残照.8



 
 暑い午後の日差しが横浜の街を歩く二人を照らし、黒い影がアスファルトの上に落ちる。それでも、相変わらず長袖のシャツを着ている久保田の表情はあまり変わらなかったが、その隣を歩く半袖のパーカーを着た時任はぐったりとした様子だった。
 時々、頬を撫でるように風は吹いていたが、太陽と焼けたアスファルトからの熱で生暖かい。時任の首筋に汗が流れ落ちるのを見た久保田は、近くにあった自販機でジュースを買った。
 そして、それに気づいて立ち止まった時任の頬に、冷たいジュースの缶を軽く押し付ける。すると、時任は冷た…っと叫んでギュッと目を閉じたが、久保田の手に自分の手を添えてジュースの缶を更に自分の頬に押し付けた。
 「あー…、なんか生き返った…」
 「ホント、お前って暑いの苦手ね」
 「つーか、暑いの得意なヤツなんていんのかよ?」
 「さぁ、どうだろうねぇ?」
 こんな二人の様子を久保田の叔父の葛西が見たら、きっと相変わらず甘いなとこめかみを指で掻きながら苦笑するだろう。時任に対して自分が甘い事にまったく自覚がないと言えば嘘になるが、今の場合は細い首を伝うように流れる汗を見つめている自分の視線に…、気遣う気持ちだけではなく、もっと別の感情が潜んでいるのを感じたせいだった。
 それを誤魔化すように頬に押し付けたジュースの缶を久保田の手から受け取ると、時任はプルトップを開けてゴクゴクと飲む。そして、半分ぐらい飲むと久保田にパスっと言って渡した。
 「・・・・もしかして、コレって間接キス?」
 「ば…っ!なにハズいコト言ってんだよっっ」
 「別に死にそうってほどじゃないけど、コレ飲んだら俺もなんか生き返れそうかも?」
 「そんなんで生き返ってんなっつーか、ウダウダ言ってねぇでさっさと飲めっ。ぬるくなっちまうだろっ!」
 「はいはい」
 軽く返事をしながらジュースを飲むと、頬を赤くした時任の視線を横顔に感じて久保田が小さく笑う。バイト帰りに襲われた時の怪我は、未だ腫れが引かずに痛んでいたが、こんな風にいつもと変わらない穏やかな時間を時任と過ごしていると忘れそうになった。
 今日、二人で外出している理由は、肩の怪我を東湖畔で詳しく見てもらうためである。けれど、レントゲンを撮って鵠に見てもらった結果、運良くヒビは入っていなかった。
 そのせいもあってか、暑さにバテてていても時任の表情は明るい。久保田が何者かに襲われた昨日から、時任はずっと気にしている様子だったベランダを見なくなった。
 けれど、その代わりに何かを決意したような…、そんな強い意志を自分に向かって笑いかける時任から感じる。ベランダを見つめながら不安そうにしていた時よりも、明るく笑う今の方が…、なぜか危うい気がしてならなかった…。
 「久保ちゃん? どうかしたのか?」
 「・・・・別になんでもないよ」
 アスファルトに視線を落とし、立ち止まった久保田は時任にそう答え、飲み終えた缶をさっきとは違う自販機の隣に置かれたゴミ箱に放り込む。そして、久保田は伸ばした右手で時任の頭を撫でると、再び自分の影を踏みながら歩き出した。
 このまま何事もなければ…、いつも通りに戻って…、
 時任の不安も危うさも消えてなくなるだろうかと、そう思いながら…。
 けれど、そんな風に考え思いながらも、不安になっている自分自身に気づき…、
 不安になっているのは時任ではなく、自分自身なのだという事に気づき苦笑した。

