幸せの定義.6
降り続ける雨の音を聞きながらジンジンと痛んでくる頬をいくら手で撫でても、その痛みは少しも取れなかった。それはたぶん痛んでいるのが頬ではなくて、実は胸の奥だったからなのかもしれない。
突然、起こった出来事に驚いて、呆然として頬を押さえて…、それから久保田が本部から出て行った瞬間に、悲しい気持ちがじわりと頬の痛みに混じり込んだ。
叩かれたことも置いて行かれたことも本当に突然だったけれど、一度も振り返らずに本部のドアを閉めた久保田の後ろ姿を見た時が…、
・・・・・なぜか頬が一番痛かった気がした。
予想外の出来事に松本も驚いたようで、とっさに久保田を追いかけることもできずに突っ立っている時任の肩を元気付けるようにポンと叩く。
けれどいくら「すぐに元に戻るだろう」と言われても、頬も胸の痛みが取れなかった。
さっきまでは自分が逃げていたはずなのに…、逆に久保田にこんな風に去られると…、不安と寂しさで胸がしめつけられる。その感触を感じた時任は、久保田の隙をついてベッドから逃げ出したことを後悔していた。
けれどこんな所で後悔していても、久保田はここにはいないし何も始まらない。
赤くなった頬から手をはずして時任がドアを開けて本部を出ようとすると、後ろから副会長の橘が呼び止めた。
「今は久保田君の所へは行かずに、様子を見た方がいいでしょう」
「はぁ?なんでだよ?」
「さっき自分が何をされたのか、覚えてないんですか?」
「・・・・・覚えてるに決まってるだろ」
「僕とぶつかった時、貴方は久保田君から逃げようとしていた。それには何か訳があったはずですよね?」
「それは…、そうだけど」
「その訳がさっきのことと関係しているなら、今日は戻らずにどこか友達の家にでも泊まった方がいいかもしれません。もし泊まれるような場所がないなら、僕か会長の家に…」
「わりぃけど俺は、アンタでも会長でも…、どこのウチにも行かねぇよ」
「しかし…」
「何があっても俺の帰るウチはあそこしか…、たった一つしかねぇんだ…」
叩かれても頬が痛くても、あの場所から逃げ出したりはしたくない。
もしも本部でのことで久保田に嫌われたのだとしても、それでもどこかべつの場所に行きたいとは思わなかった。
好きな人には自分を好きでいて欲しいけれど…、嫌われても嫌いにはなれないから…。
たとえ嫌いになったから一緒にいられないと言われて…、振り向きもしない後ろ姿にみっともなく追いすがることしかできなくても、そばに行くしかなかった。
誰よりも一緒にいたい、好きな人のいる場所に…。
叩かれた頬が赤くなったままでも、久保田を追いかけることに少しも迷いはない。
自分の気持ちが少しもわからないなら、迷う必要はどこにもなかった。
心配そうな顔をして自分の方を見ている橘の前まで歩いて行くと、時任は頬の痛みに耐えるように唇をかみしめて表情を引きしめる。そして大きく手を横に振り上げると、思い切り橘の腹に拳を叩き込んだ。
「・・・・・ぐっ!!」
「これっくらいじゃ全然足りねぇけど。今日の所は、これでカンペンしてやるよ」
「また・・・・、仕返しにでも来てくださるんですか?」
「・・・・・・百倍返しには、まだ全然足りてねぇからなっ」
二発目を腹に叩き込まれて前に倒れ込んだ橘の背中を更に足で踏みつけると、時任は「すまん」と謝っている松本を身もせずにそう言い残して本部を出る。
けれど何かを聞きたいとか言いたいとか、そんなことを思っていた訳じゃなくて…、ただ早く久保田の顔が見たいだけだった。
久保田に叩かれた頬が痛いのも…、胸の奥がズキズキしているのも本当だったが…、
痛みと悲しみを噛みしめて、暗い空を眺めるよりも走りたかった。
念のために本部を出て屋上と生徒会室に行ったが、やはり久保田の姿はない。
どうしたのかと桂木が尋ねてきたが、時任はそれを無視してマンションに向かった。
そうしたのは理屈ではなく、なんとなく久保田がそこにいるような気がしたからである。
時任が玄関で靴を履きかえて外に出ると、まだ雷が空を時々光らせていて、地面に叩きつけるように鬱々とした雨が降り注いでいた。
