残照.3
時任が目覚めると、久保田が隣で眠っていた…。
しかもリビングにいたはずなのに、眠っていたのはソファーではなくベッド。久保田がバイトから帰ってきたのは記憶にあるが、ベッドに運ばれた記憶はなかった。
どちらの寝相が悪いのか、時任に見えるのは久保田の顔じゃなくて足…。
お互いの足を見ながら眠るのは何かヘンな感じもするが、狭いベッドの上なので自然にそうなってしまうのかもしれない。時任はゴシゴシと目を軽くこすって大きなアクビをすると、楽しそうな顔で目の前にある足に手を伸ばした。
けれど、指が足の裏に触れる前に手を止めると、少し考えてからゴソゴソと身体の向きを変えて移動する。そして、眠っている久保田の足ではなく顔を見た。
「良く寝てんなー…」
小さな声で呟くようにそう言ったのは、時任が起きている時に久保田がぐっすりと眠っているのを見た事がないからである。ウトウトしていたり浅い眠りについている事はあっても、顔をのぞき込んでも何のリアクションも無いくらい眠っているのは珍しい事だった。
さすがに指で頬を突いたりしたら目覚めるかもしれないが、時任は何もせずに久保田の横に突っ伏す。そして、室内に響く久保田の寝息を聞きながら、時任は目に涙を溜めながら二度目の大きなアクビをした。
前に久保田が横で眠ってる時任の寝顔を見ていると、眠くなくても眠くなってくると言っていた事がある。その時はただの冗談だと思っていたけれど、こうやって久保田の寝顔を見ているとあの時言っていた事は本当だと感じられた…。
ふと見たベランダの窓に久保田を見た気がして…、何か嫌な予感がして不安な気持ちになっていたけれど…、
こうして、久保田の横で眠っているとそんな不安も消えてなくなる。久保田と眠る毛布の中は夏なので少し暑かったけれど、とても気持ち良かった。
けれど、朝から何も食べてなくて気を抜くと腹が鳴りそうになる。
このままでいたい気がしても、腹の虫がそれを許してくれなかった。
腹が減っては戦はできないかもしれないが、腹が減っては毛布の中にもいられない。そのため、時任は鳴りそうな腹を押さえて、久保田よりも早く毛布から抜け出そうとした。
だが、そうしようとして上半身を起こした瞬間に、腰に何かが絡みつく。絡み付いて放してくれなくて…、時任はぐぐっと腹に力を入れながら久保田の方を見た。
けれど、腕を伸ばして時任の腰に抱きついていても、まだ起きた様子はない。
寝息を立てながら、ぐっすりと眠り込んでいた。
「俺は抱きマクラじゃねぇっつーの…」
ムッとしながら言ったつもりでも、なぜか口元が笑っている。
いつもなら、こんな風に上から時任を見つめているのは久保田の方で…、けれど今日は逆に時任が久保田を上から見つめていた。
いつもとは違う視線、いつもとは少し違う気持ち…。
それはなぜかあたたかくて…、それからほんのちょっとだけ切ない気もして…、
時任はいつも久保田がするように、手を伸ばして久保田の髪を撫でる。
すると髪を撫でたからではなく、他の理由で久保田がパチっと目を開いた。
ぐうぅぅぅぅ〜〜、うぅぅぅぅ〜〜〜〜っ
室内に鳴り響く…、外れた調子のマヌケな音…。
それは、空腹に耐え切れなくなった時任の腹の虫が鳴いた音だった。
ぐぐっと力を入れて耐えてきたが、どうやら頭を撫でた拍子に腹の力が緩んだらしい。室内に鳴り響く時任の腹の音を聞いた久保田は二、三回、目をパチパチとしばたいた後に、腰に絡みつかせていた手を放して、今度はその手で自分の腹を押さえながら肩を震わせて笑い出した。
すると、時任の頬が赤くなった上にぷーっと膨らんで、さっき撫でた頭をポカッと軽く殴る。そして、勢い良くベッドから起き上がると、久保田の上にかけられている毛布を剥ぎ取った。
「くそぉっ、人の腹の虫を笑うヤツはこうしてやるっ!!!腹の虫を笑うヤツは、腹の虫に泣くんだぞ!!」
「…って、そんな言葉あったっけ?」
「あってもなくても関係ねぇに決まってんだろっ。これは俺様の言葉だっ」
「あっそ」
