幸せの定義.9




 ポケットに手を伸ばしてセッタを取り出して火をつけると、煙が白く上へと立ち上っていく。
 その様子をただじっと見つめながら、マンションの前に立って久保田は降り続く雨の音を聞いていた。
 一緒にいたいと泣いている好きな人を、降り止まない雨のような想いを…、灰色の空の下でただひたすら胸に抱きながら…。
 けれどそんな想いを抱きながらも、誰よりも好きだから大切だから傷つけたくなくて、自分の方に向けて伸ばされた手を振り払って部屋を出てきてしまっていた。
 もしも自分自身でどうにかできることなら、こんなことにならなかったのかもしれなかったが、時任のそばにいると、まるで胸の奥の想いにすべてが埋め尽くされていくように意識も意思も自分ではコントロールできなくなる。
 腕の中の暖かさを感じていると、意識が夢を見るように遠くなっていって…、
 その遠くなっていく意識の中に、学校での出来事が脳裏によみがえってきた。
 誰にも触れさせたくない、渡したくないと想っていても…、決してあんな風に傷つけたい訳じゃない。
 時任に向かって腕を伸ばすのは…、ただ抱きしめていたかったからだった。
 一緒にいたくて、キスしたくて…、抱きしめ合っていたくて…、
 好きだという気持ちもそぱにいたいと願う想いも、いつもたくさんのこと知らない内に望んでしまっていて、ワガママで欲張りでエゴに塗れていていたけれど…、
 それはあの真っ直ぐ見つめてくる綺麗な瞳に、涙を流させたいからではなかった。
 
 「雨が止むまではって…、やっぱ言いワケだよね…」

 久保田はそう言うと、じっと煙を見つめていた視線を空に浮かぶ同じ色の雲に移した。
 マンションの前に立って雨の音を聞きながら、一番最初に想ったことはどこにも行く場所がないということで…、
 降り止まない雨を見ながら止むまでどこに行くかを考えることにしたのだが、一向に雨も止まないし、行く場所も決まらないでいる。けれど本当は雀荘に行けば時間くらい潰せるし、適当に街をぶらついていれば一晩くらい寝る所を確保できるかもしれなかった。
 だが、それがわかっていながらも自分で自分で言い訳するみたいに…、すべてを雨のせいにしてこの場所から久保田は動かない。
 やがて五十嵐がこちらにやってくるのが見えたので近くにあるコンビニに移動したが、やはりマンションのそばから離れないでいることには変わりがなかった。
 熱を出していることが心配なのか、それともただこの場所から少しも離れられないくらい恋しかったのか…、
 それすらも雨音に紛れてしまってわからなくなっていたが、久保田はコンビニの大きな窓から見てるマンションを眺め続けている。
 手に持った麻雀雑誌は、ただ持っているだけで一度も見ていなかった。
 コンビニの店員は久保田のことを雨宿りに入ってるとしか思っていないようだったが…、おそらく雨が降っていなかったとしても、きっとこんな風にマンションを眺めていたに違いない。
 帰るべき場所はすぐ目の前にあるのに、久保田はしとしとと雨がアスファルトに降り注ぐのを見ながら立ち止まったままだった。

 「・・・・・・・雨、止みそうにないわね」

 しばらく一人でコンビニにいると、やがて赤いカサを持った高校生が入り口から入ってきて、そう言いながら久保田の横に並ぶ。それには何も答えずに久保田が麻雀雑誌に視線を落とすと、入ってきた高校生は目の前にあったファッション雑誌を手に取った。
 けれど高校生も雑誌を見る気はないようで、窓の外に視線を向ける。
 その視線の先には久保田と同じように、時任のいるマンションがうつっていた。
 久保田は高校生の方をまだ一度も見ていなかったが、それが誰なのかは声だけで十分にわかる。そして、なぜここに来て自分の隣にいるのかも…。
 しばらく並んだまま二人とも黙っていたが…、やはりファッション雑誌を持った高校生…。
 久保田と同じ高校の執行部員で、クラスメイトでもある桂木の方が先に口を開いた。
 「こんな所で何してるの? 買い物に来てるワケじゃないわよね?」
 「カサ持ってないから…、雨宿りしてるってだけ」
 「そう…、けど走れない距離じゃないから、カサはいらないでしょう」
 「うーん、結構水溜りもあるし…」
 「水溜りなんか飛べばいいじゃない…」

