幸せの定義.5
なんとなくおぼろげながら朝から今までのことは記憶の中にあったが…、すべてに霧がかかっていて、まだ眠っているようなそんな感覚しかない。
だからいきなりズキズキと痛んできた手をじっと見つめたが、なぜそんな風に痛むのかがわからなくて…、現実を確かめるように痛む手のひらで自分の顔を触ってみた。
けれどぼやけた意識がハッキリしたのは、驚いている時任の顔を見た時で…、
赤くなった頬を押さえて久保田を見た時任は、ただひたすら呆然としているように見えた。
それを自分がしたこととは思いたくなかったが、痛みの消えない手のひらと時任の表情が事実を伝えてくれている。
長い夢を見た先にあったものは…、信じたくない現実だった。
だが、そんなつもりはなかったと、そんな風にいい訳する気にはなれない。それは時任の頬を赤くなるほど叩いたことが、夢でも幻でもなく紛れもない事実だからだった。
時任の身に何かあったか何が起こったかを知っていたはずで…、だからもう大丈夫だからって抱きしめてやりたかったのに…、
そうしたかったはずなのに、手のひらには痛みだけが残っている。
驚いている時任を、「ゴメンね」と言って抱きしめたかったが…、また抱きしめるはずの腕が何かするかもしれなかった。
傷つけるかもしれないとわかっている腕を、手を…、時任の方へと伸ばすことはできない。
だから抱きしめるどころか触れることすらできずに、言葉だけを残して目の前から消るしかなかった。
「たとえ夢でも…、傷つけたくなかったのにね…」
一人で雨に濡れながらマンションに帰った久保田は、いつも時任と眠っているベッドの上に座りながらそう呟く。だがその声は降り止まない雨の音にかき消され、その音に濡れていくように暗く静かな部屋のカーペットには濡れた髪から流れ落ちた雫が染みを作っていた。
今はあの時と違って意識はハッキリしていたが、それでも事実は変わらない。
久保田はポケットに手の伸ばしてセッタを取り出そうとしたが、その手はセッタを取る寸前で力無くベッドのシーツの上に落ちた。
叩いた時の手の感触がまだ手に残っているような気がして、座っているベッドのぐちゃぐちゃになっているシーツを眺めると…、
久保田はゆっくりと拳を握りしめながら、苦しみの色の滲んだ瞳を閉じた。
今日は相浦の家に泊まると言っていたが…、もしかしたら今日だけじゃなくて明日も帰って来ないかもしれない。
だが自分の今の状態を理解した今は、それで良かったような気がしていた。
二重人格になった覚えはなかったが、自分がコントロールできないことには変わりない。
いつ同じことをするかも知れないこんな状態で、時任のそばにいることはできなかった。
こうなることになった原因がハッキリしているのなら、じっとこんな風にベッドに座ってることもなかったかもしれないが…、やはりいくら考えても心当たりはない。
一時的なものだと思いたくても原因不明なので、そうだと言い切れるだけの確信も自信もあるはずはなかった。
「ずっとこのままだったら…、どうしよっか? ねぇ、時任…」
久保田は深く息を吐きながらそう言うと、かけていた眼鏡を取って閉じた瞳を開ける。
けれど眼鏡をかけていても、かけていなくても、見えるのは静けさが降り積もったような暗がりだけだった。
ついさっきまで時任を抱きしめていたような気がしていたが、手のひらに残っているのは痛みだけで…、時任を愛しく恋しく思う気持ちだけで…。
いつも抱きしめていたいと願うその気持ちは、何よりも大切であたたかったはずなのに、なぜか今は降り続く雨の冷たさに凍り付いてしまいそうだった。
それは愛しすぎて恋しすぎて…、嫉妬のあまり叩いてしまった自分の方が本当の自分かもれしないと…、
こうなった原因を考えながらも、そんな風に思い始めていたせいかもしれない。
