残照.6



 
 『無事…、だったんだな』

 久保田が何者かに襲撃された日、時任の様子はいつもよりもおかしかった。玄関で聞いた呟きの意味を考えると、まるで襲撃される事を知っていたようにも思える。
 知っていなければ、あんな呟きを漏らす事はないだろう…。
 けれど、久保田も予期していなかった突然の襲撃を、時任が知るはずはない。
 誰かに何か聞かされたのかと思ったが、マンションの部屋にある電話と、時任が風呂に入っている間に調べたケイタイも着信履歴はゼロ…、同じように誰かに電話をかけた形跡も残っていなかった。
 試しにそれとなく、今日、外出したかどうか尋ねてみたが、やはり答えはNO…。
 そう答えた時任は嘘をついているようには見えなかったし、そもそも嘘をつかなくてはならない理由がない。もし、嘘をついていたとしてもそれを見抜く自信はあるが、時任の真っ直ぐな瞳を見つめるだけで…、そんな必要はまったくなかった。
 いつもと同じように真っ直ぐ見つめてくる、時任の澄んだ綺麗な瞳は嘘をついていない。
 
 「時任がベランダの窓で何かを見たとしたら、それはただの幻覚…。不安になった時任が玄関で漏らした呟きは、ただの偶然の一致なんだろうけど…、ね」

 翌日、依頼した通りマンションにやってきた鵠が巻いた白い包帯を、なんなく右手で触りながら久保田がそう呟く。けれど、その呟きはまるで不安に揺れるように、幻覚だと偶然の一致だと言いながらも、唇に残る呟きの余韻が疑問を生む…。
 らしくないな…と思い、見つめた視線の先には廊下へと続くドアがあって、その向こうでは時任が診察を受けている。始めは絶対に嫌だと逃げ回っていたが、右手には絶対に触らないという条件を出すと、しぶしぶといった感じで診察を受けてくれた。
 診察の理由は、食欲不振…。
 本当は違う理由で診察を受けてもらう予定だったが、幸か不幸か良い口実ができたのは確かだった。
 「マジでなんともねぇっつってんだろっ!」
 「それは貴方ではなく、診察した私が判断する事ですから」
 「けど、医者の免許持ってないんだろ?」
 「持ってなくても、貴方よりは詳しいですよ」
 「そうかもだけど、なんか納得いかねぇっ」
 しばらくすると、そんな声が聞こえてきて勢い良く廊下へと続くドアが開く。そして、リビングに入ってきた時任が、思い切り不機嫌そうな顔で、久保田の座っているソファーにドスっと腰を下ろした。
 「…たく、俺様はいつも健康そのものだっつーのっ」
 ブツブツとそう呟くと、時任はプイッと横を向く。久保田がそんな時任から鵠に向けると、鵠は久保田の瞳をじっと見つめ返しながら診察の結果を告げた。
 「久保田君の肩は骨折はしていないようですが、明日にでも念のためにレントゲンを取りに店に来てください。それまで、無理に肩を動かしたりしないように…」
 「ほーい」
 「そして、次に時任君の方ですが・・・・・・」
 鵠がそう言いかけると、そっぽを向いた時任の横顔が緊張する…。
 けれど、言いかけた言葉の続きを聞くと、安心したように軽く息を吐いた。
 「特に異常はありません、食欲不振は暑さのせいでしょう。食欲がなくても、ちゃんと食事は抜かずに取るように、水分補給も忘れないでください」
 「だから、なんともねぇって言っただろ」
 「なんともなくはありませんよ、貴方は夏バテしてるんですから…。なので、さっき言った事は必ず守ってくださいね」
 「・・・わぁったよっ」
 夏バテ…、暑い夏に良くある食欲不振の理由。
 おそらく、鵠以外の医者に見せたとしても、同じ回答が返ってくるに違いない。久保田の話を聞いていたとしても、いつもと変わらない今の状態からは想像しづらいだろう。
 しかも診察しても何も異常がない以上、考えられる原因は夏バテくらいだ。
 だが、久保田がリビングに時任を残し玄関まで送りに行くと、鵠は帰るために靴を履きながら、改めて時任の診察結果を話した。
 「血圧、脈拍は正常ですし、その他にも異常は見受けられません。本当は精密検査をしたい所ですが…、時任君は承知してくれないでしょうね」
 「幻覚の件について、何かわかったコトは?」
 「精神的な事に関しては専門外ですが、一応、診察という名目で色々と質問をしてみました。すると、やはり最近、幻覚を見たりした事はありますか?という質問に過敏に反応しましたよ。そんなものは見ていないという返事が返って来ましたが…、酷く動揺した様子でしたから…」
 「やっぱり、幻覚を見てると思う?」
 「あくまで予測でしかありませんが…、そう仮定するなら、おそらく幻覚を見た事が原因で精神的に不安定になっているのでしょう。もしくは…、精神的に不安定になっていたために、幻覚を見てしまったのか…」
 「・・・・・・・・・」
 「もちろん、WAの影響である可能性も捨て切れませんが…」
 
 精神的に不安定…。

 鵠が言ったその言葉に、時任だけではなく自分自身にも心当たりがある。時任の様子がおかしくなってからというもの、まるでそんな時任の不安が伝染したかのように…、久保田自身も不安を感じていた。
 けれど、その不安が昨日よりも大きくなっているのは、襲撃されて負傷したからではなく、少し痩せてしまった時任の身体を抱きしめてしまったせいかもしれない。自分の気づかない内に痩せてしまった時任の身体は、抱きしめるといつもよりも少し小さく感じて…、ぎゅっと抱きしめると壊してしまいそうで消えてしまいそうで、なぜか抱きしめていると怖くなってくる。
 強く抱きしめて離したくないのに、怖くて強く抱きしめられない。
 できるだけ優しく抱きしめながら、柔らかい髪を撫でるだけで精一杯だった。