 「確かに…、もう少し待って止まなかったら、水溜りを飛んで走るしかないかもね…。たとえ遠くても…」

 久保田がいつもと変わらない調子でそう言うと、桂木は厳しい表情をしながら開いていたファッション雑誌をパタンと閉じる。しかし厳しい表情をしながらも、桂木からは少しとまどったような空気も漂っていた。
 その様子が姉御肌でしっかり者の桂木らしくなかったので、なんとなく久保田が顔を前に向けたまま視線だけを横に向ける。
 すると、桂木は腕にかけていたカサを右手で持ってぎゅっと握りしめた。
 「ねぇ、久保田君」
 「なに? 桂木ちゃん」
 「ずっと前から時任のこと…、好きだって思ってるわよね?ずっとずっと…、そう想ってたわよね?」
 「・・・・・雨宿りとそれは関係ないっしょ?」
 「関係はあるわ…、関係があるから言ってるのよっ」
 「・・・・・・そう」
 「たぶん好きじゃなかったら、すぐに気づいたのかもしれないけど…。好きだから、好きだって知ってるから気づけなかったんだわ…」
 「なんの話?」

 「好きだって気持ちは自分じゃ量れないって、そういう話よ…」

 久保田とそして自分に向かって言うようにそう呟くと、桂木は奇妙な薬屋と惚れ薬の話をし始めた。藤原のしたことと…、こんなことになってしまった理由を…。
 そして、あの部屋で一人きりでいる時任のことを…。
 久保田は桂木や五十嵐に時任のことをまかせて、ここから立ち去ろうとしていたのに…、時任は久保田以外の誰かが部屋に入ることを拒否していた。

 まるで心の中に、他の誰も入れたくないと言っているかのように…。

 桂木は水溜りにゆっくりと落ちていく雨粒のように、ポツリポツリと静かな口調ですべてを話し終えると、深く長く息を吐いて久保田の横顔を見る。すると、久保田は買うつもりも見るつもりもなかった雑誌を棚にコトンと入れて、再び視線を外へと戻した。
 話を聞き終えても久保田の表情は変わらなかったが、少しだけ周りを包んでいる空気が色を変えている。だがそれは藤原に対する怒りからではなく…、一人きりであの部屋にいる時任への想いからなのかもしれなかった。
 そんな風に見えたのは、久保田を包んでいる空気がなぜか降り続く雨の色に似て…、
 しっとりと静かに濡れていくその色が…、部屋を出る瞬間に見た時任を包んでいた空気にも似ていたからだった。
 胸の中に抱く想いは人それぞれ違うのかもしれなくても、こんな風に想い合う心は同じ色をしているのかもしれない。
 
 恋し合っているから…、好きだと大好きだと想ってるから…。

 けれど手の届く距離にいるのに、雨の中を走ればすぐに会えるのに…、久保田は時任の所に行こうとはしていなかった。
 桂木は手に持っていた赤いカサを時任のいる場所を見つめ続ける横顔を強い瞳で見つめながら、少し上にあげるとぐいっと久保田の前に突き出す。けれどその赤いカサを、久保田は受け取ろうとはしなかった。
 「時任は久保田君の帰りを待ってるのよ、一人きりで」
 「・・・・それは、聞いたから知ってるよ」
 「なら、どうして帰ってあげないのっ」
 「・・・・・」
 「どうやったら治るのか、わからないから戻れないってのはわかるわ…。けど、治っても治らなくても、時任は待ってるのよっ!」
 「それも…、それもちゃんとわかってるよ。時任のことなら、なんでも知ってるから…」

 「わかってるなら…、どうしてっ」

 時任が待っていることを知っていると言った久保田に、桂木がカサを押し付けたままそう言う。すると久保田はゆっくりと手を伸ばして、カサを桂木の方に押し戻した。
 カサを押し戻された桂木は少し視線を床に落とすと、唇を噛みしめながら再び久保田の方に鋭い視線を向ける。
 けれど久保田は視線をそらさずに、ただ静かに桂木を見つめ返すだけだった。
 戻らない理由はなくとなくわかったが、一人で待っている時任のことを思うと…、どうしても久保田を責めてしまいたくなる。桂木は久保田を責めるのは間違っているとわかっていながらも、時任のいる部屋に戻って欲しくて睨み続けていた。
 いつもの…、桂木の良く知っている二人に戻って欲しくて…。
 だが久保田は戻れという桂木の言葉を拒絶するように、穏やか過ぎるほど穏やかな…、けれど哀しみをかすかに含んだ微笑みを浮かべた。
 「ねぇ、桂木ちゃん…」
 「・・・・なに?」
 「一番大切なモノを自分の手で壊す瞬間って、どんなカンジだと思う?」
 「ど、どんなって…、そんなの…」
 「わからない?」
 「・・・・・・・壊したコトないし」
 「そう…、一番大切なモノは壊せないからわからない」
 「久保田君…」