けれどその中に飛び込むように、時任は濡れながらマンションに向かって走り出す。
水溜りも避けずに、バシャバシャと音を立てて…。
そうしながら思い出したのはいつだったか久保田と二人で買い物に行った日に、こんな感じの雨に降られた時のことだった。
『雨、止みそうにないねぇ』
『けど、ココでずっと待ってんのもメンドくせぇよなぁ』
『・・・・・ちょっと遠いけど、走ろっか?』
『だったら、ウチまで競争しようぜっ』
『うーん…、それもいいけど』
『いいけど?』
『たまには一緒に走らない? 俺らのウチまで…』
何もない普通の日で別に楽しいことなんか何もなかったのに、雨の中を買い物袋を抱えて二人で楽しそうに笑いながら走った。
自分達のウチを目指して…、雨に濡れた手を繋ぎながら…。
けれど今は冷たい雨に濡れた手を横に向かって伸ばしても、繋いでくれる暖かい手はない。
拳をぎゅっと握りしめながらやがて見えてきたマンションを見つめると、時任は濡れた身体を小さく震わせた。
見慣れたマンションと…、階段と…、401号室のドア。
時任はマンションに帰りつくと階段を駆け上がって401号室の前に立ったが、やはりその表札には久保田の名前だけしかない。名前がないのには様々な事情があったが、ここには時任の名前が表札にないだけでなく…、郵便物も何も時任宛てのものは届かなかった。
だからここから時任がいなくなっても、住んでいた証拠はどこにも残らない。
たとえ戻らなくても初めからいないのと同じだから、誰にもわからない…。
けれどもし何かが残るとしたら…、 『俺らのウチ』だと、そんな風に言ってくれた、
・・・・久保田の中だけなのかもしれない。
時任はポケットから鍵を取り出してドアを開けると、玄関に濡れた靴があるのを確かめて、急いでリビングに向かう。しかし、そこにはいると思っていた久保田の姿はなかった。
だが、靴があるのにいないはずはない。
リビングとキッチンにいないとなると、いつも二人で眠っている寝室くらいしかなかった。
時任はリビングから寝室の前まで戻ると、中に入るためにドアノブをひねる。
けれど、ガチャガチャと何回ひねってもドアは開かなかった。
「久保ちゃんっ!!ココにいるんだろっ!」
「・・・・・・・」
部屋に入れないので、ドアの前で久保田を呼んだが中からは返事がない。
薄いドア一枚だったが、かけられた鍵は確実に二人の間を隔てていた。
この部屋に鍵があることはなんとなく知っていたが、その鍵を閉めたことは今までない。
それはマンションの部屋が少ないからという理由ではなく、ただ鍵を閉める必要がまったくなかっただけだった。
かける鍵は部屋の中じゃなくて、外と繋がってる窓と玄関だけで十分で…。
ここにいくつ部屋があっても、どの部屋にも鍵は必要なかった。
それは暗黙の了解のように…、二人とも絶対に誰もここには連れて来ようとはしないことも関係していて…、
この部屋は二人で暮すというよりも、まるで二人きりでいるための部屋のようだった…。
時任は拳を握りしめると何度も何度も名前を呼びながら…、想いを叩きつけるようにドアを激しく叩く。すると時任の手は、ドアに叩きつけられてすぐに頬のように赤くなった。
けれどいくら手が赤くなっても、叩きつける音が響いても中からの返事はない。
時任は唇を噛みしめると、今度は勢い良くドアを蹴り始めた。
今度は久保田を呼ばずに、何も言わずに無言で…。
そうしたのは久保田との間を隔てることしかしないドアなら、必要ないから壊してやるつもりだったからだった。
けれどドアが壊れかけた時、中からの声が時任の耳に届く。
ドアに隔てられて姿は見えなかったが、それは間違いなく久保田の声だった。
「時任…」
その声を聞いた時任は、蹴るのを止めてドアに耳をつける。
すると毎日聞いている大好きな声が、ドアの向こうからハッキリと聞こえてきた。
だがその声が伝えてきた言葉に、時任は悲しそうに冷たいドアに額をつける…。
そうしながら床に視線を落とした時任の頬には、濡れた髪からしたたり落ちた雫が伝っていた。
「もしドアを壊したら、窓から隣のビルに飛び移るからムダだよ、時任」
