幸せの定義.8




 「う…、うぅ…」

 頭を押さえてベッドの上で寝返りを打ったが、いつもと違って目蓋も手も身体も何もかもが重くてたまらない。けれどなぜこんな風に重いのか、まだ完全に目覚めていない頭では理解できなかった。
 ゆっくりと手をあげて目蓋をこすると、なぜかそこから濡れた感触が伝わってきて…、
 その感触を確かめてから、自分が泣いていることを始めて知った。
 胸が痛くて苦しくて…、泣いている自分のことを…。
 その痛みで何があったかを思い出した時任は静かに思い瞳を開けて…、自分の涙のついた手を見つめてから薄暗い部屋の中を見回した。

 そこにいるはずの久保田を探すために…。

 けれど手にも身体に暖かな感触が残っているのに…、いくら見回しても部屋の中に誰もいない。部屋に残っているのはセッタの匂いだけで、久保田の姿はどこにも見当たらなかった。
 時任はゆっくりとベットから起き上がると、ふらつく足でドアまで歩いて行って…、さっきまで久保田と自分とを隔てて開かなかったドアノブに手をかける。
 すると今度は、すっと何の抵抗もなく簡単にドアは開いた。
 だが…、ドアを開いた向こう側にも、やはり久保田の姿はない。
 暗くて静かな廊下の床を時任が哀しく潤んだ瞳でじっと見つめると、そこには座った時についた濡れた跡が残っていた。

 「ドアが開いても…、久保ちゃんがいないならイミねぇじゃん…」
 
 そう言いながら後ろ手で軽くドアを叩くと、まるで寂しさと哀しさが瞳に染みてしまったかのように…、少しだけ時任の目尻に涙が滲む。
 このドアの前でずっとずっと一緒にいたいとそう言ったのに…、好きだって大好きだって思いながら名前を叫んだのに…、久保田からは返事が返ってこなかった。
 こんなことになった原因は、橘との間にあったこととしか考えられなかったが…、
 そうなることを自分から望んだ訳じゃないし、他の誰かを好きになるなんてありえない。それをちゃんとわかってくれていると思っていたのに…、久保田は時任の顔を見もせずにドア越しから五十嵐の所に行けと言ったのである。
 もしも本当に嫌いになったのなら、そんな風に言われても仕方ないのかもしれなかったが、どんなに聞きたくないと思うような言葉でも…、顔を目を見て言って欲しかった。
 もう嫌いになったとしても、ちゃんと自分を見て欲しかった。
 好きだって、大好きだって胸の中でいっぱいになってる想いが、言葉だけじゃなくて…、

 いつも好きな人を見つめ続けていた視線からも…、少しでも伝わるように…。

 けれど久保田は時任の目の前から、一度も視線を合わせることもなく行ってしまった。
 セッタの匂いの染み付いた二人の部屋に…、時任だけを残して…。
 まだリビングは調べていなかったが、もうこの部屋に久保田がいないことを時任はなぜか確信していた。
 なぜそんな風に確信してしまっているのか自分でもわからないままに、それが事実だと確かめるためにリビングのドアを開けると、
 そこにはなぜかここにいるはずのない五十嵐と桂木…、そして藤原の三人がいた。

 「な…、なんでお前らが、俺んちにいんだよ…」

 視線を横にそらして涙を手で素早く拭うと、時任はそういつもの調子で言おうとしたが、やはり少しかすれてしまっている。だが桂木や五十嵐の方を見つめる意思の強さを感じさせる瞳は、いつもと少しも変わらなかった。
 けれど胸の奥にある哀しくてたまらない気持ちが、きつく握りしめられた拳にこもってしまっていて…、
 それを見た五十嵐が心配そうな顔をして、早くソファーかベッドに横になるように言ったが、時任は首を横に振った。
 「べっつにこんくらい…、寝てなくっても平気だっつーのっ」
 「なに言ってんのよっ、熱があるのに平気なワケないでしょっ。うだうだ言ってないで、とっとと寝なさいっ!」
 「・・・・・・てめぇらが帰ったらなっ」
 「せっかく人が心配してあげてんのにっ」
 「心配してくれなんて、誰も頼んでねぇっ」
 「アタシだって、久保田君に頼まれなきゃアンタの面倒見になんか来ないわよっ!」
 「・・・・・・・・久保ちゃんが?」
 
