残照.7



 
 一昨日、久保田が何者かに襲われて怪我をした…。
 それも…、とても嫌なタイミングで…。
 夕暮れ時に見たのは幻だけれど、まるで感じていた不安が現実になったような気がして、とても怖い。久保田は怪我をした昨日から、ずっと一緒にいてくれていたが、その時に感じた恐怖は、今も時任の胸の中に消えないしこりとなって残っていた。
 久保田を襲った犯人の正体は、まだわかっていない。
 けれど、心当たりなら腐るほどある…と、久保田は言っていた。
 いちいち顔も覚えていられないほど、たくさん…。
 でも、原因がハッキリしない以上、右手の件と関係ないとは言い切れない。右手が獣化した原因だと思われるWAと呼ばれる麻薬を時任だけではなく、出雲会や東条組といった暴力団も追っていた。
 それに、もしかしたら時任が知らないだけで、本当はもっと他にもいるのかもしれない。WAという麻薬の正体も、それを手に入れようとする人間の数も未だ不明だった。
 だから、きっと獣化した右手がある限り、その謎を追い続ける限り、降りかかる火の粉は払っても払っても降り止むことはない…。 そして、それを知りながら一緒にいる久保田の事を想うと、時々、たまらなく苦しくなる事があった。
 
 「久保ちゃんは俺が守る…、絶対に…」

 そう呟いて握りしめた時任の右手に、獣化した事が原因と思われる痛みが走る。
 けれど、どんなに痛んでも、この右手は失くせない…。
 自分の過去の詰まった右手を、過去を知る唯一の手かがりを…、
 久保田が握りしめてくれる手を、失くすわけにはいかない…。
 朝食用の食パンを焼くために立ったキッチンで、時任はそう思いながら痛む右手を左手で握りしめて浅い呼吸を繰り返す。そして、じっと身動きせずに痛みが収まるのを待った。
 「獣化しててもコレさえなきゃ…、な…」
 そんな言葉が思わず口から漏れたのは、今回だけじゃない。
 痛みが右手を襲う時、いつもそんな思いが浮かぶ…。
 獣化してしまった右手が治る可能性はないにしても、この痛みさえなければと…、いつも握りしめた右手を壁や床に打ち付けたい衝動が起こった。
 右手の痛みは打ち付けても、止まらない事はわかっているのに…。
 痛みの激しさに強さに、右手を壊してしまいたくなる…。
 時任は獣化した右手の手首を左手で握りしめたまま、キッチンのシンクの上に出しっぱなしになっていた包丁を眺めた。でも、眺めただけで何もするつもりはない…。
 なのに、廊下からリビングへと続くドアが開く音が聞こえた瞬間、時任の肩が揺れる。激しく揺れて動揺して…、自分を呼ぶ久保田の声にすぐに返事ができなかった。
 「・・・・・・・」
 「もしかして、気分でも悪い?」
 背後から、久保田の足音と声がゆっくりと近づいてくる。
 たぶん、久保田の手には玄関から取ってきた新聞があるはず…、
 けれど、そんな久保田の姿を、今のままでは振り返って見る事ができない。時任は慌てて乱れた呼吸を整えると、ぐっと痛む右手に力を込めた。

 「そんなワケねぇだろ。ただ、眠いだけっだって…」

 そう言って振り返った時任の表情は、いつもと変わらない。
 額と手のひらに滲む汗だけが、右手の痛みを伝えていた…。
 まだ、収まらない痛みに耐えながら、時任は朝食用のパンをトースターの中に入れる。そして、ゆっくりと左手を伸ばして、じっと自分を見つめている久保田の額をペシッと軽く叩いた。
 「何、じーっと見てんだよ」
 「ん〜、なんとなく?」
 「だったら、俺じゃなくてパンでも見とけっ。ちょっち顔洗ってくっからっ」
 「けど、良いの? 俺が焼くと焼きすぎになるかもよ?」
 「たまには、焼きすぎを食ってみてぇの」
 「なら、いいけど…」
 「じゃ、任せたからなっ」
 そう言って久保田の横をすり抜けて、バスルームに向かう。せめて、廊下に出るまでは…と耐えていたのに、ドアを開けた瞬間に自分の表情が歪むのを感じた。
 時任は素早く廊下に出ながら、横目でキッチンの方を見る。けれど、久保田はそんな時任に気づいた様子はなく、律儀にトースターを眺めていた。
 時任はホッと息を吐きながら廊下に出ると、急いでバスルームに入ってドアを閉じる。そして、痛む右手の手首を左手で握りしめて床にうずくまった。
 
 「コレっくらい…、どってコトねぇに決まってんだろ…っ」

 痛みと一緒に噛みしめた言葉は、ただの強がりなのかもしれない。
 でも、それでも言葉と痛みを噛みしめて、獣化した右手を握りしめる。
 そうして、どれくらい床にうずくまっていたのか…、
 トントンとドアを叩く音に気づいて、時任は右手を握りしめたまま視線を上げた。
 すると、ドアの向こうから久保田の声が聞こえた。