時任を叩いた時の自分と今の自分と楽になりたければ切り離して考えれば良かったが…、そうすることができないでいること自体が、事実だという証拠に思えてならなかった。
このままでは何も解決しないことを悟った久保田は、おぼろげな意識の中にある夢の中のような出来事を思い出しながら天井を見上げる。
すると本部でのことを、ぼんやりとだが思い出すことができた。
けれど思い出したのは状況だけではなく、自分の中にある感情で…、
なぜかそれを思い出そうとすると…、胸の奥が重く鈍く痛んだ。
『く、久保ちゃん…』
時任を追って本部に入るとそこには時任と橘、そして松本がいた。
追いかけていた理由はただ時任と一緒にいたくて、二人で部屋に帰ろうとしただけで…、
それ以外のことは、何も頭に浮かんでなかったような気がする。
驚いたように久保田を呼んだ時任は、部屋を出る時に着ていたパーカーも制服も着ていなくて上半身裸だった。その格好を見れば、何があったかは一目瞭然だったが…、
本当の問題はもっとずっと別の所にあって…、それは冷静になった今はちゃんとわかっていた。
・・・・・自分以外の誰にも、時任に触れさせたくない。
そして時任に…、自分以外の誰にも触れて欲しくない。
その両方を考えた時に、おそらく一番許せないのは後者だった。
それは誰かに触れること、誰かに触れられることを許すことは、不可抗力ではなく時任の意思で…、そうすることを、そうなることを時任が望んだということになるからである。
だが本部に連れ込まれて首筋に痕までつけられているのに、時任は橘を怒らないばかりか、かばうような行動まで取っていた。
それは久保田の目には、自分を犯そうとした橘を許しているように見えたのである。
未遂に終らなかった可能性も十分あるのに…。
久保田は橘に怒りを感じていたが…、時任はそうじゃない。
その想いの差を感じた時…、おぼろげな夢の中にいるような意識の中で、久保田は胸の奥が焼けつくような感覚に捕らわれ…、
次の瞬間、時任に向かって…、誰よりも愛しい人の頬に向かって手を振り降ろしていた。
夢を見ていたようにおぼろげだったが、手を振り降ろした時の感情は確かに自分の中にある。
それを感じた久保田は、暗い瞳のまま口元に薄く笑みを浮かべた。
もしかしたら今も夢を見たままで、自分は狂ってしまっているのかもしれない。けれど時任を自分に縛り付けて、この部屋に閉じ込めてしまおうとしていたことは紛れもない事実だった。
自分自身をまったくコントロールできなくなった原因は未だ不明だったが、おそらくこの状態が続けば、また同じことをするに違いない。
だから同じことを繰り返さないためには、することは一つだけしかなかった。
久保田はポケットに入っていた携帯を出すと、前に何かあった時のためにと無理やり入れられたメモリーの番号に電話をかける。
すると受話器の向こうから、ハキハキとした元気の良い聞きなれた声が聞こえてきた。
『もしもし? 久保田君?!』
「・・・・ども」
『ども…、じゃないわよっ!今、どこにいるのっ!』
「ウチだけど?」
『それじゃあ…、時任はまだ帰ってないのね?』
「相浦のトコに泊まるって言ってたっしょ?」
『なにがあったのかは知らないけど…、時任は生徒会室にアンタが戻ってないってわかったら、学校を飛び出して行ったわよ。相浦と一緒じゃなくて、一人でっ!』
「そう…」
学校から出たからといってここに戻ってくるとは限らなかったが、どうやら相浦の家に泊まることはやめにししたらしい。久保田は本部を出てすぐにマンションに戻ったが、時任は学校で久保田を捜してくれていたらしかった。
ただゴメンとだけ言い残して、置いて帰ってしまった久保田のことを…。
捜してくれていたことを知った瞬間に、久保田は一人で帰ってきてしまったことを後悔した。
