残照.4



 
 久保田と時任の住む横浜にある、中華街。
 その中華街の一角に、東湖畔という薬品取扱店兼雑貨屋がある。
 東湖畔の店主は国籍不明、年齢不詳の鵠という人物…。
 久保田は雀荘の他に、この東湖畔で生活費を稼ぐためにバイトをしていた。
 バイトの内容は店番と…、配達…。
 店番の方についてはあまり問題はないが、配達は運んでいる品が品だけに問題がないとは言い切れない。今日、鵠から頼まれて配達した白い紙袋も重くはなかったが、おそらく警察に見つかれば即効で手首に手錠をかけられるに違いなかった。
 「今日も…、いい天気だぁね」
 配達を終えた久保田はそう呟いて、なんとなく安ホテルの影の中で立ち止まる。
 すると、なぜかやけに蝉の声が大きく聞こえた。
 照りつける日差しのように強く…、焼け付くように響く蝉の声…。
 その声を聞いていると、日陰なのに暑さまで増してくる。
 まだ日は高く涼しくなる夕方まで、まだ少し時間がありそうだった。
 だから、急いで帰る必要はなかったけれど、マンションで待っている時任を想うと早く帰りたい気持ちに駆られる…。久保田はポケットの中に入っているケータイに、布の上から軽く触れると安ホテルの影から出て歩き出した。
 時任の待つマンションではなく、バイト先である東湖畔に向かって…。
 でも、それはバイト代をもらうためだけではなく、無免許だが副業で医師をしている鵠に時任の事を相談するためだった。

 『気をつけて帰って来いよ…。車とか…、ヤクザとか色々…』

 そう言ってバイト中に電話をかけてきた日から、時任の様子がどこかおかしい。始めは何かあったのかと思っていたが、別にマンション付近で怪しい車や人を見たとか、後を付けられているような気がするとか、そんな事があって電話をかけてきた訳ではないらしかった。
 念のために調べてみたが部屋にも何かを仕掛けられた様子はないし、何者かが侵入した形跡もない。けれど、時任はなぜか今も不安そうにしている…。
 バイトがない日はそれほどでもないが、バイトに出かける日は必ず心配そうに久保田を見つめてきた。そして、何かを怖がり恐れているかのように、バイトにもコンビニにもどこにでも一緒に着いて来たがる。
 一緒に暮らし始めた頃にも久保田がバイトに出かけると、不安そうにしていた時期があったが…、今の状態はそれよりも酷い…。けれど、なぜこんな状態になっているのか、必ず何か理由があるはずなのに、時任は久保田に何も話そうとはしなかった。

 『別になんにもねぇし、大丈夫だから心配すんな』

 何を聞いても何を言っても、そう答えるだけ…。
 そして、まるで何かがそこにいるかのように、時々じっとベランダを見つめている。ベランダにいた時任が窓ガラスを指差した時も、同じ場所を驚いた表情で見つめていた。
 時任が何を見て驚いたのか、なぜベランダの窓を見つめるのか…、
 久保田には普通の窓にしか見えないから…、わからない…。
 けれど、今の時任の状態が、普通ではない事だけは確かだった。