「とーにーかくっ、笑ってるヒマがあったらメシだっ、メシっ! メシにしようぜ」
「そう言われても、食パンと残りのカレーしかないんだけどね」
「げ…っ」
「もしかして、いらない? 食べないと、今夜もその次もカレーなんだけど?」
「よ、よろこんで食べさせていただきマース」
久保田が作った、鍋いっぱいのカレー…。
作ったものは全て食べるのが久保田家の家訓かどうかはわからないが、カレーを作るとカビが生えるか腐らない限りはカレーが続く。今日のカレーはすでに中に入っていたはずの野菜も、何度も煮込んだせいで形をなくしつつあった。
けれど、また食うのは嫌だと思いながらも、食べてみるとうまい。何回も煮込んだカレーは、今日も煮込まれておいしそうな匂いでキッチンとリビングを包み込んだ。
カレーを温めるためにキッチンに向かった久保田と一緒に寝室を出た時任は、カレーがあたたまるのを待ちながら、リビングでぼんやりとベランダへと続く窓を眺める。けれど、今はまだ夕暮れ時ではなく、窓ガラス越しに見える空も青かった。
いつも食事をしているテーブルに頬杖をついて、イスに座りながらぼんやりと空を眺める。すると、あたためたカレーの入った皿を持って、キッチンから久保田がやってきた。
「さっきから、何見てんの?」
「空」
「ふーん…」
「今日も暑そうだよな」
「うん、そうね」
それだけ話すと時任はテーブルに置かれたカレーを食べ初め、久保田はその前に座ってタバコを吸い始める。何事もない一日は、部屋の中に満ちた空気のように穏やかだった。
今日は久保田のバイトも無いし、昨日のようにケータイで連絡する必要もない。
目の前に見える位置にお互いがいるなら、何も心配する必要はないはずだった。
けれど、なぜか昨日の夕方にガラス越しに見えた久保田の姿が気になって…、時任はカレーを食べ終えるとまたテーブルに頬杖を付く。すると、そのタイミングに合わせたかのように、久保田が長くなったタバコの灰を灰皿の中にポトリと落とした…。
「なぁ、久保ちゃん…」
「ん〜?」
「昨日は別に何もなかったんだよな?」
「あぁ、電話で言ってたヤクザのオジサンとか車とかそういうの?」
「うん」
「マンションの前に不審な車はなかったし、誰かが見張ってる様子もなかったし何もなかったけど、どうして?」
「なんとなく…」
「もしかして、何かあった?」
「・・・・別に何もねぇよ」
「なら、いいけど」
「・・・・・・」
「時任?」
「そうだよな…、何もあるはずねぇよな」
そう呟きながらベランダの窓を眺める時任の横顔を、久保田は灰色の煙を吸いながら眺める。けれど、ただ見つめているだけで何も言わなかった。
久保田と二人でいて、こんなにも穏やかに時間が過ぎていって…、
また温め直したカレーも、すごく美味しくて…、
なのに、なぜこんなにもあの幻が気になっているのかわからない。ぐっすりと眠って目覚めても、カレーを食べて空腹が満たされても、あの幻が忘れられなかった。
らしくねぇよな…と、何度も何度も胸の中で繰り返し言いながらも…、
窓ガラス越しに見えた久保田の背中が、脳裏に焼きついて離れなかった…。
「ニコチン切れ…」
久保田が中身のなくなったセッタを握りつぶしながら、そう言ったのは時任がカレーを食べ終ってから、しばらくたってからで…、
さっきまで眺めていた空は青空だったのに、また昨日のような夕焼けが空を染め始めた頃だった。
実は二人が起きたのは実は午後三時だったので、時間帯から言えば食べたカレーも昼ご飯というよりはおやつだったのかもしれない。ぼんやりと穏やかに時間が過ぎて外からはいつの間にか、ひぐらしの鳴き声が聞こえていた…。
「セッタ切れたから、コンビニ行ってくる」
「・・・・・・だったら、俺も」
「外暑いよ? アイス買って来てあげるから、ウチで待ってなって」
「・・・・・・」
「ホントにどうしちゃったのお前? 昨日から様子がヘンよ?」
「う、うっせぇ…っ、ちょっと夢見が悪かっただけだっつーのっ!」
久保田にヘンだと言われて焦った時任は、思わずそう言ったが…、