 「ゴメン…、パン焦げなかった」
 
 その言葉に、時任が思わずプッと噴出して笑う。すると、まだ、右手は痛んでいたけれど、噴出した瞬間に少し痛みが遠のいた気がした。
 どんなに握りしめても変わらなかった痛みが、ドアの向こうに久保田がいるだけで、ほんの少しだけ遠のいて…、強がりかもしれない言葉が、本当の言葉になっていくのを感じる。さっきまで、うずくまっている事しかできなかったのに、ゆっくりと身体を起こす事ができた。
 身体を起こして、久保田のいるドアを背にして寄りかかる。
 そして、時任は久保田がしたように軽くドアを、返事するようにトントンとノックした。
 「フツー焦げなかったら、ゴメンじゃねぇだろ」
 時任が笑いながら、そう言うと…、
 またドアの向こうから、トントンというノックの音が聞こえる。
 トントンと叩き合い、お互いの言葉に返事し合って…、
 そうしている内に、右手の痛みが少しずつ引いて消えて…、
 その後には苦しさではなく、楽しい気持ちが残った。
 「なぁ、久保ちゃん…」
 「ん〜?」
 「ココってバスルームだけど、なんかドア叩いてるとトイレみたくね?」
 「入ってますかーって?」
 「聞かなくても思いっ切り、入ってるっつーの」
 「もしかして、小じゃなくて大の方?」
 「…って、ココはバスルームっつーかっ、そういうコト聞くなっ」
 「けど、気にならない?」
 「ならねぇよっ!」
 「ふーん…、そうなんだ…」
 「とかって、不思議そうに言ってんなよっっ」
 
 痛みの名残りは、手のひらに滲む汗…。

 右手の痛みは、消えた今も忘れていない…。
 そして、きっと…、また唐突に痛みは右手を襲ってくるのだろう。
 時任はドアに寄りかかったままで、黒い皮手袋のはまった右手を見た。
 
 「・・・・・・・・・ヤセ我慢してるワケじゃねぇんだ」
 
 右手を見つめながら、唐突に呟いた時任の言葉に久保田は答えない。
 何の事を言っているのかと尋ねたりもしない。
 けれど、時任はそのまま言葉を続けた…。
 「俺は…、たぶん我慢じゃなくて、ただ前を向いてたいだけなんだ…。前を向いてないと、前に向かって歩けねぇからさ…」
 時任がそう言うと、久保田のうん…という短い返事が耳に届く。
 けれど、それだけで十分だった…。
 その返事を聞いた瞬間、なぜか少しだけ目の奥が熱くなった気がして、汗の滲んだ手のひらで目をゴシゴシとこする。そして、軽く伸びをして立ち上がった。
 「せっかく焼いてくれたのに、ゴメンな。パン…、冷めちまっただろ?」
 「いんや、焼いたばっかだから大丈夫」
 「けど、俺がパン入れてからだと時間が…」
 「だったら、顔洗って確かめにきなよ。今からコーヒー入れるから」
 「わぁったっ。そんで、今日はちゃんとヤブ医者んトコに行くんだからなっ」
 「べつに骨なんか折れてないし、ヒビも入ってないんだけど…」
 「念のためっつったろ。無理やりでも連れてく」
 「無理やり…、ねぇ。もしかして、たまには強引なのも…、萌え?」
 「って、なんの話だよ?」
 「さぁ?」
 時任は笑いながら、そんな言葉を久保田と交わして洗面台の前に立つ。そして、リビングへと戻っていく久保田の足音を聞きながら水道の蛇口をひねり、皮手袋のはまっていない左手でバシャバシャと顔を洗った。
 顔を洗って流れるのは痛みに滲んだ汗と…、暖かく滲む涙。
 手探りで洗面台の横にかけられたタオルを手に取って顔を拭く。そうしながら、ふと久保田の言葉を思い出して、顔を洗っていなかったのがバレバレだった事に気づく…。
 けれど、バレていた事に気づいても、口元に浮かぶのは微笑みだけ…。
 顔を洗い終えてバスルームを出ると、時任は再び右手を握りしめた。
 でも、それは耐えるためではなく…、守るため…。
 握りしめた手のひらの中にあるのは、久保田と暮らす穏やかな日々とそれを守りたいと願う暖かな想い。絶対に失えない…、絶対に失ってはいけないモノ…。
 リビングへと続くドアを開けて、そこに満ちているセッタとコーヒーの匂いを胸の奥に吸い込むと、時任はテーブルに歩み寄り、こんがりとほど良く焼けた暖かい食パンに手を伸ばした。
 



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