 「こんなに傍に…、いるのにね…」
 
 不安そうな時任の顔を見るたびに、そう想って…
 右手をぎゅっと握りしめてやりながら、寝顔を眺めるたびにそう呟いて…、
 時任がこんな状態になってから、自分の中にも不安に似た何かが生まれてくるのを久保田は感じている。ベランダの窓を見つめる時任の背中は傍にいるのに、どこか遠かった。
 時任の胸にも自分の胸にも生まれてくる…、不安…。
 その不安を押し殺すようにタバコの端を噛むと、久保田はようやくたどり着いた東湖畔の手書きのチラシの貼られたガラス戸を引き開ける。すると、そんな久保田の事を鵠がいつものように穏やかに微笑みながら迎えた…。
 「配達、ご苦労様でした。思ったよりも早かったですね」
 「ま、今回の場所はそんなに遠くなかったし」
 「ですが、それでもいつもより早いですよ」
 「・・・・・そう?」
 何かを見透かしたような…、そんな鵠の言葉…。
 何も聞かず何も言わないが、見つめてくる目が「時任君に何かありましたか?」とそう聞いている。無免許でも医師だからなのか、それとも情報屋としての顔もあるせいなのか、鵠はちょっとした変化にも敏感だった。
 何か変わった事があると、こんな風に必ず目で聞いてくる。
 そんな鵠の視線を感じた久保田は、店内にある背もたれ付きの長椅子に座った。
 でも、そうしたのはお茶を飲みながら雑談するためではなく、医師としての鵠に時任の事を話すためである。実は時任の様子がおかしくなってしまった事について、久保田はわからないながらも一つの可能性について考えていた…。
 「ねぇ…、鵠さん…」
 「なんです?」
 「今日は雑貨屋でも情報屋でもなく、医者としての鵠さんに話があるんだけど」
 「医者としての私に?」
 「・・・・・悪いけど、時任の事を診てやって欲しい」
 久保田が差し出された麦茶の入った茶器を受け取りながら、いつかの日のようにそう言う。すると、鵠は茶器を差し出した手を止めた後、何かを思い出したように口元に浮かべた微笑みを深くした…。
 暗い裏路地で久保田が時任を拾った頃、こんな風に鵠に頼み事をした事がある。
 時任の事を…、診てやって欲しいと…。
 でも、その時と今とでは久保田の口調も声も、表情も違っている。
 あの頃は滲まなかった想いが茶器を持つ手にも滲んで、麦茶の水面はそれを見つめる久保田の表情を映してユラユラと揺れていた。
 「様子がおかしくなり始めたのは、三日くらい前…。はっきりしたコトは本人が話さないからわからないけど、幻覚みたいなモノを見てる可能性がある」
 「つまりWAの影響で、そんな症状を起こしてる可能性があるという事ですか…」
 「今までそんな症状はなかったし、だからあくまで可能性…、の話だけど」
 「ですが、どんな可能性も捨てる事はできません…。WAについては成分も投与された時の症状も、後遺症についても何もはっきりとわかっていませんから」
 「・・・・・・・診察は明日頼める?」
 「明日は特に用事もありませんから、大丈夫ですよ」
 「いつも悪いね」
 「その分、料金は弾んでもらいますから」
 鵠はそう言うと、自分用に入れた麦茶を一口飲んで息をつく。そして、じっと麦茶の水面を見つめ続けている久保田の方を眺めながら、わずかに目を細めた。
 「時任君の事が心配ですか?」
 「うん」
 「・・・・・あっさり認めるなんて、意外ですね」
 「そう? 心配してるのは事実だし、認めるもないも無いと思うけど?」
 「まぁ、それはそうなんですが…、前の貴方の口からは聞けないセリフでしょうね。飼っている猫の事が心配で、今すぐにでも飛んで帰りたいなんて…」
 「うーん、そこまでは言ってないんだけどなぁ」

 「でも、事実でしょう?」

 なぜか、そう言った瞬間、鵠の口元から微笑みが消える。
 けれど、鵠の問いかけに答えない久保田の口元には微笑みが浮かんでいた。
 口では曖昧な事を言いながらも、時任の待つマンションに早く帰りたいと思っている。そんな自分自身に苦笑する事もあるけれど、自分の帰りを待っている時任の事を想うと微笑まずにはいられなかった。
 だが、そんな久保田を見る鵠の表情は…、なぜかどこか哀しそうに見える。でも、久保田はそんな鵠の様子に気づきながらも、何も聞かずに座っていたソファーから立ち上がった。
 「じゃ、俺はこれで帰るから」
 「では、今日のバイト代を…」
 「どーも…」
 「明日の事、時任君にはなんと言うつもりです?」
 「さぁ、なんて言ったらいいんだろうねぇ? 時任は鋭いから、ウソついてもすぐに見破られちゃうかも?」
 「なるほど、それでは浮気はできませんね」
 「するつもりもないけど」
 「時任君、一筋ですか…」

 「そ、他には何も考えられないくらいにね…」

 鵠と話ながら、いつもよりも自然に出てくる言葉…。
 けれど、その言葉も声も少し遠くから聞こえてくる…。
 何が不安なのか、何を焦っているのか、それを時任に問いたいはずなのに…、
 鵠に背を見送られながら東湖畔を出る頃には、自分自身に問いかけていた。
 こんなに一緒にいるのに、こんなにも傍にいるのに…、
 何がこんなにも不安なんだろう…。
 水面に浮かんでは消えていく泡のように、次から次へと浮かんでくる不安はマンションに急いで帰って…、時任を抱きしめたら消えてくれるのか…、
 それとも、ぎゅっと強く抱きしめても消えない不安なのか…、
 久保田自身にもわからなかった。
 「危険とはいつも隣り合わせ…。でも、今はまだ…」
 マンションに向かって歩きながら、そう呟いて時任の名を呼ぶ。
 そして時任を想いながら…、ぼんやりと空を見上げた…、
 けれど、その瞬間、肩に強い衝撃が走って久保田は顔をしかめる。

 「・・・・・・っ!!」

 わずかな油断…、わずかな隙間…。
 久保田は倒れず肩の痛みに耐えながら、すぐに体勢を立て直して振り返る。
 だが、すでに犯人は久保田に背を向け走り出していて、顔を見る事はできなかった。
 後を追う事はできたが、肩を負傷している上に相手がどんな目的で襲ってきたかも、本当に一人かどうかもわからない。そのため、久保田は黙って犯人の背中を見送った。
 
 「今はまだ…って、やっぱ甘すぎかもね…」

 明日、マンションに鵠を呼んだのは時任を診察してもらうためである。けれど、どうやら時任だけではなく、久保田にも医師としての鵠に用事ができたようだった。




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