もしかしたら学校を出た時任が、まだ降りしきる雨の中にいるかもしれないと思うとたまらない気分になる。けれど、今はどうしても時任と会う訳にはいかなかった。
「・・・・桂木ちゃん」
『なによ』
「悪いんだけど、時任のコト頼まれてくれない?」
『頼まれてって…、一体どういうことよ?』
「俺の様子がおかしいのは知ってるでしょ?」
『・・・・・・・おかしいって言うより、いつもよりエスカレートしてるとは思ったけど?』
「だからさ…、この状態が治るまで時任のそばにはいられない」
『なんでよ? どうしてそんなこと言うの?エスカレートはしてるけど、そばにいられないなんてことは別にないでしょう?』
「自分のエゴで、時任を殴ったとしても?」
『えっ?』
「時任の頬が赤かったのは…、俺が引っ叩いたからなんだけど?」
久保田がそう言うと、桂木は何も言わずに電話の向こうで大きく息を吐いた。
詳しい事情を話していなくても久保田が時任を引っ叩くということが、どれほどのことなのかを桂木は理解している。それに久保田が誰よりも時任が大切に想っていることは、執行部員なら誰でも知っていることだった。
その久保田が時任を引っ叩くというのは、本人の口から聞いてもにわかには信じがたい。
けれど確かに生徒会室に来た時任の頬は少し赤かったし、それに、冗談でそんなことを久保田が言うとは思えなかった。
生徒会室での騒ぎの時には、いつものこと程度の認識しかなかったが…、どうやら事態は思ったよりも深刻なのかもしれない。普段と変わらない口調で時任のことを頼まれてくれと言った久保田の声は、降り続く雨を滲ませたように重く苦しく桂木の耳に響いていた。
『・・・・わかったわ。五十嵐先生に、時任君を預かってくれるように頼んでみるわよ』
「ゴメンね…」
『ゴメンなんて言わないでくれる。私は久保田君に、あやまられるような覚えはないわ…』
「・・・・・・じゃ、ありがとね」
『そっちの方がゴメンの百倍はマシよ…。でも、頼まれるのはいいけど、時任はきっとそっちに向かってるわよ』
「俺から言って、五十嵐先生のウチに行かせるから…」
『・・・・・・ワケは言いたくないんだろうけど、本当にそれでいいの?』
「こうするしか、今は方法がないしね」
『でも、こんな風に時任と離れても平気なの?』
「全然、平気だって言えば…、ウソになるけどね」
『・・・・・そうね。私にもわかるくらいだから、そんな大ウソは時任にだって…、すぐにバレちゃうわよ』
「・・・・・・・・」
『まさか…、このままずっと…』
「・・・・・・ゴメンね」
受話器の向こうから再びゴメンねが聞こえて、何かを言おうと桂木が口を開くと通話がプツリと切れる。これから時任のことを五十嵐に頼まなくてはならなかったが、通話の切れた携帯を握りしめたまま、桂木は少し考え込むような表情のまま何もない空間を見つめていた。
穏やかすぎるくらい穏やかにゴメンねを言った久保田が、このまま時任と別れるとは思いたくない。けれど、それをどうしても否定できなかった。
それは激しい感情は感じられなかったはないが、何か決意のようなものを久保田から感じ取れたからである。
何が起こったのか、何があったのかわからないが…、この状況は普通ではなかった。
やはり時任を自分から遠ざけるほどの何かが、久保田の身に起こったのかもしれない。
降りしきる雨とまだ鳴っている雷の稲光を見ながら、桂木は携帯をポケットに入れると、まだ残っていた相浦に声をかけてから廊下に出た。
今すぐにでも二人の住むマンションに行きたいところだったが、やはり久保田に頼まれたことを先にしなくてはならない。
けれど本当はそれよりも、久保田と時任がいつものおちゃらけコンビに戻る手助けの方をしたかった。
