の肩をポンと軽く叩く。そして、叩いた手で軽く肩を抱き、二人でマンションに向かって歩き出した。
二人で暮らす、マンションの部屋に向かって…。
けれど、時任は何かに後ろ髪を引かれるように、一瞬だけ後ろを振り返る。
すると、振り返った時任の視線の先…、少し離れた曲がり角の手前で月島が立ち止まり、こちらを見ていた。
「・・・・・・・・・・・アイツ」
「どうかした?」
「・・・・別になんでもねぇよ。それよか早く帰ろうぜ。せっかくもらったアイスが溶けちまう」
「うん、そーね」
月島は、ただ、こちらを見ていただけ…。
そうなのだろうと思いながらも、なぜか違和感を感じる。
けれど、この違和感が何なのか、感じている時任自身にもわからなかった。
時任はマンションの部屋に帰ると、月島にもらったコンビニ袋からミルク味の棒つきアイスを2本取り出す。そして、手に持った2本の内の1本を無言で久保田に渡し、残りの1本を片手にベランダへと続く窓の前に立った。
「時任?」
目の前の窓を開けようとすると、後ろから自分を呼ぶ久保田の声が聞こえる。
けれど、時任が振り返らずに窓を開けると、エアコンの効き始めた室内に暑い空気が吹き込んだ…。
「・・・・・あちぃ」
生ぬるい空気は、そう呟いた時任の手にあるアイスをわずかに溶かし、ベタベタと身体にまとわり付く。けれど、それでも時任はわざわざ暑いベランダに足を踏み出して前に出た。
そして、まだ赤く暮れていない空を眺め…、冷たいアイスを口にくわえる。
すると、そんな時任の横に、同じ味のアイスを齧りながら久保田が並んだ。
「外は…、やっぱ暑いねぇ」
「・・・・・・実は、バカとか思ってんだろ?」
「いんや、別に」
「ぜってぇ、ウソだ」
時任がむくれた顔でそう言うと、久保田は窓を開けて齧り終えたアイスの棒を室内にあるゴミ箱に向かって投げる。すると、投げられた棒は見事にゴミ箱の中に入り、背後でコトンと音を立てた。
その音に時任が振り返ると横から伸びてきた久保田の腕が、捕まえるように肩に回される。そして時任の髪に久保田の頬がわずかに触れ、それからすぐに頬も腕もゆっくりと離れていった…。
「なに?」
「ん〜、なんとなくね」
「つか、冷気逃げっから窓閉めとけ」
「開けてた方が涼しくない?」
「・・・・・直射日光の当たる真夏のベランダで、涼もうとすんなよ」
そんな事を言いながら、手を伸ばして久保田の頬が触れた髪に軽く触れる。
何かを確かめるように触れて、日差しの厳しい眩しい空を眺めて目を細めた。
「中学校の屋上って、やっぱここより高いんだろうな…」
ふと、口を突いて出た言葉に自分自身で驚いて、すぐに口を紡ぐ。
すると、久保田も同じように眩しい空を眺めて目を細めた。
「確かにココより高いけど…、ココから眺める空が一番好きかも?」
「ふーん、でもなんで?」
「それはたぶん・・・・、かな?」
「えっ、聞こえねぇっ」
「空が青いなぁって言っただけ」
「何だよ、ソレっ。答えになってねぇじゃんっ」
「気にしない、気にしない」
「ワケねぇだろっっ」
のほほんとした久保田のセリフに、そう突っ込んだ時任は、食べ終えたアイスの棒を後ろにあるゴミ箱に向かって投げる。
そして、久保田の腕を掴んでエアコンの効いた室内に戻った。
そうしたのは、やはり暑いベランダで長時間立ち話をする気になれなかったせいだったが、本当はまた夕暮れ時が近づいてきたからかもしれない…。
久しぶりに足を踏み入れたベランダは、暑いだけで何も変わらなかった。
けれど、今はまだ夕暮れ時には居たくない…、あの幻は見たくない…。
もう平気だと思っているけれど…、今はまだ…、
「・・・でも、逃げてるワケじゃない」
時任の小さな呟きが、久保田の耳に届いていたかどうかはわからない。
でも、掴んだ腕を放そうとした瞬間に、触れていた名残りを惜しむように伸ばされた久保田の指が時任の指に触れ、まるで何かを約束するように少しだけ絡んで…、
それが別に何の約束もしていないのに…、とてもうれしかった…。
「今日の晩メシ、同時にゴールってコトで一緒に作ろうぜ」
時任が笑顔でそう言ってキッチンに向かうと、久保田が微笑みながらそれに続く。
けれど、そんな二人の住むマンションの前を黒い車が、まるで久保田が襲われた日にベランダの窓を横切った鳥のように、焼けたアスファルトの上に黒い影を落としながら走り去ったのを、時任も久保田も気づいてはいなかった…。
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