 「・・・・・鵠さんの見解は?」

 その時の事を思い出しながら、久保田が鵠にそう尋ねる。すると、鵠はかけた眼鏡を人差し指で軽く押し上げ、じっと観察するように久保田の顔を眺めた。
 「見解は…、まだ述べられません。私はまだ、幻覚を見たり不安定になった時任君を見てませんから…。それに質問によって動揺は見られたものの、それ以外は私の目には時任君はいつもと変わらないように見えました」
 「確かに、今日は安定してるみたいだしね」
 「見ている幻覚によっては突然、道路に飛び出したり危険な行為を行う可能性もありますから、しばらくの間、様子を見るためにできるだけ一緒にいてあげてください…。今の時点で、私に言える事はそれだけです」
 医師としての鵠の言葉に対して、少し間を置いて久保田がそうするよ…と返事をすると、鵠が目蓋を軽く閉じる。そして、病院の薬局でしか扱っていないシップの入った袋を渡すと、お大事に…とだけ言い残して自分の店へと帰って行った。
 けれど、鵠が玄関からいなくなっても、久保田はその場に佇んだままでいる。
 それは早く戻らなければ、また時任が心配するとわかっていたが…、少しだけ一人で考える時間が欲しかったせいだった。
 渡されたシップを靴箱の上に置き、考え事をする時のクセでポケットに入れていたセッタをくわえる。だが、ただくわえただけで火はつけなかった。
 珍しく…、考え事をするのに吸う気にならない。
 久保田はタバコの端を軽く噛みながら、鵠の言った事について改めて考え始めた。
 鵠はまだ述べられないと言っていたが、診察結果を話していた口ぶりからすると、身体的ではなく精神的なものが原因である可能性が高いという見解らしい。WAが関係しているという可能性もまだ捨て切れないが、精神的なものが原因だとしたら…、やはり時任の見たかもしれない幻覚が気になった…。
 時任が見た幻覚は今の様子から考えると、間違いなく久保田に関係がある。
 けれど、それだけしか未だわからず…、時任は幻覚を見た事すら話してくれない。
 きっと、鵠と同じように幻覚の事を聞いても何も答えてはくれないだろう。俺様な性格でわがままそうに見えるが、ある一つの事に関しては驚くほど我慢強く…、絶対に弱音を吐こうとはしない…。
 暑がりで寒がりで、夏はしょっちゅう暑いと言っているし、冬は同じように寒いと文句を言うクセに…、こんな時に限って何も言わない…。そんな時任を見ていると平気だと笑う笑顔の裏側にあるものを引きずり出して、何もかも暴いてやりたい気分になる事があった。

 「痛い時は痛いってちゃんと言えって…、そう言ったのはお前でしょ…」

 ずっと前、バイト先で怪我を負って帰った時、今回と同じように傷を隠そうとしていた久保田に向かって時任がそう言った。けれど、それからも久保田は傷を隠し続け、実はそんな久保田と自分が同じだという事を時任は気づいていないらしい…。
 我慢大会をしている訳でもないのに、二人で痛みに耐えながら…、
 気づけば何かに怯え、お互いを抱きしめるはずの腕で不安ばかりを抱きしめていた。

 「そんなトコで何やってんだよっ。いつまでも玄関から戻って来ねぇから、黙ってどっか行ったのかと思っただろっ」

 少しの間だけと思っていたが、どうやら色々と考えている内に玄関に長居しすぎてしまったらしい。リビングから玄関にドスドスと歩いてやってきた時任は不機嫌なままだったが、伸びてきた手が…、不安と寂しさを伝えるように久保田のシャツの裾を掴んだ。
 ブツブツと文句を言いながらもシャツの裾を掴んで放さない…、そんな時任を見ていると自然に自分の口元に笑みが浮かぶのがわかる。裾を掴んだ手を引いて抱きしめたら、何すんだと真っ赤な顔をして暴れ始めたが…、
 「お前を置いて、どこにも行ったりしないよ…。一人でどこかに行こうとしても、きっとどこにも行けないだろうしね…」
 と、耳元で囁くとピタリと動きが止まった。
 動きを止め俯いた時任の表情は、背の高い久保田には見えない。けれど、なぜか泣いているような気がして…、細い身体を壊してしまわないように優しく抱きしめながら…、
 もう幻見なくても済むように、この不安が消えてなくなるように…、囁いた耳元に軽くキスをした。
 「な、なにしてんだよ…っ、くすぐってぇだろっ!」
 「ん〜、おまじない?」
 「…って、そんなヘンなおまじないがあるかっっ」
 「あるよ、たぶん効き目あるし」
 「じゃあ聞くけど、何のおなじないしたんだよ?」
 「それはね…」
 「それは?」

 「・・・・・ヒミツ」

 教えろっと叫ぶ時任に追いかけられながら、久保田は玄関を出てマンションの前にあるコンビニに向かう。いつものように二人で…、いつもと変わらない日々を過ごすように…。
 けれど、笑顔の裏側にある不安は未だ消えず…、久保田のおまじないの効き目は一向に現れては来なかった。
 



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