「一日一回はハリセンを使わないと、調子が出ないわね。不本意だけど…」
桂木がそう呟いて保健室に向かって廊下を歩き出すと、一階への階段を降りた所でなぜか廊下を行ったり来たりしている藤原の姿が見える。
いつも妙な動作や仕草の多い藤原だったが、今日は普段の二倍くらい様子がおかしかった。
何かを悩んでいるというのは、頭を抱えながら悶えていることからわかるが…、なぜかブツブツと「僕の久保田先輩がっ」と繰り返し言っている。
その表情が妙に鬼気迫っているので、通りかかった生徒達が顔を引きつらせながら避けて通っていた。
ハッキリ言って、さすがの桂木も近寄りたくないほど不気味である。
しかしさっきの電話のこともあるので、やはり久保田の名前を言っている所が気になった。
桂木はふーっと息を吐いて白いハリセンを構えると、勢い良く悶えている藤原の背後に忍び寄る。そしてぐっと表情を引きしめて気合いを入れると、思い切り後頭部に目がけてハリセンを振り下ろした。
「廊下のど真ん中で不気味に、通行人のジャマしてんじゃないわよっ!!!」
「いてっっ!!な、なにすんですかぁぁっ!!」
藤原はハリセンのおかげで正気に戻ったのか、勢い良く振り返ると涙目で桂木にむかってそう怒鳴る。しかし桂木はいつもと違った真剣な表情で、そんな藤原を睨みつけた。
そのあまりの迫力に藤原が鯉のように口をパクパクさせていると…、桂木のハリセンの先が藤原の鼻の前に突きつけられる。
藤原は少し額に汗を浮かべたが、桂木はハリセンを降ろさなかった。
「何か知ってるなら、とっとと白状しなさいっ!」
「し、知ってるって…、何をですか?!」
「久保田君と時任ことよっ! しらばっくれたりしたら、もう百発ハリセンをお見舞いするから覚悟なさいっ!」
「うわぁぁっ、百発も叩かれたら死んじゃいますぅぅっ!!」
「だったら、言いなさいよっ!」
「け、けど…、ホントのこと言ったって、誰も信じてくれないに決まってんですよっ」
「そんなのは、言ってみなきゃわからないでしょっ!! さっさとブツブツ言ってないで、知ってること全部洗いざらいしゃべんなさいよっ!」
「だっ、だったらいいますけど…」
「だから、なによ?」
「久保田先輩があんな風になったのは、惚れ薬が原因だって言ったら信じてくれますか?」
真剣な顔をして藤原が言った胡散臭い言葉に、桂木が思わず眉をしかめた。惚れ薬は確かに存在しているかもしれないが、その名の付く薬はニセモノだと相場が決まっている。
だが藤原がポケットから妖しい薬袋を出した瞬間、桂木はそれが事実だということを知ったのだった。
鳴り響く雷の音は静かになってきていたが、まだ時々稲光が空を照らしている。
しかしその光は刹那的で鋭いばかりで、太陽の光のような暖かさはまるでなかった。
桂木との通話を終えた久保田は、携帯を座っているベッドの枕元に放り出すと、ゆっくりと立ち上がってドアの方へ歩き出す。
そしてドアノブに向かって手を伸ばすと、ガチャリと音を立てて鍵を閉めた。
するとそのタイミングを測ったかのように、玄関のドアが開く音と同時にドタバタという足音が久保田のいる部屋に向かって近づいてくる。
その足音は間違いなく、学校からここに戻ってきた時任のものだった。
時任は一度部屋の前を通り過ぎてリビングまで行ったが、引き返してきて久保田の目の前にあるドアノブをガチャガチャとひねる。
けれどうるさく音がなるばかりで、ドアは開かなかった。
「久保ちゃんっ!!ココにいるんだろっ!」
「・・・・・・・」
普段、決して閉められることのなかったドアの鍵…。
それが始めて閉められたのは…、誰よりも好きな人と自分とを、この薄いドアで隔てるためだった。
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