それこそ、らしくない…。
だが、久保田はセッタをくわえたままイスから立ち上がると、何も言わずに時任のそばまで歩く…。そして、立ち止まると時任の頭を乱暴にぐしゃぐちゃと撫でた。
微笑みながら頭を撫でて、コンビニに行くためにリビングを出る。
すると、そんな久保田の背中を見送りながら、時任は自分の頭に右手を乗せる。そうしたのは、久保田に撫でられた場所が少しくすぐったかったせいだった。
照れ臭くてくすぐったくて…、そしてちょっとだけ胸が苦しい…。
こんな風に苦しさを感じるのは初めてで、その痛みは夕焼けを見るともっと強くなった。
「やっぱアレって…、ただの見間違いとか幻だったのかな…」
頭に乗せた手をゆっくりと下に降ろして立ち上がると、昨日と同じようにベランダに近づく。けれど、今日は缶ビールを握りしめてはいなかった…。
もしも、これで昨日と同じものが見えたとしたら、それは幻じゃないかもしれない。
時任はすーっと息を大きく吸い込むと、窓を開けてベランダに出た。
それから、風に揺れる風鈴の音を聞きながら、二歩ほど全身して目を閉じて振り返る。そして、ゆっくりとゆっくりと…、閉じた両目を開いた…。
「き、昨日のって…っ、幻とかじゃなかったのかよ…っ」
そう言った時任に見えているのは、昨日と同じ場所に座る久保田の姿。
けれど、今日は姿勢が違うせいか横顔が見える…。
リビングにいる久保田は、昨日の時任のように一人でビールを飲んでいた。
時任は慌ててリビングに戻ったが、やっぱりそこに久保田はいない…。
まだ、コンビニから帰って来てはいなかった。
「右手だけじゃなくて、目までどうかしちまったのか? 俺」
そう呟いてもリビングには誰いないので、返事は返ってこない。
時任はもう一度ベランダに戻ると、久保田が見える窓ガラスの前にしゃがみ込んだ。
「おいっ、久保ちゃんっ! 久保ちゃんってばっ!!」
窓越しに呼びかけても、久保田はビールを飲み続けているだけで気づかない。しかも、良く見るとリビングの床には飲んだビールの空き缶が何個か転がっていて…、
俯いた久保田の表情を見ていると夕焼けを見た時よりも、もっと…、胸が痛い…。
どこを見ているのか、何を見ているのかわからない…、
楽しそうでもうれしそうでも、哀しそうでも苦しそうでもない無表情な顔をしているのに、見ていると苦しくて息が詰まりそうで…、
時任はじっと窓ガラスの向こうの久保田を見つめながら、呼びながら無意識に窓ガラスを軽く爪で引っかく…。けれど、やっぱりこんなにはっきり見えていても幻でしかないのか、久保田が時任のいる窓の方を向く事はなかった。
「なんで…っ、なんでこんなモンが見えてんだよ…っ」
ドンドン…っ、ドンドンドン・・・・っ!!
窓ガラスを引っかいていた手で、今度は叩いて久保田を呼ぶ。
でも、そうしていると…、上から伸びてきた手がそれを止めた。
「どうした? 何があった?」
「・・・・・・くぼ…、ちゃん?」
窓ガラスを叩く時任の手を止めたのは、セッタとアイスを買ってコンビニから帰ってきた久保田で…、時任は自分の手を握りしめている久保田の手を呆然と見つめる。久保田は確かに自分の手を掴んでいて、すぐ近くにいるのに…、
窓ガラスの向こうに見える久保田は…、まだビールを飲みながら床に座っていた。
一人しかいないはずの久保田が二人いる…。時任は呆然としたまま、握りしめられてない方の手でもう一人が映っているガラスを指差した。
「くぼちゃん…、あれって…」
「ん?」
けれど、時任が指差した先には、もう一人の久保田の姿はない。
まるで、もう一人に見られるのを嫌ったかのように消えてしまっていた。
そのせいで窓ガラスを指差した手は、そのままの状態で止まり…、
時任と久保田は夕焼けの映るガラスをじっと見つめる…。
でも、いつまでたっても…、夕日が沈んでも…、
もう一人の姿は見えなかった。
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