残照.5



 
 床に転がるビールの空き缶、無表情な久保田の横顔。
 けれど、それは現実ではなく、夕暮れ時に見た幻…。
 自分に見えて、久保田に見えなかったのだから、それ以外考えられない。
 なのに、なぜか心のどこかで納得していない自分がいた。
 こんな幻が見えるのは、何か良くない事の前触れのような気がして、
 嫌な予感と不安だけが胸の奥に広がって、それが日を追うごとに強く強くなっていく…。いつも通りの平和な日常が続いてはいたが、目の前に久保田がいないと何か悪い事が起こったりしていないかと心配でたまらなかった。
 今日もバイトに出かけた久保田が無事かどうか確認するために、電話してみようかと何回ケータイを握りしめたか…、
 そんな自分の行動を、普通じゃないと何度思ったか知れない。
 けれど、それがわかっていても、幻を見た時から感じている不安を打ち消す事ができなかった。

 「マジでらしくねぇだろ…、こんなの…」

 そう呟いて座っている床に視線を落とすと、気分まで同じように落ちて沈み込む。こんなのはらしくない、視線を上げろ前を向け…と、そう心の中で叫んで自分を奮い立たせてみても、静かな室内に一人でいるとため息ばかりが出た。
 床を見つめながら俯いて息を吐くとチリリンと鳴る風鈴の音が耳に届き、その音に気づいた時任がベランダに視線を向けると、どこからか飛んできた鳥の黒い影が窓の前を横切る。まるで、何か切り裂くように過ぎった影は不安に揺れる時任の瞳に映り…、ベランダで見た幻のように消えた…。
 けれど、黒い影が消えても胸の鼓動はうるさいくらい激しく鳴って…、時任は立ち上がると急いで玄関に向かう。そうしたのは、このまま一人で部屋にいたら、早く鳴る鼓動に不安に胸が押しつぶされてしまそうだったからだった。

 ドクン…、ドクンドクン・・・・・・。

 ただ目の前を黒い影が横切っただけなのに混乱して、パニックを起こしたように呼吸まで苦しくなってくる。とにかく、東湖畔まで久保田を迎えに行かなければならないと…、それだけを混乱した頭で考えていた。
 久保ちゃんの身に、何かが起こってからじゃ遅い…。
 だから早く…、早く…っ!
 だが、ドアを開けた瞬間に、なぜか無いはずの壁にぶつかって、時任は外に出る事ができなかった。

