残照.1




 世の中には、不思議な事がある。
 不思議だと思える事がたくさんある…。
 けれど、その不思議は偶然が重なっただけだったり、何かを見誤っていたり、知らなかったりしだけの事なのかもしれない。ただ、わからなかっただけで不思議な事なんて、この世には何一つないのかもしれない…。
 でも、その日に起こった出来事は、不思議のままで良かった…。
 わからなくても知らなくても…、それで良かった…。
 ただ、その日の夕焼けがとても綺麗だった事を覚えていられるなら…、
 他には何もいらなかった…。
 すべてを…、焼き尽くすような空の色…、
 目に焼きついて…、離れなくなりそうになるくらい鮮やかな夕暮れ…、
 そんな夕暮れの中に君が…、

 ただ…、そこに君がいるのなら・・・・・。









 今は梅雨が明けたばかりの、七月の下旬。
 だが、梅雨明けを待つ事なく、すでに夏らしい暑い日々が続いている。
 照りつける日差しは強く、空を見上げると浮かんだ雲の白さが眩しかった。
 始まったばかりの今年の夏はまだまだ暑くなる一方で涼しくなる気配はなく、マンションの前にあるコンビニで缶ビールを買って来た時任は、窓を開けてベランダに出る。すると、夕方になって少し涼しくなった風がゆっくりと頬を撫でて、風鈴がチリリンと小さな音をたてて鳴った…。
 鳴った風鈴は、清涼水のペットボトルについていたオマケ…。
 手が届かない時任の代わりに、久保田がベランダに吊るした。
 風鈴の音と、どこか遠くから波のように大きくなったり小さくなったりしながら押し寄せてくる、ひぐらしの声…。そんな夏らしい音を聞きながら、時任は良く冷えた缶ビールのプルトップを開けた。

 「今日も一日、暑かったよなー…」

 ビールを一口飲んで呟いた独り言と一緒に、時任はほっとしたように息を吐く。
 そしてベランダの手すりに片肘をついて、そこに頬を乗せた。
 そうしていると、時間がゆっくり流れているように感じられる。けれど、太陽は次第に赤い残照を残して沈んでいって、それにつれてひぐらしの声もどこか波が引いていくように遠くなっていくような気がした…。
 なぜか夕暮れを見ていると、波が引いていくように何もかもが帰っていくように見える。
 空を飛ぶカラスも道を行く人々も…、何もかもが自分の帰るべき場所へ…。
 けれど、バイトに行った久保田は、この部屋にまだ帰ってきてはいなかった。
 東湖畔という雑貨屋でのバイトの時は、主な仕事が運びのせいか帰りがそれほど遅くなることはない。でも、今日行っている雀荘でのバイトは代打ちのため、帰りが深夜どころか早朝になってしまう事もたまにあった。
 だから、時任がこうしてビールを飲んでる理由も、そこら辺にあるかもしれない。
 それほど好きじゃないビールを、一人で飲む理由が…。
 雀荘のバイトの時、いつも先に寝てなと久保田は言うけれど、一人きりの部屋は広すぎて、一人きりで過ごす夜は長すぎて眠れなかった。
 「マージャンできたら俺も代打ちとか出来んのに…っていうか、教えられても牌の名前とか役とか点数とかぜんっぜん覚えらんねぇからムリだけどっ」
 そんな風に言ったのは、前に久保田に麻雀を教えてくれと頼んだ事があったからである。けれど、時任は簡単な説明を聞いただけでギブアップしたのだった。
 