 「本当に…、とにかく早く寝てちょうだい。久保田君に言われて来たのは事実だけど、一応これでもアンタのこと本気で心配してんだから…」

 五十嵐がそう言うのを聞いた時任は、おとなしくソファーの所まで歩いて行って座る。けれど相変わらず身体に熱っぽさや苦しさを感じながらも、それを三人には見せようとはしなかった。
 それを見た五十嵐が「ホントに…、アンタって意地っ張りよね」と苦笑したが、時任はそれには答えずに何かを考えるような表情をしたまま、ソファーに置かれていたクッションを抱きしめる。するとやはりそこからも、ベッドに置かれた枕と同じようにセッタの匂いがした。
 時任は目を閉じて一度だけクッションにぎゅっと顔を押し付けると、ゆっくり顔を上げて何か落ち込んでいる様子の藤原とそれを睨んでいる桂木を見る。
 久保田が五十嵐達を呼んだのはおそらく熱が出ていることだけではなく…、自分を追いかけようとする時任を止めさせるためだったに違いなかった。
 でも、それは自分のためじゃなくて…、きっと時任のためで…。
 そんな久保田の想いを感じると、胸がぎゅっとしめつけられるような気がした。
 ドア越しにしか声は聞こえなかったけれど…、どこにも久保田はいないけれど…、
 たぶんきっと…、まだ久保田の想いはココに残っている。

 部屋中に残っている、セッタの匂いと一緒に…。

 時任は自分のことを心配して来てくれた桂木達に悪いと思いながらも、今は久保田のことを考えるので精一杯で…、それ以外考えられなくなっていたから…、
 すぐに帰ってくれるように頼もうとして、口を開こうとする。
 だが時任がそう言う前に、桂木の桂木の方が先に口を開いた。
 「・・・・・時任」
 「なに?」
 「今からあたしが言うことは、たぶん信じられないかもしれないけど…、本気で言うから本気で聞いてくれない?」
 「なに言ってんだよ…、ホンキで言ってるコトをホンキで聞かないワケねぇだろ」
 「…そうね」
 「けど、信じられないってどういうイミだよ?」
 
 「それは、久保田君があんな風になったワケが惚れ薬だって言ったら信じるかって…、そういうイミよ」

 そんな風に言った桂木は、横にいる藤原の脇腹を軽くひじで突く。
 すると藤原はいつものように倒れたりわめいたりせずに、少しだけ視線を上げて久保田に飲ませたという惚れ薬の話をし始めた。
 その話はとても信じられるような内容ではなかったが、それを話している藤原の様子と…、ドア越しにしか会ってくれなかった久保田のことを考えると嘘だとは思えない。
 そうすると藤原のしたことが原因で、こんなことになってしまったことになるのだが…、
 藤原が惚れ薬の話をし終っても、時任は藤原を殴ったりはしなかった。
 :けれどそれが意外だったらしく、藤原は俯き加減だった視線を上げて時任の方を見る。
 しかし時任は藤原の方を見ずに、ただじっとリビングからベランダへと続く窓を眺めていた。
 「殴られるようなことをしたのに…、殴らないんですか?」
 「俺には、殴られたいと思ってるヤツを殴るシュミはねぇよ…」
 「・・・・・・すいません」
 「それに、あやまる相手は俺じゃねぇだろ。あやまりたいって思ってんなら、俺じゃなくて久保ちゃんにあやまれ」
 「先輩…、僕は…」
 「俺の言ったことがわかったんなら、とっととココから出てけ。 今はてめぇに構ってるヒマはねぇんだよっ」
 「・・・・・・・」
 時任がそう言うと、藤原は黙ったまま唇をかみしめる。だが、さすがに自分のしたことの重さを感じているのか、それ以上は何も言わずに暗い表情で再びうつむいた。
 そんな二人のやりとりを桂木と五十嵐が見ていたが、いつものように間に入ったりはせず、ただ黙って様子を見守っている。それは今回の件に関しては、もしも時任が許さないと言ったとしても…、それをどうこう言うつもりはなかったからだった。
 藤原がどんなに久保田のことを好きだったとしても、好きだったからという理由で許されるようなことではない。そんなに重く考えずにやったことなのかもしれないが、その結果、薬を飲まされた久保田だけではなく、久保田を想っている時任をも苦しめることになってしまっていた。
 今は原因が惚れ薬だということがわかっていたが、その効果を消す薬がないので久保田を探し出してもどうすることもできない。久保田自身が薬によってどんな影響を受けているのかはわからなかったが、時任の前にいられないと判断してしまうくらい強力なのは間違いないようだった。
 桂木は五十嵐に熱を出している時任の看病を頼むと、藤原の襟首を引っ張ってリビングから廊下へと続くドアの前に立つ。しかし久保田を捜しに行こうとした桂木を、時任がソファーに座ったままでそれを呼び止めた。
 「ちょっと待てよ、桂木」
 「えっ?」
 「あのさ…、久保ちゃんのコト捜してくれんのはうれしいけど…、もういいから…」
 「もういいからって…、それはどういうイミなの? まさか、あきらめたって意味じゃ…」
 「違うっ、あきらめたとかそういうんじゃなくて…、待ってることにした」
 「待ってるって久保田君を?」
 「久保ちゃんは帰ってくる…、何があっても必ずココに…。だから、帰ってくるなら捜さなくってもいいだろ?」
 「・・・・・・時任」

