残照.2




 見上げた空はまだ暗い…。
 けれど、もう真夜中の時間帯のような暗さはなかった。
 久保田の雀荘でのバイトが終ったのは、明け方近く。
 眠らない街すらも、つかの間の眠りに入り始める時間…。
 雀荘から出た久保田は、セッタをくわえてライターで火をつけた。
 そうやってセッタを吸いながら歩くのは、時任の待つマンションまで続く道で、いつもと何も変わりない。バイト中にケータイに電話をかけてきた時任の慌てたような…、心配そうな様子は気にかかっていたが、明け方が近くなった街は静かで空気もいつものように少しだけ澄んでいた。
 「起きてないで、寝ててくれるといいんだけどね」
 マンションまでの道を歩きながら、そんな風に呟いたのは、なんとなく時任が起きて待っている気がしたせいかもしれない。そういう事は珍しくはなかったけれど、起きていても眠っていても時任は、久保田が帰ってくるまでリビングにいた…。
 それは帰るのを待ってくれていた証拠で…、
 そんな時任を見るたびにベッドへ行っててくれればと思いながらも、微笑んでいる自分がいる。マンションへと歩く足が少し早いのも、歩きながら気持ちがどこか前へ前へと向かっているような気がするのも、自分の帰りを待っていてくれる時任の顔を早くみたいせいなのかもしれなかった。
 「そんなに心配しなくても…、すぐに帰るよ…」
 夜明け前にぽつりと言った言葉は、静かな空気に混ざるように消える。
 口元から立ち昇っていく灰色の煙も、同じように空へと昇って消えて…、
 マンションに近づくに従って、ゆっくりと穏やかに夜が明けていく…。
 夜が明け日が昇り、目覚めを知らせる朝のはずなのに、まるで眠りに誘うように穏やかに明けていく空はとても綺麗だった。
 そんな空の下、ようやく帰り着いたマンションの前のコンビニで食パンと牛乳を買った久保田は朝焼けに染まり始めた空を見上げる。だが、自分を見つめる何者かの視線を感じた気がして…、視線をすぐに空から下へと戻した。
 辺りを見回したが、怪しい人影も車も見当たらない。けれど、時任の不安が伝染してしまっているのか、久保田は少しの間、歩き出さずに立ち止まったままだった。
 ポケットの中に入っているのはタバコとライター。
 そして、右手に持っているのは食パンと牛乳の入ったコンビニ袋…。
 身を守れるような武器は、何一つない。
 だが、今は何事も無い穏やかな朝で、そんなものは必要なかった。

 「俺らしくない…、か…」

 時任の右手は、普通の状態ではない。
 そして、そんな状態になったのは、東条組や出雲会が追っているWAが関係している。だから、いくら用心してもしすぎる事はないし、状況を考えると拳銃を常備していてもいいくらいだった。
 けれど、そうしないのは出来る事なら、普通に暮らしていたいと…、
 普通がどんなものなのかも知らずに、そう思っている。
 そして、そんな風に思うようになったのは、時任と暮らすようになってからだった。
 出雲会を抜けた後、時任と会う前の日々は少なくとも今よりも安全だったかもしれない。でも、前よりも危険に近くなった今の方が穏やかに夜が明け、不眠症ながらも安定した眠りについていた。
 それはとても矛盾していたけれど、その矛盾を正す気はない。久保田はコンビニ袋を肩に背負うように持つと、のんびりと時任の待つマンションに向かった。

 「ただいまー…っと」

 あまり音を立てないように気をつけながら玄関を鍵で開けて、そう言いながら中に入る。そして、寝室ではなくリビングに向かうと予想していた通り、時任が起きて待っていた。
 いつものように、ゲームをしながら…。
 けれど、久保田が帰った事に気づいた瞬間、時任はいつもと違ってほっとしたような顔になる。そんな時任の顔を見るとケータイで話をして無事な事がわかっていたので、そのままバイトを続けたが…、早く帰ってくれば良かったと後悔せずにはいられなかった。
 「新しい食パン買ってきたけど食う? それとも寝る?」
 「うー…、なんかハラ減ったから食ってから寝る」
 「了解」
 そう言った時任の言葉は本当で、腹がぐーっと鳴ってる音がリビングに響く。
 すると、その音を聞いた久保田が小さく笑って、時任が少しムッとした顔になる。だが、久保田が食パンを焼いてバターを塗って、コーヒーと一緒に持っていくと、時任はゲームのコントローラーを握りしめたまま眠ってしまっていた。
 「食い気よりも、眠気が勝っちゃったみたいね…」
 久保田はそう言いながら食パンとコーヒーをテーブルに置くと、灰皿でタバコを揉み消して眠っている時任のそばに近づく。そして、床にしゃがみ込んで身を屈めると、ここで眠らずにちゃんとベッドに行くよう耳元に囁いた。
 「寝るのはいいけど、いくら夏でも床で眠るとカゼひくよ」
 「ん〜〜…、寝てないパン食う…」
 「って言いながら、もう目が開かないクセに」
 「ハラ…、減った…」
 「だったら、食べさせてあげよっか?」
 「・・・・・・・・」
 「時任?」
 「・・・・・・・・」
 「・・・・・・おやすみ」
 結局、時任は久保田の焼いたパンのおいしそうな…、暖かい匂いの中で眠りについて…、そんな時任の顔を見た久保田は細く長く息を吐く。安心したように微笑みながら眠っている時任の右手は、久保田のシャツの端をぎゅっと握りしめていた。
 「そんなに心配しなくてもココにいるよ…、ずっと、お前のそばにね…」
 そう言った久保田の表情も声も、部屋に満ちた穏やかな空気のように優しい。久保田は起こさないようにそっと伸ばした手で時任の頬に触れて、閉められたカーテンから漏れる光を見つめた。
 今はまだ聞こえないけれど、もう少ししたら完全に日が昇って蝉が鳴き始める。
 それまでのつかの間の静けさは時任だけではなく、久保田も眠りへと誘っていた。
 「ふあぁ〜…」
 すでに眠っている時任のそばで、久保田も大きなアクビをする。テーブルの上にはこんがりと焼けたトーストと、香ばしい匂いのするコーヒーが置かれていたが、久保田はそのどちらも再び手に取る事もせず…、
 眠ってる時任を抱き上げて、床から立ち上がった。

 「くぼちゃ・・・、ベラン…、ダ・・・・」

 久保田が時任を抱き上げて寝室に運ぼうとすると、時任が小さな声で寝言を言う。その寝言を聞いた久保田はベランダの方を見たが、コンビニの時と同じように何も変わった所はなかった。
 チリリーン……、リリーン…。
 ベランダから聞こえるのは、朝の風に吹かれて鳴る風鈴の音だけ…、
 窓を開けて外も確認しようとしたが、時任の寝顔を見てそうするのをやめた。
 二人でいる限り穏やかな眠りの時間は、きっと壊れたりしない…。
 そんな朝がどれくらい続くのか、それはわからないけれど…、
 時任が微笑みながら眠る…、今だけは…、
 朝の穏やかな空気に包まれながら、二人で眠っていたかった。





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