 「そんなに急いで、ドコいくの?」

 時任がぶつかった壁は、のほほんとした口調でそんな事を言う。
 だから、一瞬カッとして文句を言おうしたが、外に出る理由がなくなった事に気づいて…、ずるずるとその場にへたり込んだ。
 「無事…、だったんだな」
 そう呟いてふーっと息を吐くと、鼓動も普通に戻り呼吸も苦しくなくなる。けれど、目の前にいる久保田が幻だったらと…、ほんの少しだけ不安なって右手を伸ばすと、その手を久保田がぎゅっと握りしめた。
 「もしかして、何かあった?」
 「べっつに何もねぇよっ。それよか、久保ちゃんが手に持ってるヤツ食おうぜ。なんか、すっげ腹減った」
 「…って、最近、俺がバイトから帰るたびに、それ言ってない?」
 「久保ちゃんも何かあったかって…、同じコトばっか言ってっぞ?」
 そんな風にいつもと変わらない調子で笑いながら言い合って、久保田に手を引かれて立ち上がる。でも、その拍子に身体が前のめりになって、自然に久保田の肩に額を押し付ける格好になった。
 その感触に、シャツに染み付いたセッタの匂いに酔うように時任は目を閉じる。しかし、久保田の肩の筋肉が不自然に緊張したのを感じて、すぐに閉じた目を開いた。
 目を開いて押し付けていた額を離して久保田の顔を覗き込み、手を伸ばして襟を掴もうとする。けれど、その手は襟に届く前に久保田の手に捕まってしまった。
 「なに?」
 「・・・・・・・・・」
 一見、いつもと何も変わらないように見える。
 けれど、さっきの肩の緊張は絶対に気のせいなんかじゃない…。
 そう感じた時任は、掴まれた手を引っ張ってリビングに向かう。そして、不思議そうにしている久保田を強引にソファーに座らせると、手に持っているコンビニ袋を奪って食事用に使っているテーブルの上に置いた。
 「ソレ…、食べるんじゃなかったの?」
 「食べるけど、その前に…」
 「その前に?」
 「・・・・・服を脱げ」
 「なんで?」
 「ちょっち、確認したいコトがある」
 久保田の前に立ち、時任が真面目な顔で言う。しかし、久保田は真面目に取り合おうとせず、冗談っぽい仕草で、両手で自分の肩を抱きしめた。
 「いやん、時任クンのエッチ」
 「だ、誰がエッチだっっ。男のクセに、服脱ぐくらいで騒いでんじゃねぇよっ」
 「じゃ、お前が脱いだら俺も脱ぐから」
 「ば…っ! なんで、俺が脱がなきゃなんねぇんだっっ!」
 「どうせ脱ぐなら、平等に?」
 「何が平等なんだよっ」
 「お前が脱がないなら、この話はコレまでって事でコンビニで買ってきたアイスとか食べない? このままだと溶けちゃうし?」
 「〜〜〜〜っっ」
 いくら言っても、久保田は冗談ではぐらかして服を絶対に脱ごうとはしない。
 それはたぶん…、時任の感じた事が正しいからだろう…。時任は眉間にシワを寄せると、本当に話を切り上げてソファーから立ち上がろうとした久保田の肩を押さえた。
 すると、表情は変わらなかったが、肩の筋肉の緊張が押さえた手に伝わってくる。時任は軽く唇を噛んで押さえていた手を離すと、久保田の目の前で着ていたパーカーを勢い良く脱ぎ捨てた。
 「久保ちゃんも脱げよ…。でなきゃ、平等になんねぇだろ?」
 「うーん、もうちょっと色っぽく脱いで欲しかったなぁ…」
 「せっかく脱いでやったのに、ぜーたく言うな」
 「・・・・・・」
 「な、なんだよ?」
 「・・・・・俺のいない間、ちゃんとメシ食ってる?」
 上半身裸になった時任をじーっと見つめながら、久保田がそう聞いてくる。
 けれど、その問いにすぐに答える事は出来なかった。
 久保田がいない間は、あまり食欲が無い。
 だから、一人でいる時は何も食べない事が多い…。
 でも、わずか数日で自分が久保田に気づかれるほど、痩せたとは思っていなかった。
 久保田を脱がせるために思わず脱いでしまったが、少しマズかったかもしれない。そう思った時任は、床に落ちている脱いだパーカーを拾い上げると久保田の顔に向かって投げつけた。
 「ジロジロ見んなっ、久保ちゃんのエッチ!」
 「最近、せっかく少しずつ肉ついてきたと思ってたのに…」
 「うるせーっ、今はそんなの関係ねぇだろっっ。いいからっ、さっさと脱げって…っ! 脱ぐまでトイレに行きたくなっても何があっても、そこから動くの禁止だかんなっ!」