 「一番大切なモノが壊れる瞬間は、自分が壊れる瞬間だから…。たとえ壊したとしても壊す瞬間がどんなかなんて…、きっとわからないんだろうね…」

 そう言い終えた久保田は歩き出し、桂木の横を通り過ぎようとする。
 けれどそれは、やはり時任のいるマンションに帰るためではなかった。
 桂木はとっさに久保田の腕を掴んだが、その手はあっさりと簡単に振り払われる。
 きっと時任が待っていることを話せば戻ってくれると思っていたが…、久保田はマンションを目の前にしながらも帰ろうとはしなかった。
 桂木が思っている以上に薬の影響が出ているのだとしても…、それは好きになる薬なのだから…、時任をもっともっと好きになるだけなのに…。
 久保田は好きだという気持ちを想いを抱えたまま、それに背を向けようとしている。
 けれどまだあきらめきれない桂木は、強がってばかりいる時任の横顔を思い出しながら、後ろを振り返らずにコンビニを出ていこうとする久保田の背中に向かって叫んだ。

 「久保田君が帰らなかったらっ、時任はあの部屋に一人きりなのよっ! ずっとずっと一人きりなのよっ! それで…、それでいいはずなんかないじゃないっ!!」 

 桂木の叫び声が店内に響き渡ったが、振り向いたのは店員だけで…。
 どうしても振り返って欲しかった久保田は…、そのままカサもささずにコンビニを出ていく。
 ここで雨宿りをいい訳にしてマンションを眺めていた久保田が、時任のことを想っていないなんてあり得ないのに、二人の距離はまた遠くなろうとしていた。
 桂木は赤いカサを握りしめると、自動ドアの辺りで外を眺めながら本当に雨宿りをしていたらしい中学生に向かって差し出す。中学生は少し驚いていた様子だったが、桂木は強引に渡して久保田を追うように雨の降りしきる外に出た。

 「私だって…、カサをさしたくない気分の時はあるのよ…。ホントは全然、濡れたくなんてないのに…」

 そう桂木は呟いたが、すでにずっと先を歩いている久保田の耳には届かない。
 久保田はやっと乾いた髪を再び雨に濡らしながら…、マンションに背を向けて歩き出していた。
 自分のことをコントロールできなくなった理由は薬のせいだということがわかったが、やはり治らないのなら戻れない。
 何をするかわからない自分を、時任に近づけるわけにはいかなかった。
 薬の影響なのかそれとも元々なのか、すでに判断がつかなくなってしまっていたが、時任を好きな気持ちが、恋しいと愛しいと想う思いが大きくなればなるほど…、
 傷つけたくないという想いが、何よりも守りたいという気持ちが大きくなって…、
 けれど離れようとすればするほど…、時任のことだけで胸の中がいっぱいになっていく。
 ズキズキと胸が痛むくらい恋しくて、息ができなくなるくらい愛しくて水溜りを踏んでいく足が何度も止まりそうになったが…、久保田はそれでも歩き続けていた。
 
 「どこからがホントで…、どこからがニセモノのキモチなんだろうね…」

 そんな風に呟きながら目の前にある小さな水溜りを見つめたが…、どんなに思い出そうとしても時任のことをどれくらい好きだったかなんてわからない。
 好きなことに変わりはなくても、胸の奥の想いの強さに何もかもが侵食されていくような気がして…、
 それが薬のせいだとわかっていても…、わかっているからこそ…、その想いが大きくなっていくのをどうしても止めたかった。
 偽りのないニセモノじゃない、本当の自分の想いだけで…。
 薬ではなく本当の自分の気持ちだけで、時任を抱きしめるために…。

 「好きだよ…、時任…」

 久保田は少しだけ立ち止まると、降り注ぐ雨を見上げながら…、
 空に向かって想いを告げたが、その声は誰にも届くことなく雨に打ち消される。
 だがその声に答えるように…、久保田のポケットに入っている携帯のベルが鳴った。




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