 「・・・・・・・・ホント暑いね」

 照りつける夏の日差しの下で、ポツリと当たり前の事を呟く。すると、横に並んだ時任はそうだな…と答えて少し視線を上げて、焼け付くように暑い空を見た。
 久保田は足元の影を見つめ、時任は空の青を見つめる。
 そんな二人の瞳はお互いを見つめてはいなかったが、歩くたびに久保田の手が時任の手に、時任の手が久保田の手にかすかに触れて、そして離れて…、
 それを繰り返している内に、時任の手が久保田の袖をぎゅっと掴んだ。
 「久保ちゃん・・・・・・・」
 久保田に何かを伝えようと開く、赤い唇。
 けれど、その先の言葉は紡がれる事はなく、久保田の耳には届かない。
 それは時任の意思ではなく、偶然に起こった出来事のせいだった。
 時任が口を開いた瞬間、辺りに響いた銃声に似た音…。
 その音を聞いた時任は、素早い動作で握りしめた久保田の袖を強い力で引く。そして、自分の身体を盾にするようして久保田を背後に引き込むと、鋭い視線を周囲に走らせた。
 けれど…、聞こえた音は良く似ているけれど銃声じゃない。
 それを久保田は知っていたが、なぜかすぐに時任に伝える事ができなかった。
 目の前にある緊張した肩と背中…、激しい息遣い…。
 必死に自分を守ろうとする時任の想いが痛いほど、哀しいほど…、伝わってきて…、
 銃声じゃないと大丈夫だよと言いたいのに、言葉が喉の辺りで詰まったまま出てこない。久保田は言葉で伝える代わりに、自分の袖を強く握りしめる時任の右手を同じ右手で安心させるように優しく撫でると、後ろから包み込むように腕を伸ばして時任を抱きしめた。
 引き寄せて抱きしめて…、時任の眺めていた空を見る。
 すると、緊張していた背中や肩から、ゆっくりと力が抜けていき…、
 完全に緊張が溶けると、時任はふーっと細く長く息を吐いた。
 「さっきの…、銃声じゃなかったんだな」
 「車のタイヤがパンクした音か、何かかもね」
 「そっか…」
 「うん」
 「なんか、すっげマヌケっ。せっかくジュース飲んだのに、焦ったせいでまた暑くなっちまったじゃんか…っ」
 そう照れたように言った時任は、自分を抱きしめる久保田の腕から逃れ歩き出す。けれど、久保田はすぐには歩き出さず、自分を守ろうとする時任の背中を見つめながら…、いつかの日の事を思い出していた…。
 ほんのわずかな間、自分の手に触れていた温かな感触を…、
 道端で冷たくなっていた…、小さな塊を…。
 もう、ずいぶんと昔の事のなのに、時任と出会ってから思い出す事が多くなっていた。

 「どうして、こんなに似て見えるんだろうね…」

 名前を呼んだ事もない、小さな黒猫。
 どんな声だっただろうかと…、その鳴き声を思い出そうとすると、早く来いと呼ぶ時任の声が耳に届く。久保田は前を向き歩いていく時任の背中を眩しそうに見つめると、その声に答えるように少し早足で歩いて…、次第に追いつき横に並び…、

 そして…、追い越した…。
 
 「どっちがマンションまで早く着けるか、競争しない?」
 「げっ、この暑いのに走る気かよっ」
 「うーん、お前が走らないなら、俺も走らないけど?」
 「…って、競争なのになんで?」
 「だって、別に差なんてつけなくても、お前よりも一歩でも早く着けば勝ちでしょ?」
 「じゃ、走らないで一歩差で勝ってやる!」
 「賭けるのは、今日の晩メシ当番ね」
 「ぜってぇっ、負けねぇっっ」
 「うーん、今日は暑いし、こないだ買ってきた冷麺とか食べたいかも?」
 「そういうセリフは、無敵の俺様に勝ってから言えっ」
 そう言いながらも暑さのせいか、時任の歩調も久保田の歩調も早くならない。けれど、前を向き歩く時任より一歩前に…、一歩先にと思いながら歩いていた。
 それはたぶん一歩前を歩いていたら、道端の冷たい小さな塊を想わずにすむのかもしれないと、この不安と恐怖が消えてくれるかもしれないと…、
 そんな風に思うのは、こんな風に歩き続けるのは単なる気休めに過ぎなかったけれど、今だけは時任よりも前を歩いていたかった。

 絶対に失えない大切な人の…、一歩だけ先を…。

 けれど、やっと近づいてきたマンションの近くで、そんな久保田の前に何者かが立ちふさがる。そのせいで一歩だけ先を歩いていた久保田は立ち止まり、一歩だけ後を歩いていた時任は久保田に追いつき、その横に並んだ…。
 



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