 時任がそう怒鳴ると、久保田は顔に投げつけられたパーカーを片手に小さくため息をつく。そして、あきらめたように着ていたシャツを時任の前で脱ぎ始めた。
 その動作は時任とは違いゆっくりとしていて…、ボタンを外す手に思わず視線が吸い寄せられる。普段、お互いの前で気にせず服の脱ぎ着しているが、こうやって脱ぐ所をじっと眺めたりするのは初めてかもしれない…。
 時任は顔が熱くなってくるのを感じながら、久保田の目の前で、しかも明るい場所で肌をさらしている事に羞恥を覚えて片手で自分の肩を抱いて横を向く。すると、シャツを脱ぎ終えた久保田の声が、時任の耳をくすぐった。
 「そんなカオされると…、溶けたアイスよりも別のモノ食べたくなっちゃうかも…」
 「なっ、なにバカなコト言…っ!!」
 耳をくすぐる久保田の色を含んだ声に、更に顔が熱くなるのを感じながら、横に向けていた視線を久保田に戻す。すると、久保田の片手が時任と同じように自分の肩を抱き、何かを隠しているのに気づいた…。
 時任は往生際の悪い久保田を鋭く睨みつけると、肩を抱いている手を引き剥がす。隠されていた部分は切られたり撃たれたりしたような傷はなかったものの、青アザができ、赤く腫れ上がっていた。
 「久保ちゃん…、コレって…っ」
 「バイト帰りに、ちょっちドジ踏んで転んだだけ」
 「ウソつくなっ!」
 「・・・・・・・転んだのはウソだけど、ドジ踏んだのはホント。けど、そんなにたいしたコト無いし、明日は鵠さんが来てくれるコトになってるし、その時に診てもらうから大丈夫」
 「ヤブ医者が…? 本当に来んのか?」
 「うん」
 怪我はすぐに命に関わるようなものではないし、無免許だが、副業で医者をしている鵠が来るなら安心だ。けれど…、怪我をした理由が問題だった。
 くっきりと肩に残る…、何かで殴られたような跡。
 しかも…、跡を見ると前からではなく、後ろから殴られたように見える。もしも、相手が持っていたのがナイフだったら、久保田は帰って来なかったかもしれない…。
 持って来た救急箱の中に入っているシップを久保田の肩に貼ってやりながら、時任は寒気を感じて鳥肌を立てた。
 でも、それは気温ではなく、恐れからくる寒さで…、
 そんな寒さに耐えながら、シップを貼るために自分に背を向けている久保田を見つめて、もうじき夕暮れが来る事を知らせる…、ひぐらしの鳴く声を聞く。すると、身体だけではなく、心まで寒く冷たく凍りつきそうになって、時任は思わず久保田の背中に抱きついた…。
 「・・・・・見たのか? 犯人のカオ?」
 「残念ながら…」
 「絶対に許さねぇ…、見つけたらブッ殺してやる…」
 「それはお前じゃなくて、殴られた俺の権利」
 「・・・・久保ちゃんの権利は、俺の権利だ」
 「お前らしいリクツだぁね」
 「犯人が見つかるまで、俺から離れんな…。バイトにも一緒に行くし、コンビニとかも一人で行くなよ…。絶対に絶対に…、離れたらダメだかんな…っ」
 不安で寒くて胸が押しつぶされそうで…、時任は背中にぎゅっと抱きついたまま、そう言って久保田の身体に腕を回す。すると、その腕を久保田が優しく撫でて…、ぎゅっと手袋のはまった右手を上から握りしめた。
 服を通してではなく、直接触れ合う肌が温かくて…、熱い…。
 そんなつもりもないのに目に涙が滲みそうになって、時任は耐えるように歯を食いしばると久保田の背中に額を押し付ける。すると、その拍子にわずかに震えた唇が背中に触れて…、さっきとは違う理由で久保田の背中の筋肉が緊張した。
 「ねぇ…、時任」
 「・・・・・・・」
 「できれば、後ろじゃなくて前に来てくれる?」
 「なんで…、だよ?」

 「俺も・・・・、お前を抱きしめたいから…」

 あの幻が見えた日から、ずっと感じている不安と予感…。
 そんなのは気のせいだと…、あの日から思い込もうとしてきた…。
 けれど、久保田の肩の怪我を見ていると気のせいだとはとても思えない。お互いの胸の鼓動が聞こえてしまいそうなほど、ぎゅっと抱きしめ合っていても消えない…、そんな不安は、時任の中で大きく強くなるばかりだった…。
 



                 前   へ             次   へ