 「ココは…、俺のでも久保ちゃんのでもなくて…、俺と久保ちゃんのウチなんだ…」

 時任は桂木に向かってそう言うと、クッションを抱きしめている腕に少し力を込める。
 そうしながら屋根から伝って落ちてくる冷たい雨の雫を、まるで降り止むのを待っているかのようにじっと見つめていた。
 今日みたいな雨に濡れないで暮していける場所なら…、どこでも良かった訳じゃない。
 一緒に暮すようになったのは、たぶん偶然で気まぐれが始まりなのかもしけないけれど…、今まで二人でここにいたのは偶然でも気まぐれでもなかった。
 久保田のふかすセッタの匂いは相変わらず好きという訳じゃなかったけれど…、いつの間にか安心できる匂いになっていて…、
 この部屋が他のどこよりも、暖かいと感じるようになった。
 久保田がいて、そして自分がいて…、それだけで心の中にある小さな隙間まで…、二人で過ごした時間と久保田を想う気持ちで埋まっていく。
 二人きりで手を握りしめ合っていたとしても、やっぱり暖かくて優しいばかりじゃないかもしれないけれど…、それでも久保田と一緒にいたかった…。
 苦しくても哀しくて胸が痛くて涙が止まらなくなっても…、好きだから一緒にいたかった。
 
 「ゴメンな…」

 時任がそう小さな声で言うと、五十嵐は「しょうがないわね…」と小さく息を吐いてリビングの入り口に立っている桂木の方へと歩いて行く。久保田にも桂木にも時任のことを頼まれていたが、一人でここで待っていたいという時任の気持ちの方を優先することにしたのだった。
 桂木は心配そうな顔をしていてがその背中を軽く押すと、五十嵐は一度だけ時任の方を振り返る。そして保健室のお姉さんらしく優しく微笑むと、ポケットに入っていた物を時任に向かって投げた。
 「おかゆは作ってあるから、あっためて食べなさい。それからっ、食べたら必ずその薬を飲むのよ」
 「・・・まさか、妙なモン入れてねぇだろうな?」
 「あらホント。何か入れとけば良かったわ〜、残念」
 「あのなぁ…」
 「とにかく熱があるんだから、ちゃんと寝てなさいっ」
 「わぁってるってっ」
 元気そうな声で時任はそう答えていたが、元気なのは声だけだと言うことが熱のせいでほんのり赤くなっている顔を見ればすぐにわかる。しかし五十嵐は桂木と何か言いたそうにしている藤原を連れて、そのままリビングを出ようした。

 「さっさと来なさいっ」
 「あの、でも僕はまだ…」

 時任の望んでいる通りに五十嵐も桂木もリビングを出ようとしていたが、藤原だけは背中を押してくる五十嵐の手を、そう言って振り切って戻ろうとする。
 けれど戻った所で、どうしたらいいのか藤原自身にもわかっていないに違いなかった。
 藤原は五十嵐の手から逃れると、待ちなさいと言っている桂木の言葉も無視してリビングに向かおうとする。だが戻ろうとして振り返った瞬間に、いきなりバキィィッ!!と凄い音がして藤原の身体が廊下に向かって倒れた。
 突然のことに驚いて五十嵐と桂木も、藤原と同じようにリビングの方を振り返ると…、
 そこにはソファーにいたはずの時任が立っていた。
 「うっ、痛…っ!!」
 「バーカッ、殴られて痛いのは当たり前だっつーのっ」
 「さ、さっきは殴らないって言ったのに…」
 「さっきはさっき、今は今っ!」
 「そんなぁ…」
 「今はすっげぇ痛くても…、殴られて痛いのも、叩かれて痛いのもそんなモンはすぐに消えんだよ。だから、自分のしたことをマジで後悔してんなら、その痛みが消えない内に久保ちゃんにあやまって来いっ!!」
 「・・・・・・時任先輩」
 「わかったら、とっとと行きやがれっ!!」