 『麻雀は4人で、卓に積まれた牌を取って役っていうのを作るゲーム。そんで、卓の上の牌が一定数無くなるか、親が大体の場合で二周するまでにあがったヒトが点数もらえるんだけどね』
 『…って、いうか牌は駒だってわかるけど、役ってなんだ?』
 『うーん、トランプのポーカーみたいモノ? スリーカードやフォーカードとか、そういうカードを集めてそろえるヤツ』
 『じゃあ、役を教えろよっ。役を覚えてればできんだろっ?』
 『まぁ、それだけじゃないんだけど…、ね』
 『久保ちゃんにできて、俺様にできないなんてコトはねぇっつーのっ!』
 『ん〜…、なら教えてもいいけど、雑誌に初心者向けのページがあるから、とりあえず耳で聞くよりコレ見た方が早いかも…。そんで、大体飲み込めたら実践ってコトで…』
 『・・・・・・・げっ、なんかいっぱい書いてある』
 『ココに書いてあるのが、全体の流れ…』
 『〜〜っっ』
 『鳴きの種類とかがココに書いてあって…、点棒とかの説明はココ…』
 『〜〜〜〜〜〜っっ!!!』
 『そんで、俺らのカンケイとか、そういうのはここらヘンに…』
 『えっ、どこどこっっ!? …って、ど、どさくさに紛れて妙なコト言ってんなっっ!』
 『スクープなのになぁ』
 『誰が読むんだっ、そんなスクープっ!!!』
 『さぁ?』
 『そーれーにっ、これは麻雀雑誌でっ、ゴシップ誌じゃねぇっつーのっっ!!!』

 そんな感じであきらめた麻雀だったが、東湖畔の配達のバイトの時は一緒に行く事もある。でも、それは危険が少ない荷物の時だけ、久保田が一緒に来る?と声をかけてくれた時だけだった…。
 久保田の叔父である葛西に言わせると四六時中べったりくっついているらしいが、時任はそんな風には思っていない。いくらあっても足りない時間は、久保田と一緒にいたいという気持ちからそう思うのか、それとも黒い皮手袋に包まれた人間じゃない右手の事でそう思ってしまうのか…、時任自身にもわからなかった…。

 「俺の右手って…、どんな手だったんだろ…」

 そう呟きながら時任が見ているのは、WAという薬で獣化したと思われる右手。マンションの近くの裏路地で久保田に拾われて、寝室のベッドで目覚めた時から時任の右手は獣化していた。
 だから、獣化していない右手を見た事がない。拾われる前の記憶がないのだから、それは当たり前の事だったが、獣化した右手を自分の手だとは思えなかった。
 記憶が無くても、違和感は決して無くならない。
 そのおかげで久保田と一緒にいる時間に、何事もない穏やかな日々に溺れなくてすんでいるのかもしれないけれど…、
 それがなぜか…、とても・・・・・、

 こんな風に一人で夕焼けを眺めてしまうくらい…、切なかった。

 右手がこんなになってしまった原因を、思い出せない過去を探し出してやる…。
 その気持ちは無くなるどころか強くなっているのに、いつの頃からか右手を見るたびに想うのは過去ではなく…、久保田の事だった。
 そして今も久保田の事を考えて、また一口冷えたビールを胃に流し込む。すると、まだ帰って来るはずはないのに、リビングから自分を呼ぶ久保田の声がして時任は振り返った。

 「あれ…、いつの間に帰ってんだよ!? 今日のバイトって雀荘じゃなかったのか?」
 
 さっきまでの寂しそうな表情が消えて、そう言いながら笑った時任の視線の先…。閉じられたベランダの窓のガラス越しにリビングを見ると、ソファーの前に…、いつもの定位置に久保田が座っているのが見えた。
 ただいまも何も聞こえなかったし、いつ帰ってきたのかもわからないけど…、
 今、ここに…、自分のそばに久保田がいる…。
 だから、時任は飲みかけの缶ビールを片手にリビングに戻った。
 消えていく夕焼けを振り返らずに…、とてもうれしそうに楽しそうに…、
 けれど、カラカラカラ…と音を立てて窓を開いてリビングに足を踏み入れると…、
 久保田のいるソファーの前に走り寄ると…、