「久保ちゃ…」
「ゴメンね…。桂木ちゃんから五十嵐先生に頼んでもらってるから、今日は五十嵐先生のトコに…」
「なんで…、なんでそんなコト言うんだよっ!!」
「今は会えないから…」
「会えないのは…、俺のコト嫌いになったから?」
「違うよ」
「だったらっ、だったらなんでカギなんかかけてんだよっ!」
「・・・・・・ゴメンね」
「ゴメンなんかっ、そんな言葉なんか聞きたくないっ!」
「時任…」
「こんなに近くにいるのに会えないなんて、声しかダメなんて…、そんなの苦しいだけで…。会えなかったら、会えない分だけ…、よけいに会いたくなるだけじゃんか…」
苦しい息を吐くように時任がそう言うと、ドアの向こう側から小さな音がする。その音を聞いていると薄いドアの向こうから、伝わったこないはずのぬくもりが伝わってくるような気がした。
目の前にあるのは開くはずのドアなのに、いくら叩いても叫んでも開かない。
もう一度、時任は久保田に向かって何か叫ぼうとしたが、声を出すと叫び声が泣き声に変わりそうな気がして叫べなかった。
痛かったのは叩かれた頬のはずなのに、今は叫びたくても叫べなくて胸だけがしめ付けられるように苦しくて痛い。
きっといつもみたいに手を繋ぐことができたら…、抱きしめ合うことがきたら…、そんな痛みも苦しみもすぐになくなってしまうのに…、
薄いドアの向こうの久保田には…、いくら伸ばしても手も腕も届かなかった。
ただ声がだけが哀しく哀しく耳に響いてきて、その声を聞いているだけで視界が滲んできそうになって…、時任は髪から落ちる雫をぬぐうように目元をこする。濡れているのは髪だけじゃなくて服も身体も濡れたままだったが、久保田がいなくなるかもしれないと思うと、ドアの前から離れる気にはならなかった。
「久保ちゃんが出てきてくれるまで…、ココから絶対に動かねぇから…」
時任はそう言うと、ドアに耳をくっつけるようにして廊下に座り込んだ。
まるで、まだ雨の中にいるような表情のまま…。
そして聞こえてくる雨音を聞きながら、返事をしなかった久保田に向かって話しかける。
まだドアの向こうに久保田がいるかどうかはわからなかったが、じっと黙っていると外から響いてくる雨音を聞きながら心まで凍えてしまいそうだった。
「久保ちゃん…」
「・・・・・・・」
「久保ちゃんと手ぇ繋ぎたい…、それからキスして…、抱きしめたい…」
「・・・・・・」
「それから…、それから二人でずっと…」
「・・・・」
「ずっとずっと…、一緒にいたい…」
雨の雫で床を濡らしながら、想いを紡ぐように久保田に話しかけて…、話しかけ続けて…。
その度に胸の中に何かが溜まっていく気がして…、次第に声が小さくなった。
会えない苦しさにいくら爪でドアを引っかいても、久保田は何も答えない。
開かないドアばかりを眺めていると、どんなに一緒にいたいと願っていても…、まるでそれを望んでいるのは自分だけのような気がしてきた。
けれどドアが想いをさえぎっていても…、そんな風に思いたくはない。
時任は視界がぼやけて完全に見えなくなると、すぅっと息を吸い込んで…。
まるで好きだとその想いだけを泣き叫ぶように…、久保田を呼んだ。
「久保ちゃ…っ!!久保ちゃんっ!!久保ちゃんっ!!」
けれどその声は、雨音に吸い込まれるように静けさに消えいくだけで…。
時任の瞳から流れ始めた涙が、一粒だけ頬を伝って床に落ちた。
こんなに近くにいるのに…、手の届く距離のはずなのに…。
今は声さえ届かなくなったように、ドアの向こうからは何も聞こえては来なかった。
時任は流れる涙をぬぐいもしないで、濡れた瞳でドアを見つめながら、寒さを感じていないのにぶるっと身震いをする。
すでに雨で濡れて冷えていっているのに…、なぜか次第に身体が熱っぽくなっていた。
「久保ちゃ…」
時任はうわ言のように久保田の名前を呼びながら、苦しそうに瞳を閉じると…。
ドアを背にして座ったまま…、やがてぐったりとして動かなくなった。
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