 「・・・・・・・・・はい」

 藤原は少し顔を歪めてそう返事をすると、外に出るために廊下を走り出す。
 振り返らずに走り出したのは、殴られたがっている奴を殴る趣味なんかないのに、わざわざ殴った時任の気持ちが殴られた頬よりも痛かったからかもしれなかった。
 藤原を殴った時任は握りしめた拳をゆっくりと開くと、すこしふらつきながらリビングに引き返していく。その後ろ姿を見ながら五十嵐はリビングのドアはゆっくりと閉めたが、閉める寸前、時任が短く礼を言ったのが耳に届いていた。
 そしてその声は桂木にも届いていたようで、「何もしてないんだから、礼なんて言われる覚えはないわよ」と少しやりきれないような調子で言っていた。
 時任は久保田が帰ってくると信じていたが…、本当に帰ってくるかどうかはわからない。
 薬の効果がどれくらい続くのかさえ不明なので、自分がおかしくなった原因を本人が知ったとしても、それが治らない限りは戻らないかもしれなかった。
 そう考えると、久保田を捜さなくてもいいと時任は言っていたが、やはり探し出さなくてはならない。マンションを出た五十嵐と桂木、そして藤原は、小雨になった雨の中で久保田を捜すことに決めた。
 だが、二手に別れて捜そうとした瞬間、桂木が驚いたような表情をして立ち止まる。
 その様子に気づいた五十嵐と藤原が立ち止まると、桂木は立ち止まった二人に向かってなぜか時任と同じように久保田を捜さずに帰るように言った。
 「捜さなくていいって…、突然、どうしたのよ?」
 「すいません、先生。私さっき…、思い出したことがあって…」
 「思い出したこと?」

 「離れようとしたって・・・、久保田君が時任君から離れられないってことをです」

 桂木はそう言うと、赤いカサをさしてマンションの前にあるコンビニに向かって走り出す。
 その後ろ姿を見ながら五十嵐が首をかしげていると、桂木の向かった先に良く知っている人物に似た人影があった。
 たぶんその人物は…、今から捜そうとしていた人物に間違いない。
 五十嵐はそれを確信すると、藤原の肩を軽くポンッと叩いてから歩き出した。
 「気持ちはわかるけど…、今は桂木さんにまかせときなさい」
 「・・・・・・・」
 「その頬の痛みは、簡単には消えないでしょ?」

 「・・・・・・そう、ですね」

 時任に殴られた頬を押さえてそう言うと、藤原は自分の家に向かう五十嵐の横に並ぶ。
 そうして二人で並んで歩いていると目の前で、桂木がコンビニの自動ドアを開けて中に入って行くのが見えた。
 これからどうなるのかはわからないが、おそらくここから先には五十嵐も藤原もきっと誰も入れない。
 あの部屋で時任が待っているのは、久保田だけで…。
 久保田が待っていて欲しいと願っているのも、時任だけだった。
 藤原は足元にある捨てられた缶を蹴りかけて止めると、道路に大きく溜まっていた水溜りの中に足を浸す。
 そしてさしていたカサを持っていた手を下に降ろして、反対側の手で自分の目をこすった。
 「五十嵐先生…」
 「なぁに?」
 「僕は久保田先輩のことが好きです…」
 「知ってるわ…」
 「けど…、久保田先輩が時任先輩を好きなワケを一番知ってるのは…、僕じゃないかって思う時があるんですよ。僕は…、僕は久保田先輩が好きなのに、こんなバカな話ってありますかっ!?」
 「藤原君…」

 「嫌いになりたかった…、大嫌いになりたかった。そうなれれば、良かったのに…」

 悔しそうにそう言うと、藤原は苦しそうな表情をして水溜りの水を蹴る。
 するとそんな藤原を見た五十嵐は、自分のかさを藤原の頭の上にさしかけながら少し哀しそうに微笑んだ。浮かべた微笑みが哀しそうになってしまったの理由は、五十嵐自身も同じような想いを抱いたことがあるせいかもしれない。
 久保田に惚れ薬を飲ませてしまった藤原と同じように、五十嵐も久保田のことが好きだった。
 藤原にさしかけしてまったためにはみ出してしまった方の肩を雨に濡らしながら、五十嵐はまだ雨の止まない空を見上げる。
 けれどそこには雲があるばかりで、まだ青い空は見えて来なかった。
 「ねぇ…、藤原君」
 「…なんですか?」
 「確かに嫌いになれたらって、そんな風に思うのかもしれないけど…。でもそんな風に言ってても、嫌いになれないでいる藤原君が先生は好きよ。もちろん、一番好きなのは久保田君だけど」
 「・・・・・せ、先生に好かれたってうれしくありませんよっ。それに僕が好きなのは、久保田先輩だけなんですからっ」
 お互いに久保田が一番好きだと言い合うと、五十嵐と藤原は顔を見合わせて苦笑する。
 一応、同じ人が好きなのでライバルということになるのかもしれないが、そのことについては二人とも何も言わなかった。
 突然にやってくる恋心も、空の天気も思い通りにはならない…。
 そんな思い通りにはならない想いを頬の痛みと一緒に噛みしめながら、藤原は再び雨の中を歩き出した。

 あの部屋に…、久保田が戻ってくることを祈りながら…。




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