 ・・・・・・・そこには誰もいなかった。

 さっきまで確かに居たはずなのに、どこにもいない。
 まるで夢か幻のように、消えてしまった。
 それを知った時任の心臓の鼓動は大きく一つ跳ねた後、苦しく激しく鳴り始める。無邪気な笑顔は凍り付き…、手から缶ビールが落ちて零れた液体が床を濡らした。
 ビールはまだ少ししか飲んでいないし、酔って幻覚を見たとは思えない。
 あれは確かに久保ちゃんだった。
 ベランダの窓を開けるまでは、確かにここにいた…。
 時任は少し震えた手でソファーに投げてあったケータイを掴むと、久保田のケータイに電話をかける。すると、呼び出しのコール音が鳴り始めた。

 トゥルルルル…、トゥルルルル………。

 一回…、二回・・・・・、三回・・・・・・・。
 手のひらに汗が滲んでくるのを感じながら、苦しく激しく鳴る鼓動を数えるようにコール音の数を数える。声には出さずに心の中で久保田を呼びながら、強くケータイを握りしめる。
 早く・・・、早く・・・・・、早く・・・・・・っ。
 早く電話に出てくれないと、鼓動が早くて苦しくて心臓が壊れそうだった。
 もしも、久保田に何かあったらなんて…、考えた事がない…。一緒にいるのが当然で、ずっと一緒にいるのが当たり前で…、それだけは何があっても信じていたかった…。
 
 「・・・・・・・久保ちゃん」

 ・・・・・まさか。
 長いコール音を聞いていると、嫌な予感ばかりが胸を過ぎる。
 けれど、何回目かのコール音の後…、聞きなれた声が耳に響いてきて…、
 時任はほっとしたように細く長い息を吐きながら、床に倒れるように座り込んだ。

 『時任? どしたの?』

 そんな久保田の声を聞いても、すぐには答えられない。まだ壊れそうに鳴っている心臓は、まるで何かを警告するように身体の中で鳴り響いていた。
 けれど、久保田の声を聞いている内に次第に落ち着いてきて…、時任は久保田が座っていた場所を軽く左手で撫でる。すると、さっき見たのが幻覚か何かだという事を示しているかのように、床は誰かが座っていたと思えないほど冷たかった。
 「・・・・・・・・」
 『もしかして、何かあった?』
 「・・・・・なんでもない、なんか俺の気のせいだったみたいだし」
 『って、詳しく話してくれないとわからないけど?』
 「詳しく話さなくても俺様が気のせいだっつったら、気のせいなんだっつーのっ」
 『ま、それはそうかもだけどね』
 「それに電話したのは、なんつーか…、その…ちょっと声が聞きたくなっただけっていうか…」
 『じゃ、今から帰ってもっと聞かせてあげよっか? 今よりも…、もっと近くで…』
 「み、耳元で囁くなーっ!!」
 『耳元じゃなくてケータイで、でしょ?』
 「細かい事は気にすんなっ。それに今はバイト中だろっ、バイトしろっ、バイトっ!」
 自分で電話をかけておきながら時任がそう言うと、久保田が「ほーい」といつもの調子で返事する。けれど、電話で無事が確認する事ができたのに、なぜかまだ不安が胸の奥に残って消えなくて…、時任はケータイを握りしめながら窓の外の夕暮れをらしくない不安そうな表情で眺めた…。
 「気をつけて帰って来いよ…。車とか…、ヤクザとか色々…」
 『心配してくれるのはうれしいけど、ホントにどうしちゃったの? お前』
 「・・・・別にどうもしねぇよ」

 『だったら、いいけどね』
 
 そう言って切れたケータイを耳に当てたままでいると、久保田の声の代わりに風鈴とひぐらしの声が反対側の耳に聞こえてくる。それは聞いていると涼やかで心が和む…、そんな声で音のはずだったが…、
 今の時任の耳には、まるで危険を知らせる警告音のように鳴り響いていた。
 


 
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